この記事のテーマ
不可能な可能性
1+1=1あり得ないことでしょうか。いいえ、福音の算数においてはあり得るのです。パウロが教えているように、人間の方程式では不可能なことも、神の力と備えのもとでは可能です。キリストは「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げ」られました(エフェ2:15)。彼はこれを、ユダヤ人と異邦人を含むすべての人類のために十字架上で流された御自分の血によって成し遂げられました。
十字架の力は新しい人類を創造します。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)。
個性、性別、文化、人種、民族のあいだに違いはあるかもしれませんが、神の究極の目的はすべての被造物を「キリストのもとに」(エフェ1:10)一つにまとめることです。これらの相違点はすべて、イエスにある一致に取って代わられます。
キリストの外にあって遠い者(エフェソ2:11、12)
2章の前半で、神の恵みが個人に神の無償の救いの賜物をもたらしたと述べた後、使徒パウロは後半の11節から、神がどのようにしてそれまで分裂していた共同体に和解をもたらしてくださったかを明らかにします。
問1
パウロはエフェソ2:11、12で、キリストとかかわりなく生きてきた異邦人はどんな四つの点で無力であったと述べていますか。
ユダヤ人は異邦人のことを軽蔑的な意味を込めて割礼のない者と呼び、自分たちのことを自尊心を込めて割礼を受けている者と呼んでいました。しかし、パウロは、ユダヤ人の割礼も結局のところ、「手による割礼」(エフェ2:11)だったのだから、そのような呼び方は無意味なものだと宣言します。割礼も一時は霊的な意味を持っていましたが、今やキリストにあって心の割礼に取って代わられました。心の割礼はユダヤ人にも異邦人にも等しく与えられている霊的契約です。
問2
パウロがローマ3:1、2、9:3~5であげているユダヤ人の特権とはどんなものですか。パウロがエフェソ2:11~13で述べている異邦人の状態に照らして考える時、これらの特権にはどんな責任が伴いますか。
ユダヤ人とは対照的に、異邦人は神の共同体から締め出されていました。彼らは約束を含む契約にあずかっていませんでした。希望も未来もありませんでした。さらに悪いことに、彼らは「多くの神々」、「多くの主」(Ⅰコリ8:5)を持っていたのに、まことの神を持っていませんでした。彼らが持っていたのは、間違った哲学や忌まわしい快楽、異教の慣習に満ちたこの世界だけでした。これが異邦人の状態でした。多くの点で、これは罪の暗闇の中で、神から離れて生きている人々の状態でもあります。
キリストの内にあって近い者(エフェ2:13)
「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェ2:13)。
しかし、今や、これらの短い二語によって、贖いの歴史を変えるテーマが提示されます。かつての異邦人はキリストとかかわりがなく、神の共同体に属さず、約束を含む契約と関係がなく、希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかし、今や、神はキリストにおいて介入し、異邦人をその悲劇的で憐れむべき状態から解放してくださいました。
イスラエルの選びについて次のように書かれています。「神は人々の間に、神の律法について、また救い主をさし示している象徴と預言とについて知識を残すために、イスラエルを召されたのだった。神は、イスラエルが世に対して救いの井戸となるように望まれた。……彼らは人々に神をあらわすのであった」(『各時代の希望』上巻14、15ページ)。
「遠い」「近い」という言葉は異邦人とユダヤ人の状態を描写しています。律法学者は、イスラエルほど神に近い国民はいないと自負していました。イスラエルに対する神の契約に関する限り、それは真実でした。しかし、「近い」ということは最初に神から光を受ける特権が与えられたゆえに、「遠い」異邦人にあかしする義務を負うという意味に理解すべきものでした。イスラエルはこの義務を果たしませんでした。イザヤは「、遠く」にいる者と「近く」にいる者との距離は消え、両者に平和の訪れる日が来る、と預言しています(イザ57:19)。
パウロにとって、このメシアの日は「キリストの血によって」訪れました(エフェ2:13)。神殿の儀式において、犠牲の血は罪を赦し、ユダヤ人を神のみもとに近づける上できわめて重要な役割を果たしました。パウロの論点は動物の血からキリストの血へと移っています。キリストの血は「新しい生きた道をわたしたちのために開いて」くださいました。私たちが「信頼しきって、真心から神に近づ」くためです(ヘブ10:20、22)。
キリストにあって、距離はなくなります。私たちは近い者となり、天国の市民権、約束、希望、平和を与えられます。
隔ての壁はない(エフェソ2:14、15、ガラ6:15)
問4
イエスの血は遠く離れていた異邦人と、近くにいたユダヤ人との距離をなくしました(エフェ2:13)。どのようにしてでしょうか。なぜでしょうか。キリストの流された血はどんな意味で、私たちがみな平等であることを示していますか。ロマ3:20~31、5:12~18参照
これからは、「キリストはわたしたちの平和であります」(エフェ2:14)。ほかのだれでもなく、キリストだけが私たちの平和です。私たちの平和であるキリストは何をしてくださったのでしょうか。
第一に、キリストは「隔ての壁を取り壊」されました(14節)。この壁は、異邦人とユダヤ人を隔てていた宗教的、社会的、政治的な障壁を意味しています。しかし、キリストは全人類の罪のために死ぬことによって、神と人との間に、また人と人との間に平和をもたらされました。前者は、神がすべての人を等しく愛されることを宣言しています。後者は次のことを要求します。キリストにおいては、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)。
第二に、キリストは「御自分の肉において敵意という……規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェ2:15)。パウロがここで語っている律法については議論がなされてきましたが(道徳律か礼典律か)、パウロがここで言っていることは、ユダヤ人と異邦人を隔てていた一切のものがキリストによって取り除かれた、ということです。今や、すべての人はキリストにあって一つです。キリストは平和をもたらされました。それゆえ、パウロは言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラ6:15)。
第三に、キリストは「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて」くださいました(エフェ2:15)。これが福音の算数、つまり1+1=1ということです。不可能が可能となるのです。ユダヤ人もなく、異邦人もなく、あるのはただ新しく創造された者だけです(Ⅱコリ5:17)。そのとき、人々の立場は身分や皮膚の色、性別や国籍によってではなく、十字架のキリストとの永続的な関係によって規定されるようになります。
和解と接近(Ⅱコリ5:17~19、エフェ2:16~18、コロ1:20~22)
問5
あなたは、上記の各聖句に記された和解をどう理解しますか。
私たちはキリストにあってなんと大いなる特権を与えられていることでしょう。寄留者は市民となりました。希望のない者たちは希望を受けました。神を知らなかった者たちは神を知りました。隔ての壁は取り除かれました。新たに造られた一致が現れました。キリスト御自身が私たちの平和となられました。パウロはエフェソ2:16~18で、キリストの御業が現実的で完全なものであることについて詳しく述べています。
第一に、この平和は現実的なものです。なぜなら、キリストはユダヤ人と異邦人を「一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」たからです(エフェ2:16)。キリストは和解不可能であったユダヤ人と異邦人を和解させられました。それは、異邦人のために便宜を図るようにユダヤ人を説得することによってでもなければ、異邦人をユダヤ人の宗教に改宗させることによってでもありませんでした。むしろ、キリストは両者に共通の問題、つまりあらゆる敵意の原因である罪の問題を解決することによって、ユダヤ人と異邦人を和解させられました。キリストの十字架はユダヤ人と異邦人を神に和解させました。そして、この和解は「一つの体」、つまり隔ての壁のない教会における彼らの一致の基礎となりました。
第二に、パウロはこの平和の完全さを次のように強調しています。「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。ここに、三位一体の神、すなわち父なる神、御子、聖霊が神と人、また人と人の間に和解と平和をもたらす働きに参加しておられるのを見ます。それだけではありません。ユダヤ人と異邦人が一つの聖霊を通して神に「近づく」ことができます。礼拝においても、交わりにおいても、もはやユダヤ人と異邦人を隔てる壁はありません。
キリストを通して、異邦人もユダヤ人も、すべての信者が等しく神の御前に出ることができます。遠く離れていた寄留者も、近くにいた市民も、共に同じ聖霊によって神の謁見室に招き入れられるのです。このように、キリストにある平和と和解は完全なものであり、現実のものです。
「神の家族」(エフェソ2:19―22)
悲しみから喜びへ。疎外から交わりへ。異邦人とユダヤ人から一つの新しい人類へ。キリストの救いの働きはこれらすべてを達成しました。今、使徒パウロは信者を新しい身分へと導きます。エフェソ2:19~22は彼らの身分に伴う三つの特徴をあげています。
第一は、市民権です。キリストとかかわりがなかったとき、異邦人は寄留者であり、外国人であり、「イスラエルの民」に属していませんでした(エフェ2:12)。しかし、キリストにあって、彼らは「聖なる民に属する者」(19節)となりました。クリスチャンは神の国の市民です。
神の王国には二つの側面があります。恵みの王国は、人が自分の罪を悔い改めて、キリストによる救いを受け入れるそのときに実現します。栄光の王国は、キリストが御自分の聖なる者たちを御国に集めるために再臨されるときに実現します。第一の王国の市民にならないで、第二の王国の市民になることはできません。
第二は、神の家族になることです。クリスチャンは市民であり、神の家族です。
「家族」という言葉は親愛、平等、尊厳に満ちた関係を連想させます。両親と子供の関係は疎遠で、空虚な関係ではなく、愛によって支配される温かく、親密な関係です。彼らはお互いに、また家族全体に対して義務を負います。神の家族である教会においても、同じことが言えます。パウロによれば、教会は「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身で」す(エフェ2:20)。キリストを唯一の土台として据えた人(Ⅰコリ3:11)は、人間の土台を据えることはできません。かなめ石であるキリスト(Ⅰペト2:6参照)は家の各部分を支え、家に力と統一を与えています。
第三は、神の神殿であることです。すべての信者が神にあって一つになり、互いに離反していた人々が一つになるのは、「霊の働きによって神の住まい」(エフェ2:22)、つまり神の聖所となるという最終的な目的のためです。隔ての壁のない教会は神の聖なる神殿となります(Ⅰコリ3:16)。
まとめ
偏見と不和
「1800年前に[本書の執筆当時から数えて]人々とキリストとの間をさまたげていた勢力は今日も働いている。ユダヤ人と異邦人との間のへだての壁を築きあげた精神は、いまも生きている。誇りと偏見のために、異なった階級の人々の間に頑固なへだての壁が築かれてきた。キリストとその使命はまちがって解釈され、一般の人々は、自分たちは事実上福音の働きからしめ出されていると思っている。だがキリストからしめ出されていると彼らに思わせてはならない。人間やサタンが築くことのできる壁で信仰によって突破できないものは一つもない」(『各時代の希望』中巻163ページ)。
「神は差別的階級制度を憎まれる。神はこの種のものをすべて無視される。神の御目には、すべての人の魂は同じ価値がある。……年齢、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとに来て生きるように招かれている」(同164ページ)。
日本に、「新しい人」(エフェ2:15)というパウロの言葉に強く影響された人がいます。ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎氏です。「私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるよう励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています」(「『新しい人』の方へ」[朝日新聞社]、179ページ)。キリスト者ではない大江氏がこのように書いていることに、大きな驚きと喜びと励ましを感じます。
彼は次の言葉で本文を締めくくっています。「敵意を滅ぼし、和解を達成する『新しい人』になってください。『新しい人』をめざしてください。『新しい人』になるほかないのです。……十字架にかかって、生きかえった人は、この2000年でただひとりです。そしてこれからの新しい世界のための『新しい人』は、できるかぎり大勢でなくてはならないのです」(181ページ)。
大江氏は、「新しい人」になるための「教育」あるいは「自己教育」を強く勧めています(179、180ページ)。パウロは、どうしたら「新しい人」になることができると教えているでしょうか。それは、キリストを信じることによってです。これしか方法はありません。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント第二5:17、口語訳)。
*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。