【エフェソの信徒への手紙】多様性の中の一致【4章解説】#8

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ちょうど『エフェソの信徒への手紙』の中間点に到達しました。前半の3章は人間のあらゆる分裂を解決する一致の神学について述べています。後半の3章は、この一致がクリスチャンの人生においてどのような実際的意味を持つかについて教えています。つまり、パウロは神学から実践へ、注解から勧告へ、神の御業から私たちのなすべき務めへと話題を転換しています。私たちの神学は道徳を導き、私たちの道徳は神学を反映したものでなければなりません。

今、パウロの関心はキリストの秘められた計画という大いなる神学的洞察に従った生き方に向けられています。ユダヤ人と異邦人の一致は決して神話ではなく、実際的な問題であって、神の「招きにふさわしく歩」むことを要求します(エフェ4:1)。

ふさわしく歩む(エフェソ4:1―3)

問1

パウロは初めの3章で、おもに神がキリストにあって完成してくださったことについて述べました。彼は今、私たちの「招きにふさわしく歩む」ように教えています。また、その方法について教えています。クリスチャンの品性の基礎である五つの恵みは何ですか。それぞれの恵みはどんなことを意味しますか。エフェ4:2、3

謙遜 ローマ人やギリシア人にとって、謙遜は弱さのしるしでした。しかし、クリスチャンにとっては、それは強さの源です。謙遜は高慢の反対です。高慢は分裂の元ですが(天におけるルシファーがその例)、謙遜はイエスの受肉と十字架に見られるように和解の中心です(フィリ2:2~8)。

柔和は教会の一致に欠かせないものです。それは自己主張をしないことです。挑発されても、それに乗らないことです。柔和な人たちは地を受け継ぎます(マタ5:5)。

寛容の心は神御自身の特性です。神は、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペト3:9)。寛容とは苦難を耐えること、悪に報いないこと、断絶した関係を希望をもって修復を続けることです。

互いに忍耐するとは、互いに忍び合うこと以上に、互いに相手を理解し、すすんで赦し、受け入れることです。

これらの恵みはすべて愛に根ざしています。この愛を積極的に実践することによって、人間関係が保たれ、教会と社会に平和と一致がもたらされます。

一致の必要性(エフェ4:4~6)

問2

エフェソ4:4~6を読んでください。これらの聖句はどんな重要な一つのテーマについて述べていますか。

エフェソ4:4~6は聖書の中でも最も壮大な部分の一つです。その力強い構成、雄大な文体、一致の基礎を神の満ちあふれる豊かさに置いているところなどは特筆に値します。一致がクリスチャンに欠かせないものであることは、疑問の余地がありません。クリスチャンの信仰と生活のすべてが一つだからです。

クリスチャンに一致を要求されるのは神です。一人の神が一人のキリストを通して私たちを罪から贖い、私たちに一つの信仰を与え、私たちを一人の聖霊を通して再生させ、私たちを一つのバプテスマを通して一つの体の各部分とし、私たちに一つの永遠の希望をお与えになりました。

一致に関連してこの七重の定式について研究しようとするなら、もう一つの重要な要素に注目する必要があります。それは、三位一体の神が教会の一致にかかわっておられるということです。このことは『エフェソの信徒への手紙』の精神と一致します。なぜなら、この手紙はしばしば、三位一体の神が贖いの歴史にかかわっておられることを強調しているからです。

父なる神は、「唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェ4:6)。神はすべてにおいてすべてとなられます。

子なる神は、「信仰の創始者また完成者」(ヘブ12:2)、「栄光の希望」(コロ1:27)、キリストの体である教会の土台です。

聖霊なる神は、私たちを新生の経験とバプテスマに導いてくださるお方です(Ⅰコリ12:13)。

「エフェソ4章には、神の計画がはっきりと平易に啓示されているので、神の子らはみな真理を理解することができる。ここには、神が御自分の教会に一致を保つために定められた方法がはっきりと示されている。教会員が健全な宗教経験を世に現すようになるためである」(『SDA聖書注解』第6巻1117ページ、エレン・G・ホワイト注)。

多様な賜物(エフェソ4:7―11、1コリ12:28―31)

パウロはエフェソ4:6で神について、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と述べています。私たちがみな同じ父を持っていることを強調することによって、教会の一致が強調されています。ところが、7節で、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と述べています。すべての人が同じ賜物を、同じ程度受けているわけではありません(11節)。このように、パウロの関心は「すべてのもの」(6節)から「一人一人」(7節)へ、そして教会における一致から多様性へ移っています。多様性は分裂を意味するものではありません。むしろ、種々の賜物があってしかるべきであり、それらの賜物が教会の一致のために用いられるべきであるという意味です。要するに、私たちは種々の賜物を分け与えてくださる同じ聖霊によって、神の教会の強化・育成のために働くことができるということです。

問3

エフェソ4:7~11は、神の賜物について何を教えていますか。

キリストは「高い所に昇るとき」(8節)、信じる者たちに賜物を与えられました。つまり、キリストは天に昇ったとき、地上に聖霊を注がれました。では、9節の「『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」は、どのように理解したらよいのでしょうか。「昇る」と「降りる」の対比は空間的なものではなく、神学的なものです。キリストが神のみもとに昇られたことが、最大の恥辱である十字架にまで降りられたことと対比されているのです(フィリ2:5~11)。キリストは十字架と昇天における勝利の記念として、教会に種々の賜物をお与えになりました。これらの教会員はキリストが暗黒の君から奪回されたものです。サタンに勝利し「、もろもろの天よりも更に高く昇られた」(エフェ4:10)ことによって、キリストはすべてのものを満たしておられます。キリストは宇宙の主ですが、なおも地上の教会と密接な関係を保ち、御自分の賜物をもって教会を満たしておられます。

奉仕の業に適した者とされる(エフェ4:12、13)

問4

パウロは今、エフェソ4:12で、主がご自分の教会に賜物を与えられた理由を二つあげています。それらは何ですか。それらは互いにどんな関係にありますか。

第一の理由として「、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ」とあります。「適した者とされる」を意味するギリシア語は、たとえば破れた網を繕ったり(マタ4:21)、折れた骨をつないだりするように、何かを「修復する」を意味する言葉から来ています。したがって、「聖なる者たちは……適した者とされ」とは、彼らを召された奉仕のために準備し、訓練することを意味します。

それでは、だれが教会の牧者なのでしょうか。新約聖書によれば、すべてのクリスチャンが牧者であって、主御自身から、行って、すべての民を弟子にし、彼らにバプテスマを授け、教えるように命じられています(マタ28:18~20)。牧会の働きは特権を与えられた少数の人たち(牧師)にではなく、キリストの御名を告白するすべての人にゆだねられています。クリスチャンの働きは人対人、一対一の働きです。教会員はだれひとりこの働きから除外されませんし、牧師はだれひとりこの働きを占有しません。

賜物が与えられている第二の理由として、「キリストの体を造り上げてゆき」(エフェ4:12)とあります。教え、説教、伝道、いやし、助言、訪問、慰め、助けといった賜物はどれも、個人的な目的のために与えられているのではありません。それらは全体の利益、教会の成長のために与えられているのであって、皆のためにそれを用いない者は全体からそれを奪っているのです(マタ25:24~30)。教会員が互いに愛し合い、周囲の社会にキリストの恵みと愛を伝えるときにのみ、教会は成長します。教会員の働きは、キリストの救いのメッセージが全世界に伝えられる日を早めます。教会はこのようにして、「信仰と知識において一つのものとなり……キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」します(エフェ4:13)。キリストによって満ちあふれる人は、キリストを知らない人がいるのを見ると、黙っていることができません。これが伝道の動機です。

キリストにあって成長する(エフェソ4:14―16)

エフェソ4:12、13によれば、霊的賜物が与えられているのは聖なる者たちを教会の働きに適した者とするためだけでなく、彼らを「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで」導くためでもあります。キリストのもとに来て、あらゆる分裂を超えた一致を体験し、働きに適した者となるだけでは十分ではありません。クリスチャンはキリストにあって成長しなければなりません。14~16節には、そのような成長にともなう特徴が概略されています。

問5

エフェソ4:14には、「わたしたちはもはや子供ではないので」(口語訳)とあります。マタイ18:3のキリストの言葉と矛盾しませんか。

神が私たちに求められるのは、子供のように素直なことであって、子供のように未熟なことではありません。神が私たちに期待されるのは「、幼子のことを棄て」ること(Ⅰコリ13:11)、また大人として成熟し、霊的なことと世的なことを識別し、乳の代わりに固い食物をとるようになることです(同3:2)。

問6

パウロはエフェソ4:14で、ほかに何を警告していますか。

確固不動であることには、信仰を失わないこと、真理と虚偽とを選別すること、真理を持っていると主張する者たちのだましに乗らないことが含まれます。それには、神の御言葉にしっかりと根ざしていることが要求されます。悪賢い人間の変わりやすい教えに翻弄される時にも(エフェ4:14)、神の「証し」(イザ8:20)にしっかりと立つためです。

パウロはまた、「愛に根ざして真理を語」るように、と言っています(エフェ4:15)。それは真理を行うこと、愛をもって真理を行うことです。教会は福音を異端と識別しなければなりませんが、そのときでも真理は愛をまとっていなければなりません。「愛によって和らげられていない真理は固くなる。真理によって強められていない愛は弱くなる」(ジョン・R・W・ストット『エフェソの信徒への手紙』172ページ)。

最後に、究極的な成長のしるしは真心からキリストに献身し、従うことです。私たちはキリストの体です。体の各部分とその働きはキリストにつながっていなければなりません。

まとめ

霊的な賜物

「福音の事業を力のないものにしているのは、この聖霊の欠乏である。学識、才能、弁舌など、先天的、後天的ないっさいの資質が備わっていても、神の霊の臨在がないならば、人の心に触れることも、罪人をキリストに導くこともできない。その反面、どんなに貧弱で無知な弟子であっても、キリストと結合し、聖霊のたまものを所有しているならば、必ず人びとの心に触れる能力をもつことができる。神は彼らを用いて、宇宙間の最高の感化を及ぼす器となさるのである」(『キリストの実物教訓』302ページ)。

クリスチャンの成長

「種の発芽は、霊的命の発生を示し、作物の成長は、クリスチャンの成長の姿を美しく象徴している。自然界と同様に恩恵の世界でも、成長がみられなければ命があるとはいえない。作物は、成長するか、枯れるかのどちらかである。作物は、黙々と、人知れず生長し続けるが、クリスチャン生活の成長もそれと同様である。成長中のどの段階においても、わたしたちの生命は完全であり得るのである。しかし、神がわたしたちのために備えられた目的を達成するためには、継続的に前進する必要がある。……次第に重い責任を負うことができるようになり、特権が与えられるにつれて、ますます円熟するのである」(同45ページ)。

エフェソ3~4章は「神の御業から、私たちのなすべき務めへと話題を転換しています」(安息日午後の学び)。ローマ11~12章でも、同様な移行が見られます。このことから、パウロの確信を知ることができます。それは、主に喜ばれる生活の基盤は神の御業である、ということです。エフェソ1~3章がなければ、4章で勧められている一致に至ることなど、決してできません。ローマ1~11章がなければ、12章の愛の実践は不可能です。教会は、このパウロの確信をしっかりと理解しなければなりません。

エフェソ4章から読み、一致を目指しましょう、と勧めるのは、パウロの意図を無視しています。ローマ12章だけを読み、それを実践できると考えるのは、「神の御業なしでは私たちは正しい行いをすることはできない」という使徒の確信を理解していないことになります。一致や善い行いを勧める時は、まず最初に神の業を力強く証ししましょう。これは、すべての説教、聖書研究、お勧めで強調されなければなりません。パウロがこのように考え教えているのですから、私たちも同じようにしなければなりません。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

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