【エフェソの信徒への手紙】新しい生き方【4章解説】#9

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クリスチャンの一致についてのパウロの実際的な教えは、「その招きにふさわしく歩み」(エフェ4:1)という、ユダヤ人と異邦人のクリスチャンへの招きをもって始まっています。このような歩みには、いくつかのことが要求されます。一つは、多様性の中にあってキリストの体としての一致を保つことです(1~13節)。もう一つは、今回の研究で扱うテーマですが、新しい生き方をすることです。これは、パウロが語っている一致を保つ上で欠かすことのできないものです。

この新しい生き方は古い生き方の修正でも改良でもありません。それは根本的な変革であって、考え方、品性、価値観、人間関係、動機において古い価値観を否定すること、全く新しい生き方を選ぶことです。それは死から命に移ることです。所有者がサタンからキリストに変わることです。

古い生き方を捨てる(エフェ4:17~22)

「招きにふさわし」い生き方(エフェ4:1)は、前回の研究でも学んだように、一致と成長に満ちた生き方であるだけでなく、新しい生き方でもあります。この新しい生き方には、否定的な面と肯定的な面があります。否定的な面の第一は、「古い人を脱ぎ捨て」ることです(22節)。クリスチャンの生き方は過去ときっぱり手を切ることから始まります。パウロはエフェソの信徒に、「異邦人と同じように歩んではなりません」と言っています(17節)。彼はローマの信徒に対してはもっと強い言葉を用い、「罪に支配された体が滅ぼされ」るために、古い自己を十字架につけるように求めています(ローマ6:6)。

問1

エフェソ4:17~24にあげられている古い人の特徴をあげてください。ローマ3:10~18と比較してください。パウロはここで人間性全般についてどんなことを言っていますか。それらを1900年後の今日と比較してください。

パウロがここで、「暗くなり」、「無知」、「心のかたくなさ」という表現を用いてエフェソの人々の道徳的状態を描写していることに注目してください。彼らの頭脳は罪のゆえに霊的真理を理解することができませんでした。その結果、彼らの人生は自分自身や無価値な偶像、むなしい哲学の中に神を求めることに浪費されたのでした。彼らは非現実的な教えにふけり、霊的無知の中で生きていました(エフェ4:18、ローマ1:19~21)。道徳的感受性が鈍っていたため、善と悪を識別することができませんでした。肉の楽しみ、とりわけ不道徳で常軌を逸した行為が彼らの娯楽となりました。彼らは、「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」でした(エフェ4:19──ロマ1:26~32参照)。

これが彼らの生き方、つまり異邦人がキリストのもとに来る以前の、古い人の生き方でした。このようなわけで、パウロは信じる者たちに、決して古い生き方に逆戻りしてはならない、と戒めているのです。

新しい人を身につける(ローマ12:1、2、エフェソ4:20―24)

問2

「古い人を脱ぎ捨て」と言った後で、パウロはエフェソの信徒に何と勧告していますか。エフェ4:22~24

キリストを受け入れたとき、エフェソの信徒は異邦人としての古い生き方を捨てました。しかし、捨てるだけでは十分ではありません。キリスト教は否定形の宗教ではありません。それは信じる者たちに、より高い道徳的、霊的境地にまで達するように期待します。そこで、パウロは強く勧めています。「心の底から新たにされて、……新しい人を身に着け……なければなりません」(エフェ4:23、24)。古い人の生き方の特徴が無益な心であるとするなら、新しい人の生き方の特徴は新たにされた心です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき……なさい」(ロマ12:2)。

問3

信じる者たちはどのようにして心を新たにされますか。ロマ12:2、Iコリ2:9~16、フィリ4:8、9

パウロは異邦人のむなしい、無知な、罪深い生き方について描写した後で(エフェ4:17~19)、異邦人がキリストに来たときにそのような生き方を捨てるように教えられたはずである、と言っています。パウロは、「学んだ」、「聞いた」、「教えられた」という三つの言葉を用いることによって、エフェソの信徒が救いと新生の力をすでに十分に知っていることを強調しています。この真理はいかなる人間的な源からでもなく、イエス御自身から来ていました(エフェ4:21)。パウロがイエスという名前を使っているのは偶然ではありません。彼は歴史上のイエス、つまり人となり、十字架につけられ、復活し、昇天されたイエス御自身が真理であること、イエス御自身がその真理の啓示者(ヨハ14:6)であることを知ってほしかったのです。

新しい生き方をする(エフェ4:25~29)

パウロは決して尊大な理論家ではありません。彼はあるときは私たちを高遠な神学に引き上げ、あるときは身近な現実に引き戻してくれます。こうして、彼は新しい生き方の四つの規範を概略しています。それらは単純なものですが、よい人間関係を維持するためには欠かせないものです。

1.偽りを捨て、真実を語りなさい(エフェ4:25)。

偽りや偽善は人間関係を傷つけ、信頼を損ないます。真実は信頼と確信を築き、人間関係を強め、一致を保ちます。

2.「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」(26節)。

私たちは人間として怒りを禁じ得ない状況に直面することがあります。確かに、正当な怒りというものもあるでしょう。しかし、怒る場合には、次の点に留意する必要があります。まず、罪を犯さないことです。つまり、律法に背くようなことをしないことです。問題を翌日まで持ち越さないことです。悪魔に、怒りに乗じて一致と人間関係を損なう機会を与えないことです。

3.盗まないで、働きなさい(28節)。

盗みにも、純然たる盗みから、人の物を返さないこと、人の名誉や品性を傷つけることまで、いろいろあります。クリスチャンの道徳観念はもっと高いものです。正直に働くこと、人のために生きること、惜しみなくささげることなどはキリストにある新しい生き方のしるしです。

4.あなたの舌を守り、人を造り上げる言葉を語りなさい(29節)。

言葉は力強い道具です。上手に用いるなら、それは大きな祝福となります。しかし、パウロは「悪い」言葉を口にしてはならないと戒めています。「悪い」にあたるギリシア語は「腐った」をも意味します。腐敗、俗悪、呪い、悪口などは私たちの言葉と無縁のものです。クリスチャンの言葉は人を高め、造り上げるものでなければなりません。

「聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェ4:30)。

エフェソの教会は、パウロが信徒の上に手を置いて、彼らが聖霊を受けたときに始まります(使徒19:1~7参照)。パウロがこの手紙の中でたびたび(少なくとも12回)聖霊に言及しているのも何ら不思議ではありません。

問4

パウロは、エフェ2:18、3:16、5:19、6:17で、聖霊について何と言っているか調べてください。

パウロは他のところでも、聖霊が次のものを与えてくださると言っています。命(Ⅱコリ3:6)、神の子となること(ロマ8:16)、悟り(Ⅰコリ2:10~16)、実(ガラ5:22)、将来の希望(ガラ5:5)、霊的な賜物(Ⅰコリ12:4~11)、清め(ロマ15:16)、内住する力(ロマ8:11)など。

パウロは信者と教会の生活における聖霊の役割を非常に重視しています。それゆえ、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と言っているのです。この言葉からもわかるように、聖霊は神の力であるばかりでなく、三位一体の神のひとり、しかも関係に敏感なお方です。聖霊を悲しませることは、すなわち父なる神と子なる神を悲しませることです。聖書を読みさえすれば、神がいかに私たちの行動に関心を寄せておられるか、また私たちの罪と不従順がいかに神を悲しませるかを理解することができます。聖霊によって神の家族とされた者たちには道徳的、霊的責任が負わせられています。これらの責任に背くとき、私たちは神を悲しませるのです。神が私たちの行いによって実際に悲しまれるということは理解しがたいことですが、聖書にそのように書かれていますし、イエスの生涯を見れば、神が御自分の被造物を深く心に留めておられることがわかります。このように、もし神が私たちを愛し、心に留めておられるとすれば、神が私たちの行いによって悲しまれるとしても不思議ではありません。

「神に倣う者となりなさい」(エフェ4:31~5:1)

パウロは、救われて、いまユダヤ人と異邦人からなる一つの体として生きている者たちに対して、新しい命のうちに歩むように勧めています。この新しい命は、脱ぎ捨てること、身に着けること、忍耐すること、聖霊を悲しませないことといったさまざまな要素を含みます。今日の研究の中で、パウロはこの新しい生き方をひと言で要約して、「神に倣う者となりなさい」と言っています(エフェ5:1)。

問5

堕落した人間である私たちはどうしたら「神に倣う者」となることができますか。パウロが言っていることはどんな意味ですか。

パウロは神に倣う者となりなさいと言う前に、「神に愛されている子供ですから」(エフェ5:1)と言うことによって、この勧告を個人的で、親密なものにしています。親と子が親密な関係を保ち、一緒に時間を過ごし、いろいろな活動を共にすることによって、子供は親に似てくるものです。同じように、より多く神に祈り、神について瞑想し、学ぶときに、私たちは神に似る者となります。

「子供が自分の親に倣うのと同じように、私たちもキリストに倣うべきである。キリストは私たちに対する大いなる愛のゆえに御自身を犠牲としてささげられたが、それは私たちが生きるためであった。人々に対する私たちの愛もこれと同じでなければならない。このような愛は愛情を超えた自己犠牲の奉仕である」(『ライフ・アプリケーション・バイブル』エフェソ5:1、2)。

問6

パウロはエフェソ4:32で、どんな3つのことを私たちの生き方の特徴としてあげていますか。それらはどんな意味で神の品性を反映していますか。どうしたらこれらの特徴を私たちの生活の中に現すことができますか。

まとめ

キリストの改変の働き

「イエス御自身が無限の憐れみのうちに人間の心に働き、天使たちも驚きと喜びをもって眺めるほどの霊的改変を成し遂げておられる。主のうちに見られるのと同じ無我の愛が、心から主に従う者たちの品性と生活のうちにも見られる。人々がこの世においてキリストの聖なる性質にあずかる者となり、キリストの栄光を反映することによって神をたたえ、天の光をもって世の闇を照らすようになることを、キリストは望んでおられる」(『教会へのあかし』第5巻731ページ)。

新たにされていない教会員

「心が新たにされず、生活が改まっていない教会員の増大が、教会の弱体化の原因である。この事実がしばしば軽視されている。一部の牧師や教会は、ただ会員の増加を望むばかりで、クリスチャンにふさわしくない習慣や行いをやめるように忠実にあかししていない」(同172ページ)。

前回、「1~3章の神の業がなければ、4章のお勧めを行うことはできない」と述べました。それは正しいのですが、それでは、4章以降には神の業が出て来ないかというと、そんなことはありません。パウロは新しい生き方を勧める中でも、神がしてくださったことを証ししています。①私たちは神から招かれた(4:1)、②私たちにはみな賜物と恵みが与えられている(8節)、③「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている」(30節)、④「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」(32節)。

異邦人の放縦を指摘した後で、使徒は「あなたがたはキリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と書きました(4:20~24)。これは、次のように読むことができないでしょうか。「あなたがたは、キリストの真実と清い生活を学んだ。だから、あなた方も同じようにすべきだ」。もし私たちの主人が清くなく、真実でないなら、私たちはそのようにする必要はありません。しかしイエス様は、全く汚れのない生活をされました。彼は、いつも私たちに対して真実でいてくださいます。だから私たちも、清く、真実に生きるべきなのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

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