市民としての責任【ペトロの手紙1―生ける望み】#7

目次

中心思想

この世において天の王を代表するクリスチャンは、日常生活のなかでイエスを見習うことによって、人々にイエスを伝える者とならなければなりません。

アウトライン

  • 堕落した性質に対する警告(Iペテ2:11)
  • 未信者のなかで生きる(Iペテ2:12)
  • 市民の義務(Iペテ2:13、14)
  • 責任をともなった自由(Iペテ2:15~17)
  • 虐待を耐え忍ぶ(Iペテ2:18~20)

模範の力

スミス兄弟はアメリカかニューイングランド地方にある小さな教会の長老でした。教会牧師は忠実な信徒指導者としてのスミス兄弟のことしか知りませんでした。ところが後になって、その町に住んでいた人々から、彼がセブンスデー・アドベンチストになる以前は気むずかしい人であったことを耳にします。スミス長老の妻も、夫がいかに意地の悪い人であったかを牧師に語りました。しかし、イエスによって彼の人生は完全に変わります。彼がバプテスマを受けて数年後、その生活の変化に深く心を動かされた義母はイエスに心をささげ、バプテスマを受けます。彼女が救い主に生涯をささげる決心をしたのは、義理の息子の生き方にすばらしい変化を見たからでした。

ペテロはペテロ第1.2:11、12以降の勧告のなかで、献身したクリスチャンの生活に見られる良い影響力について、また市民としてのクリスチャンの義務について教えています。

堕落した性質に対する警告(Iベテヨ:11)

質問1

クリスチャンはなぜ「肉の欲」を避けるべきですか。Iペテ2:11

ペテロがここで用いている「肉」という言葉は、聖霊によって支配されるクリスチャンの堕落した人間性を意味しています。「多くの人々は、この聖句が不道徳だけに対する警告であると考えている。しかし、それはもっと広い意味を持っている。それは有害な方法で食欲や情欲を満たすことを禁じている」(『食事と食物に関する勧告』167ページ)。肉の欲とは、罪深い放縦にふけることを求める堕落した性質の欲望をさします。

パウロは生まれ変わったクリスチャンの内なる葛藤について次のように述べています。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである」(ガラ5:17)。

クリスチャンは次のように教えられています。「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラ5:16)。もし「御霊に導かれる」ことを選ぶなら、私たちの生き方は神の律法に調和したものとなります(ガラ5:18―ロマ8:3、4比較)。

質問2

私たちはどうしたら堕落した人間性からくる欲望に勝利することができますか。ロマ7:25、8:2、12~14

パウロも一時、堕落した自己の欲望に習慣的に従っていました(ロマ7:14、18、23参照)。その後、彼はキリストによって勝利することを学びます。彼はキリストの死のゆえに、御霊によって肉の欲から救われたのでした。

私たちがキリストに従ったあとでも、堕落した自己はなおも残っています。しかし、今やそれは聖霊の支配のもとにあります。「パウロのきよめはたえざる自己との闘いであった。『わたしは日々死んでいるのである』と、彼は言っている。彼の意思と欲望は毎日、神の務めと意思と対立した。彼は自らの警告に従う代わりに、いかにつらく、自分の性質に反することであれ、神のみこころに従った」(『教会へのあかし』第4巻299ページ)。

三つの祈り

堕落した性質に負けそうになったとき、私たちはすぐに次のように祈るべきです。(1)主よ、私は弱い人間です。かくかくしかじかのことを望んでいます(望まなければ誘惑を感じることもありません)。(2)しかし主よ、それは良くないことです。私に勝利する力をお与えください。(3)主よ、感謝します。あなたが勝利させてくださったことを信じます。

未信者のなかで生きる(Iペテ:12)

質問3

クリスチャンはどんな原則に従って未信者のなかで生きるべきですか。Iペテ2:12

神の選民

前回の教課で学んだように、ペテロはイエスを信じる者たちが「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」であるという新約聖書の教えを大いに強調しています。したがって、クリスチャンはイエスの教えに一致した生き方をすることによってイエスをあらわす者となる必要があります。

神の選ばれた民は旧約の民が失敗したところで成功するように求められています(ロマ2:24参照)。未信者のなかで正直に生きることは神の栄光をあらわすことです。

質問4

矛盾のないクリスチャンの生活の目的について、イエスは何と教えておられますか。マタ5:16

ペテロの手紙が書かれたころのクリスチャンは、大部分は誤解によるものですが、一般の人々からそしりを受けていました。誤解によって生じたそれらの非難の中には、次のようなものがありました。

l・クリスチャンはローマの神々を軽んじている。

2.クリスチャンの排他性は人類に対する憎しみの表れである。

3.聖さん式は不道徳な行為の場となっている。

4.家族関係が悪くなっている。

5.奴隷が主人にそむくようになる。

6.カイザルと国家に対する反逆が助長されている。

良いわざに満ちた矛盾のないクリスチャンの生活はこれらの誤解を解き、反対者たちも「おとずれの日」に神をあがめるようになると、ペテロは確信していました(Iペテ2:12)。

市民の義務(Iペテ2:13、14)

質問5

ペテロはクリスチャンの国家に対してとるべき態度について何と勧告していますか。Iペテ2:13、14(ロマ13:1~7、『各時代の希望』中巻315ページ比較)。

「クリスチャンは、人の幸福のための団体や諸関係を定め、支配しておられる神の主権を認めるべきである。したがって、神に喜ばれ、神のみこころに仕え、神の祝福を受ける方法は、確立された社会秩序にそむくことではなく、むしろ人生のさまざまな関係において負わせられる種々の責任を積極的に、従順に、そして忠実に遂行することである」(アラン.M・スティブズ『ティンダル新約聖書注解』106ページ)。

イエスと使徒たちは政治的な運動を支持しなかった(ヨハ18:36参照)

当時の政府は専制的で、しばしば不正なものでした。それにもかかわらず、イエスはカイザルの支配に服従し(マタ22:21)、ローマ当局によって死刑にされました。

質問6

使徒たちはどんな状況のもとで、支配者の布告に対して非暴力の抵抗を示していますか。使徒5:27~32

神の要求に反しないかぎり公の権威に従うように、聖書は教えています。クリスチャンは暴力による抵抗を行うべきではありません。

調和のとれた勧告

「われわれは人間の政府を神が定められたものとして認め、合法的な範囲内でそれに従うことを、聖なる義務として教えなければならない。しかし、その要求が神のご要求と矛盾するときは、人間よりむしろ神に従わねばならない。神のみことばをすべての人間の法律にまさるものとして認めねばならない。……

われわれは、権威を無視するようには求められていない。法と秩序に反対する者と思われるようなことをしゃべったとして記録されることがないように、話す言葉でも、書く言葉でも、注意深く気をつけなければならない。われわれの道を不必要に閉ざすようなことを、言ったりしたりしてはならない」(『患難から栄光へ』上巻68、69ページ)。

責任をともなった自由(Iペテ2:15―17)

質問7

クリスチャンはどんな方法によって社会に貢献することができますか。Iペテ2:15

クリスチャンが社会に貢献するのは、異なった政治的見解を持つ人々に言葉や行動によって反対することによってではありません。彼らはもっと高度な使命、つまり人々に救い主の栄光をあらわし、恵みによる救いを宣べ伝えるという使命を与えられているのです。

「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」(Iペテ2:15新改訳)。

私たちが社会に貢献する機会はいくらでもあります。クリスチャンは世捨て人となって、悪の社会から身を隠すべきではありません。世の人々は霊的、感情的、肉体的、物質的な必要を感じています。私たちはイエスの精神をもって、機会あるごとに、世の人々の必要を軽くするために献身すべきです。

質問8

 1ペテロ2:16によれば、自由とは何を意味しますか。

自由は心の状態

「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり」(Iコリ7:21、22)。罪深い人々の奴隷となっている人々は外面的な自由がないかもしれませんが、キリストと結ばれることによってその心は自由となります。

罪と感情の奴隷となっている人たちは自分を自由と考えるかもしれません。しかし、実際には、彼らは奴隷なのです。一方、神に従っている人たちには、最高の自由と平和があります。それは、救い主に受け入れられているという自覚からくるものです(Iコリ7:22参照)。

神に従っている人々だけが

1.文化的、人種的偏見から自由であり、すべての人を神の被造物として愛することができます。

2.ねたみと優位を求める欲望から自由であり、イエスのようにすべての人を愛することができます。

3.迷信と悪魔的な誤りの力から自由であり、神だけをあがめることができます。

4.怠惰と偽りから自由であり、最高の奉仕をささげることができます。

虐待を耐え忍ぶ(Iペテ2:18―20)

質問9

クリスチャンはどんな主人にも心から仕えるべきですか。Iペテ2:18

ローマ帝国内の奴隷

ペテロの用いている「僕」というギリシア語は、家族の一員として主人の家に住んでいる人をさしています。このしもべは自由人である場合もあれば、奴隷である場合もありました。

ペテロの時代のローマ世界には、何百万という奴隷がいました。彼らの多くは元捕虜でした。この中には、医者、教師、秘書、音楽家、そのほか専門技術者が含まれていました。初代教会には、この中から回心した人々がたくさんいたと思われます。

クリスチャンは反乱ではなく、あかしする

初代教会は奴隷制度という現実に直面しなければなりませんでした。新約聖書が求めているのは社会的反乱ではなく、イエスの模範に従った生き方です。奴隷も主人の家族に属する魂をキリストに導くことができました。

質問10

しもべは冷酷な主人のもとでもどのように振る舞うべきですか。Iペテ2:19、20

職場における不正奴隷制度はなくなったとはいえ、「多くの人は今日もなお抑圧が起こっていると言う。彼らは職場において、言葉による虐待であれ、非倫理的な規定や不正行為であれ、非肉体的な圧迫を経験している。収入源を失うことを恐れるあまり、その苦痛を声に出すことさえできないこともしばしばある。さらに、非肉体的な圧迫は巧妙で表現しにくいことが多いため、一般的には立証できない。職場でひとり苦しんでいる人々に対して、ペテロは次の

ように言っている。『善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである』」(サイモン・J・キステマーカー『新約聖書注解』ペテロの第1の手紙107ページ)。

人間の争いはキリストとの交わりを妨げない

「感情をたやすく害してはならない。わたしたちは自分の気持や名声を守るために生きているのではなく、人を救うために生きなければならない。人を救うことに熱心になれば、相互の間によく起るわずかな意見の相違に気を留めなくなる。他人が自分のことをどんなに思い、自分に対してどのようにふるまっても、そのためにキリストと自分との結合、聖霊との交わりを妨げる必要はない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』469、470ページ)。

まとめ

私たちは敵意に満ちた世界に住む寄留者であり、また旅人です。このような敵対的な状況にあって、クリスチャンは隣人、政府、上司、あるいは虐待する人々のために神からどんな責任を与えられているかをよく考える必要があります。クリスチャンの生き方は神の愛と忍耐と思いやりをあかしするものでなければなりません。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年3期『ペトロの第一の手紙 生ける望み』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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