【テサロニケの信徒への手紙1・2】使徒の模範【最大の希望】#5

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今回の研究はテサロニケの信徒への手紙Iの議論から大きく移行します。パウロは話題を教会から(Iテサ1:2~10)、使徒とテサロニケにおける彼らの経験へと変えています(同2:1~12)。パウロは先の章で、テサロニケの信者がパウロに倣う者となり、また自ら信仰の模範となったゆえに神に感謝しています。今、テサロニケIの2:1~12において、パウロは使徒たちに模範となる力を与えた生き方についてさらに詳しく述べています。

教えること、伝道すること、奉仕することには多くの動機が考えられますが、パウロは最も重要な動機として、神に喜ばれる宣教であることをあげています。パウロの関心は教会の数が増えることではなく、むしろ教会が神の恵みによって、正しい霊的原則において成長することでした。

今回の研究では、パウロの内なる生き方に目を向けます。パウロはここで、自分自身の霊的望みや夢、動機を再吟味するように私たちに訴えています。私たちが神を喜ばせ、人々に正しい影響を与える者となるためです。

苦しみによって勇気づけられる(Iテサ2:1、2)

使徒言行録16章に照らして、テサロニケIの2:1、2を読んでください。テサロニケIの2:1は1章のテーマを再び取り上げています。この節にある「あなたがた自身が知っているように」という表現は1:5にある類似の表現を思い起こさせます。また、パウロの「そちらへ行った」という表現は1:9を思い起こさせます。つまり、パウロは引き続き手紙の冒頭の章で取り上げたテーマについて述べているのです。先の章の終わりは「だれもが」テサロニケの信者について知っていることと関係がありました。パウロはこの章で、読者が使徒たちと彼らの信仰への献身について知っていることについて論じています。

パウロは、自分とシラスが福音を宣べ伝えたためにフィリピでどのような屈辱に満ちた苦しみを受けたかについて思い起こしています。フィリピからテサロニケまでの長い行程の一歩一歩は、そのときの虐待を思い起こさせるものでした。テサロニケに到着したときにも、彼らはなお苦難の外形を留めていたことでしょう。使徒たちはその時点で、直接的な方法で新しい町に伝道することをためらっていたとしても不思議ではありません。彼らの経験を考えれば、だれがそのことを責められるでしょうか。

しかし、テサロニケの信者は熱心に、心から真理を求めていました。現実は「、二度と福音を説いてはならない」と命じていました。しかし、神は痛みと苦しみの中にあるパウロとシラスに、勇気を出しなさい、強くありなさいと言っておられました。そこで、再び迫害が起こりそうだったにもかかわらず、彼らは「勇気づけられ始めました」(Iテサ2:2、著者による私訳)。彼らの人間的な状態(また、それにともなうあらゆる弱さ)と、神によって力づけられた彼らの状態との間には、はっきりした、目に見える違いがありました。

最終的には、主はこれらの外的状況を御自分の栄光のために用いられました。伝道者たちの目に見える傷はテサロニケの信者に二つのことについて証ししました。第一に、彼らの説いた福音は実際に彼らの個人的な確信から出たものでした。彼らは個人的な利得のためにそうしていたのではありません(Iテサ2:3~6参照)。第二に、神が力強い方法でパウロとシラスと共におられたことが聴衆の目に明らかになりました。彼らの説いた福音は単なる知的な創作ではありませんでした。それには、使徒たちの生き方に啓示された主の生きた臨在がともなっていました(13節参照)。

神があなたの生き方を変えてくださった証拠として、どんなことをあげることができますか。それはどれくらい人の目に見えるものですか。はっきりと見えるものですか。

使徒たちの品性(1テサ2:3)

問1

テサロニケIの2:3を読んでください。パウロはここで、動機についてどんな重要なことを教えていますか。

当時の世界において広く知られていたことですが、人々を説得してその考えや習慣を改めさせるためには三つの鍵となる要素がありました。人々は次の三つの要素によって特定の主張の力を判断しました。(1)話者の品性(ギリシア語で“エトス”)、(2)主張そのものの質または論理(“ロゴス”)、(3)聴衆の感情や利益に訴える話者の説得力(“パトス”)。パウロはテサロニケIの2:3~6で、テサロニケの信者に決定的な変化をもたらした宣教の鍵となる要素として使徒たちの品性をあげています。

これらの聖句の中で、パウロは自分自身と、その教えがしばしば個人的な利得から出ている世の哲学者たちとを比較しています(第3課参照)。パウロは3節で三つの言葉を用いて、伝道や宣教にありがちな誤った動機について説明しています。

第一の言葉は「迷い」、つまり思い違いです。伝道者は明らかに間違った思想に心を引かれるかもしれません。彼は全く誠実であっても、勘違いをしていることがあります。自分では人のために良いことをしていると思っていても、偽りの思想によって動かされています。

第二の言葉は「不純」または「不浄」です。人はその権力や思想、業績のゆえに広く知られている人に引きつけられるものです。中には、名声や評判には性的な機会がともなうと考える有名人もいるかもしれません。

第三の言葉は「ごまかし」または「虚偽」です。ここでは、自分の言っていることが誤りであることを知りながら、個人的な利益のためにわざと人を迷わせることです。

パウロとシラスには、そのような動機は全くありませんでした。もしあったとすれば、彼らはフィリピにおける経験に懲りて、宣教することを止めてしまっていたことでしょう。彼らがテサロニケで示した勇気は彼らを通して働かれる神の力によってのみ可能でした。テサロニケにおいて福音が力強く語られたのは(Iテサ1:5参照)、ある意味では使徒たちの宣教を通して表された彼らの品性によるものでした。論理的な主張や感情的な訴えだけでは不十分でした。彼らの品性は彼らの主張と一致していました。当時もそうであったように、このような誠実さは今日の世界においても驚くほどの力を持ちます。

神を喜ばせる(Iテサ2:4~6)

テサロニケIの2:4~6を読んでください。しばしば「認められ」(Iテサ2:4)と訳される語には、試される、あるいは試験されるという意味が含まれています。使徒たちは神によって自分の生き方と動機の健全さを試されたのでした。その目的は、彼らの説く福音が、彼らの教える内容と実際の生き方との違いによって歪められたものとなることのないためでした。

当時の人気のある哲学者たちは自分を吟味することの重要性について記しています。そもそも何かを変えようと思うなら、絶えず自分の動機と意図を吟味する必要があると、彼らは教えました。パウロはこの思想を一歩、前進させています。自己吟味に加えて、彼は神によって吟味されています。パウロの説くことがその内なる生活と合致していたことが神によって実証されました。究極的な意味において、神は喜ばせるに値する唯一の存在です。

人間は生きるためには何らかの自己価値感を必要とします。私たちはしばしば財産を蓄積すること、業績を上げること、あるいは他人から積極的に評価されることによってこの価値感を高めようとします。しかし、こうした自尊心の源はすべて、もろく、一時的です。真の、永続的な自尊心は福音を通してのみ与えられます。キリストが私たちのために死んでくださったことを実感するとき、私たちはこの世の何ものによっても揺らぐことのない自己価値感を経験するようになります。

問2

テサロニケIの2:5、6は3節の三つの動機に加えて何を動機としてあげていますか。

人に喜ばれることに続いて、相手にへつらうことがあげられていますが、これも伝道の動機としては不十分です。パウロは人の評価に左右されることがありません。彼はまた宣教に対するもう一つの世俗的な動機―金銭―を否定しています。だれかの働きによって祝福にあずかった人は、その働きや結果に対して金銭を払おうとする傾向があります。このような行為は神を喜ばすというただ一つの動機から神の働き手の関心を逸らすことになります。

深く心にかける(1テサ2:7、8)

問3

パウロはテサロニケIの2:4で、宣教の第一の動機として神を喜ばせることをあげています。彼はそれに続く聖句の中で、さらに何を動機としてあげていますか。Iテサ2:6~8参照

今日の世界においては、少なくとも自分の利益が最大の関心事となっている人たちについて言えば、お金とセックス、権力が人間行動の主要な動機になっていると考えられます。用いている言葉は違っていますが、パウロもテサロニケIの2:3~6で、自分の宣教に関連して、同様の動機があってはならないと述べています。貪欲や不品行、ごまかし、へつらいはクリスチャンの生活と働きにあってはならないものです。使徒たちにとっては、あらゆる点において神を喜ばすことが最大の動機となっていました。

パウロは7節で、使徒たちは「職権を乱用する」ことによって、テサロニケの信者の重荷になっていたかもしれないと言っています。使徒たちは使徒また教師としての彼らの立場を認めるように信者に要求することもできたはずです。彼らは経済的に優遇され、特別な恩典をもって扱われるように期待することもできたはずです。しかし、パウロはテサロニケにおいて自分の動機を傷つけるようなこと、あるいは新しい信者のつまずきとなるようなことをすべて辞退しました。

パウロの第一の動機は神を喜ばせることでしたが、それに加えて7節と8節で、彼はさらなる動機、つまりテサロニケの信者を愛することをあげています。8節には、心温まる言葉が用いられています。福音を説くことは、パウロにとっては義務以上のものでした。彼は自分の心、自分の全身全霊を人々にささげました。月曜日の研究で、当時、説得するために必要と考えられていた三つの要素について学びました―話者の品性(“エトス”)、主張そのものの質または論理(“ロゴス”)、聴衆の感情や利益に訴える話者の説得力(“パトス”)。パウロはテサロニケIの2:4~6で、使徒たちの品性は人々が彼らに従う理由の一つであることを強調しています。7節と8節には、使徒たちとテサロニケの信者との間に養われた感情的な絆を表す“パトス”が強調されています。人の心に訴えるとき、福音は最も力強いものとなります。

負担をかけない(Iテサ2:9~12)

問4

テサロニケにいたとき、パウロは福音を説くことのほかに何をしましたか。その理由は何でしたか。Iテサ2:9、10参照

パウロが「夜も昼も」働いたという考えを、もし文字通りに受け取るなら、大変な誇張になるかもしれません。しかしながら、ギリシア語は実際に働いた時間の量よりも質を強調しています。言い換えるなら、パウロは彼らに負担をかけないために、自分の召された義務の範囲を超えて働いたということです。自分の証しが何かによって妨げられることを、パウロは望みませんでした。

さらに、神の前でも人々の前でも、反対を引き起こすことのないように、パウロは注意深く振る舞いました(Iテサ2:10、ルカ2:52参照)。福音が人々の関心の中心となるように、パウロと使徒たちは人間関係において「非難されることのないように」振る舞いました。

問5

テサロニケIの2:11、12で、パウロはどんな類推を用いてテサロニケの信者に対する自分の態度を描写していますか(ルカ11:11~13参照)。

よい父親は愛に加えて制限と励ましを与えます。彼は自分の養育と訓練を子どもの性格や感情に適応させます。子どもと状況次第では、父親は励まし、厳しい説教、また訓練のための刑罰を与えることがあります。

パウロの伝道法には、一定の緊張感がともないます。彼は自分の方法を相手の性格や状況に合わせようとしていますが、その一方で、信頼性、つまり内と外で矛盾がないことを非常に重視していました。人はどうしたら正しく、真実であると同時に、「すべての人に対してすべてのもの」になることができるのでしょうか。その鍵となるのは、パウロが自分の信者に対して抱いていた愛です。彼は最善を尽くして信者のために信頼の模範になろうとしました。しかし、彼らにはまだ理解できないことがあることも知っていました(ヨハ16:12参照)。そこで、パウロは自分の手で働き、自分の教えを適応したのでした。すべては、不必要な障害物を置くことによって、人々が福音を受け入れるのを妨げることのないようにするためでした。確かに、それは自己犠牲についての力強い教訓です。

まとめ

「口先で、どんなに立派なことを言っても、もし心の中に、神と同胞に対する愛が満ちていなければ、キリストの真の弟子ではない。……大いなる施しが行われるかもしれない。しかし、それが真の愛以外の動機によって行われたとするならば、自分の全財産を人に施しても、その行為によって神の恵みにあずかることはできない」(『希望への光』1476ページ、『患難から栄光へ』上巻343ページ)。

「適切に神の御業を支えることに関連して、自分の信者の前で聖書の明らかな教えを注意深く説く一方で、……パウロは偉大な文明の中心地における宣教の合間に手仕事によって自分自身の生活を支えた。……パウロが御言葉を説く一方で、手仕事によって自らの生活を支えたと最初に記されているのはテサロニケにおいてである[Iテサ2:6、9、IIテサ3:8、9]

……しかし、パウロはこのようにして費やされた時間を無駄な時間とは見なさなかった。……彼は霊的事柄に関して同僚たちを教えたが、同時に勤勉と練達の模範を示した。彼は仕事に勤勉な、敏捷で巧みな働き手であって、『怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え』た(ロマ12:11)」(エレン・G・ホワイト『福音宣伝者』234~236ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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