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『テサロニケの信徒への手紙I』の初めの3章は主として過去を扱ったものでした。しかしながら、パウロは4章と5章で将来に目を向けています。テサロニケの信者の信仰には欠けているものがあり(Iテサ3:10)、パウロはそれらを補う手助けをしたいと考えました。手紙はそのきっかけとなりますが、それ以上のことはテサロニケの信者と会ってからなされるのでした。
パウロは先の3章で確認した友情にもとづいて、テサロニケIの4:1を皮切りに、テサロニケの信者の日常生活に役立つ助言を与えています。今回の聖句は主として性的不品行を扱っています(しかし、それだけではありません)。彼の勧告がどのような特別な事情から出たものかは明らかではありませんが、パウロは性的不道徳を避ける必要性についてはっきりと語っています。彼はここで、非常に強い口調で、自分の教えを拒む者たちは、実際には、パウロを拒むのではなく、主を拒むのであると述べています。主がパウロを通してこの問題について強く語られる理由を理解するためには、性的不品行が多くの人にもたらしている苦しみを見るだけで十分です。
今後も更に続ける(Iテサ4:1、2)
問1
テサロニケIの3:11~13、4:1~18を読んでください。第4章の内容は3:11~13にある祈りの内容をどのように拡大しているでしょうか。
テサロニケIの3:11~13にあるパウロの祈りは、4:1~18の内容を予期させるいくつかの重要な言葉を含んでいます。この祈りはイエスの再臨を考慮して、「聖にして」、相互の「愛」に満ちた歩みを今後も更に続けるようにというものです。これらの主題はすべて、第4章の特定の聖句を指し示しています。
現代の大部分の翻訳では、両者のつながりが隠されてはいますが、パウロは今日の聖句(Iテサ4:1、2)の中で、テサロニケIの3:12にある「更に続ける」という言葉についてさらに論じています[英語聖書参照]。今日の聖書は、当然ながら現代語に理解しやすいように書かれていますが、原文に明示されているつながりが十分に表されていないように思われます。英語欽定訳では、テサロニケIの3:12と4:1との関連性は明らかです。パウロはこれらの聖句の中で、相互のために、またすべての人のために愛に満ちた歩みを「今後も更に続ける」ようにテサロニケの信者に勧めています。
テサロニケの信者と共にいたとき、パウロは彼らのクリスチャンとしての基礎を築き始めましたが、今、聖霊の導きによって、彼らの必要を補い(Iテサ3:10)、その理解力を明らかにしようとしています。その答えがすでに実行していることを「今後も更に」続けることでした。それが自分の招きにふさわしく生きることです。
パウロは4章を、「最後に」という言葉をもって書き始めています[英語新欽定訳]。彼は4章と5章を先の各章にもとづいて書いています。そこでは、テサロニケの信者との友情が、パウロがこれから与えようとしている実際的な勧告の基礎となっています。彼らは幸先のよい出発をしました。パウロは今、彼らが自分から学んだ真理において成長し続けるように望んでいます。
これらの聖句の中に2度、イエスについての言及がありますが(Iテサ4:1、15)、これは特に意義深いことです。それは、パウロがイエス御自身の言葉の教えを伝えようとしていたことを示しています(これらは後に四福音書に記されました)。パウロが与えようとしていたのは単なるよい勧告以上のものでした。パウロの奨励していた生き方をするように命じられたのはイエス御自身でした。パウロはキリストの僕として、キリストから学んだ真理を分け与えていたのでした。
テサロニケIの4:3~8は一つの完全な思想のまとまりを形成しています。テサロニケの信者一人ひとりに対する神の御心は、「聖なる者となる」こと、あるいは「清められた者となる」ことです(Iテサ4:3、4、7)。パウロがここで言う「聖なる者となる」ことの意味は、その後に続く二つの節によって説明されています。各々の信者は「みだらな行いを避け」、「汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活する」ように期待されています(Iテサ4:3、4)。パウロはこの一連の思想を聖なる生活をするための三つの動機をもって結んでいます(Iテサ4:6~8)―(1)神はこれらの問題について罰をお与えになる(2)神は私たちを聖なる者となるように招いておられる(3)神は聖霊によって私たちを助けてくださる。今日から3日間、これらの聖句についてさらに詳しく学びます。
テサロニケIの4:3、7を読んでください。3節は1節にもとづいています。パウロは1節においてテサロニケの信者にどのように「歩む」―多くの翻訳では「生きる」―べきかを教えていました。ここに用いられている「歩む」という表現は毎日の道徳的・倫理的行動を表すヘブライ人の思想です。パウロは3節において、霊的生活と成長を表すために、もう一つのヘブライ人の思想「聖なる者となる」または「清められた者となる」という表現を用いています。
「聖なる者となる」の典型的な定義は「聖なる目的のために分かたれる」です。しかし、パウロはこの手紙の中で、この言葉にもっと特別な意味を与えています。それは、テサロニケの信者がイエスの再臨において身につけている状態のことです(Iテサ3:13)。しかし、パウロは4章で、結果よりも過程を重視する表現形式を選んでいます。それが行為を表す名詞―「聖化」よりも「聖とされる」です。私たちがこの過程に参加することは神の御心です(Iテサ4:3)。
パウロは明らかに律法のない福音を是認してはいません。キリストに結ばれた人たちには行動が要求されています。7節にあるように、「聖なる生活」の反対は
「汚れた生き方」あるいは「不純な生き方」です。パウロがなおも3節で説明しているように、「あなたがたは性的な不道徳を避けるべきです」(Iテサ4:3、英語新国際訳)。「性的不道徳」を表すギリシア語は“ポルネイア”で、これはポルノから売春、婚外性交まで、あらゆるものを含みます。
救いは神の恵みによって、信仰を通して与えられるものですが、クリスチャンの生活は成長する生活、つまりキリストによって約束されている完全をめざして絶えず努力する生活であるべきです。
異邦人のようでなく(Iテサ4:4、5)
テサロニケIの4:4、5を読んでください。第3課で取り上げた道徳的な哲学者たちはさまざまな形の性的不節制に反対しましたが、パウロの時代の異邦人社会は全体として見れば、ほとんど、あるいは全くと言っていいほど性的な慎みを持っていませんでした。有名な異教の雄弁家キケロは次のように言っています。
「若者は娼婦とさえ関係を持つことを禁じられるべきであると考える者がいたなら、彼は明らかに厳格すぎる。……彼の考えはこの時代の免許状だけでなく、我々の先祖の慣習や特権にも反する。それが一般的な慣習でなかったときがあるか。それが非難されたことがあるか。それが禁じられたことがあるか」(エイブラハム・マレルブ『テサロニケの信徒への手紙』、アンカー・バイブル第32巻B、235、236ページに引用)。
今日の世界にあっては、多くの人が性的な制限を不愉快と見ています。テサロニケIの4:4、5のような聖句は、どこかほかの時代や地方に似つかわしいと考えています。しかし、今日の世界と同様、古代世界も性的に抑制されていませんでした。パウロの教えは今日と同様、当時の社会一般には受け入れ難いものだったのでしょう。
性的不節制の問題に対するパウロの解決法は、すべての人が「妻と生活する」[英語聖書では「自分の器を持つ」]ことにあります(Iテサ4:4)。「生活する」と訳されている言葉はふつう、ギリシア語では「所有する」を意味します。「自分の器を持つ」の意味は明らかではありません。もしパウロが「器」という言葉によって「女性」を意味していたとすれば(当時は女性を表す一般的な言葉でした―Iペト3:7参照)、すべての男性は性的乱交を避けるために正しい結婚生活を求めるべきであると、彼は言っていることになります。
しかし、ごく最近の翻訳によれば、「器」という言葉は男性自身の身体をさすとされています。その場合には、「自分の器を持つ」は「自分自身の身体を抑制する」の意味に解釈されます。
いずれにしても、パウロが自分の時代の性的放漫に直面していたことは明らかです。クリスチャンは「異邦人」のように行動すべきではありません。私たちは社会一般の規範を自分の規範とすべきではありません。性は聖なるものであって、一人の男と一人の女の間の結婚関係のためにあります。パウロがテサロニケIの4:6で指摘しているように、性は決して無頓着に扱ってはならないものです。神の定められた規範の外で乱用するなら、それは必ず破壊的な結果をもたらします。この賜物を乱用するとどれほど破壊的な結果になるかは、他人の生き方、また自分自身の生き方を見れば明らかです。
神の目的に従う(1テサ4:6―8)
問2
テサロニケIの4:6~8を読んでください。パウロは性的不道徳について何と述べていますか。
婚外交渉を行っていたある男性が牧師に告白しました。「私は若かった頃、セックスと愛が一つの同じものであると考えていました。しかしながら、結婚してから、婚前交渉が人の身体だけでなく(私は性病にかかりました)、心をもだめにすることを悟りました。私たちはクリスチャンですが、妻も私も、私が過去から持ち込んだ精神的、感情的な態度と今も闘っているのです」
聖書に制限事項が与えられているのは、神が私たちから楽しみを奪おうとしておられるためではありません。むしろ、それらの制限事項は性的不道徳から生じる肉体的、感情的損傷から私たちを守ってくれるのです。私たちが性的に自制するのは、私たちの生き方が他人に及ぼす影響を考えるからです。キリストはすべての人のために死んでくださいました。人はいかなる意味においても性的に搾取されるべきではありません。そうすることは当人に対してだけでなく、神に対しても罪を犯すことです(創39:9参照)。セックスは他者との関係であり、同時に他者を介してなされるキリストとの関係でもあります(マタ25:34~46参照)。セックスとは、結局のところ、私たちと神との関係にほかなりません。情欲のままに生活するのは神を知らない異邦人です(Iテサ4:5)。神についての無知が不道徳な行動を生み出すのです。この点に関する聖書の教えを無視する人たちはこれらの教えを拒むだけでなく、神の招きを、さらには神御自身をも拒みます(Iテサ4:8)。
一方、私たちが神の計画に従うとき、性は神がキリストにおいて私たちに注いでくださった自己犠牲の愛を具現するものとなります(ヨハ13:34、35参照)。性は神の賜物であって、神の御心に従って楽しむとき、それは神が人類に与えておられる愛を、また神が御自分の民に望んでおられる親密さを力強く現すものとなります。
私たちはテサロニケIの4:7で「聖なる生活」を送るように教えられています。それは何を意味すると思いますか。ここに語られているのは性的行動以上のことですか。そうだとすれば、ほかにどんなことが含まれますか。
自分の仕事に励む(Iテサ4:9~12)
問3
テサロニケIの4:9~12、3:11~13を読んでください。パウロは今日の聖句において、先に述べたどんな事柄について再確認していますか。
ギリシア人は「愛」を表すいくつかの言葉を持っていましたが、そのうちの二つが新約聖書に出てきます。“エロス”(新約聖書には出ていない)は“エロティック”のもとになっているギリシア語です。それは愛の性的な側面を表します。“アガペー”は新約聖書で最もよく用いられている形で、愛の自己犠牲的な側面を表します。それはしばしば、十字架において現された、私たちのためのキリストの愛との関連において用いられています。
愛を表すもう一つのギリシア語“フィロス”は今日の聖句において強調されているものです。パウロはテサロニケの信者に、彼らがすでに知っていた「兄弟愛」を思い起こさせています。米国のフィラデルフィア市の名称は兄弟愛を意味するこのギリシア語から取られています。異邦人世界においては、“フィラデルフィア”は肉親に対する愛を表していました。しかし、キリスト教会はその意味をクリスチャンの家族である信者同士への愛にまで拡大しました。このような家族愛は神によって教えられているものであり、神の恵みによってなされる奇跡です。
テサロニケIの4:11、12を読んでください。テサロニケの教会には怠惰で破壊的な者たちが何人かいたようです。イエスの再臨を熱望するあまり、自分の仕事をやめ、異邦人の隣人に頼るようになった者たちもいたかもしれません。しかし、いつでも証しをする準備をしていることは、仕事や近隣において破壊的で、おせっかいで、怠惰であることを意味するものではありません。外部の人たちにとっては、身近にいるクリスチャンの毎日の生活態度から受ける印象が教会について判断する最も重要な情報となります。
テサロニケの信者の問題に対するパウロの解決法は、彼らが権力や影響力でなく「静かな生活」を送るように「努める」ように励ますことでした(4:11)。それには、自分の仕事に励み、自分の手で働くことが含まれていました。当時の世界においては、手仕事は自立のための大切な手段でした。今日の世界にいたなら、パウロはたぶん次のように言うでしょう。「あなた自身とあなたの家族を養い、正当な必要の中にある人々を援助するために幾分かを蓄えなさい」
まとめ
「愛は純粋で聖なる原則であるが、好色の欲情は抑制を認めず、理性による統制と支配を受けない。それは結果に対して無知であり、原因から結果を推論しない」(エレン・G・ホワイト『心、品性、人格』第1巻222ページ、英文)。
「[愛は]純粋で、聖なるものである。しかし、生まれながらの心にある欲情は全く別物である。純粋な愛は神をすべての計画の中に受け入れ、聖霊と完全に調和するが、欲情は頑迷で、性急で、無分別で、あらゆる抑制に逆らい、その選んだ対象を偶像にする。真の愛を抱く人のあらゆる品行のうちに、神の恵みが表される」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』9月25日、1888年、英文)。
「サタンの策略のとりこにならないようにしようと思う者は、魂の通路をよく見張っていなければならない。思いを不純にするようなものを読んだり、見たり、聞いたりしないようにしなければならない。魂の敵がほのめかすような問題に、手当たり次第にとびついたりしないよう、心を引きしめていなければならない。心は忠実に見張られていなければならない。でないと、外部の悪が内部の悪を目覚めさせて、魂を暗黒の中にさまよわせるであろう」(『希望への光』1553ページ、『患難から栄光へ』下巻217、218ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。