この記事のテーマ
パウロは今回の聖句の中で(Iテサ4:13~18)、テサロニケの信者に見られる神学的な誤解に答えています。その過ちがどのようなものであったかについては必ずしも明らかではありませんが、イエスの再臨前に亡くなった信者の運命を憂慮する者たちがいたことは確かです。問題は再臨前に亡くなった者たちと再臨時に生きている者たちとの違いに関するものであったように思われます。
今回の研究では、パウロがテサロニケIの4:13~18を書くに至った事情について考えます。パウロはこれらの聖句の中で、1世紀における誤解を正すと同時に、21世紀のクリスチャンの立つべき堅固な信仰の基礎を提供しています。
「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモス書3:7)。使徒パウロの預言者としての働きを通して、主は再臨の性質に関して驚くべき真理を私たちに啓示しておられます。これらの聖句について学ぶとき、その中に与えられている信じ難い希望について祈りをもって瞑想してください。
テサロニケの状況
問1
テサロニケIの4:13~18を読んでください。これらの聖句から、信じる者たちに不必要な悲しみを与えていたテサロニケ教会の偽りの信仰について、どんな手がかりを見いだすことができますか。
パウロの時代のユダヤ教の中には、さまざまな終末論が広まっていました。こうした考え方の一つが何らかのかたちでテサロニケ教会にも入り込んでいました。それがどのようなものであったかは正確にはわかりませんが、おそらく、神に忠実な者たちはみな「来るべき世界」に入るが、終末時に生きている人たちだけが天に上げられるという思想だったと思われます。一方、終末前に亡くなった人たちは復活しますが、そのまま地上に残るのでした。
このような信仰体系にあっては、終末前に亡くなることは明らかに不利です。それはまた、天に上げられる人たちと地上に残される人たちとの離別を意味します。もしパウロが手紙を書いているテサロニケの信者が終末まで生きているなら、彼らは確かにイエスの再臨において天に上げられますが、死別した、愛する人たちを地上に残したまま去らねばならないことになります(Iテサ4:13、14参照)。したがって、パウロがテサロニケIの4:13~18を、ほかのところで用いている「あなたがた自身よく知っている」という表現でなく(Iテサ5:2、4:2参照)、教会の無知を表す言葉を用いて書き始めているとしても驚くには当たりません。再臨の預言に関しては、教会が知らない重要な事柄、また捨てねばならないことがありました。
預言について考えるときには、それが終末の諸事件の時期や詳細をめぐる好奇心を満たすために与えられているのではないことを覚える必要があります。預言は倫理的、道徳的目的を持っています。神がそれを与えられたのは私たちに生き方を教えるためでした。神が預言を与えられたのは、特に苦しみや失望の中にあって、励ましと目的を与えるためでした。正しく理解するとき、聖書の預言は生き方を変える力を持ちます。言い換えるなら、アドベンチストのように信じることも大切ですが(つまり、聖書の預言を信じること)、アドベンチストのように生きることはもっと大切です。
希望のない悲しみ(Iテサ4:13)
問2
テサロニケIの4:13によれば、パウロが13~18節を書いた目的は何でしたか。この聖句が今日の私たちにとって重要な意味を持つのはなぜですか。
テサロニケの信者が希望のない者のように悲しんでいたのはなぜでしょうか。一つの大きな要因として、パウロが彼らと共に過ごした期間が短かったことがあげられるでしょう。パウロはイエスの死と復活について語りました(使徒17:3)。たとえ誤解されたとはいえ、彼が終末の諸事件について語ったという証拠もあります。しかし、信者の復活に関連した問題について明確にする時間がパウロにはなかったかもしれません。
もう一つの要因は、パウロの手紙が宛てられた信者の多くが置かれていた異教的な背景です(Iテサ1:9)。当時の神秘宗教は来世について教えてはいましたが、大部分の異教徒には死後の生命についての希望がありませんでした。このことについての悲しむべき実例を2世紀のある手紙の中に見ることができます。「エイレーネからタオノフィリスとフィロに慰めを贈ります。ディディマスのために泣いたように、私は亡くなった者のために悲しみ、泣いています。どのようなことであれ、私にできることはすべてしました。私のエパフロディタス、テルムシオン、フィリオン、アポロニウス、プランタスのために。しかし、そうであっても、そのようなことに対しては、人は何もできません。ですから、あなたがたは互いに慰め合いなさい。では、ごきげんよう」(アドルフ・ディーズマン『古代東洋からの光』176ページに引用、1927年、英文)。
展開が全く異なっているとはいえ、息子を失った母親に対するこの手紙がテサロニケIの4:18と同じ言葉をもって結ばれていることは皮肉なことです。「たとえ希望がなくても、互いに慰め合いなさい」。彼女はそのように言っているのです。パウロがテサロニケの信者に言っていることと何と対照的なことでしょう。
パウロがこれらの聖句を書いた目的は初めと終わりにある対照的な言葉のうちに要約されています。パウロがそれらを書いたのは、彼らが希望のない者たちのように悲しむことのないためでした(Iテサ4:13)。パウロの意図は、テサロニケの信者が再臨の性質を正しく理解することによって、失望のときにも互いに慰め合うための輝かしい理由を見いだすことにありました(Iテサ4:18)。
死と復活(1テサ4:14)
問3
テサロニケIの4:14を読んでください。パウロは眠りについた人たちに関してどんな希望を与えているでしょうか。
パウロは14節で、希望のない悲しみの問題に解決を与えています。原文では、亡くなった信者が「イエスによって眠りについた人たち」と表現されています。「眠りにつく」という表現は新約聖書時代における、死を表す一般的な比喩ですが、信者の死はふつう、「イエスに結ばれて眠りについた人たち」あるいは「キリストに結ばれて眠りについた人たち」と表現されています。よい例が16節にある「キリストに結ばれて死んだ人たち」です。
この聖句に関する第2の問題点は、神が眠りについた人たちを「イエスと一緒に連れて来てくださる」という考えです[英語聖書参照]。ある人たちはこのことを、イエスに結ばれて死んだ(そして、死において天国に行ったとされる)人たちが、イエスの来られるときにイエスと一緒に戻って来るという意味に解釈していました。しかし、この解釈は、16節にあるパウロ自身の教え、つまり亡くなった信者の復活が再臨の前でなく、再臨において起こるということと矛盾します。
パウロの主眼点に十分注意を払うなら、彼の述べていることの意味を理解することができます。彼はイエスの死と復活を、信者の死と復活と対比しているのです。パウロにとって、イエスが死から復活されたことは、信者が再臨において復活することの保証でした(Iコリ15:20~23参照)。パウロの神学は一貫しています。もし私たちがイエスの死と復活を「信じてい」るなら(Iテサ4:14)、私たちはまた真にイエスに従う者として死んだ人たちの復活をも信じるべきです。
したがって、パウロは16節の「キリストに結ばれて」と同じように「イエスによって」を用いているのです。パウロがテサロニケの信者に述べていることの要点は、彼らの亡くなった兄弟・姉妹は、生きている信者が天に昇るときに地上に留まるのではないということでした。すべての者が一緒に天に昇るのです(ヨハ14:1~3参照)。イエスが来られるとき、神は復活したクリスチャンを「連れて」地上に降られるのではありません。むしろ、(イエスの場合と同様に)神は彼らを墓から「連れ」出し、生きている人たちと一緒に天に昇られるのです。イエスの復活はイエスの昇天に先立って起こりました。イエスに忠実に従う者たちの場合も同じです。
キリストに結ばれて復活する(Iテサ4:15、16)
パウロはテサロニケIの4:13~5:11で、イエスの地上における教えにもとづいて論じています。これらの終末に関する聖句と、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されたイエスの言説との間には、10個所以上もの共通点があります。しかし、パウロがテサロニケIの4:15で「主の言葉」と言う場合には、それは四福音書に記されていないが、彼が私たちのために記憶していたイエスの言説をさしています(使徒言行録20:35はその好例)。
問4
テサロニケIの4:15、16を読んでください。パウロによれば、キリストが来られるとき、どんなことが起こりますか。黙1:7、マタ24:31、ヨハ5:28、29、使徒1:9~11参照
イエスの再臨は賑やかな出来事です。それには大天使の号令と神のラッパがともないます。すべての人がそれを聞き、目撃します(黙1:7、マタ24:31、ヨハ5:28、29、使徒1:9~11参照)。
しかし、パウロがここで重要視しているのは、イエスが来られるときに起こる出来事の順序です。テサロニケの信者は、イエスが来られる前に死ぬことには永遠の不利益がともなうと信じ込んでいました。それはたぶん、イエスが来られるまで生きていた人たちと物理的に永遠に別れねばならないということでした。
パウロはこの聖句の中で、生きている信者が「先になる」とか、死んだ者たちよりも有利になるとかいったことはないと、テサロニケの信者に確言しています。キリストに結ばれて死んだ人たちは先に復活する人たちです(黙20:4~6参照)。それは、生きている人たちが空中でイエスと出会う前に起こります(Iテサ4:17)。イエスが来られるとき、死んでいた義人は復活し、生きていた人たちと共に不死が与えられます。
これらの聖句は、信者が死ぬときに天国に行くとは教えていません。もしパウロがテサロニケの信者に、彼らの愛する故人が天国にいると教えていたなら、彼らはなぜ悲しむのでしょうか。パウロはなぜ彼らにそのように言わなかったのでしょうか。むしろ、パウロがここで与えている慰めは、彼らが復活を通して愛する者たちと再会するようになるということです。
互いに励まし合う(1テサ4:13、17、18)
テサロニケIの4:13、17、18を読んでください。すでに触れたように、預言の目的は将来についての私たちの好奇心を満たすことではなく、むしろ今日の生き方について私たちを教えることにあります。パウロにとって、終末の諸事件の順序は毎日の信仰生活を送る上で実際的な意味を持っていました。預言は私たちの神との、また相互の関係に影響を与えるほどに価値のあるものです。パウロはここで、終末の諸事件を用いて、愛する者たちを失った人たちに慰めを与えようとしたのでした。
問5
テサロニケIの4:16、17を読んでください。これらの聖句には、再臨についての聖書の教えの重要な側面が欠落しています。それは何ですか。ヨハ14:1~3、マタ24:31、使徒1:9~11参照
これらの聖句によれば、信者は空中でイエスと出会い、いつまでもイエスと共にいることになります。中心的なテーマは互いに再会すること、イエスと共にいることです。聖句には、空中で出会った後、どこに行くかが書かれていません。パウロは明らかに、再臨において、イエスと信者が天から地に降り、そこで支配するとは言っていません。事実、これらの聖句によれば、聖なる者たちの動きはつねに上向きです。死んでいた信者はまず墓から生き返ります。それから、彼らと生きていた信者とが共に昇天し、空中で主と出会います。
パウロはコリントIの15:23、24で、さらに詳しく述べています。彼はそこで、イエスの経験と「キリストに属している」人たちの経験とを対比しています。イエスは「初穂」として復活し、昇天されましたが、これはイエスに結ばれた者たちも同じ経験をすることを暗示しています。
聖なる者たちのその後の行き先がパウロの手紙でなく、ヨハネ14:1~3に明示されています。イエスは来て、弟子たちを御自分のおられるところ(天)に連れて行かれます。イエスは来て、彼らのいるところ(地上)に留まられるのではありません。イエスの再臨後の千年間(黙20:4~6)、義人は天でイエスと共におり、悪人は死んでいて、サタンは誘惑する相手のいないまま地上に監禁されると、アドベンチストが信じているのはそのためです。千年期に関連したすべての出来事が終わった後で初めて、忠実な者たちは地上に戻り、そこに住むのです(IIペト3:13、黙3:12)。
まとめ
「多くの人がこの聖句[Iテサ4:14]を、眠っている人々が天からキリストとともに連れてこられるという意味に解釈しているが、パウロの言う意味は、キリストが死からよみがえられたように、神は眠っている聖徒を墓から呼び出し、キリストと一緒に天に連れて行かれるということであった」(『希望への光』1454ページ、『患難から栄光へ』上巻281ページ)。
「テサロニケ人たちは、キリストは生きている信仰者を変えて、ご自身のもとに連れていくために来られるという考えを、しっかり持っていた。彼らは友人たちが死んで、主の来られる時に受けようとしている祝福を失うことのないようにと、友人たちの命を注意深く見守っていた。しかし、愛する人々が次々に彼らから取り去られた。そしてテサロニケ人たちは、亡くなった者たちの顔を、これが見納めと苦しみ嘆きながら見つめ、彼らと将来生きて会えるなどという希望は到底持てない気持ちになっていた。
パウロの手紙が開かれて読まれたとき、死の正しい状態を明らかにした言葉によって、大きなよろこびと慰めが教会に与えられた。パウロは、キリストが来られるとき、イエスにあって眠りについている者たちより先に、生きている者たちが主に会いに行くのではないことを教えた」(『希望への光』1453ページ、『患難から栄光へ』上巻279、280ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。