死は屈辱ではない
この地上の生涯は昇天ではなく死をもって終わるという事実は、私たちに深い失望をもたらすかもしれませんが、決して屈辱感を抱くべきものではありません。聖徒の死は、神の約束の破棄、あるいはキリストの再臨を迎えることに対するクリスチャンの希望の挫折ではありません。
アウトライン
1. 死者に関する問題( I テサ4 : 1 3 )
2. 死についての問題( I テサ4 : 1 4 )
3. キリスト再臨の時期に関する問題( I テサ5 : 5、9)
4. 調和のとれたパウロの希望(1テサ2:2)
5. 希望の根拠(Iテサ4 : 14、 15)
キリスト再臨をめぐる混乱
若いテサロニケ教会の成長についてのテモテのパウロに対する報告は励ましに満ちたものでしたが、だからといって何も問題がなかったわけではありません。深刻な問題の一つに、死に対する新しい信者たちの不安がありました。教会員の中核を占めていたユダヤ人とギリシヤ人は、キリスト教に改宗するまでは、死者について数々の誤った考えを抱いていました。
テサロニケ人がイエスの再臨についての教えを受け入れたこと自体、一つの奇跡でした。しかし、昇天についての彼らの期待が実現しなかったので、不満が高まっていました。時が経過し、キリストが来られず、古い理論が再現し、疑いが深まるにつれて、彼らの信仰は人々から侮られ、確信は弱まりました。彼らを信仰に導いたパウロは近くにいて、彼らを支え、希望を強めることもなくなっていました。彼らの中には、自分たちがだまされ、見捨てられ、霊的な孤児になったという思いを抱く者たちもいました。危機が次第に広まっていました。テモテからこのことを聞いたパウロは、直ちに手紙によって問題を解決しようとしたのでした。それが、今日のテサロニケ人への二通の手紙です。
死者に関する問題(Iテサ4:13)
質問1
死と再臨の遅れに関するどんな問題が信者を悩ませていましたか。I テサ4:13、5:9、10
永遠の離別としての死の恐怖
「テサロニケ人たちは、キリストは生きている信仰者を変えて、ご自身のもとに連れていくために来られるという考えを、しっかり持っていた。彼らは友人たちが死んで、主の来られる時に受けようとしている祝福を失うことのないようにと、友人たちの命を注意深く見守っていた。しかし、愛する人人が次々に彼らから取り去られた。そしてテサロニケ人たちは、亡くなった者たちの顔を、これが見納めと苦しみ嘆きながら見つめ、彼らと将来生きて会えるなどという希望は到底持てない気持ちになっていた」(『患難から栄光へ』上巻279、280ページ)。
死んだ信者はよみがえる
テサロニケ人は、死が自分たちの愛する者たちからキリストの再臨を目撃する特権を奪っていることに、また自分たちが愛する者と再会できないことに失望していました。よみがえりについての彼らの誤解は多分に、ギリシヤ神話には来世の生命という思想がないことから来ていました。さらに、ユダヤ教は実際上、よみがえりの可能性を否定するサドカイ派の信仰によって強い影響を受けていました。自分たちの愛する者たちと共に生きることができるということを強調することによって、パウロはテサロニケ人を大いに力づけたのでした。
質問2
イエスの再臨における死者の状態に関して、パウロはどのように教えていますか。Iテサ4:13〜17
テサロニケの信者にとってそうであったように、これらの約束は今日の私たちにとっても慰めを与えてくれます。1989年までの3年間に、セブンスデー・アドベンチストは全世界で年間、平均23,412人亡くなっています。たいていの国のアドベンチストは一般の人々よりも健康的な生活を送っているので、長生きする人が多くなっています。しかしながら、神の民も事故、暴力、病気によって早死にしないとは限りません。大事なのは神の約束に信頼し、祝福に満ちた望みを抱いていることです。私たちは失望して悲しむ必要はありません。なぜなら、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」からです(詩篇30:5)。
質問3
パウロは自分のメッセージによって信者の心にどんな効果を与えようとしましたか。Iテサ4:18、 1テサ5:11
テサロニケ人にとっての新しいいのち
「パウロの手紙が開かれて読まれたとき、死の正しい状態を明らかにした言葉によって、大きなよろこびと慰めが教会に与えられた。パウロは、キリストが来られるとき、イエスにあって眠りについている者たちより先に、生きている者たちが主に会いに行くのではないことを教えた。……この保証がテサロニケの若い教会にもたらした希望とよろこびは、われわれには到底、十分にわかるものではない。彼らは福音の父から送られてきた手紙を信じて、大切にした。そしてパウロを愛するようになった」(「患難から栄光へ」上巻280ページ)。
死についての問題(Iテサ4:14)
質問4
テサロニケ人への第1の手紙の各章には、どんな基本的な教理が強調されていますか。1テサ1:10、2:19―20、3:13、4:16―18、5:23
主の再臨はパウロがいつでも人々に伝えた尊い希望でした。「パウロは再臨論者であった。彼はキリスト再臨という重要な出来事を非常に力強く、理論的に説いたので、決して消えることのない深い印象がテサロニケ人の心に植えつけられた」(『パウロ略伝』83ページ)。
質問5
生きてキリストの再臨を見ることができないのではないかという信者の不安に、パウロはどのように対処しましたか。Iテサ4:14、5:9、10
死は終わりではない
パウロが彼らに言いたかったことは、キリスト再臨前における死は神の約束の不履行ではないということでした。自分は死ぬことがないという期待感が彼らのうちに広がっていました。切迫したキリストの再臨に対する熱心な信仰のゆえに、彼らは死について考えることができなかったのです。しかし、彼らは死んでいました。そして、死者の数が増えるにつれて、彼らの信仰と感情に迷いが生じました。そこで、パウロはテサロニケ人への第1の手紙において、再臨前の死が眠りであることを強調することによって、彼らの不安感を和らげようとしたのでした。彼はテサロニケ人と私たちに、キリスト再臨と死との正しい関係について教えています。
質問6
当時の信者にとっても現代の私たちにとっても、死を迎えることは楽しいことではありません。私たちはどんな実際的な勧告を心にとめるべきですか。詩90:10〜12、 1コリ4:2
賢明な遺言
「主の財産を忠実につかさどる家つかさは、自分の仕事がどういう状態にあるかを知り、危急の場合には賢者たちのように備えられるであろう。彼らは万一突然死ぬようなことがあっても、彼らの財産を整理しなくてはならない人々にあまり大きな迷惑をかけないであろう。……あなたが遺言書を作ってしまったからといって、死がすぐにやって来るわけではない。遺言書によってあなたの親族に財産を処分する場合、神のみ事業のことを忘れないように気をつけなさい。あなたは神の財産を保管している神の支配人である。であるからあなたはまず神のご要求を第一に考慮しなければならない。あなたの妻や子供たちはもちろん貧困のままにしておいてはならないし、彼らが困っている場合には彼らのために用意しなければならない。しかしそれが単にしきたりだからといって、遺言書の中に困っていない親族の名を書きつらねてはならない」(『アドベンチスト・ホーム』449、450ページ)。
キリスト再臨の時期に関する問題(Iテサ5:5,9)
質問7
パウロのどんな言葉が、キリストの再臨が切迫していることを示していますか。Iテサ4:17
キリストの再臨が間近であることを示唆しているのはパウロの言葉だけではありません。ほかにもたくさんあります(Ⅱペテ3:10〜13、ルカ17:26〜30、マタ24:3〜14、27、29、30、黙示6:12〜17参照)。
質問8
再臨が間近であると言う一方で、パウロは再臨が遅れる可能性についてどのように暗示していますか。Iテサ5:9、10
質問9
再臨が遅れる可能性あるいは必要性について、キリストご自身は何と言っておられますか。マタ24:6、8、29、48、25:5、14〜19
イエスの再臨が間近であることを希望あるいは期待したからといって、そのことでテサロニケ人を責めることはできません。信仰を持ったばかりで、パウロとの交わりも短く、しかもこの悪の世から救われ、キリストとの永遠の交わりに入りたいというクリスチャンの自然な願望を考慮するなら、彼らが希望を抱き、死に困惑したとしても不思議ではありません。しかしながら、キリストの言葉を、またパウロの言葉を詳しく調べていたなら、長く待つ可能性もあることに気づいていたはずです。
調和のとれたパウロの希望(Ⅱテサ2:2)
質問10 パウロはテサロニケ第2・2:2では再臨がまだ先のことのように言い、一方、テサロニケ第1・5:3やローマ13:11、12などでは「突然」あるいは「すぐ」の出来事であるかのように言っています。このことをどう理解したらよいのでしょうか。
パウロはテサロニケ第1・4:17で昇天することについて、またコリント第1・6:14でよみがえることについて述べています。彼はすべての時のしるしが成就し、キリストが定められた日に来られることを望んではいますが、再臨の時を予告してはいないようです。キリスト再臨の時期についての彼の記述を詳しく調べるとき、死に対する備えができ、希望に満ちたクリスチャンとしてのパウロの姿が浮かび上がってきます。なぜなら、彼が(1)キリスト再臨の時期についての神の知恵に信頼し、(2)よみがえりについての神の約束と力に信頼していたからです。
質問11
人間世界のどんな冷酷な現実がキリストの再臨をすべての人にとって重要な問題としますか。伝道9:5、詩90:10
人間は生まれるとすぐに死に始めます。死は眠りであって、いつかは目覚めるときがあります。そして、死の眠りから目覚めた瞬間私たちはさばきの主のみまえに立つことになります。つまり、キリストの再臨は私たちにとってそれほど間近で、突然の出来事だということです。人生は長くはありません。長生きしたと言われる人でさえ、この世にわずかなあいだいるにすぎません。さらに、多発する海、空、陸の災害は、私たちがみな「死と背中合わせ」で生きていることを印象づけます。
質問12
ほかにどんなことが、キリスト再臨が間近であることを実感させますか。詩9 0 : 1―4 (Ⅱペテ3 : 8―1 0比較)
質問13
ゼカリヤはどんな写実的な言葉をもって、キリストの再臨を待望している人々の姿を描いていますか。ゼカ9:12
心から信じる者はみな、キリストの愛に捕らわれた「望みをいだく捕われ人」です。キリストがまもなく来られることを信じていながら、それがいつごろなのかを知らないということは、信仰の逆説です。先祖たちと同じく、私たちも望みをいだく捕らわれ人です。私たちは、いわば義なる王国の制限された自由の中に生きています。その中で、私たちは忠実に信じ、忍耐づよく待ち、黙って死んでいきます。各時代の聖徒たちと同じく、私たちも「主よ、いつまでですか」と叫びながら、神を信じて、墓にくだっていくのです。次のように断言したヨブのように。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう」(ヨブ19:25、26)。
希望の根拠(Iテサ4 : 14、15)
質問14
パウロはテサロニケ人への手紙4章の最後にある勝利の約束をどんな輝かしい出来事と結びつけていますか。Iテサ4:14
「エジプト王の神々は、ミイラにされて世界の博物館で公開された今もその墓に眠ったままである。仏陀の遺骨は東洋の各地で聖骨として祭られている。中国の孔子の墓は今も占有されているし、アラビヤのメジナにあるマホメットの墓も空ではない。しかし、イエス・キリストの墓は空である。『イエスはよみがえって、ここにはおられない』。……
イエスはご自分に従う者たちに対して、この世のかなた、墓のかなた、死のかなたに目を向けるように勧めておられる。彼は自らの言葉を裏づけるためにそのいのちをささげ、3日目に死からよみがえられた。パウロの言うように、あなたの愛する者たちのよみがえりはキリストのよみがえりと同じく確実である。私たちが死からよみがえるという希望は、イエスが死に勝利されたという反論できない事実にもとづいている」(デレク・M・マレイ「死と来世」19、20ページ)。
質問15
パウロは数年後、コリントの教会に対して同じ主題について何と述べていますか。Iコリ15:14〜19、51〜58
多くの理論、一つの真理
私たちは自分で望んで生まれてきたのではありません。自らの選択によって生まれてきた人はひとりもいません。死が人間の宿命である以上、私たちは将来に関して何らかの選択をしなければなりません。死についてはいくつかの考えがあります。たとえば、次のようなものです。(1)人の実在は死をもって永遠に終わり、そのかなたには何もない。(2)人は死んだら、ほかの人、動物、物体、霊に生まれ変わる。(3)人は死んだら直ちに別世界で幸福な生活または苦しみの生活を送る。(4)死はすべての生命機能の一時的な停止であり、そのあとよみがえって、永遠の生命か永遠の滅びに入る。
このうちのどれを選ぶかによって、人の世界観や生き方は大きく変わってきます。
以上の中で最後のもの、つまり永遠の生命によみがえるという考えはクリスチャンの希望です。これだけが神のみことばに一致しています。私たちはこの望みが実現するのを待たなければなりません。しかし、この望みがないなら、私たちはパウロの言うように「すべての人の中で最もあわれむべき存在」です(Iコリ15 : 19)。私たちのことを夢想家と言う人々に対して、次のように答えることができます。「全く望みのないまま生きるよりは、まだ実現していない期待を持って死ぬほうが幸いである」と。
まとめ
生きたまま永遠のいのちを受ける昇天は死やよみがえりよりも望ましいと思うかもしれません。キリストの再臨において受ける報いが大きいからではなく、死が私たちにとって、また残された者たちにとって苦痛だからです。しかし、信じる者にとって、死は無力です。なぜなら、彼はいのちの主に会うためによみがえるからです。
*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。