ヨハネによる福音書の特異な目的史性
「ワオー、何と美しい人なんだろう!」
「その魅力的な人柄」 「私の夢の中の夢のような人!」
「これ以上の人に出会うことはないだろう!」
「こんなに幸せな思いはかつて一度もなかった!」
私が経験したロマンスは、ある大きな都市でのことで、遠く十代の頃に遡ります。確かに、世界で一番美しい人であると思ったわけではありませんが、間違いなく私にとっては美しい人でありました。彼女が一体自分をどう思うのかわかりませんでしたので、彼女をよく知っている人々に尋ねて、彼女がどこに住んでいる人なのか、また、どんなルートで学校に通っているのかを聞き出しました。それから、この人をチラリとでも見ることができるように、彼女の乗り降りする地下鉄のあたりまで遠回りして通学するようにいたしました。
色々の理由をつけ、出席する教会も、母教会ではなく、彼女の通っている教会に行くようになっておりました。諸集会の合間をみては、ホールに出て、彼女の動向を観察しておりました。まもなくして、人の混み合っている部屋に彼女も入って行った時、チャンスが来ました。そして、私と同様、彼女の方も自分のことを心に思っていることを知り、それからというものは、彼女とのデートの時間を見つけることが、当時の私の最優先事となったのでした。
通学の時間帯が最適なデートのための時間でした。私は地下鉄とバスを使っての一時間半の通学で、隣の州から通っておりました。更に、しかし、自分の通学としてはかなり遠回りになるのですが、彼女の下車駅まで、まず地下鉄だけで行くことにしました。ある時には、話し合いの時間をとるため、地下鉄に乗るまでに、三つか四つ、いや七つの電車をやり過ごしたこともありました。共に時間を確保すること以外は、すべて二の次でした。
互いの関係を構築するということは、話したり聴いたり何か一緒に行動しながら、いつも共にいること、互いに時を過ごすということです。もし誰かを愛するようになれば、その人と時間を共有したいと思うようになります。
ヨハネによる福音書によれば、あなたが持つべきもっとも大切な関係構築は、主イエスとの関係であるとしています。使徒ヨハネは、私たちの主との関係構築を助けるため、そして、見ることも聞くことも触れることもできない状況下で、一体どのようにしたら、この御方との交わりの時を持てるかを示すため、その福音書を書きました。
ヨハネは、永遠の命への鍵は御神を知ることと書いています(一七ノ三)。主がこの地上に来られたのは、単に、御神とはどのような御方かを示すだけではなく、私共が御神との関係を持てるようにするためでもありました(一五ノ一~八)。主イエスを知るとは、御神を知ることであるとあります(一四ノ九)。従って、主を知ることは永遠の命を持つこととなります。
ですから、ヨハネによる福音書では、キリスト者としての体験への鍵は、主イエスを個人的に知るようになることにあるとしています。主と友となること、すなわち共に語らい、耳を傾け、共に生活を共有するのです。このような関係となる時、私たちは御神との親密な関係に入れさせていただくようになるのです。丁度、枝がぶどうの木につながって、それに養われ支えられる時の関係と同様、更に密接で豊かな御神との実りある関係へと私たちは近づかせていただけるようになるのです。
しかし、この世俗社会で一体どのようにして、このような主との関係を実現できるのでしょうか。目にすることもその声を聞くことも触れることもできない誰かと、一体どのようにしてその関係を構築できるのでしょうか。テレビの映像やインターネットの方が御神より遥かに信憑性があるように思われている時代に、一体どのようにして主イエスを知るのでしょうか。
御手で触れられるのと同じ効果の「良いもの」
主イエスの時代に生きて主にお目にかかることができた人々は良かったと考えたことはありませんか。もしお隣に主イエスが住んでおられて、毎日のように顔を合わせて、語り合うこともできたなら、クリスチャンになるのはもっと容易であったろうと感じたことはありませんか。使徒ヨハネがこの福音書を書いた当時の読者層もまさに同様に感じたのです。
恐らくこの福音書は著者である「イエスに愛された弟子」の晩年に書かれたものと思われます。彼は主とお目にかかれてクリスチャンとなることができた第一世代キリスト者の最後の生き残りでありました(二一ノ二〇~二三)。この使徒ヨハネが死期を迎えているということは、第二世代キリスト者たちをして、困惑とまた更なる不安感とに陥れる可能性がありました。個人的に主を知り、語ることができた人々のお導きなしでは、一体どのようなことになるのかと思い案じるわけです。
本書の目的の記述(二〇ノ三〇、三一)に先立って、疑うトマスのお話(二〇ノ二四~二九)が登場いたします。主イエスはトマスに言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(二九節)と。本節と次節以降の聖句とを比較してわかりますことは、トマスは主を見て信仰を持った第一世代のキリスト者を代表しています。それに対し第二世代のキリスト者たちは、このような特権を持たずに主に従わねばならなかったのです。二九節の主の言われた祝福の御言葉は、トマスや他の第一世代のキリスト者たちのためのものではありません。それは主イエスと直接会うことのできない状況で信じなければならない第二世代キリスト者たちのための御言葉でありました。
この出来事は、本書の研究に際し、私共を導いた問いへと誘います。すなわち今日、私共は主を見ることもその御声も聞くこともまた触れることもできない状況下で、一体どのようにして、私たちはこのような御方との関係を構築していけるのかという問いかけです。ヨハネによる福音書はこのような問いへの答えとなるように注意深くもくろまれております。他の福音書中に描かれている主の奇跡と本書のそれとを比較しますと、一層明らかになります。他の福音書ではいずれの書でも主の奇跡は繰り返し、主が触れられるという行為を通し成就しております(例えば、マタイ八ノ三、四、一四、一五、九ノ一八~二五、マルコ一ノ二九~三一、四〇~四二、五ノ二一~四三、ルカ四ノ四〇、五ノ一二、一三、七ノ一四、一五)。しかし、これらのような主の接触の描写は、ヨハネによる福音書では顕著に欠落しております。
カナの婚礼(二ノ一~一一)では、主の側のいかなる接触もなしで、水がぶどうジュースに変えられております。カファルナウムの王の役人の息子が癒された時も、約二五キロも離れたカナに留まられたままの遠隔操作にて御業をなされました(四ノ四六~五四)。主はベトザタの池で横たわっていた人を癒された時にも触れることなしでの癒しでした(五ノ一~一五)。生まれながら盲人であった人の癒しでも、目に泥を塗ることはなされたものの、しかしその癒しは、八百メートルも離れたシロアムの池に本人が行って目を洗うまで、事は成りませんでした(九ノ六、七)。また、ラザロを蘇らせた時も、主は彼を墓から呼び出しておられます。触れてはおられませんし、揺り動かしたり、引き出したりなどもなされることはありませんでした(一一ノ四一、四三)。
これらの「もろもろのしるし」に共通していることは、癒しの対象に対し、いずれの場合にも主はお触れになってはおられないという点です。なぜ、このことが重要なのでしょうか。それは主の祝福を受けるのに、距離は何の障害にもならないということを示しているからです。それ故、第二世代のクリスチャンたちが感じる、主イエスとの個人的な目で見る形での触れ合いの欠如は、何らの不利益をもらすものではないことを告げているのです。
これらのしるしの中で主が語られた御言葉にも注目してみてください。カナの結婚式の時、しもべたちに対して語られた御言葉は、「さあ、それをくんで……持って行きなさい」(二ノ七、八)でした。王の役人に対しては、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(四ノ五〇)。ベトザタに横たわっていた人には、「立って、あなたの床を取り上げ歩いてゆきなさい」(英語欽定訳、五ノ八)。生まれながら盲人であった人には、「行って洗いなさい」(九ノ七)。そして、ラザロには、「出て来なさい」(一一ノ四三)でした。いずれの場合にも、いやしの目的を果たさせたのは、触れるという行為によってではなく、主の御言葉を通してでありました。
これらの出来事は、第二世代のキリスト者たちに、主の御言葉の御力は、空間的距離的障害をも超越するものであることを教えております。主の御言葉の御力はその触れられての御業と全く同様の効果です。更に、主の御言葉は、そば近くで触れられる御業と全く同様、遠隔にてもその御力を発揮いたします。御霊が、第二世代のキリスト者たちの必要に御奉仕くださるのは、実に、この主の御言葉を通してです(一四ノ二六、二七)。
私共は今日、あの第二世代のキリスト者たちが持っていた欠乏を共有しております。私達もトマスの願った特権を持ちたいと願います。つまり見ることによって一層しっかりした信仰の土台を確かめたいと思うのです。顔と顔とを合わせて主と謁見する特権にあずかりたいのです。しかし、ヨハネによる福音書は、私共の時代の神不在のように見える事柄は、主の御霊を通しての力強い御働きに何らの妨げになるものではないことを教えているのです。主の御言葉は主が触れられる御業と同じ効能をもたらすのです。たとえ、単に印字されたページの約束されている御言葉を通しての御働きとはいえ、今尚、御言葉には御救いや癒しの御力があるのです。主の現臨を通し可能であったあらゆる恩典は、今や主の御言葉を通しもたらされ得るのです。
ヨハネによる福音書は、また、どのようにしてこれらの恩恵に浴し得るのかを教えてくれております。しるしに関するお話の一つ一つには、その成就のためには、ある人たちは主の御言葉に従って行動すべきであったことが描かれております。しもべたちは宴会長のところに水を汲んで持って行く前に、甕のふちまで水をいっぱいに満たさねばなりませんでしたし、三八年も横たわっていた人は、立ち上がって寝床を運んで行かねばなりませんでした。また生まれながら盲人であった人は、シロアムの池まで行って洗う必要がありました。
そのように、ヨハネによる福音書は私たちに二つのことを告げています。第一は、私たちはまず、主の御言葉を知らねばならないこと、そして私共の特殊な事情にどのように適用されるべきかの洞察が必要であるという点です。ヨハネによる福音書を注意深く研究することは、主と顔と顔とを合わせて交わった弟子たちの特権ある関係以上に、生きた偉大な関係を提供されることとなります。そして、告げられている第二の点は、主が告げられる指令を実行しなければならないという点です。私共が主の御言葉に従う時にのみ、御霊を通し、主の御力を私たちは体験するのです。
第四福音書は、見ていない者たちが信ずることができるようにと願って書かれました(二〇ノ二九~三一)。この福音書を読み進み、これを日常生活の中で適用してゆく時、主がこの地上を歩まれた時に現されていたその人生を、私達もたどることができるのです。
関係を構築すること
人々の関係には三つの要素がその土台となっております。すなわち、話し合うこと、聞くこと、そしてもろもろの生き方を共に行うこと。基本的要素は、主イエスとの関係構築においても同様です。もし、私共が主との関係を構築したいと望むのなら、私共はまず主と語らう時を聖別しなければならないし、主に耳を傾けて聴き、更に主と共に事を運ぶ必要があります。ここで主との霊的な交わりを樹立していくための鍵となるいくつかの諸原則をまとめてみます。
一、主イエスにお話しする
主イエスと語らう基本的手段は祈りです。しかし、いつの時代でも、多くのキリスト者たちは、祈ることに苦闘して取り組んで参りました。一体どのようにしたらより良い祈りをなすことができるのでしょうか。
①柔軟でありなさい。まず、祈りの形にはあまり捉われなくて良いと思います。言い換えると、祈りにおいて大切なことは、必ずしも祈りの形ではありません。立っていようがひざまずこうが、あるいはまた目を開けていようが閉じていようがこだわらないのです。聖書に見られる祈りを注意深く調べてみますと、祈りの正しい姿勢というものはないことがわかります。正しい姿勢とは、あなたが御神と語らうのに最大の助けとなる形がそれです。
②あなたの祈りを書き留めなさい。書いてみることがどれほど祈りに集中させる助けとなるかは、実に驚くべきものがあります。このためにコンピューターを活用するのは最も効果的でしょう。
③意味のある祈りでありなさい。祈りをささげる時、それはあなたにとって、真の関心事でなければなりません。あなたにとって余り関心がないことを祈る時には、無意味な慣用句的祈り、また儀礼的祈りに堕する傾向があります。あなたにとって最大の関心事であることについて、御神に申し上げるようにしてください。
④いろいろなことを御神に感謝しなさい。空気があること、水があること、素敵な色の絨毯、窓外に見る小鳥たちやその他もろもろのものの故、御神に感謝するのです。このようなことは最初、愚かと思えるかもしれません。しかし、空気がなければあなたはどうなるでしょう。色彩のない世界とはどんなものでしょうか。動物も小鳥たちも全くいない世界とはどうでしょうか。「主を喜ぶ」(ネヘミヤ八ノ一〇)最大の方法は、感謝と賛美の精神です。このような精神を培う最大の方法は、あなたが受けている全てのことについて御神に感謝することを学ぶことです。
二、主イエスに傾聴する
聞くことのできない、そのようなお方に一体どのようにして耳を傾けるというのでしょうか。第一の方法は、勿論聖書の中で主の御声を聞くべきです。すでに述べましたように、使徒ヨハネが本書に意図したことは、記述されている福音書中の主イエスの御言葉は、主の御在世当時に主を知った人々が主から受けた御力、また主に触れることによって与えられた主の御力と全く同じ効力をもたらすことを読者に示すことでありました。
主と生きた関係を樹立して行けるような聖書の学び方とは、どのようなものかを次に列挙してみましょう。
①適切な読み物を選択する。霊的に有益なものであるべきです。しかし、そのためには、現実の事柄に対し有用な聖書研究の内容を選択しなければなりません。系図や預言書の学びは高度な知的作業を必要とするでしょう。しかし、これらの研究は、あるいは日常の家事や仕事上のことや近隣のお付き合い等については実際は何の役にも立たないかもしれません。
②主イエスに焦点を合わせて学ぶ。主イエス・キリストに関する個人的知識が、全ての霊性に関係する事柄に最も密接に関連しておりますので、霊的学びを深めるためには、主イエスに焦点を合わせて学び行く必要があります。例えば、この目的のためには、歴代誌上や士師記などより、ヨハネによる福音書の学びの方が遥かにふさわしい学びとなります。
③時間を聖別しなさい。霊的学びを進めて行く時、自分に語りかけられる御神の御声を聞くことができるように心を整えてください。単に何ページを読んだとか、ある知識を習得したといったところで自己満足するようであってはなりません。熟読玩味して、自己の最深部にインパクトを与え得るような読み方をするのです。
④捉え得た特別な洞察は書き留めなさい。御神があなたにお与えくださったハイライトのような洞察を、あなたの霊的経験の一部として、コンピューター等に記録するようにしてごらんなさい。私達は記録してないものについては忘れて行く傾向があります。自分のために書き残したもの以上に効果的で影響力のある霊的書物を決して見いだすことができないでしょう。あなたが書き留めた洞察は、困難に遭遇した時、再び主と歩み行くようにあなたを燃え立たせてくれる助けとなることでしょう。
⑤御神とのあなたの個人的経験、対話、困難などを記録しつづけなさい。霊的に恵まれたことのみの記録に限定しないようにしてください。御神との関係で現実的な体験ができるよう挑戦してみてください。例えば、次のような質問を投げかけてみるのです、「神様、あなたは私達の家族関係をどのようにごらんになっておられますか。果して私はあなたの御旨に敏感に応答していると言えましょうか。今この時に、あなたのことをお伝えしなければならない誰かがおりますでしょうか」などと。
⑥御神をしてあなたの祈りに答えてくだされるようにしなさい。祈りを終えた時、すぐに立ち上がらないで、なおも御前にぬかずいたままにしていて、あなたの前にメモ用紙とペンを置き、そのまま待ちます。あなたは、あなたにとって最も祈りたかった最大の関心事を御神に申し述べました。今や、そのお答えを待つ番となりました。ですから、その時点で何でも心に思い浮かんだことを書き記すのです。書いたことの評価はその時にはしないことにして、霊的に自由な思いつきとしてこれを扱うのです。
三、主イエスと共に働きに携わる
具体的な実際上の信仰の行為を伴うことなしではどんなに熱心な研究も祈りも、それらはただ納戸に入れられ放置されているようなものです。霊的事柄を日常一般の人生経験から切り離しておくことは、極めて容易です。もしも私共が、霊的生活を実際上の生活に熱心に結びつけるように努めるのでなければ、霊的生活で起こっていること、それがたとえどんなに大きな恵みであっても、日常の体験にほとんど影響を与えることはないでしょう。
①信仰を分かち与えることは私共の人生のオプションではありません。表現することは心の印象を深めます。もしも信仰のことについて語れば、あなたはもっと信仰を強めるでしょう。信仰の証しをすることは、あなた自身の信仰を強め、かつそれを確かなものにしていきます。
②あなたの制限を伸ばしてみなさい。御神との関係において過激であるように見えることに恐れてはなりません。あなたの通常の生き方とは異なる世界で、短期間の宣教プログラムに参加してみるのもよいでしょう(それは、何も必ずしも海外に出かけることではありません)。例えば、庭造りをし、それを御神への特別献金として聖別し、そこに一体何が起こるのかを見てみるのです。御神のためにご自分を大胆に賭けてみることは、御神との親密な関係を大きく促進させることとなります。
③語っていることを歩んでみなさい。どのように歩むかは、あなたの信仰に強力なインパクトを与えます。ですから、伝道者は講演会などで人々に招きを与え、自分の信仰を公に表明するようにすすめるのです。座っている席を立って、会衆監視の中で前に進み出る歩みにはその人の決心を強力にする何かがあります。行動することは、その信仰と人生経験に強力な影響力を及ぼします。
④霊的に心に感じた印象に基づいて行動しなさい。前に述べましたように、霊的ブレーンストーミングの後、心に残った考えを実験してみなさい。ある考えは、確かに御神から与えられております。しかし、あるものは、単に自分の夢想からか、あるいは混乱した考えからの発想である可能性があります。これらのいろいろと心に残ったものを実験していく時、あなたは徐々に、神の御旨とそうでないものとを見分けることができるようになってゆきます。
実にヨハネによる福音書は、主イエスと顔と顔を合わせて生きることができない新しい世代のキリスト者たちのために、その人生を扶養することを願って書かれたのです。そして、その彼らの体験した人生は、まさに、私達が今日主イエスの御言葉を、私共の当面している今のもろもろの問題に当てはめてみる時に現実に見えて来るはずの歩みであったのです。