愛された福音書【ヨハネによる福音書の解説】#2

目次

無限包摂の御恵み(ヨハネによる福音書2章23節~4章42節)

「マアー、どうしましょう!」とサマンサ(実名は不明)は思わず心の中で叫んでしまいました。空の水がめを頭に載せてその井戸に向かっていたときのことです。「いろんな人種の中でも、こともあろうにユダヤ人の男が!」そのユダヤ人は彼女が行こうとしていた井戸のすぐ近くで、疲れきった様子で、また埃まみれで、ただ一人ポツネンとたたずんでおります。

「ユダヤ人と関わってうまくいったことがあったろうか?」サマンサは心にうめきを覚えながらつぶやきます。答えははっきりしていました。今まで、一度たりとも彼らと関わって平穏であり得たためしはありませんでした。軽んじられている少数民族のサマリア人というだけではなく、女性であり、かつその上、希望も全くない、穢れ果てた罪人の自分。五人の男たちがそれぞれ彼女に惹かれて結婚はしたものの、あたかも汚れた雑巾マットのように彼らは自分を捨てていったのです。

彼女は少しの間、今、家にいる彼女と同居して寝食をともにしているどうしようもないだらけた男のことを考えました。一度たりとも敬意を覚えることなどできなかった男。こんなだらしない男とは結婚しないといった程度の自尊心を彼女はまだ持ち合わせてはいたのですが、さりとて追い出すこともできないままでずるずると今を引きずって生活しております。こんな状態は彼女にとって何を意味するのでしょうか。自分は落ちぶれた者の中の一人? 落ちぶれた者とは、彼女がまさにそうであったのですが、落ちぶれた者は他の落ちぶれた者を引きつける。なんと希望のない状態。

それ故、彼女は真昼の間の汗だらけになる時間帯に水汲みに来ております。通常水場には、おしゃべりと笑いが、当たり一面に広がっております。ゴシップも耳にします。ところが彼女の姿が現れると、途端に静まり返ります。皆は、視線を避けます。ある者はこれ見よがしに足元に唾を吐きます。一度ならず二度までも顔に唾を吐きかけられたこともありました。それは彼女のふしだらな歩みの故、彼らのある者は、彼女によって家庭が壊され、その夫が奪われたので憎みました。彼女の内には自分たちの家庭を破壊する恐れを感じさせるものがありました。しかし、もはやこれ以上、彼らの蔑みの視線に自分をさらす必要はありません。誰も井戸に来ない時間帯を選んで、しかも遠くまで水汲みに行けばよいことを悟ったからです。

それなのに、今日はこのユダヤ人がそこに座っている。しかし、この男を追い払うすべもありません。「それにしても、ユダヤ人だからといってそれがどうしたの?」とサマンサは自分に言い聞かせます。「自分らと、エルサレムにあるという自分らのちっぽけな神殿とを考えてみなさいよ。彼らはシケム(「シカル」の町の古称)こそが本当の聖なる都であることを知らないのでしょうか。もし彼らが聖書を知っていたなら、アブラハムが最初の祭壇を築いたのはここだったことを知っているはずです。アブラハムが、その子イサクを捧げたのはこのゲリジム山であったことを知らないのでしょうか(この考えは、サマリアの伝承。ヘブライ語旧約聖書では確認されてはいない)。ヤコブがメソポタミアから帰ってきたとき彼はここに住むことにし、このヤコブの井戸を掘ったのではなかったでしょうか。大体、イスラエルが民族として最初に礼拝を捧げたのは、エルサレムではなく、ここシケムであったのを知らないのでしょうか。アブラハム以降ほとんど千年間もエルサレムは異邦人の手中にあることに気付いていないのでしょうか。私たちこそが本当の神の民であり、彼らではない。そう、私がユダヤ人でなかったことは本当に良かった。もしそうであったなら、まさに本当に落ちぶれた者となっていた!

こんなことを思い巡らしながら、彼女はついに決心しました。ユダヤ人がそこにいることなど無視して行動しようと。それにしても、ユダヤ人であれば、どんな者もサマリア人に話しかけてくるようなことはないでしょうし、とりわけ彼女のようなある種の暗い過去を感じさせるような者には。恐らくそっと井戸に行って水がめを一杯にして何事もなく去れるでしょう。きっとうまく行くでしょう。

できるだけ素早く、彼女は水汲み袋を井戸に落とします。遠く下の方で水がはねる音が聞こえます。それから、それを引き上げて、甕にその水を一杯に入れ、それを頭に載せ、そこを去ろうとします。するとその時、心の動揺を突き通すようにして、彼の声が耳に飛び込んできます。「水を飲ませてくださいませんか?」と。

主イエスは見透しておられる

ある意味でサマリアの女の物語は、ヨハネによる福音書二章二三~二五節から始まっていると言えます。この二章末尾の聖句は、三章のニコデモと四章のサマリアの女とに、主イエスがそれぞれ出会われることへの準備となっております。ヨハネ二章の二三節から二五節において、ある人々は主のなされたしるしを見たことを基に、主を信じていると言い表しているのですが、それは主との救いの関係とはなっていないことが指摘されております。主は彼らの信仰告白の真の姿を見透かしておられ、彼らの動機を見抜いておられます。この人々はしばしば、もし奇跡を見ることができたなら、もっと信仰を深めることができるだろうと考えております。しかし奇跡は、このような表面的な信仰の治療薬とはなりません。むしろ、真の信仰の道程においてこそ、奇跡は意味のあるものとなるのであり、奇跡はむしろ反対に、主との深い関係の視点を捉え行くことの妨げとなる傾向さえあるのです。

主が私どもについて、全てのことを完全に知っておられることに思いを致す時、最初は震えおののくかもしれません。しかしこのことには、明るい面があります。もし主が、私どものことについて全てを知っておられるのであれば、私どもの信仰をどのように強めることができるかも知っておられるはずです。私たちが霊的な事柄を瞑想する時、私たちが必要としている主との関係強化の解決策を主は、私どもに印象付けることができます。それから私たちは、この御方に自分の罪を告白するのを恐れる必要がありません。なぜなら主はすでに全てを御存知ですので、隠すものは何もないからです。心の隅まで正直であることに何の危険もありません。私たちは、ありのままの自分になれるのです。

マルチン・ルターがワルトブルク城に捕らわれていた時の逸話です。サタンが彼に、一連の罪のリストを突きつけて、失望させようしたのです。ルターはそれを見て答えます、「あなたはもう少ししっかりと調べたほうが良い。これは完全なリストではない」。サタンはやがてもう少し長いリストを持ってやってきました。それに対しルターは答えます、「このリストは前よりは改善されてはいるが、しかしまだ完全ではない」。そこでサタンは今度はそれこそ長いリストを作って戻って来ました。ルターはそれを調べて言いました。「この通りです。今やあなたは私の罪の全てをリストアップしたことになります。さて、ここで私はあなたに言っておきたいことがあります。主イエスの血潮がこれら全ての罪から私を清めてくださったのです。それ故、ここから出て行きなさい!」それからルターはインクビンを取り上げ、それを悪魔に投げつけました。それ故、旅行者たちは今日でもインクビンが当たって砕けたその壁にインクの痕を見ることができるのだといいます(うわさによれば、実際は、城の管理人が時折手入れしているらしいということなのですが)。

自分の全てを知り尽くしておられて、しかもその上で愛してくれているような人と交わりを持つことには、自由と喜びがあります。主イエスと持つ関係とはこのような性質の交わりです。

彼は夜になって訪ねてきた

前に述べましたように、ヨハネによる福音書では、主は譬え話をしておられません。代わりにヨハネは、主のなされた実際の御奉仕を語っていて、それらが主の教えられたことの霊的実物教訓となるようにともくろんだのです。例えば、ニコデモという人物の中に、私たちはその信仰が不十分である人の実例を見るのです。彼の信仰は、奇跡的なしるしを見たということにその信仰の土台を置いておりました(二ノ二三~二五に描かれている人々のようにです)。ニコデモは、主が宮清めをなされた同じ日の夕方、暗くなってから主を訪ねてきております(二ノ一三~二二)。

ニコデモという名前は「民の指導者」という意味を持っております。彼は疑いもなく、当時のユダヤ人社会が生み出し得る最高の範たる人であり、敬虔な人物でもありました。彼はファリサイ派の人であり、非常に厳格に、聖書と信仰生活とを捉え実行しようとしていた人物でした。また彼はユダヤ人の議会であるサンヒドリンの議員でもあり、また高度の教育を受けた人でもありました(主は彼を「イスラエルの教師」(三ノ一〇)と呼んでおられます)。ですから、ニコデモはユダヤ人社会の信仰者の代表格であったに違いありません。しかし、皮肉なことに彼の受けた高い教育と高い地位とは、新しい思想を受け入れるのを妨げておりました。しかしまた、彼の夜の訪問は、人目を避けるその臆病さと共にそれとは裏腹に主を訪ねてみるという大胆さもありました。もし彼が主の仲間と見られたなら、彼は多くのものを失うことになるからです。

ニコデモに関するお話は、全く別な話の始まりというのではありません。前の話とこれとをつなぐ接続詞で始まっております(三ノ一を参照のこと。そこでは、新国際訳やその他の諸訳が訳出しているように、「今や」の訳が理解の助けとなります)。ニコデモの開口一番の言葉が更に前章と本章との関係を裏づけております。彼の、「わたしどもは……知っています」(三ノ二)の言葉は、他の人々を代表して自分が語っていることを示しています。ニコデモは従って、主が神殿でなされたことを目撃はしましたが、しかし、その信仰がまだ十全ではなかったと前章末で指摘されていたような人々を代表しているわけです。

二節の始めに使われている言葉の「夜」は、いわば言葉遊びのようにニコデモの信仰の不十分性を表現しております。時に関するギリシア語では、三つの異なる時を表します。それは、時のある一点を指すか、あるいは期間か、それとも時の質かのいずれかです。本節における「夜」に対するギリシア語は、一日の中の暗くなった時というより、質としての暗さ、すなわち彼が主のところにやってきた時の、その心の暗闇を強調している形です。ですから、ニコデモのこの心の状態を知っておられた主は新生の必要という挑戦を彼に突きつけるのです。

このように、前章で強調された主題が、ニコデモのお話でも継続されております。二章の末節で見るように、ここでも、主イエスは心の秘密を読まれます(三ノ三)。主はニコデモに、神の国に入るためには個人的決心が肝要なのであって、特別な人種や民族に属して生まれてくるかどうかに依るのではないことを理解させたかったのです。主は、ニコデモの全てを知っておられました。そして彼の宗教的理想を、革新的な「新生」という概念で置き換えようと願われたのです(三ノ五~八)。二章と同様、十字架の御業こそが、主が提供しようとしておられるあらゆる祝福の基礎となるという御教えです(三ノ一四~一七)。

水から生まれるということ

ニコデモの物語における主たる論争点は、三章五節で主が話された水の意味についてです。主は言われました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。多くの人たちが考えているようにこの水は、洗礼の水をさしているのでしょうか。それともほかの何かでしょうか。

ユダヤのラビたちは、赤子は母の胎内の中で水から造られていくと教えました。赤子が生まれるときの「破水」は、胎内で赤子が造られていく過程で残った水であると、これらのラビたちは考えたのです。もしこの種の水を主が考えておられたのなら、主は次のように言っておられることになります、「神の国に入るためには、あなたは二度生まれる必要があります。一度目はあなたを生んだ母を通して肉体的に、そして二度目は聖霊によって霊的にです」と。

この解釈には、かなり重要なそのサポートとなる論点があります。洗礼者ヨハネの時以前までは、洗礼は異邦人がユダヤ教へ改宗した場合にだけ授けられたのです。従ってユダヤ人一般は、受洗の必要を感じてはおりません。そこで、ある人たちは疑問を投げかけます。果してニコデモは、主が語られた水を洗礼と理解し得たかどうかと。恐らくそうではなかったであろうと。二章の六節で、水は、主が置き換えようとしておられた儀式的宗教を代表しておりましたが、そのように、三章五節の水をニコデモをしてユダヤ民族への誕生ということを可能にした母の胎内の水と理解しますと、二章に始まった置き換えというテーマの継続ということになります。

しかし、この水は洗礼を指していたのだとする考えも依然として強力です。もしもニコデモが、荒野にいた洗礼者ヨハネに質問したファリサイ派の代表者たちの一人であったとするなら(一ノ二四~二八)、主が言われた言葉を容易に理解し得たはずで、「あなたは水によってだけではなく、聖霊においても洗礼を受ける必要があります」といわれたのであると。主の御教えの中では水と霊とは密接に関係付けられております(四ノ一〇~一四、二三、二四、七ノ三七~三九)。水と聖霊による清めという考えは、第一世紀当時のユダヤ主義背景下に生き生きと存在した概念でした(エゼキエル三六ノ二五~二七、並びに1QS〔クムラン教団則〕三ノ六~九を参照)。それに、「上から生まれる」(「新たに生まれる」の、可能な別訳。訳者注)という概念は、三章二二節から三六節で、洗礼者ヨハネが教えた洗礼に関係付けられております。このように、主イエスの御言葉を水と霊による洗礼であるとすることは、前後関係からして良く整合するのです。

どちらの考えであるにせよ、主がニコデモに言われた驚嘆すべき御教えは、人は特別な人種か民族に属することによって神の国に入れるのではないということであったのです。そのためには、新しい人生への霊的同意が必要なのであるというポイントです。しかし新生というその変革は、人の努力によってではなく、御聖霊の御業によって初めて有効となるものであること、そしてこの御霊の御働きを、人は完全には感知できないとはいえ、それは実存であること(三ノ八)を、その時主はニコデモに伝えられたのです。

新たに生まれる者には、一体どのようなことが起るのでしょうか。八節には驚くべき言及があります。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と。新生するということは、人をして、思いのままに吹く聖霊のようにいたします。新生によって生き始まったクリスチャンたちは、工場出荷のクッキーのように、それがどのような形になるかは必ずしも予測できないのです。ニコデモやファリサイ人たちの宗教は、これとは逆で、注意深く設定された諸様式の遵守を是とした生き方で、一定の型が設定されておりました。しかし、聖霊によって力を受けますと、新生した全ての人はそれぞれ、御神から付与されたユニークな生き方をさせられるようになります。キリストにある御霊の御働きを通し、まさに御霊が「思いのままに吹く」ように、私たちは独創的で無類の個性的な者たちとならせられるのです。

私たちは、主イエスの内に同様のユニーク性を見ます。ヨハネによる福音書は途切れることなく、人々を驚嘆させておられる主の御姿を描いております。主は分別ある人に、新たに生まれるべきことを語られました。また主は、サマリア人にも語りかけておられます。主は家族の圧力に縛られるのを拒んでおられます(二ノ四、七ノ一~一〇)。主が一体次に何を語られ何をなされるかを、人々は決してわかりませんでした(七ノ八~一一、八ノ一~一一、一〇ノ二四、一一ノ五五~五七)。人と異なる個性であることを恐れるあまり、思いのままに働かれる御霊の御働きを決して見失うことのないように私どもは留意すべきです。

「どうして、そんなことがありえましょうか」と、ニコデモは尋ねました(三ノ九)。それに対して主イエスは、人間は誰もその質問に応え得る者はいないこと、たとえその人が天に昇ることができてもであると応答されました(三ノ一一~一三)。その答えは、唯一人、本質的に天に属する御方、すなわち天の事物を明らかに啓示するため「人の子」として下ってこられた御方によってのみもたらされ得るものなのです(三ノ一三)。

それから主は、更に続けて、ニコデモに答えられます。新生への鍵は、「人の子」を上げることにある(三ノ一四、一五、七ノ三九)と。新生を可能にするのは実に人間の業ではなくあの十字架です(一二、一三を参照)。明らかにこのファリサイ人にとっては、苦難を受け、殺されていく救世主の姿を思い描くことはできませんでした。ですから、主イエスはニコデモにファリサイ人たちが神の国に入って行くために知る必要な、大事な一点を告げておられたのでした。

主は十字架を、モーセが荒野で竿の先にぶら下げた蛇と対比して説明されました(三ノ一四、一五及び民数記二一ノ四~九を参照)。それは極めて適切な比較です。両者の出来事は、共に御神の癒しの処方箋です。両者共、その処方箋ははっきりと見えるように誇示されました。両者共、癒されたのは掲げられた御神の救済法を見上げることによってです。そして両者共、不服従の結果は同様でした。あの十字架は人間存在にとっては命であり、死なのです。

彼女は真昼間に来た

ニコデモの物語は夜になって主の御許に訪ねてきた一人の男性のお話ですが、それに対し、第四章では真昼間に主と出会った一人の女性についてのお話です。彼女は、当時の時間の数え方からすると、第六の時、すなわち、今日の真昼間に井戸にやってきました。この真昼という時は主イエスが丁度十字架刑への結審がなされた時間であり、そのところで「渇く」と言われたのです(一九ノ一四、二八)。昼という時間は、パレスチナ地方では水汲みは通常なかったのです。水を汲む女性たちは、朝夕の涼しい時間帯を選びました。そこで、このサマリアの女の水汲みに来た真昼という時間を考えますと、彼女の結婚暦や現在の生活状況からしても、疑いもなく、その町でのけ者にされていた者であるが故の行為であったことが暗示されております(四ノ一七、一八)。

この女性が、主と出会っていくこの過程には、三つの驚きがあります。まず第一は、彼女は今、公衆にさらされている状況下の女性であったこと。ユダヤ人男性は公衆の面前で女性に話しかけることはかなったのです。第二に、彼女は、ユダヤ人からは特に嫌悪感をおぼえられていた民族に属しておりました。そして第三に、彼女は、「罪のうちに生活していた」女性でした。それ故、良識があるとされているユダヤ人男性は決してこのような人に話しかけたりはしなかったのです。しかし主イエスは、これらの全ての障壁を乗り越えられたのです。それは、そのためにこそサマリアを通過されたのですが、この女性にも主が、あの「生命の生ける水」を提供するためでありました。

主は、彼女に自分の歩みの現実に直面させるため(四ノ一六~一八)、彼女が示した生ける水への興味の表明を用いられました(四ノ一五)。主は、彼女の全てを御存知です(二ノ二三~二五)。そして彼女の悪行の数々を曝け出させられました(三ノ二〇)。考える時間を確保するためか彼女は話題を変えようとします(四ノ一九、二〇)。しかし、間もなく告白して、主イエスを信じるようになります(二九、四二)。

この女性に、主イエスが言い表された、御自分が救世主であられるとのあからさまな宣言は、この福音書全体においてもとりわけ、ハッとさせられる特異な場面です(四ノ二六)。サマリア人社会は、ユダヤ人社会と比し、主は明らかに御自身をよりあからさまに表明し得る地域でした。ユダヤ人たちは、軍事的政治的救世主を期待しておりました。彼らは苦しみを受け、殺されて行く救世主を受け入れることはできません。それ故、もし主イエスが救世主であることをユダヤ人たちの間で宣言することは、ただ、的外れの期待を抱かせることとなったのです。

他方サマリア人たち一般は、救世主に関しては、聖書的にはある種の正統的な理解を有しておりました。彼らはモーセ五書のみを聖書としておりましたので、救世主に関する主要な聖句は申命記一八章一五節と一八節であり、そこには来るべきモーセのような一人の預言者がそれであるといわれているわけです。この聖句からサマリア人たちは、救世主とは、御神礼拝のより優れた方法を教えるような一人の改革者であると理解していたわけです。ですから、主が、サマリアの女に真の礼拝のことに関したお話をなされた時、直ちに彼女は救世主のことを考えたわけです(四ノ二三~二五)。サマリア人たちのこの正しい理解をさらに強めるため、ユダヤ人社会の中では決してなさらなかった方法で、御自身を彼らに示されたのでした。

ニコデモとサマリアの女――正反対のものは引き合う

関係において互いに正反対のものは、引き合うといわれております。丁度、北極と南極のようにして、ヨハネは、ニコデモとサマリアの女とを両極に据えております。もし、このような考え方が正しいとして、もしも、ニコデモとサマリアの女とが出会うことがあったなら、互いに極めて魅力的に思えたかもしれません。次のような、並列された両極に注目してみてください。すなわち、ニコデモは男性、それに対しサマリア人は女性。彼はファリサイ派に属するユダヤ人でしたが、彼女は軽蔑されたサマリア人。彼は夜やって来ましたが、彼女は真昼間に。彼は富裕(一九ノ三九)でしたが、彼女は貧しかった(そうでなければ、水汲みなどには来なくて済んだでしょう)。彼は高い教育を受けた人(三ノ一〇でイスラエルの教師と呼ばれてます)ですが、一方(一世紀の一般の女性たちがそうであったように)彼女は無学な人。彼は敬虔な人(ファリサイ人)であるのに、彼女はふしだらな女性。彼は高度に尊敬されていた人物であったのに比し、彼女は蔑まれサマリア人社会からさえも投げ捨てられていた人。彼は聖書以外の文書でも登場してくるような極めて著名な名前を持っていましたが、彼女の名前は全く不明です。彼はエルサレムなる聖都に住んでおりましたが、彼女の住まいは「シカル」(「酔っ払い」を意味)です。彼は信じると言いましたが、主を受け入れるのにゆっくりでした。一方彼女は最初疑い深げではありましたが、この御方が誰であるかを知った時、直ちに主イエスを救い主として受け入れました。

これらの二つの物語の中に、私たちは再び、ヨハネによる福音書三章一六節が真実であることを示す生きた譬え話を見るのです。御神はそのひとり子を世に送られ、「たとえその人が誰であっても、この御方を信じる者は永遠の生命を持つ」ようになるのです。ニコデモとサマリアの女の実例の内に、「誰であっても」と言われているものに含まれる、両極端の人々の姿を見るのです。たとえあなたがどんな人でも、またどんなことをなして来た人であっても、どんな家系であろうと、更に人があなたをどう評価しようとも、主イエスには、輝くばかりに、そのようなあなたに対する偏見が全的に欠落しているのです。誰であっても御許に行くことができるのです。人種、宗教、男女、貧富、業績、はたまた外見など、一切何の条件もありません。全ての人々がこの御方を受け入れるように招かれているのです。まさにこの御方こそが、真に無限包摂の「世の救主」(四ノ四二)なのです。

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