第三章 主からのしるし
古代近東に見られる政治的な陰謀とめまぐるしい同盟関係の変化は、現代世界の地理的政治的状況と似かよった複雑さと混乱を帯びていました。アッシリアの脅威が国際的な水平線にぼんやり現れ始めた時、多くのシリア・パレスチナ国家が、復興した帝国に対抗するために協力体制を敷きはじめました。明らかにアハズは、アッシリア党か、少なくとも中立な立場でした。アラムの王レツィン(アッシリアの文書にはラキアヌとして言及されていますが、多分これはアラム語名ラディアンの訳であったと思われます)は、おそらく北王国の王ペカの就任に関わったと思われます。反アッシリア連合に対する潜在的な危険を取り除くために、レツィンが北王国の王がエルサレムに侵攻するのを助けたことは、十分考えられることです。学者たちは、ダマスコの支配者とペカが、アハズを、彼らの目的達成にもっと好都合な人物にとって変えようとして、政治体制の変化をもくろんだと結論づけました。王たちは出征し、ユダは彼らのえじきになろうとしていました。
興味深いことに、列王記下一五ノ三七は、主がレツィンとペカの心をかき立ててユダを攻めさせられた、と記しています。神は、アハズを助けることができるのはヤハウェだけであることを強調するために過激な手段を用いられたのでしょうか。
二人の王はエルサレムに向かって進軍しましたが、これを攻略することはできなかったようです(イザヤ七ノ一、二、列王記下一六ノ五)。さらに、レツィンとペカが同盟を組んだ事実は、アハズとその民の意気を完全にくじきました。おそらくそれは、ユダがすでにエドム人(列王記下一六ノ六)とペリシテ人(歴代誌下二八ノ一八)に敗北を喫し、またシリア・イスラエル連合による大攻勢を被ったためでしょう(イザヤ七ノ五~七)。彼らの心は、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザ七ノ二)。
列王記下一六ノ七から、私たちはアハズがアッシリアから支援を求める決意をしたことを知ります。彼はついに、ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせます。「わたしはあなたの僕、あなたの子です。1どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください」と。アハズは、自身を隷属者とし、貢ぎ物を送りました(八節)。
おそらく神は、アハズとユダの人々が、彼らの絶望的な状況の中で神に立ち帰るだろうと思われたに違いありません。主はイザヤと彼の息子のシェアル・ヤシュブ(彼の名前は神の約束を具象化する「残りの者は帰ってくる」でした)を遣わして、町の上貯水池の水路のはずれで王に会わせられます(イザヤ七ノ三)。明らかにアハズは、攻撃に備えてエルサレムの水の供給システムを詳しく調べていました。彼は、町が敵に自力で抵抗するよう準備をしていました。おそらく王は、預言者を王宮で迎えるつもりだったでしょうが、神は彼らの出会いが、自己防御の象徴である池で起こることを期待しておられました。主は、アハズが、エルサレムの唯一にして真の力が神の力の中にあることを理解するように望まれました。預言者の息子と彼の象徴的な名前もまた、王に対する神のメッセージでした。おそらく王は、少年の名前とその意味するところを知っていたことでしょう。
イザヤは、王に言います。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。……この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない」(四節)。実際、ユダを食い尽くそうとしていた二人の王たちは、燃え盛る炎ではなく、今にも消えそうないぶし火にすぎませんでした。
おそらく王がティグラトピレセルに遣わした使者は、まだアッシリア領内にいたことでしょう。危険な同盟を思いとどまるのに遅すぎることはありませんでした。しかし、王は神の嘆願に応答したでしょうか。
シリアとイスラエルの支配者たちは、アハズに代えてタアベルという名の王を即位させることによって傀儡の王の擁立をたくらんでいたのかもしれません(イザヤ七ノ五、六)。2しかしユダの王は恐れるには及びません。なぜなら攻撃は実現しないからです(七節)。それどころか、二つの国家は消滅する運命にありました(八、九節)。アッシリアは、紀元前七三二年にシリアを制圧し、イスラエルの北部の領土を奪取しました。同七二一年には、残っていたすべてを滅ぼしました。結局、アッシリアはイスラエルの人口の大部分を国外に移し、代わって外国からの移住者を住まわせます。「六五年たてばエフライムの民は消滅する」(八節)。
イスラエルもダマスコも、アッシリアに対する反乱は長続きしませんでした。「信じなければ」と、神は王に注意を喚起して言われます。「あなたがたは確かにされない」(九節)。ユダが神に信頼すること、それだけが生き残りの条件でした。ユダ王国は、神の介入と力によって誕生しました。ゆえに、神の力によってのみ存続することができるのです。信仰は、ここでは、神に信頼し、神の導きを受け入れる決意を含みます。そのような信仰は現実的で、決して霊的に抽象化されたものではありません。アハズがしなければならなかったことは、人間の努力によって国家を救おうとすることではなく、神の救いにゆだねることでした。
主は、恐れおののく王を励まして言われます。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」(一一節)。「陰府」からのしるしとは、死人を呼び起こすことではなく――それはイスラエルの宗教で禁じられていました――、地震やその類の現象をあらわしています。天からのしるしは、稲光や雷鳴、時ならぬ雨などをあらわしていると思われます。
しるしはアハズが願ったように、度肝を抜くものでした。しかし、王は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と答えて、神の申し出を拒否しました(一二節)。彼の応答は、主と主の預言者に忠実な人々の感情を、公然と害しないような方法でなされました。「一見、神聖でなめらかな口調の背後に、最大勢力の敵と手を結ぶことによって敵を出し抜くもくろみがあった」(列王記下一六ノ七~一参照)。3アハズは、明確にしるしを避けたいと望みました。もしそれが実現したならば、それは、彼を最もぎこちない立場においたことでしょう。
これより先に神の民は、荒野でつぶやいたように、神がご自分の力を証明するように絶えず要求することによって神を失望させました。ところが今、アハズは、それとは逆の形で反抗しました。彼は主がご自分の言葉を試すように求められた時、神がご自身の力を証明されることを拒んだのです。「しるしを求めることは不信仰のしるしともなりうるが、一方、しるしを拒むことが不信仰のしるしともなりうる。その尺度となるのは、人が神の定められた未来に自分をゆだね、神の意志に自分を服従させるかどうかということである」。4ユダの支配者(アハズ)は、自分が望まないような方法で、神が事を運ばれるのではないかと恐れたのです。
主は、王に天来の助けを提供しておられました。アハズは助けが与えられることに信頼することさえしませんでした。神はユダの指導者に特別な保証のしるしを与えようとしておられました。しかしアハズは主をすげなく拒みました。「ダビデの家よ聞け」と預言者は宣言します。この「ダビデの家」という言葉には、あらゆる種類の意味が込められています。とりわけ、イスラエルの神と王朝の創設者であるダビデとの間に築かれた関係をさします。しるしに関するアハズの態度に対するイザヤの反応から、預言者がそれを敬虔なものとしてでなく、まったくの不信仰と解釈したことは明らかです。彼は言います。「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」(一三節)と。この「あなたたち」は原語で複数形が使われています。つまり、神は単なる王以上の対象に語りかけておられます。キドナーは、イザヤが将来にわたるダビデ王朝全体に語りかけている、と言います。5
神は我々と共におられる
王の不信仰にもかかわらず、神はアハズの拒絶を承認されません。主は引き続き王に、そして王を通して、南王国の人々に援助の手を差し伸べようとされます。もし王がしるしを求めないなら、とにかく神がそれを与えられます。「見よ、おとめがみごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(一四節)。「神が我々と共におられる」という名の子供の誕生は、主が本当にご自分の民と共におられることを証言しています。
イザヤ七ノ一四について書かれた本や論文は、おそらく聖書の他のどの聖句よりも多いと言えるでしょう。論点は特に次の二つに絞られます。第一に、ヘブライ語のハ・アルマーという言葉が欽定訳のように「処女」を意味するのか、それとも、現代の多くの翻訳が示すように「若い女性」を意味するのか、という点です。第二に、この預言はイザヤの時代に適用されるものか、それはキリストにだけ当てはまるのか、それとも、二重の適用が可能か、という点です。
「処女」をあらわすヘブライ語は、ベトゥラーですが、結婚できる年齢の若い女性をあらわすアルマーも、処女の意味で用いられることがあります。6ユダヤ教の学者たちは、キリスト教がこの聖句をキリストの預言として用いることに不快感を持っています。彼らは、イザヤは「処女」をあらわす専門用語を用いていないという事実を特に強調しました。典型的な例として、スロッキィは述べています。「ここに登場する若い女性が誰をあらわしているか確言することはむずかしい。年代的な考察は、ヒゼキヤの母を除外する。さらにこの子の誕生(あるいは名前)が、預言の成就の確かさをアハズに確信させるしるしとなっている事実は、若い女性と子供が七〇〇年後に生きた人々と同一であるというキリスト論的な解釈を不可能にする。イザヤの妻やアハズ王の妻または王族の女性、あるいはユダ王国のいかなる女性もこの聖句の若い女性でありうるのである。」7ジューイッシュ・スタディ・バイブルは、「現代のすべての学者たちが、このヘブライ語が、既婚であれ未婚であれ、また処女であろうとなかろうと、単に結婚適齢期の一人の若い女性をあらわしている」と述べています。8
A・S・ハーバートは、アルマーは、英語の場合にそうであるように、「欽定訳聖書にみられる『処女』の意味を排除しない」と注釈しています。しかし彼は通常の語法において、この言葉は「ほとんどそれ(処女)を示唆しない」と述べています。彼はさらに、約束されたしるしは、若い女性ではなくて、やがて生まれ、インマヌエルという名を受ける子供であると指摘します。ラス・シャムラ・テキスト*は、シリア沿岸の古代ウガリットの都市で発掘された託宣の中に、聖書の物語と著しい類似があることを示しています。そこには、「若い女性が子供を産み」と述べ、聖句と同じ名詞を使用しています。ハーバートは、多分、アハズの妻が子供を産んだと述べています。彼の名前は、「神の守りの保証を与えるものであるが、このしるしは拒絶されたので、数年のうちにこの同じ神の臨在がアッシリアへの悲惨な隷属をもたらすことになる」。9
イザヤ七ノ一四の文脈は、アハズの歴史的な状況を描写しています。それは、エルサレムに対する差し迫った脅威についての懸念を抱くユダの王にとって、理解できる何かを意味していたに違いありません。イザヤ書の中の他の多くの事柄と同様、それはより大きな現実を暗示しています。しかし、それはまず第一に目前の現実、すなわち、アハズとイザヤ、さらに彼らと同時代の人々が知っている現実に注意を向けます。
そしてそれ以上に、私たちは、私たちの信仰がしるしによって立ったり倒れたりするものであってはならないということを覚えなければなりません。宗教指導者たちが、イエスの身分を証しするしるしをイエスに求めたとき、主は彼らの要求を拒否されました(マタイ一二ノ三八~四二)。
10主は彼らが受ける唯一のしるしは、ヨナのしるしだと言われました。しかしその時、主は、ご自分の権威が真正であることを示す唯一のものは、主の教えと生涯が主にお会いした人々の生活の中にひき起した応答であることを強調されました。しるしがあろうとなかろうと、私たちの義務は、神の召しに応答し、神に従うことです。神は私たち一人一人に、私たちが自分の信仰の基礎を築くために、イザヤ七ノ一四よりももっと多くの証拠を与えてくださいました。
預言は、原則として、それが語られた時代に適用されるものと言えるでしょう。しかしそのことは、その預言がキリストを指し示していないということを意味しません。イザヤ書全体を通して、私たちは、地上的なものと超自然的な意味合いの両方を持つ人々や出来事や事柄を見いだすでしょう。聖書記者たちは、絶えず歴史的な事件を取上げ、それらを来たるべき出来事の例証として用いています。インマヌエルという名の人間の子供は、文字通りの「神が我々と共におられる」と呼ばれるお方を、排除するものではありません。
*訳者注 〈ラス・シャムラ〉シリア北西部の地中海沿岸の村落。古代ウガリットの都市の遺跡で、青銅器時代の考古学上重要な遺跡が多数発掘された。
参考文献
1. ダビデ王朝の王は、主ご自身によって子とみなされた。
2. 聖書はタアベルが誰であるかについて語っていない。学者たちは、いくつかの可能性を示唆している。その一つは、この名前のアラム語的な性格がこの人物が王家の一族であることを示しているというものである。ダビデの子孫ではあるが、彼の母親はアラム地方出身の王女であったかもしれない。他の説は、タアベルはツゥバイルという名のティルスの王で、彼が紀元前738年にティグラト・ピレセルに貢物を納めた時、すでにアッシリアへの忠誠を示していたというものである。(Walton, Matthews, andChavalas, p.594)
3. D.Kidner,”Isaiah,” p.639
4. O.Kaiser, Isaiah 1-12, p.97
5. Kidner, p.639
6. I.W.Slotki, Isaiah: Hebrew Text & English Translation With an Introduction and Commentary (London:Soncino Press, 1959), p.35。この本は、スロッキィによる伝統的なユダヤの注解書シリーズの一部である。
7. 同
8. The Jewish Study Bible, Adele Berlin and Marc Zui Brettler, eds. (Oxford, Eng.: Oxford University Press,2004), pp.798, 799.The Jewish Study Bibleは、しるしの多義性を強調している。
9. A.S.Herbert, The Book of the Prophet Isaiah: Chapters 1-39, p.64, 65
10. イエスは、しるしについてのご自分の弟子達の要求に対処しなければならなかった。彼らが再臨と世の終わりのしるしを求めた時(マタイ24章3節)、主は、本質的には、彼らの主が空中に現れるのを見ることが唯一の字義的なしるしであると言われた(30節)。