イザヤ書における神と救い【イザヤ書解説ー悲しみの人#3】

目次

第六章 バビロンの王

いろいろな形での預言者イザヤによるバビロンに対する託宣は、いまだこの国が、神の民の脅威とはなっていなかった時になされたことなのでまさに驚きです。紀元前七百年代の後半頃、バビロンはただアッシリア帝国内の一部分でありました。アッシリアのサルゴン二世とセナケリブ王は古代近東世界ではかつて見たことのない当時最大の政治的版図、あるいは網状組織を築き上げており、一時期、アッシリア帝国にはエジプトも含まれておりました。バビロンはアッシリア帝国の圧倒的軍事力によって支配されていた、もう一つの民族からなる州都であったに過ぎません。ユダ及びイスラエルのたいていの人々は、アッシリアだけを彼らにとっての唯一の危険な存在とみなしていて、決してバビロンではなかったという状況下であったのです。

しかしバビロンはアッシリアに対し臣下の関係下にあったとはいえ、公に反乱の軍事行動を起こしたり、ニネベに対し敵対する者たちとの政治的同盟の画策を計ったりと落ち着かない隷従国でありました。

そのような政治同盟の意図を持った代表の一人がヒゼキヤ王を訪ねている物語が、イザヤ三九章や列王記下二〇章一二~一九節、並びに歴代誌下三二章三一節に見られます(この出来事については次章でより詳細に論じます)。エルサレムに密使を送ったメロダク・バルアダンは少なくとも二回、バビロンよりアッシリアの総督を追い出しております。しかし、古代近東の政治の流れを完全に把握しておられる神は、アッシリアは遂には自滅していくことを知っておられましたし、バビロンそして次いでメディアが指導権を握っていくことを見通しておられました。メド・ペルシア帝国のキュロス王の事例に見るように、主なる神は展開していく歴史上の諸事象を導き行かれるのです。

イザヤの時代のバビロンは、主にメロダク・バルアダンの国家主義的企みにユダの南王国を巻き添えにする危険があったという点でユダに脅威を与えているだけでした。しかし後になるとエルサレムの最大の外敵危険分子となるのです。

預言者イザヤによるバビロンに対する託宣は次の七つに分類されます。すなわち①主の軍勢の招集(一三ノ一~五)、②主の日が差し迫っているという宣言(六~一八節)、③バビロンの滅亡(一九~二二節)、④イスラエルの回復(一四ノ一、二)、⑤バビロンの王への嘲りの歌(三~二一節)、⑥バビロンの破滅と荒廃に関する二度目の描写、そして⑦イザヤの時代、バビロンにとってはその大君主であったアッシリアの運命に関する預言(二四~三二節)です。

イザヤ一三章の託宣がバビロンについてのものとなってはいますが、その内実はむしろこの上なく普遍的です。その一節でバビロンの名を見る他は本章では一九節での言及だけです。「主の日」は地上の創造物の破壊として描かれています。ここでの託宣は創世記一章から比喩的描写を取り上げ、しかし、創造の順序とは逆のすなわち破壊の描写としております。太陽、月、星々は光を放つことを止めるのです(一三ノ一〇)。

もろもろの天体が光を放たなくなることへの言及は、いろいろな側面を持った隠喩の可能性があります。バビロンの人々は、天体を神々として礼拝していたことに加え、これら天体の動きは地上の出来事の前兆と信じておりました。そして天文学は当時のメソポタミア地方の流行でした。もしも、これら天体の物体に何らかの変化が起こったなら、メソポタミアの人々の世界観を切り崩してしまうことにもなったのです。

天体が用を果たさなくなるだけではなく、創造の究極であった人間の生きる意味ということもほとんど消滅するようになるのです(一二節)。天も地も共に大騒動となり、身もだえします。この象徴は、旧約聖書の記者たちにより意味が拡大され続け(ハガイ二ノ六)、また新約聖書はこれを終わりの日としております(ルカ二一ノ二六、黙示録六ノ一二~一七)。

神はバビロンに敵対してメディアの国を奮い立つようになさるでしょう(一三ノ一七)。その結果、その都はソドムやゴモラのように消え失せるようになるのです(一九節)。そして都は荒れ果てて野生の動物たちだけが生息するような状況になってしまうというのです(二〇~二二節)。バビロンは原野のようになり、荒地となっていくのです。1エジプト人たちや他の近東地域の人々は、荒地や人の住んでいない土地を混沌の地と同様にみなしております。2神はバビロンを破壊し、初めの混沌の状態、すなわち創世記一章で見る神が創造を始められるより前の世界とほとんど同様の状態にしてしまおうとしておられたのです。

バビロン王の失墜

イザヤ一四章は、イスラエルを約束の地に回復させる神の御約束と共に始まっております。しかし、イスラエルだけが戻ってくるのではありません。イスラエルの神に引き付けられた他の人々も、自分たち自身をヤコブの家に結び付けられることとなるのです。この人々はイスラエルの神の民と固定されること、あるいはその一部分となることを願うのです。イスラエルは今や、かつて自分たちを捕囚としていた人々を支配するようになるのです。他の民族からやって来る多くの人々は今やイスラエルのしもべとなるのです(一四ノ二)。イスラエルとユダの神は、今やあらゆる国民の神となられるのです。このことがイザヤ書の残りの諸章を通し段々と成長し強まっていく一つのテーマなのです。

旧約聖書では、イスラエルを捕囚し流刑に処したことの象徴は、都市であり帝国であるバビロンですが、そのバビロンに対し、今や預言者イザヤは、特別なメッセージを持っております。預言者は宣言します。やがていつの日か贖われた神の民が、かつては彼らを征服し、奴隷とした帝国の王を嘲笑することができるような時が訪れますと。「そのときあなたはバビロンの王に対して、この嘲りの歌をうたう」(四節)。それからイザヤは絶対君主であったバビロン王の運命を描写していくのです。預言者は王をして陰府(死者の行くところ)に垂直に落ちて行き、蛆や虫が寝床を共にするようになると描きます。その凋落は余りにも徹底的で劇的であるので、世界中の人々にとってはただ、驚き以外の何ものでもないのです(一六~二〇節)。

預言者は更に宣言します、

「ああ、お前は天から落ちた

明けの明星、曙の子よ。

お前は地に投げ落とされた

もろもろの国を倒した者よ。

かつて、お前は心に思った。

『わたしは天に上り

王座を神の星よりも高く据え

神々の集う北の果ての山に座し

雲の頂に登って

いと高き者のようになろう』と。

しかし、お前は陰府に落とされた

墓穴の底に」(一四ノ一二~一五)。

イザヤは一体誰のことを言っているのでしょうか? 人間の支配者の誰かでしょうか? それとも超自然的存在者、あるいは両者でしょうか?

註解者や神学者たちは、伝統的には、この一二~一五節をサタンに当てはめて解釈してきました。しかし現代の学者たちは、傾向として、ここで描かれているバビロンの王とは厳密な意味で人間の誰かを指しているとみるようになってきております。

しかしイザヤ一四章は、本書の他の部分でも見られるのと同様に、この世界の出来事や人物を用い、それを超えた彼方の超自然的側面を指し示そうとしております。人の世の争いはおぼろげにではありますが、全宇宙で繰り広げられている遥かに広大な大争闘の反映であります。そうです、預言者は確かに人の世の支配者を語ることで始めておりますが、しかし、イザヤはそれ以上のことを心に留めていることがわかります。一二~一五節の部分の中心には明瞭に神の民たちへの、単なる人間の敵を遥かに超えて空中高く舞い上がろうとした存在が扱われております。その「明けの明星」は当然自分のものではない地位を得ようと求めております。そしてこの地位は地上での支配権を超えたものであります。彼は神御自身のことである「いと高き者」のレベルにまで登り行こうと願います。このようにして彼は神々の集う北の果ての山に座すことができるとしています(一三、一四節)。

今まで見てきましたように、(そしてこれからも本書の全体を通し見ていきたいと思いますが)イザヤは自分の民たちにもまた異邦の人たちにも両者に理解し得るいろいろな手法を使って語ろうとしております。この部分では、異邦人たちにも思い浮かべ得る多くの象徴を用いています。それらの中のある象徴は超自然界用の用語からなっております。「北の果ての集会」とは、神の会議を表しておりました。カナン神話では神々の父なる「エル」のことを物語っております。彼は天界と下界の境界と考えられている北の山の上に座し、すべての神々の集いを取り仕切っております。「いと高き者とは」イスラエルの神であるヤハウェの呼称だけではありませんでした。これはウガリット語の中でもアラム語の世界でも、またカナンの神々について書いてあるフェニキアの諸文書の中でも、神の一つの呼称でした(従って、恐らく神の名であったのかもしれません)。3

「明けの明星」4は神のようになりたいと願っております。しかしその傲慢の最中で自滅します。いと高き所に上り行くどころか、真っ逆さまに陰府なる墓穴の底に落とされていきます。その没落は余りにも劇的であり、それはあたかも葬られずに放棄された死体のようであり、穴に放り込まれ、投げ捨てられたごみのようであり、腐肉をあさる鳥や動物になすがままにされたもののようです(一五~一九節)。5聖書の世界では礼を尽くして葬られないで放置されるということは、最大の屈辱の一つとみなされておりました。「古代世界の人々にとっては、葬られずにいるということ以上に恐ろしい運命はなかった。したがって、家人や友人に埋葬の機会を与えること以上に聖なる義務はなかった」。6その王の運命は、権力を握るという彼の夢とは対照的で余りにも衝撃的です。王の墓に葬られるどころか、彼は犬どもや他の腐肉と共に朽ち果てるのです。

ある学者はこの説をカナンに伝わる寓話に端を発しているものとして見てみようと試みております。その話によると「明けの明星」と名づけられている低位の神がいて、彼は北の果てにあるバアル神の椅子に座ろうとしましたが、彼の足が余りに短かすぎて、その足が玉座の足台に達しなかったというのです。もう一つ提案されている解釈の可能性は、アシュタルと名づけられている神についてのウガリットの神話との相関性です。その神はバアル神が留守であった時、その支配権を握ろうとします。しかし、何らかの理由で反逆の精神から外れてしまって、彼はそれを実行しなかったのです。その代わり、結果的にはアシュタルは地上あるいは下界の支配権を得ることになったという物語ですが、アシュタルとは「輝いている者とか、夜明けの子」という意味です。7

またある学者たちはイザヤ一四章とアンズーの神話と呼ばれている古文書との相関性を見ようとしております。その物語の中では、獅子と鳥との合いの子なる生物が他の神々にその権力をふるえるようになりたいと考えます。それは神々の主であるエンリルから、カナンの神がこの世界を治めるために用いたという「運命の石版」を盗み出すことによって果たそうとするのです。アンズーは一連の「わたしは~を行う」の言葉を語っています。それは、バビロン王の言葉を反響しているようです。「私自身は神々の『運命の石版』を持つことになろう」と、アンズーは宣言します。「私は私自身のため、神々の持っている責任をつかみ取ることにする。私は玉座に座し、もろもろの法令を行使することになろう。私はイギギの神々すべての指揮を執ることになるのだ」。8

しかしながら、可能とされるこれら平行文書と考えられるいずれも、イザヤ一四章の詳細を反映するものではありません。古代近東の文書中にはイザヤ書のバビロン王に厳密に相当する者は見当たらないのですが、9一方この聖書記者はイスラエル人ではない人々ばかりではなく、イスラエルの民にとっても馴染みのある象徴を用いようと努めていたように思われます。イザヤは宇宙における反逆という概念をもってバビロンの王を鑑定しようとしているように思われます。10バビロンの支配の行為、それは神の御力を凌駕しようと試みた初めの存在者のより大きな悪を写し出しているのです。

ジョージ・A・ボイドは、イザヤ書は人間の王とその背後にある超自然的存在の両方を描いているとの見解を持っています。「もろもろの地上の争いは、もろもろの天的争いに相当する」と彼は考えるのです。バビロンの王とは「宇宙的規模で不当に王位を据えようとした別の圧制的征服を試みた存在に関する広大なドラマに関与しているものであり、またその写し的存在なのである」。11

更にボイドは次のように言っております。「預言者イザヤがここの部分で暗示している神話的主題である宇宙規模の諸側面を考えるとき、後世の教会がヘレル・ベン・シャハール(「明けの明星、曙の子」、訳者注)はサタンを指すと考えた伝統的解釈は極めて正当であるように思われる。イザヤ書固有の形式を踏みながら、バビロンの反逆的王の物語を語るとき、それは全宇宙の反逆的王の葛藤の物語を例示しているのである」12

神を超えようと願うほどの傲慢さを表明した人物を、いろいろなレベルの象徴として用いようとした聖書中の預言者はイザヤだけではありません。人間の王を描いてそれを超越した、より大きい者を示そうとしたイザヤの手法は、預言者エゼキエルにも見られます。13

エゼキエル二八章で、彼はバビロン以外のイスラエルの敵であった者たちを糾弾しております。例えば、ティルスの王ですが、この国は今日のレバノン領内に位置しており、地中海沿岸にあった強力な商業王国でした。このくだりでも、神のような権威を奪い取ろうとしている存在が登場しております。イザヤ一四章の暴君のように、この存在も劇的な運命に遭遇することになるとされています。

しかし、エゼキエルは彼の象徴を更に超自然の世界へと推し進めています。宇宙的側面の方が、よりドラマ的です。エゼキエル二八章で彼は、「知恵に満ち、美の極み」(一二節)であった何者かを描写しております。この存在はかつて、「神の園であるエデン」に住んでいたとあります(一三節)。元来は「無垢」な者として創造されましたが、「不正」によって毒されるまでは園は美しく存続していたというのです(一五節)。「お前の中に不法が満ち」、そして「罪を犯すようになった」ので、その存在を「神の山から」汚れた者として神は追い出さざるを得なかったというのです(一六節)。すでに指摘しましたように、古代近東の考えによれば、神の山とは神が住まわれる所、神の会議が開かれる所なので、聖書の天という概念に非常に近いものなのです。このようにして、エゼキエルはここで、神をしてその存在を天界から追い出さねばならなかったお方として描いています。なぜなら「お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた」からだというのです(一七節)。

イザヤも、またその仲間の預言者エゼキエルも、共に彼らが物語っているよりも、もっと究極的反逆と暴虐の根源についてヒントとなる多くのものを提供しております。しかし、確かに神学的には詳細に事柄を提示してはおりませんが、彼らの提供している日常を超えた王に関する暗示は、この世で私たちが認識しているよりもっと別な次元の多くの事柄が動き進んでいることを思い起こさせてくれます。つまり人間世界を悩ましてきた争いの背後には、人間より遥かに大いなる超自然的世界の大争闘があって、争いはその影に過ぎないことを思わせられるのです。

さて、イザヤを通しての託宣は再び人間界のレベルに戻ります。アッシリア14に対する託宣の中で、預言者は一つのテーマを掲げます。後でより深くこのテーマを探ってみることにしますが、それは、神がそれを起こさせるので、預言は成就するようになるということなのです。アッシリアの運命に言及した後で、神は預言者を通して語られます。

「これこそ、全世界に対して定められた計画

すべての国に伸ばされた御手の業である。

万軍の主が定められれば

誰がそれをとどめえよう。

その御手が伸ばされれば

誰が戻しえよう」(一四ノ二六、二七)。

聖書はここで、歴史の中への神の介入と、この見える世界の創造に対し同じ象徴を用いております。神はこの両方を成し遂げるため、「御手を伸ばす」のです。神の預言の成就という歴史の導きは、この宇宙を運行し、その中に生命を存在するようにさせる創造の御業と同様なのです。神は世界と歴史の創造者なのです。

諸国民への託宣

バビロン及びアッシリアだけが、預言のメッセージの対象となっている国ではありません。イザヤ書は今や、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、エチオピア、エジプト、そしてその他の国々への託宣を提示いたします。これらの国々の多くは、いろいろな形で神の民を傷つけた歴史を持っています。ですから、ある託宣にはイスラエルとユダへの彼らのあしらい方に対して刑罰を受ける警告があります。しかし、他には驚くべき御約束も見られます。イザヤ一九章には、エジプトに神がもたらそうとしている災害について語られた後(一九ノ一~一七)、神はエジプト人たちを御自分の民とすると宣言しております(一八~二二節)。しかしもっと驚くべきことは、エジプト人たちがイスラエルの神を礼拝するようになるというばかりではなく、アッシリア人たちも同様にそうなり、一つの国民が共に主を礼拝するため他の国民のところに行き来するようになるというのです(二三節)。彼らはイスラエルとも合流いたします。それで神は祝福して言われます。「祝福されよ わが民エジプト わが手の業なるアッシリア わが嗣業なるイスラエル」と(二五節)。15イザヤ一四章一、二節では、すべての国民がイスラエルの神を礼拝するという概念を示しています。この考えがイザヤ書のその後の章全体を通し、ますます浮き彫りになって行きます。神は御自身のすべての民のため、栄えある未来をすでに用意してくださっておられるのです。そして神の御目的はすべての民族が御自分の民となることです。

イザヤ一三~二三章では、イスラエル及びユダを苦しめてきた幾つかの民族に焦点を合わせて神の顧慮を描写しております。しかし今や地球上全体に主の焦点が広げられます。二四~二七章では、神の民のために、神御自身が勝利なされることが描かれております。この部分は、「終わりの時」に関しての一連の詩や歌です。

まず二四章では、神がどのようにして、この堕落し切った地球をひっくり返して行かれるのかが描かれております。主が課せられる完全なる荒廃は、土地、自然界、社会のすべてに及びます。それはどんな社会層であるか地位であるかに関わらないのです(二四ノ二、三)。荒廃の真の原因はすべての民が、「律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を棄てたから」なのです(五節)。異教の人々は神の民と呼ばれている人々程には十分な知識を持っていないかもしれませんが、しかし万人は正しいか間違いかの何らかの感覚を持っております。そしてすべての民がその良心の叫びを無視し、あるいはそれに反して歩んだのです(ローマ一ノ一八~三二を参照)。それ故、彼らはその行為に値する罪の刑罰という当然の報いを負わねばならないのです(六節)。

聖書の中ではしばしば喜悦や社交の楽しみのシンボルとなっていたぶどうのつるが枯れ、そして死んでいきます(七~一一節)。陰鬱と失意とが至る所に忍び寄っており、町々は破壊されたままで荒廃だけが残ります(一~一二節)。人々は恐れで逃げ惑い、しかしますます悪い状況に追いやられることとなります(一七、一八節)。再び神は、創造以前に戻すような業をなさっておられるのを私たちは見ます。イザヤは天地創造の物語と洪水の物語の両方からの反響を用いております(ノアの洪水は創造の御業とは反対の業です。創世記一章にある創造の順序と洪水物語の最初の前半分とを比較しますと解ります。洪水物語の後半部分で神はこの世界を再創造しておられることが描かれています)。16天の水門は開かれ、地は震え、粉々に打ち砕かれます(一八~二〇節)。そして光は消え去り、闇が再び戻ります(二三節)。

二一節と二二節とは地上を超えた世界を指しているように思われます。「この部分の黙示的特性は、地上の諸王たちというより、神の権威に対抗しようとした他の存在たち(天使たち)の監禁を預言者は描写しようとしていたように思われる。確かに旧約聖書中では多くの場合、諸王は処刑されるか(士師記八ノ二一、サムエル記上一五ノ三三を参照)、あるいは条件をのんで和を講じるかのどちらかであった(サムエル記下一〇ノ一九)。ペルシャ王国の記録であるキュロス王の円柱も示しているように、マリで発見されたメソポタミア文書によれば、『監禁17する』とは神聖のイメージがあると描写している」。17黙示録一九章二〇節から二〇章一五節までと、エノク書(偽典の一つ)一八章一六節とは、このような意味を一層拡充してくれるでしょう。

イザヤの預言を聞くか読むかしていた異邦人たちは、この部分も理解し得たでしょう。彼は古代近東ではごく一般的であった文学上の手法、すなわち荒廃させられる都市への哀悼といった形を用いております。ここではイザヤは地球上全体に対しこの手法を用いています。「都市への哀悼に見られる荒廃に関する連祷様式の嘆願は、古代近東における滅ぼされてしまった都への悲しみの表現に見るだけではなく、『スメリア人のウルの滅亡への嘆き悲しみ』にも見られる文体とも平行している。比較してみると、完膚なきまでの滅亡の描写、どの階級の者も生き残されてはいないこと、そしてかつては人々を養い得たどんな食糧をも、もはや産出できなくなった自然界の描写を内包している。スメリア人の悲嘆は、とんでもない大暴風、日照り、飢饉、そして葬られないで路上に放棄され重ねられている死体について物語っている。紀元前二千年頃のエジプトの『ネフェルテの幻』も、丸裸になって横たわっている大地や太陽が失せ去ることによる呪い、命を支えてきた水路の干上がりを描いている。(紀元前七百年頃のもので、デエル・アルラで発見された)バラムの預言は、怒りのため天を閉ざし、すべての被造物を腐肉をあさる生き物とし、王子たちにさえボロの服を着せ、祭司たちには汗臭いものをまとったままにさせる神々を描いている」18(祭司たちが「汗臭い」とは恐らくはもはや洗いの儀式ができなくなったので宗儀上汚れた者となったことを指すのであろう)。

古代世界では、社会にせよ自然界であるにせよ破壊や崩壊は良くあることでありました。同様の映像が今日のメディアを満たしております。現代の世俗社会でさえ、そのような苦難は人類が互いに対して、あるいは自然界に対して為してきたことの結果であると認識しております。

しかしながらイザヤ二四章の中で陰鬱な描写の中に混じり合わされている事柄はもっと他のイメージです。一四~一六節で私たちは神の為しておられる事柄に対し神への讃美を垣間見ます。二五章ではこのテーマを更に展開しております。それは三部から成っている讃美の詩です。すなわち第一部は、預言者自身による讃美の歌(一~五節)、第二部は、主が死を根絶されたが故、与えられた祝福の祭り(六~八節)、そして第三部は、神の民による讃美の歌(九~一二節)です。古代の人々が、全てをのみ込んでしまうものとしてイメージした実在のもの、すなわち、死を神がのみ干されたが故、彼らはほめたたえているのです。旧約聖書もまた死を擬人化しております(ホセア一三ノ一四、一コリント一五ノ五四~五五も参照)。死、これをパレスチナに住んでいた異教の人たちはモト神であるとして考えていましたが、これが永遠にいなくなったのです。人々は宣言いたします。「この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(九節)。

二六章は三部の詩から成っていて、神の勝利が完全となるその時を待ち望んで歌っています。第一部は、神の都であるエルサレムを激賞する巡礼者たちの歌(一~六節)、第二部は、神への信頼を表明している歌(七~一九節)、そして第三部は、神が悪を処罰される約束です(二六ノ二〇~二七ノ一)。

八章一九~二二節で神は預言者イザヤに、敵から国民を救う方法として、死人に問おうとするいかなる試みも危険であることを告げておられました。今や二六章一四節で、預言者イザヤは死人という話題に戻ります。そして言います。「死者が再び生きることはなく 死霊が再び立ち上がることはありません。それゆえ、あなたは逆らう者を罰し、滅ぼし 彼らの記憶をすべて無に帰されました」。死者はその国民を救うことができませんでした。しかし神には可能なのです(一五節)。

あなたの死者が命を得る

神の民の死の記憶は忘れ去られません。主は覚えていてくださるのです。そして義人の死は異教が考えた死人のささやきよりも遥かに優れたことを成すのです。イザヤは宣言します。

「あなたの死者が命を得

わたしのしかばねが立ち上がりますように。

塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。

あなたの送られる露は 光の露。

あなたは死霊の地にそれを降らせられます」

(一九節)。

ある人々はこの聖句は、エゼキエル三七章四~一四節に示されているのと同様、一民族として神の民がいつの日か再生させられるという保障を示したもの以上の何ものでもないと考えています。この様な立場の学者たちは、ダニエル一二章二節だけを旧約聖書における、身体の復活に関する唯一明瞭な言及であるとみなします。しかしながら、モティヤーが指摘しておりますように、「(単に)民族の復活のようにしてその社会が継続するということになるのなら、そもそもここの死が描写しているような問題に当面することはない。その社会はいまだ、新生に至ってはいない。今生の社会の継続は、この問題の解決には何もなし得ないのである。第二に、この聖句を同じ章(イザヤ二六章)の五節と六節にある平行節と照らし合わせて見ると、一九節の『塵の中に住まう者』とは、『そびえ立つ町』(五節、口語訳)の住民たちである。一方、主の民はすでに、救いの堅固な都に入っている(一節)。ですから、一九節の『立ち上が』らせられねばならない者たちとは、神の民以外の者たちである。こう考えると『あなたの死者』とは恐らくは『あなたが心にかけておられる死者』を意味しているように思われる。つまり神が、『わたしが心にかけている死者』すなわち『わたしのしかばね』(口語訳では『かれらのなきがら』となっていますが、原語のそのままの訳では共同訳のように『わたしのしかばね』である、訳者注)たちとして、この死者たちに対する主の当然の権利によってこれがなしとげられるということになるのである。そうであるなら、この聖句はこの世に対する生命の約束である。すなわちこの聖句は二五章六~一〇節前半までの聖句にある展望の別な表現である。しかし更に二五章七、八節では死そのものが永久に滅ぼされる未来が描かれているので、もしこの二六章一九節を、述べたような文の前後関係より見るなら(そうすべきであるが)、『あなたの死者が命を得』とは、いかなる象徴的重要性をも超え、厳密な意味で、死者の肉体的復活に言及していることとなる」。19キドナーはここの一九節を「旧約聖書中における身体的復活に関する二つの明瞭な約束の一つである」20としています。

二六章一九節では「露」という象徴が用いられております。パレスチナでは露は水分の重要な源です。特に乾期にはそうです。夜の間、空気中から凝集されて生じるそのような露は、しおれている植物を生き返らせます。しかし、この象徴はそれ以上のことを指していたと考えられます。この節では露を「あなたの送られる露」、すなわち神の露としております。エジプト版聖書では、この露を「ホラスとソスの涙」として描写しております。彼らの「涙」は復活の力を秘めていたと考えられておりました。主なる神の涙は確かに死者を生命に呼び戻すこととなるでしょう。

イザヤ五章においては、主は「実らないぶどう畑の歌」を歌われました。しかし今や、二七章では再び、ぶどう畑の象徴に戻られます。

二七章一節は、二六章の主題と二七章のそれとの転換点です。二六章二一節は、どのように主は、地上の住民たちを、その悪をなして来たことの故、罰せられるのであるかを告げております。その刑罰は、それらの悪の扇動者たちにも及びます。ここで預言者は、混沌の原因となる存在の象徴として、古代近東で一般に用いられていた象徴を使っています。カナン神話では、レビヤタンは主要な神々と戦い、その被造物を滅ぼそうとしている怪物です。21

預言者はここでも、異教の人々でも理解し得る象徴を用いております。「ウガリットやカナン神話では、混沌をもたらす怪物の詳細が記されていて、それは多くの頭を持ち、うねり回れる海蛇のような形をした生き物で、海あるいは水中の無秩序状態を生み出すものを代表している。イザヤ書の『曲がりくねる蛇』としてのレビヤタンに関する描写とウガリットのバアル神叙事詩の中でのそれとは非常に良く似ていて、後者では嵐の神が『曲がりくねる蛇であるリタンをどのようにして打ち負かすか』について語っている。両者において、神は混沌をもたらすこの怪獣を消し去る、秩序と豊穣をもたらす神としてその姿が描かれている。

旧約聖書では他の何箇所かで、レビヤタンについて、言及されているが、大抵は詩編七四編一四節やヨブ記四〇章二五節~四一章二六節で見られるように、(海蛇として擬人化されている)水の混沌に秩序を確立される神の創造の御業の中で取り上げられている。しかしながらイザヤ二七章一節では、秩序と混沌との間の戦いは、終わりの時に起こっている。黙示録一二章三~九節に七つの頭を持つ竜として描かれているサタンの陥落も、実は、『七つの頭を持つ暴君』リタンと呼ばれているウガリットの世界での象徴的存在の反映であるかもしれない」22

神も預言者も、たとえそれが異教のものであっても、当時一般的になっている共通の象徴を用い得るのですが、しかしその場合は常に究極の真理を示し得るように修正を加えております。主は御自身の目的のため、新しい意味づけを与えながら、異教世界の象徴をも用いられます。聖書でのレビヤタンはもはや異教のいう神ではありません。あるいはまた実際の生き物でもありません。それは単なる象徴ですので象徴以上の意味を読み込むべきではありません。しかしその象徴を通し、神は混沌さえも完全にコントロールなさるのであることを私たちに確証づけるのです。

「その日」(二七ノ一)に、主は、罪の原因となったものを罰し葬り去るのです。再度イザヤ書は地上の争いを超えた、究極的な宇宙の大争闘へと目を向けさせます。そして、「その日」、神は、贖われたイスラエルのため、ぶどう畑を回復されることとなるのです。本章のこれ以降では、神がどのようにして、御自身の霊的ぶどう畑を再構築なさるかを述べ(二~六節)、イスラエルの敵に対しての御自身の破壊の御業と民に対する訓練とを比較対照して見せ(七~一一節)、更に捕囚となっていたすべてのイスラエル人たちをエルサレムに連れ戻すという約束を示されるのです(一二、一三節)。ここのくだりで神は「穂を打つ」という脱穀の象徴を用いておられますが、それは、新約聖書では特に黙示録の中で再臨における収穫という描写の中で拡大されていくことになる象徴です。

参考文献

1.        セリューシド王朝のセリューカス・ニカトールは紀元前4世紀、バビロンを放棄し、そこから60余キロほど離れた場所に、新しい首都セリューシアを設立した。紀元2世紀頃までにはバビロンは完全に無人の地となっていた。

2.        エジプト人たちは、荒野の神はセトであると考えていた。この神は神々の支配権をめぐってその兄弟ホラスと戦った。

3.        J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, The IVP Bible Background Commentary: Old Testament, p.604.

4.        古来の伝統的解釈では、ここで使われているへブライ語(ヘレル)を明けの明星であるヴィーナスと結び合わせてきた。ラテン語の聖書ウルガタ訳ではこの語を「ルキフェロス」すなわち「輝いている者」と訳出、英語のルシファーの語源となった(同p.603)。

5.        John D.W.Watts, Isaiah 1-33, p.211.

6.        Otto Kaiser, Isaiah 13-39, (Philadelphia: Westminster Press, 1974), p.41.

7.        Gregory A.Boyd, God at War: The Bible & Spiritual Conflict (Downers Grove, Ill.: InterVarsity Press, 1997), p.159.

8.        Walton, Matthew, and Chavalas, pp.603, 604.

9.        Margaret Barker,”Isaiah,” Eerdmans Commentary on the Bible, eds.James D.G.Dunn and John W.Rogerson (Grand Rapids: William B.Eerdmans Pub.Co., 2003), p.511.

10.      Neil Forsyth, The Old Enemy: Satan and the Combat Myth (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1987), p.138.

11.      Boyd, p.160.

12.      同。ボイドはバビロンの人間の王をセナケリブとしている。セナケリブはバビロンの前王がアッシリアのくびきから逃れようと反逆した時、バビロン市を滅ぼした。このようにしてセナケリブはある意味でバビロンの非合法的王となったのである。しかし、バビロンの王は人間性と超自然性の両者の側面を有するとするボイドの見解とこの特別な同定とはうまく当てはまらない。彼の指摘している詳細においては、読者も納得いかないかも知れないが、しかし彼の著書は、聖書全体にわたる善悪の、すなわちキリストとサタンとの間の争闘に関し、大変優れた概観を与えてくれている。

13.      マーガレット・バルカーはエゼキエル書にある物語を近接の平行記事と見ていて、イザヤ書14章は「その罪と高慢の故、ある存在が神の御前から投げ落とされた」とするへブライの物語の反映であるとしている(“Isaiah,” p.511)。

14.      イザヤ書14章24節の「計る」は、アッシリアの「策」と訳されている語と同じへブライ語。人間機関はいろいろと策するが、神は計り、これを実行する。神はあらゆる悪しきはかりごとの糸をほぐし、それらの糸をもって、御自身の御計画に従ったつづれ織につむぎあげる。

15.      ジョン・ポーリンはエジプトとアッシリアとはアブラハムのあらゆる国民への使命の恩恵に与っていることになろうと指摘している (What the Bible Says About the End-time (Hagerstown, Md.: Review andHerald Pub.Assy., 1994), p.59)。

16.      以下を参照。Gerald Wheeler, Saints and Sinners: An Insider’s Guide to Bible People and Their Times(Hagerstown, Md.: Review and Herald Pub.Assy., 2000), p.31 と Jon Paulien, Meet God Again for the First Time, pp.25, 26.

17.      Walton, Matthew, and Chavalas, p.617.

18.      同

19.      J.A.Motyer, Isaiah: An Introduction and Commentary, p.178.

20.      D.Kidner,”Isaiah,” p.647.

21.      キドナーは、「『滑る』とか、『曲がりくねる』(あるいは『つるつるしている』、『のたうつ』)といった特殊な修飾語は、古代カナンのバアル神叙事詩に出てくるレビヤタン(ロタン)について用いられていた用語そのものである。そしてバアル神はその海の怪獣を撃ち滅ぼしたとある。しかし、このカナン神叙事詩の材料を用いながらも、伝達すべき真理のため、その異教の構成を覆し、新たな構成に作り変えている。この聖句と51章9、10節は共に、その前後関係からして審判の内容である。(異教の構成のような)願っている秩序ある世界を作り上げる前に、創造の神はまず無秩序の神々の反対を封じ込めるといった争いの内容ではなくなっているのである」(p.649)。

22.      Walton, Matthew, and Chavalas, p.619.

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