マルコ【イエス・キリストの福音】#4

目次

第10章 目を覚ましていなさい!(マルコによる福音書13章1節~37節)

マルコによる福音書13章に至って、ついに主イエスの最後の御教えのところに来ました。十字架上での御言葉がありますので、ここでの御言葉が地上における最後の言葉というわけではありませんが、御教えの結論部分といえましょう。そして、人の最後の言葉というものは概して注目に値するものです。

誰かが死に直面しているときは、親戚や近しい友人とかが病床の枕辺に集まります。彼らは死につつある人の一つひとつの言葉に注意深く耳を傾け、それから後、何日も、何年も、そして何度でも取り出し得るように、それらの言葉を記憶の箱の中に集め入れるのです。夜を徹して看病のため付き添って枕辺にいなければならないような危急の場合には、ただその人に密接に関係のある人、その人に属している人、血縁あるいは愛情でつながっている人だけが歓迎されます。それはごく個人的な集まりです。そして最後のとっておきの宝が密かに用いられたりもします。

旧約聖書には全体として、強調して語られたいわゆる最後の言葉を至るところで見いだします。ヤコブが死の床にあったとき、彼は息子たちを枕辺に呼び、それから一人ひとりに預言的祝福を宣言いたします(創世記49の1~28)。日ならずしてネボ山で死ななければならないことを神からのお告げで知った後、モーセは、部族を祝福しております(申命記32の48~33の29)。ヨシュアも、老年になり死期を感じたとき、イスラエルの指導者たちを召喚し、最後のメッセージを語っております(ヨシュア23の1~24の30)。そして、後継者ソロモンに対するダビデ王の最後の言葉と訓戒をも聖書は記録しております(サムエル記下23の1~7・列王記上2の1~11)。

四福音書すべてが、主の十字架直前には、主イエスは、その最も親しい者たち、すなわち主の友である弟子たちと共に過ごされる時を持たれたことを記録しております。御働きのすべてにおいて、主イエスの御言葉は、聴く耳を持つすべての者たちに与えられました。受難週の最初の数日は、神殿での、ファリサイ人たちや、サドカイ人、律法学者たち、ヘロデ派の者たちとのやり取りでも見られますように、はっきりと公衆を対象にした働きをなされました。しかし今や、十字架の影が忍び寄ってきていて、主イエスは十二弟子に密かな訓戒を与えられたのです。

その時の主イエスの御言葉は、一般の人々に聞いてもらうようには意図しておられませんでした。ひとえに主イエスに属している人たち、主を愛し、また主がこよなく愛された人々だけが、この話を聞く資格があったと言えるのです。自分たちだけの責任で歩まねばならない時が来るより数日前に、あらかじめ主イエスは彼らに話しておきたかったのです。主は、弟子たちが当面する新たな局面、そしてその危機的未来の事態に、彼らが心の備えをするようにと意図されたのです。

あなたは主イエスの友ですか? そうであれば、主イエスの最後の御言葉はあなたのためでもあります。あなたは主の囲いの内に属しているのです!

マタイもマルコもルカも、そしてヨハネも皆、弟子たちに対する主イエスの最後の個人的御教えを記述しているのですが、ヨハネの記録だけは、他と著しく内容を異にしております。しかし、マタイ24章とマルコ13章とルカ21章は同じ内容を扱っております。マルコは、主が神殿を見下ろせるオリーブ山に座し、ペトロとヤコブとヨハネとアンデレとに、主が去られた後で彼らが遭遇するであろう事柄を語っておられたことを伝えております。

本章に記録されている主の御言葉は、受難週の火曜日(あるいは水曜日)の夕方、その日の終わり頃、神殿を出て行かれるときに主と弟子たちとの間で交わされたやりとりから生じたものです。弟子たちの内の一人が、巨大な神殿の石(横7メートル、縦2メートル以上の石を積み重ねた土台や建造物)と、その壮麗な建物とに目を向けて、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13の1)と言いました。

しかしそれに対し、主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)と言われました。

弟子たちの驚きを想像してみてください。そのような悲劇的な出来事は確かにあらゆるものの終わりを意味するに違いないということで、少し後になって、彼らが主と共にオリーブ山に座し、沈み行く太陽の光を反射し、輝いている神殿の金色の屋根や真っ白な大理石を眺めながら、主イエスに尋ねるのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)と。

それに対し、主イエスは未来の幕を上げて見せてくださり、神殿の崩壊についてだけではなく、主御自身が御再臨なさる終末時代についても預言されたのです。

しかし、ヨハネによる福音書では、こうしたことは、他の福音書がすでにすべて記しているということで、これらの記述はありません。その代わり、彼は主イエスと弟子たちの十字架前夜、それは木曜日の夜の捕縛直前の出来事に焦点を合わせて書いております。未来に関する長いお話(ヨハネ13~17章)の中で、主イエスは、弟子たちを慰め、聖霊である弁護者を通し、引き続き彼らと共に臨在される約束を与えておられます。マルコ13章ではこの世界に起こることを示されており、ヨハネ13章から17章では、主がこの地上を去られた後の、弟子たちの生き方について記述されております。

このように、共感福音書並びにヨハネによる福音書の中に見る主イエスの最後の御言葉は大切な御教えを内包しております。これらの御言葉は、主の別離に際しての、わたしたち主に属している者たち、あるいは主の友人たちに対する、いわば主の遺言です。

黙示――時は迫っている!

マタイ24章やルカ21章と同様、マルコ13章には黙示的資料を包含しております。この言葉はギリシャ語の「アポカリュプシス」から由来しており、それは黙示録1章1節に初めて登場しております。「イエス・キリストの黙示(強調は筆者による)。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えに」なられたという聖句です。

このように黙示の元来の意味は、ベールを取るとか、明らかにするということです。未来の秘密を打ち明けるということです。新約聖書「ヨハネの黙示録」はその書全体が、多くの人々によって「黙示録」と呼ばれてますが、未来に起ころうとしていることを扱っております。しかし、黙示を扱っている書は、聖書の中ではこの「黙示録」だけではなく、ダニエル書もそうです。そして、このダニエル書の黙示は前者の黙示録に反響を与えており、その中で更に詳細に説明されていくような未来預言を記述しております。ダニエル書には黙示の他、何章かの物語も含まれているのですが、ヨハネの黙示録の場合は、その書全体が黙示的資料で成り立っております。

ダニエル書とヨハネの黙示録とは黙示的文書の明快な例示でありますが、章に関して言えば聖書中の至るところに、黙示的部分が見いだせます。たとえば、旧約聖書では、イザヤ24章、ヨエル2章、ゼカリヤ14章など、そして新約聖書では、テサロニケ一 4章、テサロニケ二 2章などです。「黙示」は聖書の預言表示の一つの特別な形式で、とりわけ世界の終末の特徴を描きます。

マルコによる福音書13章につき、すでに見てきましたように、黙示は、私的で密かな話であり、不確かな未来に当面している神の民のために与えられた神よりの知識です。それは、未来に横たわっている事柄に洞察を与え、その場にも主が共におられることの保証を与え、万事が勝利となっていくことを示すのです。ですから一般の聴衆には知られたくはないのですが、しかし、神に近くある者たちには是非読み理解してもらいたいと神が意図されていたような「黙示」的な暗示や助言が、聖書の至るところに見られるのです。「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す」(ダニエル12の4)。「耳のある者は、『霊』が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙示録2の7、11、17、29、3の6、13、22)。「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい」(黙示録13の18)。

黙示文書では未来を示すのにしばしば、象徴を用いて暗号化します。ダニエルは巨大な像の幻を見ています(ダニエル2章)。ネブカドネツァル王は突然木が切り倒される夢を見ております(ダニエル4章)。宮殿の壁に血の気のない手が不思議な文字を書いております(ダニエル5章)。最初は夢(ダニエル7章)、次には幻で(ダニエル8章)、ダニエルは国々の興亡を象徴している一連の獣を見せられております。ヨハネの黙示録では、天上のことも、地上のことも共に、生き生きとした一連の光景で未来が示されており、悪の力は異様な、しかも強欲で飽くことを知らないような獣の象徴で、それに対し正義の力は、イエス・キリストの御旗の下にある軍勢として隊威を整えている姿の象徴が用いられております。そして、その書の中で、主を表現するのに最も一般的に用いられている呼称は「小羊」です。

黙示の文書は聖書にだけ見られるわけではありません。主イエスの時代のちょうど1世紀前の頃、ユダヤ人たちは、一連の黙示文書を生み出しており、たとえば「第二エスドラス」とか「ソロモンの詩編」のような文書があり、また新約時代でも黙示録の他に、霊感の書とは認められなかった「ヘルマスの羊飼い」のような黙示文書が書かれております。

過去2000年にも及ぶキリスト教の歴史の中で、教会は概して、聖書の黙示文書を無視してきました。ローマのコンスタンチヌス帝の改宗と共に、教会の目線は未来のことではなく、現世の神の国に移動しました。教会と国家とが合同し、その結果としてやがては千年王国がこの地に到来するようになると考えられるようになりました。しかし結局は、その夢は崩壊しました。それから、17~18世紀の啓蒙運動と共に、理性的判断力の進展の前に、宗教はいつのまにか隠れた存在となっていきます。取るに足りない存在から今日まで進歩発展してきた人間が、知識と教育、それらによっていよいよ引き続き成長を遂げていけば、社会の諸問題を解決していくことになろうというわけです。キリストの再臨やこの世界の終末といった神の介入はもはや必要ではない。黙示が必要なのは悲観主義者や無知な者たちのためであると。

人類進歩の必然性についてのこのような野放図な楽観主義が渦巻いている環境の中で、セブンスデー・アドベンチスト教会は誕生したのです。長く無視されていた聖書の中の黙示文書、とりわけダニエル書とヨハネの黙示録の研究の復活と共に、そして、世界のための時がほとんど終わりに近づいているとのメッセージとをもって、わたしたちはあたかも荒野で呼ばわる熱狂的な声のようにして、運命を告げる声を上げていたのです。しかも、わたしたちの確信を自分たちの教会名に刻み込んでセブンスデー・アドベンチスト教会とし、嘲笑う社会の中でその旗を振ったのです。

時勢はどのように移って来たでしょうか! 20世紀初頭に抱いたばら色の世紀であるとしての未来への期待、それは第1次世界大戦となって炎の中に砕け散ってしまいました。特にその戦争はクリスチャン国家と呼ばれていた国々の間で戦われたのです。世界全体を巻き込んで、悪夢の中に人類を落ち込ませた戦いでした。しかしそれは、暴力的で血塗られた世紀のほんの始まりに過ぎませんでした。その世紀においては、更に憎しみ、拷問、表現できないほどの残酷さ、暴力沙汰、そして恐れとを巻き込んでいくようになります。原子力兵器が人類の頭上にぶら下がった時、われわれは、人類滅亡の可能性を秘めて生きていることを実感するようになりました。そして今やこれらの危機に加え、わたしたちは世界的テロの渦の中で生存しているのであり、新たに化学兵器や生物化学の武器の脅威にさらされているのです。

わたしたちの用語も変化してきています。「黙示」という言葉は今や家庭でも使われるようになってきました。しかしそれは主イエスがその友だちに未来を示すため、そして未来に対する確証と保証とを与えようとして書かせられたヨハネの黙示録、あるいは他の記者たちの黙示ではありません。むしろ、流行している黙示とは終末が来ているということであり、戦争、小惑星の激突、他世界からの侵略などのことなのです。それは、主イエスなしの黙示です。希望のない黙示です。

このような時であればこそ、アドベンチストの持っているメッセージは、今日、かつてなかったほどの重要な意義を帯びて来ているのです。戦争挑発者でも、惑星でも、宇宙人の侵入者でもなく、実に、主イエスこそが、人類歴史の幕を引かれるのです。そして、わたしたちはこの主イエスの御手、それはわたしたちのために十字架上に釘づけされたその御手をわたしたちは捉えることができるのです。そしてこの主イエスは、決してわたしたちを振り払うようなことはなさらないのです。このことがマルコによる福音書13章のメッセージなのです。

マルコによる福音書13章を註解する

ダニエル書やヨハネの黙示録とは異なり、マルコには象徴や、獣や、預言的日時の計算などはありません。ただ一度だけ、主はダニエル書に言及しておられます。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(14節。ダニエル9の27・11の31・12の13を参照)。主のこの預言は、ローマ帝国によるイスラエル侵攻において成就したのです。その時には、ローマの将軍テトスがエルサレムを包囲し、紀元70年にその神殿を破壊したのです。

マルコ13章全体を通し、その強調点は、いろいろな種類の欺瞞や危険に対し、主イエスに従う者たちは、気をつけていなさいということです。

「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。

「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(6節)。

「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され」(9節)るであろう。

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』という者がいても、信じてはならない」(21節)。

「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」(22節)。

「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」(23節)。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(33節)。

「だから、目を覚ましていなさい」(35節)。

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37節)。

このように、マルコ13章のテーマは、繰り返し、「用心せよ」ということです。わたしたちが主の御再臨を待っているとき、目を覚まし、すぐさま行動できるように用意をしておき、必要に応じてすぐ持ち場に立てるようにしていなければなりません。主イエスの昇天から、御再臨までの期間、主に従う者たちには三種類の危険が指摘されております。すなわち第一は、偽メシアや偽キリストが現れること、彼らはしるしや不思議を行うこと、従って終末はすでに来ていると考えるように導かれる危険。第二は、迫害され、憎まれ、信仰をぐらつかせるような苦しみ、特に家族や友人たちが背を向け裏切る危険。そして第三は、思いがけないときに主が帰って来られることになってしまうほどに、御再臨への期待感が薄れていく危険。

その日、沈み行く太陽の中、オリーブ山上で、主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレと座しながら、世の終わりまでの全人類歴史をはるかに見やったのです。主が御自身の御再臨に至るまでの全期間を包含しようと、疑いもなく考えておられたことの証拠は、その御再臨の出来事へと言及された次の御言葉を見ればわかります。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(26、27節)。同じように、マルコ13章は、「終わり」のことと、その予期に関しての多くの言及が見られます(7、8、10、13、29、32、35節)。

しかし弟子たちの質問の背景には、神殿の破壊についての関心が大きくありました。主が言われた、神殿の一つの石も他の石の上に残ることはないとの御言葉は、彼らにとっては、まさに肝をつぶされるような思いであったに違いありません。ですから彼らはそのことについてもっと知りたいと思ったのです。「おっしゃってください」と彼らは主イエスに尋ねました。「そのことは、いつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)と。

このようにオリーブ山での未来についての主の予見は、二つの関心が関わっているのです。すなわち、エルサレム陥落の前兆と世の終わりの前兆とです。全歴史を短縮形で見せられた弟子たちにとっては、両者の出来事は隣接しております。神殿の終わりは、地球の人類歴史の終焉をまさに確証させる出来事であったに違いありません。マタイが記録している弟子たちの質問がこのことを明瞭に証言しております。すなわち、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(マタイ24の3)。

それゆえマルコ13章の注解においては、聖句の中に、二面からの見方を必要とします。ある節については、その焦点はエルサレム陥落に関係していて、従って紀元70年における神殿の崩壊のことを述べていることになりますが、しかしある節は、明瞭に御再臨に関係した出来事を表しているのです。いくつかの節はどちらに関わるのかが判然としないところもあります。可能性としては、そのような部分は1世紀と世の終わりとの両者に関わるのかもしれません。

完全に分析し尽くしたとは確言できませんが、以下に示すあらましは、かなり説得力があるように思われます。

未来の全体像(5~8節)
1         惑わし
2         戦争
3         戦争のうわさ
4         国家や民族間の争い(独立運動)
5         地震
6         飢饉

悩みのときの生き方
1         キリスト者の捕縛と鞭打ち
2         総督や王たちの前での証し
3         迫害下における福音の世界宣教
4         聖霊が語る言葉を教えられる

エルサレム滅亡切迫のしるし
1         「憎むべき破壊者」(ローマの軍隊)の神殿侵入
2         エルサレムからの緊急退去の必要
3         苦難が来る
4         偽キリストや偽預言者
5         しるしや不思議による惑わし

世の終わりのしるし(24~29節)
1         太陽が暗くなる
2         月は光を放たず
3         星は空から落ちる
4         天体が揺り動かされる
5         人の子が大いなる力と栄光とをもって来臨
6         いちじくの木からの教え

「目を覚ましていなさい!」ということ(30~37節)
1         この世代はこれを見る
2         キリストの御言葉は決して滅びない
3         父なる神以外その日その時はだれも知らない
4         旅に出た家の主人の話からの教訓
5         主にお目にかかる準備を日々整えて生きる

わたしたちは、あのオリーブ山の夕方から始まり、エルサレムの陥落、更に長期にわたる各時代を経て、ついにキリストの御再臨に至るまでの、一連の出来事やしるしとなるものをきちんと順序だてて、きれいに提示できればと願うかもしれません。しかし、主イエスは「未来の歴史」を教えておられたわけではありません。そうではなく、御自分の友人たちが、確信のもてない未来に当面するときの、その「霊的備え」を与えようと願われたのです。そして、御神は御自身の叡智により、どのようになさることが最善であるかを御存知です。主イエスの御再臨の日時を厳密にいつであるかを示す形で、一連のしるしや事件を示された場合、わたしたちは、おそらくそれを誤った用い方をしてしまうでしょう。大部分のわたしたちは、その日が訪れる最後の最後まで、必要とされている準備をおろそかにする可能性があります。

それゆえ、わたしたちが今示しているものは、何か誇れる超人的知識をもってして初めて提供できるような、未来の図式を提示しているわけではありません。(そのような未来図式をだれが欲しないでしょうか! みんな欲しいのですが)。しかし、わたしたちが今提示しているものは、むしろ霊的道路地図であり、それは、現在から主イエスの御再臨に至るまでの期間、いつでもどこでも役に立つものなのです。戦争と戦争のうわさを耳にするとき、偽キリストや偽預言者が不思議な業さえ行って現れたとき、諸国や超大国が脅威を与え武器音高く示威しているとき、地震による打撃が頻発してだんだんと強くなっていくとき、世界の至るところで飢饉が広がっていくとき、神の民が恥辱を蒙り、偽りの逮捕、鞭打ち、投獄、そして死の苦しみを味わうとき、そして福音のメッセージが世界の津々浦々まで及んだとき、これらすべての出来事と共に、そしてこれらすべての出来事の中に、主はそば近くいますこと、そして門口にまでさえ来ておられることをわたしたちは知るのです。いちじくの木を観察して夏の訪れを知るようにして、世界中すべてに、まさに訪れようとしている事柄をわたしたちは知るのです。

マルコ13章を分析していく中で、難解聖句の一つとなっていた次の御言葉をよりさやかに理解し得るようになったかもしれません。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」(30節)。何人かのアドベンチストは、ここで主イエスが言っておられる「この時代」とは、天のもろもろのしるし、すなわち太陽が暗くなったり、月が光を放たなくなったり、星が空から落ちたりするのを見る時代のことであり、この時代の人々は主イエスが御再臨なさるまで生きることになろうというのが主の言っておられる意味だと解しました。①ひと時の間その人々は、常におどおどしながらではありましたが、この考え方にこだわっておりました。しかしもはや今はそのような解釈をする者はありません。それ以来何年も過ぎてしまいました。その世代が死んで葬られてすでに久しいのです。

主イエス・キリストの御言葉はその約束を果たせなかったというのでしょうか? いいえ、全くそういうことではありません。その答えは、本章の解釈には二重焦点を考慮しなければならなかった点にあります。「この時代」とはキリスト御再臨の直前の時代ではなく、十二弟子の時代をさしております。そして主イエスは、弟子たちに警告されたのです。「よく聞きなさい! 神殿が崩壊するときは近い。今生きている人々は、このことを証言することとなろう」と。この時代うんぬんの直後に主イエスは、御自分の御言葉は天地が滅びても決して滅びないと予告しておられます。そしてこの場合の時に関するその適用範囲は長く、エルサレム陥落のはるかかなたに至るまで及んでいるわけです。主イエスが種々のしるしに関するその論議を終え、気をつけていなさいと訴えて結論づけられたとき、このようにして本章の二つの焦点は互いに隣接しているのです。

マルコ13章における生ける主の忠告

今日わたしたちは、待ちに待っております。わたしたち「アドベンチスト」は、1844年10月22日に御再臨があると期待した者たちの中から起こってきましたのに、今なおこの状況です。その訪れの日までいったいわたしたちはどのように生きて行くことになるのでしょうか?

悲しいことには、ある者たちは、主の御再臨の遅延に困惑するあまり、ただ名ばかりのアドベンチスト②となってしまっております。彼らは御再臨の説教に触れ、ここにこそ希望があるとの、大合唱の教会に加わりました。しかし、まもなく主イエスが来られるとの考えは、もはや彼らの人生の重大面を構成する要素とはなっていないのです。彼らは預言者エゼキエルが言っている者たちとなっているのです。「見よ、あなたは彼らには、美しい声で愛の歌をうたう者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行おうとはしない」(エゼキエル33の32 口語訳)。

主イエスによって、マルコ13章に描かれているアドベンチストの生き方とはなんと異なることでしょうか! ここで主は、主の御帰りを熱心に待ち望んでいる一つの民を描いておられます。その期待感は、迫害や艱難の中にあっても輝いております。彼らは時代を観察しております。それらは、あのいちじくの木のようにして、世の終わりが近いことを示しております。そして彼らは、まもなくという時を生き、御神のものである未来の方向に身を傾けながら、気をつけて待ち続ける生き方を維持しております。

もしも、アドベンチストのある者たちが霊的に燃え尽きてしまうと、今度は他の者たちは逆の方向に振れます。彼らは一層時間とエネルギーを使って、主イエスがいつ御帰りになられるのかを一心に研究します。図表やカレンダーや新たな年代計算を駆使して、ついに彼らは主の御来臨の時を特定するに至ります。

しかし御再臨の時に関して主は言われました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ24の36)と。復活なされた後で弟子たちは質問しました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒言行録1の6)。それに対する主のお答えは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)と。

エレン・ホワイトは、1891年に使徒言行録1章5節と6節に基づいて、ミシガン州のランシングで説教しております。御再臨の日付設定でアドベンチストが熱狂的になった時は、彼女の生涯を通し、変わることなく常に忠告を与え続けてきていましたように、その時も、再び彼女はあらゆる種類のそのような算出の試みに対し警告を与えておりました。その折に結論的に彼女が言ったことは、わたしたちの努力を費やすもっと大事な方法は、神の御国を建て上げることに参与しつつ、主の御栄光を求めて日々を生きるということでした。そしてその時の彼女の言葉は、100年余を経た今日でもなお、傾聴に値するものです。「あなたがたは、主は、1年あるいは2年、更には5年以内に来られるなどとは言えません。そしてまた、10年あるいは20年は来られないだろうとも言えません」③

終末論的な熱狂は人々を引き付け、その種の本も売れます。しかしそれは非聖書的であり、そして無責任です。なぜなら、主が帰られなかったままその時が過ぎて行きますと、その後は霊的燃え尽き症候をその人々に招いてしまうからです。

それでは主の御来臨をお待ちするこの期間、わたしたちはいったいどのように生きるべきなのでしょうか?

それは、希望の燃料の火が消えて、冷たくなって行くような命のない宗教生活の仕方によってではありません。

それは水晶玉を凝視して問うたり、新聞記事の見出しを調べ続けるような仕方によってでもありません。

それは、都会生活を引き払い一人静かなところに引きこもって待つというような生活によってでもありません。

そしてまた、なぜ来られるべき時に主は来られないのかということについて討論したり論じたりすることによってその時を待つのでもありません。

それらでは全くもってありません! そうではなく、貧しい者たち、飢えている者たち、踏みつけられている者たち、必要のある人々に、あの「祝福に満ちた希望」を紹介し、彼らに仕えながら、このような他者に対する愛と積極的な奉仕において生きつつ待つのであります。毎朝、目を覚ましたら、今日も新しい一日が与えられたことと、意義と目的とを持つ人生が与えられていることにつき御神を讃美しながら、主をお待ちする今日の人生を生きるのです。そしてまた、主が与えておられる人生における己の役割に従事しつつ、そして、主が与えられた希望と喜びと平和とをもって、一瞬一瞬を満たしながら生きるのです。

それで、わたしたちはいったい、どう生きることになるのでしょうか? そうです、主の御栄光を求めて活き活きと生きる、十全の人となって生きて行くことによる生き方なのです。

参考文献

①        1780年5月19日の暗黒日、1833年11月13日の大落星がいずれも米国で特異な天体現象であったとして記録に残されていて、これらをして、キリスト御再臨のしるしと考えた人々の解釈である。訳者注。

②        「アドベンチスト」とは主イエスの御来臨を待ち望んでいる者たちの意。訳者注。

③        Selected Messages, book 1, p.189

*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の編集長ウィリアム・G・ジョンソン(英William G. Johnsson)著、2005年3月1日発行『マルコーイエス・キリストの福音』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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