マルコ【イエス・キリストの福音】#4

目次

第11章 重大局面!(マルコによる福音書14章1節~52節)

今や、主イエスの御働きの最高潮を迎えます。この目的のためにこそ主は世に生誕されたのですが、それは死なれるためであります! 主イエスは、「世の始めから屠られ給いし子羊」(黙示録13の8 英語欽定訳)です。ベツレヘムの馬ぶねはすでに十字架を含んでいたのです。

ある意味でわたしたちすべては、死ぬために生まれてきたのです。額に汗してパンを得る苦難と共に、死は人生経験の中での崇高で避けられない現実です。コヘレトの言葉は言っております。「生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを」(9の5)と。人類の堕落により呪われ、しおれてゆく世界に生まれてきているわたしたちですから、わたしたちの人生は、時にはうるわしく、時々は滑稽で、しかし必ず悲劇となる一幕ものの演劇のようなものです。そのドラマでは、すべての人が必ず同じように終焉という時を迎えるのです。

しかしベツレヘムのあの赤子は、その前後に存在したいかなる人間にも経験することのない死に当面することになるのです。彼は死に直面し、これを打ち負かそうと懸命に戦い、ついにこれを征服するのです。御自分の死によって、この御方は人類に死からの放免を与え、喜びを解き放ち、また希望をもたらされるのです。

その死の瞬間は、挫折と勝利、消滅と救いを織り交ぜたような、悲劇と同時に栄光の出来事となるでしょう。

四福音書の最後の部分はすべて同様なのですが、マルコによる福音書では最後の3章が、この出来事に焦点を合わせております。その中でも本章の扱う14章1節から52節では、憎しみや敵対の嵐が吹き荒れてきて、遂には危機的状況に至るような数々の出来事の突風を感じ取ります。次の章では、主イエスの死の日、すなわち受難日である各時代の最高潮点にひたすらその焦点を合わせています。それから16章ですが、そこでは今日まで語られた物語の中でも最も偉大な出来事が語られており、その驚くべき終わり方、すなわちその終局的場面に考察を加えることとなります。

陰謀

主イエスの御生涯、とりわけその最終段階の諸事件を考えるとき、わたしたちは容易にその過酷な現実を見失いがちです。わたしたちは恐らく何十回と主イエスの受難の部分を繰り返し聞いて参りましたし、演じられるのをさえ何度か見てきております。そしてこの非常に親しんできている場面ということが、むしろこの出来事を単なる物語と感じさせている原因となっているのかも知れません。その事件がどんな筋書きになっているかを知っておりますし、それゆえ、必然的な終着への道路標識的目印は、あたかもハリウッド映画物語の筋書きでもあるかのように見えてしまうのです。

その上、背景下には定められた結末に向かって、御神がそのドラマを導いていることを聖書は明瞭に語っております。すでに指摘いたしましたように、マルコによる福音書では、主イエスは御自身の弟子たちに、単刀直入に3度、御自分がエルサレムで裏切られ、あざけられ、拒絶され、そして殺されること、しかし死より復活するに至ると語っておられたことが記述されております。このように諸事件が預言の成就であったとして、繰り返し言及されていることが、受難が御神による必然性であったという見方を強めております。

主イエスにとりましては、その受難の出来事は、恐るべきほどに、そして過酷なまでに真に迫ったものであったという点を、この際、もっと判然としておきたいと思います。御神が起こるべきことについて預言しておられたとはいえ、そのことが成らず、人類が永遠の滅びとなってしまう危険は、少しも減じられるものではありません。主イエスは苦闘し極限において試みられました。戦線離脱も可能でしたし、従って失敗することもできたのです。

このようにして、失われた世界を勝利のうちに取り戻そうとする父なる神の御計画が実行されていく中で、そのドラマのどの瞬間においても善もしくは悪の選択への可能性が宿されていたのです。御神は御自身の計画を遂行しようとしておりました。しかし他のもろもろの謀が同時に出され、その御計画に打撃を与えようとしております。

「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」(14の1)。このようにユダヤ人指導者層の計略がありました。何ヶ月間かを経て彼らの計略はだんだんと強硬になっていきます。疑いもなく、しゅろの日曜日における群集の歓呼は、その計略を遅滞なく決行していく決意を固めさせたに違いありません。時はどんどん過ぎてゆきます。彼らの権威がさらに傷をつけられる前に、あのガリラヤ出身の成り上がりの田舎者を、何とかして排除しなければならない。明らかに主は、神殿の中にすでに確立されていたもの、そして、彼らに権威と特権とを与えていたその宗教制度全体に脅威を与えたのです。

そこで主の敵にとっては、もはや何をするかではなく、いつ、そしてどのようにしてこれを実行するかが問題となっていたのです。そこで今すぐにでも捕縛したかったのですが、しかし、うまく事を運べなかったのです。主イエスは群集に支持されていたからです。それゆえ、「彼らは『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」(2節)のです。

彼らにとっての問題は、主イエスは常に群集に囲まれていたという点です。毎朝主イエスは歩いて宮にやってこられます。そして、恐らくは、ガリラヤから来ていた他の巡礼者たちも同じようにしていたのですが、夕べには宮を離れるのです。夜毎に、このようにして都の外で過ごされるのです。もしベタニアのような村の中であれば、それは、彼らにとっては捕らえることがより容易であったでありましょう。しかし野宿だったのです(ヨハネ7の~8の1をも参照)。

そこに、主の敵たちにとっては思いがけない解決法が転がり込んできたのです。主の最も近くにいた者の一人が彼らを訪ねて来て、取り引きを申し出たのです。

彼は折を見て、群集から離れているイエスのところに、彼らを手引きすると言うのです。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(マルコ14の10、11)。

祭司長たちや律法学者たちは、種々の手段を講じておりましたが、しかし主イエスも同様に計らったのです。主イエスは、すぐさまに、そして秘密裏に逮捕されることのないように御自分を危険にさらすのを避けられました。

日曜日から水曜日まで都の外で夜を過ごすようにされたばかりではなく、木曜日にも過越の食事をする場所を人に気づかれないように配慮いたしました。

御計画がどのようになっているかをいぶかって、弟子たちは主イエスに尋ねます。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と。それに対する主イエスのお答えを見ますと、主はすでに、あらかじめ密かに用意を整えておられたことがわかります。すなわち、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(13~15節)。

もしも、主イエスが、「水がめを運んでいる婦人を探しなさい」と言われていたら、それは意味がなかったのです。その社会では婦人が水を運ぶ役割でありましたから。しかし、水を運んでいる男? これは明らかに、目印となり得たのです。その上、主は、見つけたその男に話しかけるようにとも言われませんでした。ただその男の後を、その男がある家に行き着くまでついて行くようにと言われたのです。そしてその家の二階が、過越の食事の席が設けられている広間となっていることがわかるであろうと言われたのです。

明らかに主はエルサレムに友人を持っておられました。それは十二弟子以外の友人たちです。過越の食事のための場所を密かに提供し、それを秘密にしていてくれるような友人たちです。

ヨハネによる福音書は、当時のエルサレムにおいて、主イエスの周囲にどのような陰謀があったかについて、更なる情報を与えてくれております。より早い時期には、「イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」(ヨハネ8の59)とあり、また過越祭が近づいてきた時には、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」(ヨハネ11の57)と。

主イエスの御生涯の最後の日々に見られる、いわば猫とねずみのゲーム①のような状況の中では、イスカリオテのユダの裏切り行為は、なお更非難されるべきです。マルコが言っておりますように、ユダが彼らの所へやって来たとき、彼らが「喜」び(マルコ14の11)ましたのは、不思議でも何でもないことです。

主イエスの働きにおけるこのスパイ行為については、いったいどのように考えたらよいでしょうか? ずっとはじめから、彼は自分の主を裏切ろうと計画していたのでしょうか? それとも、一方を優勢にするような何かが起こったのでしょうか?

イスカリオテのユダ

最も悲しい言葉は、「そうであり得たかもしれなかった」という表現です。イスカリオテのユダにおいては、まさにこの表現がぴったりです! 他の弟子たちに尊敬され、その才能と能力とに目立っていて、彼は弟子たちの間でも指導者となり得たかもしれなかったのです。初代教会において善への強力な影響力を及ぼし得ていたかもしれないのです。そして、新約聖書の中に彼の名を冠した福音書あるいは書簡を残し得ていたかもしれないのです。しかし、わたしどもは、イスカリオテのユダによる福音書やイスカリオテのユダの手紙なるものを見ることはないのです。そして考えてみてください。他の使徒たちの名は、多くの国々で、なんと幾千もの男の子たちにその名として用いられていることでしょうか。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、フィリポ、マタイなど。しかし、自分の子らにユダとは名づけません。キリスト教の歴史の中で喝采されたかもしれないその名は、それどころか不名誉のレッテルへと落ちぶれてしまっております。

次の質問はユダに関する小テストです。

1         ユダには主の晩餐にあずかっていたとき、なおいまだ希望があったとすることは、正しいでしょうか、誤りでしょうか?

2         どの時点でユダは、彼の霊的生命において引き返せないところを過ぎることとなったのでしょうか?

A        彼が初めて祭司長たちのところに赴き、イエスを彼らに売り渡すことに同意したとき
B        彼が二階座敷を出て行ったとき
C        彼が自分で首を吊ったとき

3         ユダが、主イエスに御自身、敵から逃れて欲しいと願ったと考えるのは、正しいでしょうか、誤りでしょうか?

4         ユダに関し次のどれが正しいでしょうか?

A        彼は弟子たちの間で会計を担当していた
B        彼は弟子たちの中で最も魅力的な指導者候補であった
C        彼は本当の意味ではイエスを信じていなかった
D        彼は主イエスを信じてはいたが、イスラエルの王だと主が御自分を主張することにおいて、あまりにゆっくりに過ぎていると考えた

そして次は6万4000ドル相当の質問です。わたしたち、あるいはわたしは、イスカリオテのユダとなることができるでしょうか? 何が、主を裏切ることからわたしたちを守ることができるでしょうか?

この質問に対しては、わたしは次のように答えるでしょう。

1         「正しい」

あの最後の晩餐のとき、主イエスはユダの足をも洗われ、更にその時、弟子たちの一人が裏切ろうとしていると主が語られたときであっても、主は彼を弟子たちの前に暴露されなかったのです。そのことは彼にとっても感動であり、ユダはある意味で限りなく主イエスに魅かれていたに違いないし、なおも悔い改めへの招きは強力であったと考えます。

2         「B」

主イエスの思いとどまらせようとなさるその御愛の訴えと戦いつつも、ついにその場を彼が出て行ったとき「夜であった」と使徒ヨハネは、わたしたちに告げております(ヨハネ13の30)。わたしの意見では、自分の決心でイエスの訴えを拒絶し、その瞬間主イエスの敵の所に出て行くことになって彼は自分の運命を決定づけたのです。

3         「正しいと思います」

主が捕縛されたままになって行かれたとき、ユダは、後悔し自殺に及んだのですが、そのユダの行為を考えるとき、それは、彼が主は逮捕されるはずはないと考えていた可能性を示していると思われます。

4         「A、B、Dが正しい」

聖書は彼が金銭袋を持ち歩いていたことを、明瞭に告げております(そして彼はその中身を自分に供してごまかしていたのですが〔ヨハネ12の6〕)。その上、彼は表面的には最も成功している弟子であるかのように見えておりました。彼の生来の才能が、彼をして弟子たちの間で会計の役割を担わせたのです。しかし、彼はあまりに賢すぎたのです。ガリラヤにおいて、主イエスがイスラエルの王となられることについて、じれったいほどに、御自身を主張なさらない姿に彼は落胆したのです。

さて、今やエルサレムにおいて今度こそ主が王として宣言なさるべき時が熟したと彼は感じました。だからユダは、主イエスが御自分を救出するため、御自身が何者であるかを主張せざるを得ないような状況に、強制的に立つようにと図ったのです。その日の終わりに、ユダは考えたのです。主イエスはきっと王であるメシアとして出現するであろう。そうすれば自分は名誉ある地位を獲得することになろう。そしてそのことに加えて、今よりずっと豊かになるであろうと。

自分はイスカリオテのユダになり得るか、という最後の質問に関してですが、その通り、なり得るのです。わたしたちの誰もが、試みを免れ、堕落から確実に守られているということはありません。自分は主イエスに従っているということはできますし、実際そうしていることができます。しかしあるべき道を見失うことがあるのです。あらゆる努力をしているにもかかわらず、ユダのようになり得ることを、使徒パウロは気づいておりました。「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教をしておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(コリント一 9の26、27)。

それではわたしたちの希望はどこにあるのでしょうか? それはわたしたちの内にではなく、主イエスの内にこそ、であります。自分自身の意思や力や計画に日毎に死ぬことによって、そして、日毎に主イエスの上に自己をおゆだねすることによってです。主により頼むことにおいてのみ、わたしたちは安全なのです。そこにこそわたしたちの安全を見いだすことができるのです。

さて、もう一度イスカリオテのユダの件に戻ってみましょう。わたしたちは、彼を悲惨な渕に駆り立てた何かの出来事を確定できるでしょうか? わたしはできると考えます。この福音書の中でマルコは、主イエスを殺す秘密の計画があったこと、しかしそれを果たす機会が見つけられないでいたことを語っていて、それからマルコは主イエスに香油を注いだ婦人の話を挿入し、それから後、ユダがどのようにして祭司長たちのところに行って主を売ったのかを描写しております。その時点から、物語は木曜日の夕方へと移って行きます。そして主の捕縛の出来事へと移行して行くのです。

マルコがその福音書の14章の中で取った方法を調べて行きますと、主に油を塗った婦人の物語である3節から9節の記述は、主イエスに対する陰謀の進展の流れを中断しております。それは、挿入のように見えます。

実際、それは誰か他の人によってではなく、マルコ自身による挿入なのです。本章を始めるにあたり、彼は過越祭と除酵祭の「二日前になった」との時間設定を提示しております。すなわち、それは受難週の火曜日②であることを意味しております。油を塗った婦人の物語がすぐ後に記してあることからして、わたしたちはこの出来事が、同じ日に起こったと考えてしまうかもしれませんが、実際はそうではありません。ヨハネはこの出来事が起こった日を正確に示しており、それは、ベタニアで、過越祭の六日前であったとしております(ヨハネ12の1~8)。このことは、マルコの記述はこの物語を持ち込んで、マルコ14章3節の時間から、いっとき、その時を後戻りさせていることを示しております(マルコはこの油を塗った出来事がエルサレムにおいてではなく、ベタニアで起こったことを付け加えることによって、時間を遡ってみようとしていることの信号を送っています)。

このように出来事の順序に変更を加えることによって、マルコは何を意図していたのでしょうか? マルコは、主イエスの受難との関連を考えさせたいと願っているようです。油を塗った婦人の出来事は、全体の時間の流れを中断するように見えるのですが、実際にはその物語は重要な役割を演じているのです。それはユダが祭司長たちや律法学者たちのところに行く決心の理由づけをわたしたちに示しているのです。

ヨハネはユダがマリアの愛の油を塗る行為を激しく非難した弟子であったことを明快にしております。ユダは貧しい者への関心があって、その人たちを助けるためにその高価な捧げものを用いる可能性を指摘して非難したことになってはいましたが、実のところは盗人であり嘘つきであったと指摘しております。彼は、金銭の袋から盗みを働いていることからして、関心があったのは貧しい人々ではなく自分であったのです。主イエスが弟子たちの狭量さを非難されたとき、それは油を塗ることへの非難を言い出したユダの急所を突いた形になったのです。そしてこのことは、彼及び弟子たちが長く待ち望んで来た政治的メシアとしての主イエスの現れがなかなか実現しなかったことに対し、それまで積み重ねられてきた欲求不満の限界を超えさせる最後的な打撃となったのです。

最後の晩餐

主イエスは御自身の友と共に最後の晩餐を持つことを切望しておられました。ルカによる福音書は、主イエスが次のように語っておられたことを述べております。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22の15)。主イエスが幾度となく語ってこられ、そしてそのために決意を新たにされているその「時」が、今やまさに主の上に臨もうとしておりました。十二弟子とのその時は、復活後に会う以前の、彼らと共に過ごす最後の時間でありました。そしてそれからまもなく、十二弟子は11人になるでしょう。ユダがいなくなるからです。

弟子たちはそのことを何も知りません。エルサレムでの危機に備えさせようと繰り返し主イエスは努めてまいられましたが、彼ら弟子たちは依然として困惑している状況でした。先入観的に持っていた考えの殻を打ち破ることができなかったのです。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である』」(マルコ14の22)。それから、カップを取り、感謝の祈りを献げ、それを彼らに手渡しました。彼らは皆それから飲み、そして主は言われました「。これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(24節)と。

四福音書共、主イエスとその弟子たちとの最後の食事を記録しております。マタイ、マルコ、ルカの記述は、ほとんど同じです。しかし、ヨハネによる福音書によれば、その時主イエスは弟子たちの足を洗われたことを見ますが(ヨハネ13の1~17)、それと同時に語られた、聖餐式特有の言葉、「これはわたしの体である ……これは多くの人のために流されるわたしの血……」がありません。この部分だけではなく、ヨハネは明らかに、共感福音書にすでに記されている情報はできるだけ省き、その代わりに別の詳細を付加的に提供しております。

ルカによる晩餐記述の中には、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22の19)の一句が見られます。従って、初代教会のキリスト者たちは最後の晩餐会を祝ったのです。それから約20年後に、使徒パウロはコリントにいるキリスト者たちに手紙を書いておりますが、その中で彼が明らかにしていることは、その教会では、主の晩餐会を記念して互いに集まりを持っていたということです(コリント一 11の20)。彼らは聖餐式(パンとぶどう液)と共にいわゆる食事を一緒にしていたようです。それは主イエスたちがあの木曜日の夜に持っていた過越の食事と同様です。しかし、ある者たちは豪華な食事をしている一方では、他の者たちは何も摂っていないような不適切な状況がありました。パウロは聖餐式の折のそのような振る舞いは問題であると指摘し、空腹が心配な人は聖餐式に参加する前に、家で食事を済ませ、それから式に臨むようにしたりして、キリスト者の交わりを阻害する結果とならないように配慮しなさいと、助言しております(同21~34節)。

あの最後の晩餐はキリスト教会の一つの儀式となって行きました。聖餐式、あるいは主の晩餐として、イエスの名にちなむほとんどすべての者たち(救世軍のような極少数の例外は除く)によって今日その式典は遵守されております。カトリック教会としてやがて知られるようなった非常に大きな信徒の群れの中では、その晩餐の式典は、主要な重要儀式とみなされております。2世紀の終わり頃までには、主要な二つの考え方が一つの方向に収束して行くのを観察いたします。それは、福音に仕える者たちを司祭とみなすことと、司祭たちによってのみ執り行われるようになっていた主の晩餐を聖礼典の価値ありとみなす考え方です。そしてやがて、ミサの儀式がその神秘性が強調されたがゆえ、儀式として開花の時期を迎えていくようになるのです。③その儀式の開始の宣言と共に司祭は、創造主を生み出す、いわばもう一人の創造主となることを僭称するのです。すなわち司祭によって、彼が取るパンは創造主キリストの御体そのものとなり、彼が手にするぶどう酒は創造主キリストの血潮そのものに変えられたのだと、教え信じさせるに至ったのです。

主イエスは確かに、十二弟子に「これはわたしの体である……これは多くの人のために流されるわたしの血……」であると言われました。しかし、明らかなことは、その言葉は象徴的であって実際にそうなったというのではありませんでした。その時の光景を思い浮かべてみてください。主イエスは弟子たちと共に円いテーブルの周りに横になっておられます。主がパンを裂き、コップを回し飲みさせられたとき、そのパンとぶどう汁のコップとは別に、主御自身がそこにおられます。ですから、主も弟子たちも、そのパンが主の身体ではないこと、また、そのコップのぶどう汁が主の血ではないことをすこぶる良く認識しております。その代わり、パンとぶどう汁とにあずかることにおいて、その時皆は、それらをして、受難の主イエスを思い浮かべる手段としていたのです。

もしわたしたちが単純にあの木曜日の夜の場面に臨み、その場面と主の御言葉とを考えてみるなら、ミサ聖祭に関する教理は元来意図されていたものからどれ程離れてしまっているかがわかるでしょう。

コリントの信徒への手紙一 10章16節を心に留めてください。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」。コリントの信徒への手紙一 11章23節から26節も考えてみてください。そこには、パンもぶどう汁も共に、主の死を告げ知らせる記念であるとしております。ヘブライ人への手紙は、キリストはただ一度だけ死なれたことを強調しております。主の晩餐が持たれる度ごとに、幾度も幾度も犠牲としてほふられるのではありません。

「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9の25、26)と。

ゲッセマネの園

エルサレム城壁の東壁の外側には、キドロンの谷があり、その更に東手にあるオリーブ山の裾野のあたりには、オリーブの果樹園が広がっておりました。そのあたりの名がゲッセマネと呼ばれており、へブライ語での意味は、「オリーブ圧搾機」です。そして、おそらくその園には油を絞る圧搾機があって、それにちなんでそのように名づけられたと考えられています。

主イエスは祈りの人でありました。福音書全体に、主が絶えず父なる御神と交わっておられる御姿を見ますし、ある場合には夜を徹して祈りの時を持っておられます。エルサレムに来られた時には、主にとっては、その園はしばしば、群集のひっきりなしの要請や、敵の陰謀からの逃れの場となったのです。そこは静かな場所であり、聖なる場でありました。

しかしながら、主の地上人生の最後の夜であるその木曜日の夜の場合には、そこには少しも休息はなかったのです。ゲッセマネの園はまさに主にとって、圧搾機のようであり、押しつぶされ、搾り出され、魂を干からびさせるまでに苦悩を味わう出来事の場となったのです。

ゲッセマネの園、この言葉は、それは数え切れないほどの絵画や説教や瞑想を出現させてきました。主イエスの捕縛に先立っての、エルサレム郊外のオリーブの森の中でのイエスの御苦しみは、過去2000年の間キリスト者たちを感動させてまいりましたし、今なお、わたしどもの関心を捉えて止まないのです。恐らくはここ以外福音書の他のどこにも、これほどに主イエスの人間性、すなわちわたしたちとの近似性が暴露されている所はないのではないかと思われます。しかし同時に、そこには、なぜあの夜、主イエスは、あれ程までに苦悩を味わわれたのかと考えさせられるとき、その出来事の神秘性も感じさせられます。

四福音書共その出来事に触れております。ただし、マタイとルカによる記述は、マルコの内容とほぼ同じです(マタイ26の36~46・ルカ22の40~46)が、ヨハネの場合は共感福音書とは異なりそれに触れただけです(ヨハネ18の1、2)。しかし、ヘブライ人への手紙には、主イエスの別な叫びが描かれております。この書の著者(恐らくはパウロ)は、主の真実の人間性を強力に訴えているかのように以下の所見を述べてます。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5の7)と。

ヘブライ書での表現は非常に強烈です。それは翻訳だけではなく、ギリシャ語の原語でも同様に強い言葉なのです。主イエスは黙祷で祈られたのではありません。主は「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」祈られたのです。わたしたちは、主が何のために祈っておられたかを知っております。弟子たちはまどろんでいたとはいえ、主イエスの嘆願の御言葉を聞かざるを得なかったのです。「アッバ、父よ」、「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14の36)とのしぼり出すような叫びです。

果たしてイエスは人間であったかどうかと疑う人々、この御方を超自然的な御存在と考えている人々、あるいはまた、わたしたちの失意をこの御方は理解できるのであろうかといぶかっている人々は、ゲッセマネの園に行って見るべきです。そこであなたは、神の御力も、権威も剥奪され、打ち砕かれ、嘆願し、身悶えするようにして苦悩されているナザレ人イエスを見るのです。

それまでは、主イエスは、近づきつつある死のことをずっと語ってこられました。そして、「わたしは自分でそれを……捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ10の18)とさえも語っておられたのです。しかしそれは、すべてゲッセマネの園以前のことでした。ここの園では、主はただ地に、崩れ落ちて哀願しているのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14の36)と。

そこにはまさに、その杯があります! 苦悩の、別離の、寂寞の杯です。神に全く見放されてしまうかの感覚の杯。堕落した人類の罪からの杯。

少し前、ヤコブとヨハネとが主イエスのところにやって来て、神の王国の左右の座席を願った時、主は彼らに、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲」む(マルコ10の38 口語訳)ことができるかと、問われました。それに対し、無知の虚しい確信の下、彼らは「できます」(39節)と答えました。しかし、彼らはできません。主イエスに従う者たちとして彼らは、主の御経験のただほんの一部を共有するだけです。

主の杯は、主御自身のもの、しかもただ主だけのものです。主だけがこれを飲むことができるのです。ただ一人、主イエスだけが、失われた世界のため、その罪の身代りをなすことが可能なのです。御神をほめたたえよ。主イエスはその杯を飲み干してくださったのです。主はその杯を高く挙げ、最後の一滴までも飲み干してくださったのです。最後の罪人の最後の罪まで御自身の上に余すところなく担われたのです。この御方について、ヘブライ人への手紙は言います。主イエスは、「すべての人のために死んでくださった」のであると(ヘブライ2の9)。

ゲッセマネの園において、その杯は、一人の人、そうです、御神であられると同時に人であった御方、いや紛まぎれもなく人間であられた御方の手の中で震えておりました。その人間性は目の前の厳しい試練の前にたじろぎます。そこから逃れ得る他の道、別な道、何か他の方法はないものかと探し求めます。御神から提供される何か別の道をと。

しかし、なかったのです。

ゲッセマネの園に関して書かれたすべての文章の中で、エレン・ホワイトによる『各時代の希望』の中の「ゲッセマネ」の章に描かれている内容程、その神秘のベールを上げて奥をのぞかせ、わたしの心に語りかけてくれる言葉を見いだすことはできません。次に引用する例文を考えてみてください。

「イエスは、引き返して、ふたたびひとりになられると、大いなる暗黒の恐ろしさに圧倒されて、ぱったりうつぶせになられた。神のみ子の人性はこの試みの時にたじろいだ。主は、こんどは弟子たちの信仰が失われないようにとお祈りにならず、試みられ、苦しんでおられるご自分の魂のために祈られた。恐るべき瞬間が来ていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。……罪人にその罪の値を受けさせて、わたしは父のみもとにもどろうと言うこともおできになった。神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきおかたが不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか。イエスの青ざめたくちびるから、『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』とのことばがふるえながらもれる」④

ペトロ

危機が実際に訪れたとき、惨めにもすべての弟子たちは敗北を喫しました。

主イエスは御自身が極度の難局に当面いたしました時、祈る友らの友情と支えとを求められました。しかし彼らは眠っておりました。

主は、試みの時が来ることを彼らに警告しておられました。彼らは目を覚まし、祈っている必要がありました。しかし、彼らはその警告を無視しました。

暴徒たちがやって来て、主イエスを捕らえました。その時弟子たちは皆、主をそこに置き去りにして逃げました。

すべての弟子たちは逃げたのですが、しかしとりわけペトロの場合は悲惨でした。あの晩餐の場で、彼は確信をもって言ってのけました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14の29)と。

それに対し、主が、彼はその夜3度主を知らないと否認するであろうと言われますと、その御言葉を払いのけ、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と断言いたしました。

しかしペトロは否認したのです。それは実際はほんの数時間の間に起こったことでした。あたかも大波によって砂の城が流されてしまうように、彼のあの固い決心は、崩れ去ったのです。一人の女中の問いに直面して、彼はイエスを知っていることを否定してしまいました。それから彼は再度、そしてもう一度と、否定を繰り返し、ついには冒涜をもって主を裏切ってこき下ろすまでに至ります。

これがペトロの最悪の事態でした。それは最悪の事態のわたしたちの姿といえましょう。なんと容易にわたしたちは約束をし、そしてなんと簡単にそれを破ってしまうことでしょう。言葉の上では主イエスに忠誠を尽くしますとなんと麗しい言葉を語ることでしょう。しかしその裏切り行為によって、わたしたちはなんと卑劣になってしまうことでしょうか。

愛されたヨハネは、主イエスが、「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27節)と言われたとき、あの二階の間におりました。彼も他の弟子たちと一緒になって、わたしたちは決してあなたを見捨てて逃げ去るようなことはいたしませんと言ったのです(31節)。しかし、彼らがみんなゲッセマネで主イエスに背を向けて逃げたとき、彼ヨハネもまた逃げ去ったのです。

しかし、このヨハネとペトロの間には違いがあります。すなわち、ヨハネは実際は大祭司の中庭まで入って行きました。ペトロをそこに入れるように手引きしたのは、ヨハネでした(ヨハネ18の15、16)。しかも、彼は公に主イエスを否認しませんでした。ヨハネは主イエスとの関係を隠そうとはしなかったのです。

ペトロの失敗は卑劣な行為でした。このことを否定はできません。いつも他の弟子たちの代弁者のようにして振る舞ってきたペトロは、他の弟子たちの期待を裏切りました。そしてとりわけ、彼は主を裏切ったのです。

わたしたちの自信過剰はいつも滅びの道へと誘い、高慢の鼻をへし折ることとなるのです。敵の猛攻に耐えるほどの強さを持っていると、わたしたちは考えるかも知れません。キリストへの忠誠を揺さぶるものは何もないと考えているかもしれません。しかし、わたしたちは明日何が起こるかということでさえ知っておりませんし、また予見できない存在なのです。パウロが生きた次のような生き方によってのみ、主に敵対しこれを否認する危険から、わたしたちは守られ得るのです。すなわち、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2の19、20)。そして、わたしたちが、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント二 12の10)ということに気づく時にのみ、主イエスは初めて、いろいろな状況に対し十分な恵みを供給してくださることができるのです。

恵み、それはペトロの物語における最後の言葉です。彼は悲惨な失敗をいたしました。しかし主イエスは、彼を復帰させてくださいました。鶏が鳴き、そのとたん、主イエスは振り返り、彼の方を見ました。はっと、我に帰り、男泣きにペトロは泣き崩れて行くこととなります(マルコ14の72)。

主イエスは泣き崩れ行く者たちに希望を残しておられます。主はわたしたちに、もう一度の出発の機会、2度目のチャンスをお与えくださいます。

マルコによる福音書14章には二つの裏切りが記されておりました。一人は、主を裏切るため主の敵と陰謀をめぐらし、それを実行いたしました。もう一人は、決して裏切りを意図しませんでした。そして彼のその裏切り行為は、彼にとっては思いもかけないことでありました。しかし、裏切ったのです。

一人は、自殺して死にました。そしてもう一人は、主の御足跡に従って、主と同じようにして十字架にかけられて死んで行ったのです。

参考文献

①        ゲームの一種で、輪になって手をつなぎ、1人が他の1人を追う。追われた者を助けるため輪になった手を上げたりおろしたりする遊び。訳者注。

②        正確には火曜日の夕方、すなわちユダヤ的な曜日の数え方によれば、水曜日ということになります。訳者注。

③        聖餐式のパンとぶどう酒とは、司式者の感謝の祈りと共に、キリスト・イエスの、不滅の命の神秘的担い手に変わるとし、更に、この実体的変化と同時にキリストの受難が繰り返され、神秘的犠牲が神に向かって捧げられるという考えも現れてきました。『キリスト教大辞典』(教文館)の「サクラメント」、「聖餐」などを参照。訳者注。

④        『各時代の希望』下巻、p.182

*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の編集長ウィリアム・G・ジョンソン(英William G. Johnsson)著、2005年3月1日発行『マルコーイエス・キリストの福音』からの抜粋です。

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