【エフェソの信徒への手紙】賛美と祈り【1章解説】#4

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パウロは多くの問題、試練、悲しみと戦っていました。しかし、彼はまた賛美と祈りの人でもありました。彼は、神がキリストにおいて私たちのためにしてくださった数々の御業に言及した後で、エフェソの教会の信仰に関して神に感謝をささげています。彼らの信仰と、彼らが「すべての聖なる者たちを愛している」(エフェ1:15)ことを聞いたからです。それから、彼はエフェソの信徒のために執り成しの祈りをささげています。

私たちはしばしば、祈りは逆境の中にある人々、本当に祈りを必要としている人々のためにだけあると考えがちです。しかし、パウロはここで明らかに順境の中にある人々のために祈っています。与えられている教訓は明らかです。それは、どんな人にも心を留めるということです。力強く信仰に成長している人であれ、かろうじて信仰を保っている人であれ、みな等しく祈りを必要としているのです。

一方、パウロの執り成しの祈りは、神がキリストにおいて私たちのために成し遂げてくださった御業と、その結果として私たちに与えられている大いなる希望に関して深い洞察を与えてくれます。

信仰と愛

「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」(エフェ1:15、16)。

「こういうわけで」は「このゆえに」とも訳せます。神がエフェソの教会に与えてくださった「あらゆる霊的な祝福」(エフェ1:3)のゆえに、パウロの心は感謝で満ちあふれています。これらの祝福の中には、神に選ばれ、神の子とされ、贖われ、赦され、キリストに結ばれたこと、また万物が当初の計画に完全に回復されたことが含まれています(3~14節)。

クリスチャンの感謝は、積極的で有意義な毎日の生活において神の祝福を反映し、それをあかしする生き方につながるものでなければなりません。エフェソの信徒はそうでした。彼らの信仰告白はその生活の中に表されていました。事実、パウロは牢獄の中で、彼らが「主イエスを信じ」、「すべての聖なる者たちを愛している」(15、16節)ことを聞いていました。エフェソの信徒にとって、キリスト教は教理以上のものでした。それは変えられた生き方への招きでした。

問1

信仰と愛はどんな関係にありますか。

エフェソの信徒の信仰は生きた信仰でした。彼らは復活されたキリストを信じ、神がキリストを通して人類の赦しと救いを達成してくださったと信じていました。しかし、信仰は教理以上のもの、単なる知的な同意以上のものです。信仰は忠実であることを含みます。エフェソの教会はキリストとその教えに忠実に従っていました。彼らがユダヤ人と異邦人の「すべての聖なる者たちを愛してい」た(エフェ1:15)のも、イエスに対する信仰の必然的な結果に過ぎませんでした。

愛と信仰と希望はクリスチャンの生き方を特徴づける基本的な恵みです(Ⅰコリ13:13、コロ1:4、5)。いかに私たちの教理が正統的であっても、その礼拝とあかしが立派であっても、また管理者としての務めが忠実であっても、神への愛と人への愛という二重の愛が見られない限り、私たちはクリスチャンであるとは言えません。イエスがそのように命じておられるからです(マタ22:37~39)。神を愛しながら、人を愛さないということはあり得ないからです(Ⅰヨハ4:20、21参照)。

知恵と神を知ること(エフェ1:17)

ここまでパウロの祈りの、信仰と愛の生活に対する感謝の部分について見てきましたが、次にパウロの執り成しの祈りの側面に目を向けてみましょう(エフェ1:17~23)。私たちは祈る時、しばしば物質的必要や自分自身の必要にだけ集中しがちです。しかし、祈りが持つ高尚な側面は執り成し、つまりだれかほかの人のために祈ることにあります。パウロは、神が「あなたがた[エフェソの信徒]に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」してくださるように、と祈っています(17節)。

問2

聖書が教える知恵とはどんなものですか。それは頭だけの知識ですか。詩編111:10、箴9:10、11:12、コロ4:5、ヤコ3:13、17

哲学は、あなた自身を知れ、と言います。心理学は、自分と自分の可能性を理解することに人生の意味がある、と言います。しかし、神を知ることにまさる知識はありません。人間が神について知ることのできる最大の知識は、神御自身が啓示してくださる知識です。

神は、ご自身を、被造物を通して(詩編19:1、ロマ1:19~21)、また、聖書を通して(ヨハ5:39)、さらに神の御子イエス・キリスト(ヨハネ14:9、10、ヘブ1:1~3)を通してご自身を啓示しておられます。

神の啓示は「神を深く知る」(エフェ1:17)ことを可能にしてくれますが、「私たちは御言葉を与えてくださった聖霊の助けなしには神の啓示を正しく理解することも評価することもできません」(『教会へのあかし』第5巻241ページ)。「御父が……心の目を開いてくださるように」(18節)と、パウロが祈っているのはそのためです。私たちには、合理的な知識以上のものが必要です。それは霊的な洞察力です。内なる心の目をもって、次の四つの重要な真理を理解するためです。すなわち、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)、「神の力がどれほど大きなものであるか」(19節)、そしてキリストが教会の頭であること(22、23節)を理解することがそれです。

希望と受け継ぐもの(エフェソ1:18)

問3

エフェソ1:18を読んでください。神がこの聖句によって言おうとしておられることをあなた自身の言葉で要約してください。

パウロの手紙では、「招き」はクリスチャンの特権と責任を強調します。神は私たちに、キリストのものとなるように、聖なる者となるように(ロマ1:6)、また「主イエス・キリストとの交わり」(Ⅰコリ1:9)に入るように求めておられます。神の招きのゆえに、神の民でなかった私たちは神の民となりました(ロマ9:24)。召された者たちにとって、キリストは「神の力、神の知恵」となられます(Ⅰコリ1:24)。信じる者たちは「永遠の命」に招かれています(Ⅰテモ6:12)。この招きは彼らを自由な者、「愛によって互いに仕え」る者とします(ガラ5:13)。この招きは人種や階級を超えて、仲むつまじい交わりを約束します。私たちが「一つの体」(コロ3:15)になるように、また「その招きにふさわしく歩」む(エフェ4:1)ように求められているからです。この招きは私たちに、「汚れた生き方ではなく、聖なる生活」(Ⅰテサ4:7)を、平和に満ちた生活(コロ3:15)を送るように期待します。それは、「御自身の国と栄光にあずからせようと」(Ⅰテサ2:12)される神にふさわしい生き方です。この御国への招きは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」(フィリ3:14)くださる招きであって、私たちがクリスチャンの競走を耐え忍ぶ原動力となります。

神の招きは広範囲で、過去をおおい(赦し)、現在(交わりと平安に満ちた生活)を含み、将来における「わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望」みます(テト2:13)。パウロは私たちに対して、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(エフェ1:18)、その希望がいかに豊かであるかを悟るように祈っています。

パウロはさらに、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)を悟るように祈っています。この「受け継ぐもの」[相続財産]は、信者自身が、神から受け継ぐ相続財産であるという意味と、聖なる者たちが神の相続人として神から受けるもの、という二つの意味があります。後者は、私たちがいま救いにおいて享受している現在の特権と、聖霊によって保証され、証印を押されている将来の報いとが相続財産であることを暗示します(エフェ1:13、14)。この報いは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」のことです(Ⅰペト1:4)。

神の力の絶大な働き(エフェ1:19~21)

ここまでのパウロの祈りは、知恵と知識、また神の招きと相続財産を悟るように、というものでした。使徒の祈りは今、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」(エフェ1:19)を悟る必要性に向けられます。

問4

神の特性の一つはその全能性にあります。この神の力はどのように現されていますか。聖句を用いて、いくつか例をあげてください。創2:7、イザ66:22、ルカ1:37、Ⅱコリ5:17、Iテサ4:16参照

パウロはエフェソ1:19で四つのギリシア語を用いて、神の包括的で比類ない力を強調しています[詳訳聖書参照]。まず「、信ずる私たちのうちに働く彼[神]のみ力」という表現中の「力」は“デュナミス”で、計画を達成する内在的な能力を意味します。他の三つは、「その偉大な[“イスカス”]力[“クラトス”]の働き[“エネルゲイア”]」のように用いられています。パウロはほぼ同じ意味の言葉を重ねることによって、神の力が宇宙において達成した御業の、無限にして絶対的な性質を強調しています。“エネルゲイア”は活動とその結果を暗示します。神の力は今も働いています。“イスカス”は固有の力を、“クラトス”は、征服し、勝利する力を暗示します。つまり、パウロは、次のように宣言しているのです。「神の力の絶大さは、神が達成しようと計画されたことのうちに見られる。神は御自分のあらゆる力と能力を用いて働くことによって、また御自分の敵を服従させ、打ち破り、大いなる勝利を収めることによって、それを達成された」。

この神の力の最高の現れが、神が「キリストにおいて達成された」(1:20、改訂標準訳)三つの御業のうちに見られます。

復活「キリストを死者の中から復活させ」(20節)。パウロにとって、神の愛の最高の現れはキリストの死であり(ロマ5:8)、神の力の最高の現れはキリストの復活です(エフェ1:19、20)。

昇天「天において御自分の右の座に着かせ」(20節)。

絶対的支配「すべてのものをキリストの足もとに従わせ」(22節)。キリストは宇宙の主です。

キリストの体なる教会

問5

サタンに対するキリストの最終的な輝かしい勝利について、またキリストと教会との親密な関係について、パウロは何と言っていますか。エフェ1:20~23

パウロの第4の祈りの中で、賛美と嘆願がみごとに溶け合っています。賛美は、キリストの復活と昇天のゆえです。嘆願は、死に対するキリストの勝利と昇天が宇宙的な意義を持つ二つの結果をもたらしたことをクリスチャンが知るようにというものです。

第1に、神はキリストを「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ」られました(エフェ1:21、22)。このことは、キリストがサタンとの大争闘において最終的な勝利を収め、今や万物が彼の支配下にあることを意味します。キリストは公に認められた万物の主です(フィリ2:9~11)。

第2に、神は「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(エフェ1:22、23)。

問6

「教会はキリストの体である」(エフェソ1:23)とは、どういう意味ですか。キリストの体の一部である私たちには、どんな責任が伴いますか。Iコリ12:12~25参照

体の比喩は、教会がキリストと(において)完全に一つであることを強調しています。信者の共同体である教会の存在そのものがキリストの救いの御業に依存しています。教会の始まりも、新天地における教会の目的も、すべてキリストにその基礎を置いています。キリストを離れて、教会はありません。復活された主は宇宙の主、また教会の主です。それゆえ、キリストは教会の頭であり、「教会はキリストの体」(エフェ1:23)なのです。頭であるキリストは教会の権威と使命の源であり、中心です。

キリストの体である教会との親密さと一体性のゆえに、神は教会を、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」とお呼びになります。それは、キリストがあらゆる祝福と賜物をもって教会を満たしてくださることの完全な保証です(エフェ4:11~16)。キリストの体である教会がキリストに忠実であり続けるためです。

まとめ

人を救う信仰「キリストについて信ずるだけでは十分でない。……キリストそのものを信じなければならない。人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係にはいる一つの取引きである。……生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する」(『各時代の希望』中巻74、75ページ)。

神の啓示について「神が聖書の中に与えておられる御自身についての啓示は、私たちの研究のためである。私たちはこの啓示を理解するように努力することができる。しかし、それを超えて理解しようとすべきではない。最高の頭脳の持ち主が頭脳を酷使して神の性質を推し量ろうとするかもしれない。しかし、その努力は徒労に終わるであろう。この問題は私たちには解決できるものではない。いかなる人間の頭脳も神を理解することはできない。有限な人間は神を解釈しようとすべきではない。……この点においては、沈黙が雄弁である。全知の神は議論を超越しておられる」(『教会へのあかし』第8巻279ページ)。

教会の頭なるキリスト「キリストとキリストの教会との関係は非常に密接であり、また神聖である。キリストは花婿であり、教会は花嫁である。キリストはかしらであり教会は身体である。したがって、キリストにつながることはキリストの教会につながることになる。……

キリストに忠誠をつくす者には教会の義務を忠実に果たすことが要求される。これはわれわれの訓練の重要な一部分であって、救い主の生命の息の通っている教会にあっては、このことは直接に外部の世界に対する働きに通じている」(『教育』317、318ページ)。

「神を愛しながら、人を愛さないということはあり得ない」(日曜日の学び)。でも私は……。イエス様は大好きですが、私はすべての人を愛しているでしょうか。答えは「ごめんなさい……」。パウロは、人はクリスチャンになったらイエス様と全く同じようになる、とは教えていません。と同時に使徒は、私たちが愛の人に変えられていく秘訣を伝えています。それは「神を深く知ること」(エフェ1:17)です。以前罪の生活をしていたエフェソの人々が変えられたのは、真の神を知ったからです。「自然と聖書は神の愛をあかししています」(『キリストへの道』1ページ)。神様の創造された大自然と御言葉を通して、主ご自身を学ぶことを第一にしましょう。イエス様をもっと深く知り、信じるなら、私でも……。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

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