【エフェソの信徒への手紙】クリスチャンの生活【5章解説】#10

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「招きにふさわし」い生き方(エフェ4:1)についてのパウロの勧告はなおも続きます。彼は真剣にクリスチャンとして歩むように教えています(エフェ5:1~20)。パウロの手紙を少し読んだだけでも、彼がクリスチャンの歩みをいかにまじめに理解していたかがわかります。彼は決して恵みを軽く考えていませんでした。私たちはキリストの御業によって救われていますが、イエスにおいて与えられている救いにふさわしく生きるべきです。私たちは新しい命を与えられていますが、その新しい命を神の求められるように生きる必要があります。

今回の聖句(エフェ5:1~20)の中で、パウロはこのような生き方に含まれる五つの要素、つまり愛、さばき、光、知恵、聖霊のうちに歩むことについて教えています。語られていることは簡潔ですが、かつて闇の中を歩み、今は光の中を歩む者たちに期待されていることが余すところなく語られています。

愛によって歩む

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェ5:1、2)。

信じる者たちは神に倣う者となるように召されています。神なるキリストはすべてのこと、すなわち倫理、苦しみ、服従、仕事、祈り、とりわけ愛における私たちの模範です。したがって、私たちは愛によって歩むように教えられているのです。

今回の聖句から、少なくとも三つの原則が明らかになります。

第一に、キリストの愛は無我の愛です。それは“アガペー”の愛、つまり感情でなく原則にもとづいた愛、受ける価値のない他者の必要を満たそうとする外向性の愛です。神の愛はこのような愛です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)。愛によって歩むとは、愛することのできない人を愛することです。

第二に、キリストの愛は犠牲的です。キリストは最高の犠牲の模範です。彼は人類を贖うために、恥辱に満ちた十字架を負い、その命をささげられました(Ⅱコリ5:21)。愛によって歩むとは、他者に仕えるために自己を捨てることです。「弟子になるとは、苦しむキリストに忠誠を尽くすことを意味する。したがって、クリスチャンが苦しむように召されているとしても何ら不思議ではない」(ディートリヒ・ボーンヘッファー『弟子となることの代価』101ページ、1963年)。

第三に、キリストの愛は和解をもたらします。キリストは損なわれたあらゆる関係を回復し、完全な一致をもたらしました(ロマ5:10、Ⅱコリ5:18)。キリストの愛によって歩むとは、キリストの和解を告げ知らせる者となることです。

さばきを心に留めて生きる(エフェ5:3~7)

問1

エフェソ5:3~7を読み、次の質問に答えてください。

1)パウロはどんな罪について警告していますか。これらの罪はどんな意味で十戒に背くことになりますか(出20章参照)。

2)パウロはこれらの罪を「愛によって歩む」こととどのように対比していますか(エフェ5:2)。これらの罪が愛によって歩むことと矛盾するのはなぜですか(ネヘ1:5、ダニ9:4、ヨハ15:10、Iヨハ5:2、3、Ⅱヨハ1:6参照)。

3)エフェソ5:6の「むなしい言葉」は、前後関係から考えて、どんなことを意味すると思いますか(Iヨハ3:7参照)。

人生における悲劇の一つは、あたかも神がいないかのように、あるいは神がいてもいなくても問題でないかのように生きることです。こういう態度は、将来のことを考えないで現在のことだけに目を向けるような生き方を助長します。しかし、聖書の人生観によれば、歴史はある究極点に向かって動いていて、そのときになれば人間はみな神のさばきの前で責任を問われることを教えています(Ⅱコリ5:10、ヘブ9:27)。神に対する最終的な説明責任は避けることのできないものです。

パウロによれば、神の愛が人類の救いのために現されたのと同じくらい確実に、「神の怒りは不従順な者たちに下るのです」(エフェ5:6)。神の怒りとは悪と悪の子らの上にくだる神のさばきのことです。このさばきが確実であるゆえに、パウロは信じる者たちに、「彼ら〔「むなしい言葉」(6節)を語る者たち〕の仲間に引き入れられないようにしなさい」(7節)と訴えているのです。彼らは、なおも異教の哲学に執着し、罪の実在と罪に対する最終的なさばきを否定する偽りの教師たちでした。パウロが彼らとその哲学に近づかないように教えているのは、彼らがイエスの真理に反抗しているからです。パウロはこのような偽りの教えを警戒し、その責任者たちを、「神の怒り」が下る「不従順な者たち」と呼んでいます(6節)。クリスチャンには、そのような罪についての暗示や思い、戯れさえあってはならない、と教えています。

光のうちを歩む(エフェソ5:8―14)

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェ5:8)。

パウロは、クリスチャンの生き方を愛によって歩むことであると定義したあとで、切迫したさばきを心に留めて生きるようにと勧告しています。そして今、第三の側面に目を向け、光の子として歩むように教えています。彼はここでも、いつもの対照法を用いて、あなたがたは以前には暗闇の子でしたが、今は光の子となっています、と言っています(エフェ5:8)。

暗闇は古い生き方を現し、光は新しい生き方を現します。信じる者たちは暗闇から光に移っています(8節)。彼らは回心したときから、主にあって光となっています。すなわち、「わたしは世の光である」(ヨハ8:12)と言われたお方の品性を現す者となっています。

問2

私たちは「光」を、頭だけの知識、つまりある事実を知っていること、また「暗闇」を、ある事実を知らないことと考えがちです。確かにそうとも言えますが、もういちどエフェソ5:8~14を読んでください。パウロはここで、光によって歩むことを何と同一視していますか。それは頭だけの知識ですか。それともクリスチャンの道徳的生き方・行動ですか。

自分自身、道徳的汚れのない生活を送っていたパウロは、悪を行う者たちから遠ざかるように、さらにはそのような者たちを叱責するようにと私たちに教えています。

問3

エフェソ5:13を注意深く読んでください。言葉によらないでも悪を叱責することができることに関して、この聖句はどんなことを教えていますか。ヨハ3:20参照

あなたのうちの暗闇がだれかの生き方や態度、品性の光によって照らされ、叱責された経験はありませんか。あなたはどのように応答しましたか。謙虚な心と悔い改めをもって、その沈黙の譴責を受け入れましたか。それとも、その光を闇と呼ぶことによって(イザ5:20参照)、光から逃れたり、光と闘ったりしませんでしたか。

知恵によって歩む(エフェ5:15~17)

パウロによれば、私たちのクリスチャンとしての歩みは世のそれと異なったものでなければなりません。私たちは愛によって歩むべきです。すべての行いに対してさばきが臨むことを覚えなければなりません。努めて光の中を歩むべきです。パウロはさらに、知恵をもって歩むように教えています。

問4

聖書は何度も知恵について語っています。次の聖句はどんな知恵について語っていますか。Iコリ1:20、21、3:19、Ⅱコリ1:12

パウロがエフェソ5:15~17で語っている知恵・知識はこの種の知恵とは異なるものです。すでに学んだ通り、このような知識は単なる頭だけの知識や事実についての知識とは異なります(事実も有益なものですが)。前後関係から考えると、ここで言われている知識は私たちの行いと関係があります。知識の量に関係なく、知恵ある者は正しく振る舞い、知恵のない者は愚かに振る舞います。

問5

パウロの言う「無分別」(エフェ5:17)とはどんな意味ですか。次の聖句はどんな手がかりを与えてくれますか。詩編111:10、箴1:7、イザ33:6

この世界は神によってのみ存在します。万物は神の御心によってのみ存在します。したがって、知識とは可能な限りにおいて神の御心を知ることを意味します。私たちは神と神の御心を完全に知ることはできません。しかし、私たちに対する神の御心は、私たちが清く、聖なる生活、つまり神の愛と品性を反映した生活を送ることにあります。これが真の知恵です。この世で最も頭がいいと思われている人々の中にも、全くの無知と暗闇の中に生きている人々がいます。

聖霊に満たされて歩む(エフェソ5:18―20)

クリスチャンの歩みに欠かせない四つの原則に加えて、パウロは第五の、たぶん最も重要な原則をあげています。「霊に満たされ……なさい」(エフェ5:18、19)。聖霊に満たされたクリスチャンは愛と光、知恵とさばきによって信仰生活を続けるための活力を与えられます。啓発と活力は内住の聖霊によって与えられる二つの大きな祝福です。

問6

エフェソ5:18を読んでください。パウロがここで酒を引き合いに出しているのはなぜだと思いますか。何が言いたかったのでしょうか。ロマ6:16参照

パウロは酒を例として用いていますが、実際には信者から聖霊の力を奪うものなら何でもよかったのです。言い換えるなら、私たちは何ものによっても聖霊の影響力を妨げられてはならない、ということです。パウロは聖霊の働きの結果である新生と清めの経験に関して、深い神学的思想を述べているのです。すべてのクリスチャンは次のように自問してみる必要があります。「私の体と心と霊はだれの支配下にあるだろうか。酒、貪欲、欲望、あるいは神との歩みを妨げるものの支配下にあるだろうか。それとも、聖霊の支配下にあるだろうか」。聖霊だけが私たちを行くべき道に導いてくださいます。もしほかのものによって支配されるなら、必ず道をそれます。

問7

聖霊に満たされるなら、ほかのものに満たされる余地はありますか。聖霊に満たされることのほかに、パウロはどんなことを勧めていますか(エフェ5:19~21参照)。これらは互いにどんな関係にありますか。

まとめ

愛によって歩む

「キリストのみたまを吹きこまれる者はみなキリストが愛されたように愛するのである。キリストを動かした原則がお互いの間における彼らの態度の動機となるのである。

この愛は彼らが弟子であることの証拠である。『互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう』とイエスは言われた(ヨハネ13:35)。人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれるとき、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致があるとき、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である」(『各時代の希望』下巻167、168ページ)。

パウロは、5:3~5で、汚れたことと貪欲を避けるように命じた後、「それよりも、感謝を表しなさい」と勧めています(4節)。「汚れたこと、貪欲」が、「感謝」と対比されているのです。18~20節では、「酒に酔いしれる」かわりに「、讃美」と「感謝」をすることが勧められています。

ここで、「汚れたこと、貪欲、酒酔い」と、「讃美、感謝」の違いを考えてみましょう。どうして人は、讃美したり感謝したりするのでしょうか。それは、満足しているからです。コンサートで、手が痛くなるまで拍手するのは、演奏に満足した時です。同じように、神の業に不満を感じる時、人は心から神に感謝したり讃美を捧げたりすることができません。不満から、貪欲、汚れたことを行いたいという気持ち、そして酒に酔ってしまいたいという思いが生まれます。満足している心からは、そのような思いは生じないのです。サタンは、なぜ「神のようになろう」という思いを持つようになったのでしょうか。豊かに与えられていた神の祝福に満足しなかったからです。被造物の中で一番であっても満足せず、創造者のようになりたい、と思ったのです。

神に満足する一番の秘訣は何でしょうか。それは「どうしようもない罪人の私のために、イエス様が死んでくださった」と信じることです。イエスの十字架だけではだめだと不満をもらすなら、サタンの思うつぼです。キリストの死が完璧な贖いの供え物であることを認め、感謝し、神様を讃美しましょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

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