【エフェソの信徒への手紙】クリスチャンの関係【5ー6章解説】#11

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エフェソ1~3章は教会に関する基本的な神学について述べていました。4章以降はこの神学の実際的側面、とりわけ多様性の中にあって一致を守ること、クリスチャンの生き方、そして(これから学ぶ)適切な関係を強調しています。

結局のところ、キリスト教は関係、つまり神との、また人との関係の宗教です。家族や共同体との関係に影響を及ぼさないような神との関係は無意味です。教会、家庭、職場はクリスチャンの主要な活動領域です。教会の中では聖人、家庭の中では悪魔、ということはあり得ません。キリスト教は真空状態における清めではありません。それは全体における清めです。それは生活のあらゆる領域、つまり霊的、知的、肉体的、社会的な面にまで影響を及ぼすものです。

今回の研究では、クリスチャンの関係に目を向けます。

互いに仕え合う(エフェ5:21)

問1

エフェソ5:21で、パウロは何と言っていますか。

この聖句は18節の「霊に満たされ……なさい」という言葉と結びついています。

れいぞく けんそん

クリスチャンの服従は隷属ではなく、お互いに対する謙遜と思いやりの態度でなければなりません。言うまでもなく、このような態度は人間に生まれながら備わったものではなく、交わりや礼拝、賛歌や賛美、絶えざる感謝と同様、聖霊に「満たされる」ことの結果です(エフェ5:19、20)。

このように考えるなら、真の服従は一般的に考えられている服従とは異なります。聖書の教える服従は、一方が権威を行使し、他方が無条件にそれに従うという、専制的で、権威主義的で、不条理な関係ではありません。

パウロは服従に関する勧告に「キリストに対する畏れをもって」という句を付け加えています。夫と妻であれ、親と子であれ、主人と奴隷であれ、クリスチャンの行動と関係は服従を含みますが、それはキリストに対する畏れの念から出るものです。神は破壊者ではなく建設者です。専制的でも利己的でもなく、愛に満ちたお方です。キリストを敬うことはいかなる服従にも優先します。自分の良心と神の御心に背いてまで服従するように要求されるときには、ペトロの言うように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)。

一家の主人が妻や娘に生活費を稼ぐために売春しなさいと言うなら、どうしますか。父親が子供に麻薬の密売をしなさいと言うなら、どうしますか。服従すべきですか。いいえ、決して服従してはなりません。人間関係における服従は決して絶対的なものでも、無条件のものでもありません。その基準となるのが神の御心です。この基準を超えて服従を期待するようなクリスチャンはクリスチャンと呼ばれる資格がありません。このような人にクリスチャンとしての特権を与えてはなりません。「キリストに対する畏れをもって」服従することは、妻に対しては敬意を、夫に対しては尊厳と名誉を要求します。配偶者や子供に対する虐待が増えている今日、このことはますます重要な意味を持ちます。神の子らは人の言いなりになるべきではありません。

権威(エフェソ5:22、6:1、5)

妻、子供、奴隷の側における服従は権威についての問題を提起します。夫、父親、主人への服従はどんな権威から来るのでしょうか。エフェソ5:21には、「キリストに対する畏れをもって」仕えなさい、とあります。同じような表現はほかにもあります。「主に仕えるように」(22節)、「主に結ばれている者として」(6:1)、「キリストに従うように」(5節)などがそれです。こうしたキリストへの言及は、権威の構造に神の秩序があることを暗示します。パウロはこの点に関して詳しく述べていませんが、それでもキリストと教会の関係について、次のような参考になる類比を与えています。「キリストが教会の頭であり」「、教会がキリストに仕えるように(」エフェ5:23、24)。キリストが頭であることは、教会が従うべき模範です。同じように、夫、父親、主人が頭であることは、キリスト教によって確立された模範に従うものです。権威は横暴でもなければ、無制限でもありません。事実、パウロは、権威と服従は「教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(25節)キリストから来る、と言っています。このことは非常に重要です。家庭や家族といった組織体の秩序を守るために与えられている権威は、力ではなく愛を動機としています。同じように、服従は恐れや劣等意識ではなく愛を動機としています。

問2

創世記1:26、27、使徒言行録17:26、マタイ12:50、エフェソ3:6、ガラテヤ3:28は、クリスチャンの人間関係についてどんなことを教えていますか。

私たちはみな主の前に同等の存在、神の恵みを必要とする罪人です。権威と服従の観念はゆがめられてはいますが、だからといってそれらが聖書的でないとは言えません。権威ある立場にある者たちは、自分たちが神に対して、また部下に対してどんな関係にあるかをつねに覚えるべきです。この役割を誤解することは、一羽の雀さえ地に落ちることをお許しにならない主の前に罪を犯すことです(マタ10:29~31)。

夫と妻(エフェ5:22~25)

この聖句を読むと、結婚が夫と妻を対等のパートナーとする聖なる制度であることがわかります(創2:24、エフェ5:31参照)。両者の結びつきと同等性は「二人は一体となる」(エフェ5:31)という神の言葉のうちに強調されています。このことを、キリストが二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにされたと述べているエフェソ2:14と比較するとき、結婚と教会が共に神に起源を持つことがわかります。

さらに、キリストと教会は密接な関係にあります。キリストは頭であり、教会は体です(エフェ5:23)。この比喩から、少なくとも次のことがわかります。(1)体としての教会は頭としてのキリストに従属する。(2)頭としてのキリストは体である御自分の教会を愛し、教会のために死に、教会を救い、教会を清められた。

服従と愛は夫と妻を敵対させるものではなく、むしろ両者を結びつけます。服従は自分自身を完全に相手にささげることです。愛も同じであって、キリストのように人のために自分の命をささげることです。

問3

キリストと教会の関係についての比喩は、夫と妻の関係を理解する上でどんな助けになりますか。どんな力が最高の動機となるべきですか。ロマ5:8、Iヨハ4:10、11、ユダ21参照

キリストと教会とのこの密接な関係は夫と妻との間にも見られるべきです。パウロ(ペトロも)は「、妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」(エフェ5:22)と言っていますが(コロ3:18、Ⅰペト3:1参照)、同時に、夫たちに対して自分の妻を愛するようにとも言っています(エフェ5:25、28、コロ3:19参照)。この愛は保留のない、犠牲的なキリストの愛を模範にしています(エフェ5:25)。夫が頭であることは結婚関係における横暴ではなく、責任を意味します。一方、服従は隷属ではなく、栄誉、誠実、尊敬を意味します。もちろん、人間の弱さは認めなければなりません。自分の妻を奴隷のように扱い、執拗に虐待する夫がいます。しかし、それは文化的な問題、罪の問題であって、パウロはここでは扱っていません。

親と子(出20:12、エフェソ6:1―4)

キリスト教ほど、子供のために貢献した宗教・哲学はありません。英国の政治家で、敬虔なキリスト教徒でもあったウィリアム・ウィルバーフォースは英国における児童労働を廃止しました。英国最初のキリスト教宣教師ウィリアム・ケアリはインドにおける児童結婚と寡婦焼殺を廃止するために尽力しました。今日でも、インド南部の田舎に行くと、女の赤ちゃんを絞殺したり、毒殺したりする風習が残っています。キリスト教の病院や教会では、玄関にカゴを用意してあります。そうすれば、だれにも知られずに、そこに女の赤ちゃんを捨てることができます。使徒パウロの時代のローマでは、もっとひどいことが行われていました。ローマの政治家セネカは「、我々は獰猛な雄牛を屠殺する。我々は狂った犬を絞め殺す。我々は伝染するのを防ぐために病気の牛を殺す。我々は病弱で、奇形の子供が産まれたら溺死させる」と記しています(バークレイ『ガラテヤの信徒、エフェソの信徒への手紙』176ページ)。

こんな時代に、有名なローマの都市エフェソに住むクリスチャンの両親や子供に宛てて書いた偉大な使徒パウロの手紙の中で、自分たちがこのように認められているのを知って、子供たちは大いに喜んだことでしょう。

問4

どんな二つのことが子供たちに期待されていますか。親と子に関するパウロの言葉は、夫と妻に関する彼の言葉とどんな点で似ていますか。どんな点が異なりますか。エフェ6:1~4(同5:22、コロ3:18参照)

クリスチャンの画家は神の律法を、神に対する人間の義務である初めの4条と、同胞に対する後の6条の二枚に分けて描きます。しかし、ユダヤ人は各板に5条ずつ描きました。両親を敬うことが神を敬うことと同じであると見なしていたからです。

服従は両親に依存しているあいだ子供に要求されますが、両親を敬うことは一生のあいだ続く義務です。

パウロは両親に、「子供を怒らせてはなりません」(エフェ6:4)と勧告しています。子供を怒らせるのはどんなことでしょうか。良くない模範を示すこと、偽善、首尾一貫していないこと、厳格すぎること、などです。

奴隷と主人(エフェ6:5~9)

パウロの時代のローマ帝国には、何百万という奴隷がいました。たいていの場合、奴隷は家畜以下の扱いを受けていました。アリストテレスのような偉大な人間でさえ、奴隷は労働の道具にすぎないと教えていました。神から与えられた権利や尊厳を無視して、一人の人間が一人の人間を所有することは、パウロにとっては不快なことだったに違いありません。

パウロはエフェソの奴隷たちに、あたかもキリストに従うように自分の主人に従い、働きなさい、と勧めています(エフェ6:5)。「人にではなく主に仕えるように」、誠意と善意をもってなされた働きは報いられないことがありません(7、8節)。奴隷は自分の境遇を変えることはできないが、克服することはできるということを、パウロは認めていました。ここに、学ぶべきキリスト教の哲学があります。つまり、私たちは当面、悪を滅ぼすことはできないが、悪によって滅ぼされる必要もない、ということです。

問5

聖書は直接的には奴隷制度を非難していませんが、次の聖句はこの制度の背後にある原則をどのように否定していますか。マタ22:39、マコ10:44、ルカ6:31、ロマ12:10、フィリ2:3、Iヨハ4:11

主人たちへのパウロの勧告は、非常に明白です。彼らにも天に主人がおられて、このお方から恵みと罪の赦しを受けているのだから、彼らも奴隷たちを脅すことなく、親切に扱うべきである、というのです(エフェ6:9)。

パウロがこれ以上のことをしなかったのはなぜでしょうか。「既成の社会制度を独断的に、あるいは急にくつがえすことは使徒パウロの仕事ではなかった。これを試みようとすれば、福音の成功が阻まれるであろう。しかし彼は、奴隷制度の根本にある原則、しかも、それが実行されれば奴隷制度全体を揺るがせること必然であろうと思われる原則を教えた」(『患難から栄光へ』下巻152ページ)。

パウロの伝道は実を結び、多くの主人たちが自分の奴隷たちと共に熱心なクリスチャンになりました。フィレモンがよい例です。パウロは、逃亡奴隷のオネシモをフィレモンに送り返すにあたって、オネシモを「もはや奴隷としてではなく……愛する兄弟として」受け入れるように書いています(フィレ16)。

まとめ

親と子

「親たる者たち、神はあなたがたに自分の家族を天の家族の模範とするように望んでおられる。あなたがたの子供たちを守りなさい。彼らに対して親切で、優しくありなさい。父親、母親、子供たちは愛という黄金のきずなで結ばれるべきである。よく秩序のとれた、よく訓練された一つの家族は、世界のすべての説教以上にキリスト教の有用性を証明する力となる」(『SDA聖書注解』第6巻1118ページ、エレン・G・ホワイト注)。

夫と妻

「多くの夫たちは主に従っていないために、妻に対する彼らの関係は、教会との関係における主イエスを正しく表していない。彼らは、妻はすべてのことにおいて自分に服従しなければならないと主張する。しかし夫がキリストに服従しないのに家長としての支配権を持つということは神のご計画ではない。夫は教会との関係におけるキリストを代表することができるように、彼自身キリストの支配の下にいなければならない。夫が粗野で乱暴で、高慢で利己主義で、苛酷で威張った人であるなら、彼は主人または夫という言葉が真に意味する人物ではないから、夫が妻のかしらであり、妻はすべてのことにおいて服従しなければならないなどとは一言もいわせてはならない」(『アドベンチスト・ホーム』119ページ)。

パウロは5:22~6:9で「妻と夫」「子と親」「奴隷と主人」についての勧めを書く前に、こう書きました。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(5:21)。この言葉は、その後に書かれていることの要約であると言っていいでしょう。ここでパウロは、「キリストに対する畏れ」の重要性を認めています。「神を畏れること」は、旧新約聖書全体を通じて大きなテーマです。箴言1:7は有名です。「主を畏れることは知恵の初め。」問題は、どうしたら、人は真の意味で神を畏れるようになるのか、ということです。神の裁きを思う時、人は神を畏れるのでしょうか。私たちが、心からキリストを畏れるのは、何ゆえでしょうか。詩編130編に、その答えが記されています。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(3、4節)。神が赦しの神であるから、私たちは神を畏れるのです。私たちを赦すために十字架で死んでくださったキリストの愛のゆえに、私たちはキリストを畏れます。そのような畏れを持つ時、私たちはお互いに仕え合うようになっていくのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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