【エフェソの信徒への手紙】クリスチャンの武具【6章解説】#13

目次

この記事のテーマ

神のすべての武具

「クリスチャンの生涯は戦いと進軍である。この戦いには休息がない。つねに努力し、忍耐をしなければならない。サタンの誘惑に勝利してゆくには絶え間ない努力がいる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』435ページ)。

サタンとの戦いは避けることのできないものです。しかしながら、私たちには二つの約束が与えられています。第一に、キリストは十字架の上ですでにサタンに勝利し、その勝利は私たちのものとなっています(ガラ2:20)。第二に、キリストは「神のすべての武具」(エフェ6:11、新改訳)を私たちに与えておられます。パウロが「すべての」武具と言っていることに注意してください。彼はここで、少なくとも六つの武具をあげています。どれも必要なものばかりです。なぜなら、これらはひと揃いのものとして神によって鍛造され、用意されているからです。一つでも欠けるなら、全体が弱くなります。

今回は、六つの武具のうちの五つについて考えます。最後の一つは来週の研究にゆずります。

「真理を帯として腰に締め」(エフェ6:14)12月18日

「真理とは何か」(ヨハ18:38)と、ピラトがイエスに尋ねた質問は、人生における最も重要で、繰り返しなされる質問の一つでしょう。以下はこれに対する人間の代表的な答えです。真理とは論理的なものである。真理とは有用なものである。真理とは相対的なものである。真理とは実験に耐えうる観察である。真理とは自分の宗教や司祭が教えるものである。

問1

次の聖句は、真理についてどんなことを教えていますか。詩編31:6(口語訳31:5)、イザ65:16、詩編43:3、ヨハ17:17、詩編86:11、Ⅲヨハ4、ヨハ14:17、ヨハ14:6

キリスト教の真理は単なる観念や哲学、あるいは合理的・論理的陳述ではありません。クリスチャンにとって、真理とは人、すなわち「神の満ちあふれる豊かさ(」エフェ3:19)と神の真理とが啓示されているイエス・キリストです。イエスという真理は人を救い、贖う真理です。それは罪に対して死ぬことを要求します。それは義なる生き方、道徳的高潔、霊的結合、神の御心への服従を要求します。真理は私たちの信じるものと行うことの両方を含みます。キリストに全的に献身することによってのみ、私たちは罪と偽りの世にあって真理によって守られます。それゆえ、パウロは次のように勧告しています。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ロマ13:14)。

新約聖書の時代、ローマの兵士たちは行進のじゃまにならないように着物を帯(ベルト)で縛りました。クリスチャンの帯は真理です。私たちの内にあるものや外にあるものが霊的な戦いのじゃまにならないように、私たちは体全体をイエスという真理でおおわなければなりません。私たちが真理にして変わることのないイエスに従っているか否かは、その言葉と生活、礼拝と働きのうちに現されます。

正義の胸当て(エフェ6:14)

クリスチャンの二番目の武具は正義の胸当てです。もしキリストのうちに啓示された神の真理がクリスチャンの生命と高潔さの基礎であるなら、その生命は正義の胸当てによって保護される必要があります。ローマの兵士は生命維持に欠かせない重要な器官を敵の攻撃から守るために、首から太ももをおおう金属製の大きな胸当てをつけていました(今日の防弾チョッキに似ている)。クリスチャンの生命は金属製の胸当てによってではなく、神のうちに起源と手段を持つ正義によって守られます。

問2

次の聖句は正義(義)について何と言っていますか。ロマ1:16、17、Iコリ1:30、Ⅱコリ5:21

義は神御自身の際立った特徴であって(イザ59:17、ロマ3:26、Ⅱテモ4:8)、私たちを罪から贖ってくださったキリストを通して啓示されています(ロマ1:16、17)。神が私たちを義としてくださる、つまり私たちを義なる者と宣言し、その罪を赦してくださるのは、キリストを通して啓示されたこの義によってです。このように、キリストの義は神との正しい関係を可能にします。神と正しい関係にあること以上に、サタンの攻撃から私たちを守ってくれるものはありません。

したがって、「私たちの義なるキリスト」は私たちの胸当てです。神の側に立つこと、キリストの義でおおわれること、神の救いの恵みに忠実であることは、悪魔に次のように布告することです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。……だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」(ロマ8:31~34)。

問3

神との正しい関係である義は、クリスチャンの日ごとの生活においてどのように現されますか。ロマ6:10~14

神との正しい関係としての義は人を正しい生き方に導きます。それはキリストの弟子となる、つまりキリスト御自身の品性を反映する生き方をするようにという招きです。義とされることは、キリストに似る者となることです。つまり、神の律法に従順で、道徳的に正直で、高潔・誠実で、キリストの愛をすべての人に伝える者となることです。

平和の福音を履く(エフェ6:15、イザ52:7)

問4

エフェソ6:15を読んでください。パウロはこの聖句によって何を言おうとしたと思いますか。

パウロはほかの聖句でも軍隊の比喩を用いているので、ここでもローマの軍隊で用いられていた靴や長靴のことを言っていると思われます。ローマの兵士がはく靴は戦いのときにしっかりと地面を捉えるものでなければなりませんでした。敵と戦っているときに滑ったり、転んだりするようでは用をなしません。

同じように、クリスチャンも霊的な戦いに勝利するためには、福音の真理にしっかりと立つ必要があります。『新英語聖書』はエフェソ6:15を次のように訳しています。「足もとを安定させるために、平和の福音をあなたの足の靴としなさい」。足は私たちの基礎であって、体全体を安定させるにはしっかりとした基礎の上に立つ必要があります。したがって、平和の福音は私たちの信じるものの基礎です。事実、ほかにどれほど重要な真理が与えられていようとも、もしイエス・キリストに対する信仰によってのみ救われるという福音の基礎の上に立たないなら、ほかの真理はすべて崩壊してしまいます。

問5

黙示録14:6~12にある三天使のメッセージを読んでください。福音が私たちの教えの基礎であることについて、これらの聖句は何を教えていますか。

パウロが「平和の福音」という表現を用いていることに注目してください。聖書の言う福音は消極的な意味を持つ言葉ではなく、むしろ積極的な意味を持つ言葉です。それは罪と自己に打ち勝つことからくる安定を意味します。平和は関係を表す言葉です。つまり、私たちと神との和解(ロマ5:1)、また人間社会、特に信仰の共同体としての私たち相互の一致を表す言葉です。このようなわけで、クリスチャンはいつでも平和を追い求めるように教えられています(Ⅱテモ2:22、Ⅰペト3:11)。神との関係、人との関係が疎遠になるとき、私たちはクリスチャンとしての使命感を失い、サタンの誘惑にさらされることになります。

信仰の盾(エフェ6:16)

この聖句はクリスチャンの重要な武具の一つである信仰について二つのことを教えてくれます。

第一に、「なおその上に」、信仰を盾として取りなさい、と言われています。「なおその上に」とは、信仰が最も重要だというのではなく、むしろ必要不可欠なものという意味です。要するに、パウロはここで「、これらすべてのもののほかに(」グッドスピード訳)、あるいは「これらすべてのものと共に」(新国際訳)、信仰を盾として取りなさい、と言っているのです。

第二に、信仰はクリスチャンの生活と勝利の基礎となるものです。

問6

ヘブライ11:6は信仰の役割について何と教えていますか。エフェソ6:16とどんな関係にありますか。ヤコブ2:18~20は聖書の信仰を理解する上でどんな助けになりますか。

これらの聖句に出てくる信仰は何を意味するのでしょうか。それは「何かを信じる」ことではなく、むしろ「何かに信頼する」ことです。前者はある教理の体系に頭で同意することですが、後者は神に信頼すること、神の言葉と約束に絶えず信頼することです(エフェ4:13)。このような永続的な信頼は、信仰が盾として機能する上で欠かすことのできないものです。

「信仰とは神に信頼すること、すなわち神がわれわれを愛し、われわれの幸福にとって最善であるものをご存知であることを信じることである。そのときわれわれは自分自身の道を選ばず、神の道を選ぶようになる。信仰によってわれわれは、無知の代わりに神の知恵を受け入れ、弱さの代わりに神の力を、罪の代わりに神の義を受け入れる。われわれの生命、われわれ自身がすでに神のものである。信仰は神の所有権をみとめ、その祝福を受け入れる」(『教育299ページ)。

このような信仰は、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消す」(エフェ6:16)力を私たちに与えてくれます。敵の火の矢は、誘惑、疑い、欲望、失望、試練、反逆、罪悪感といったさまざまな方角から飛んできます。

ローマ人の盾は堅い木と革でできていて、高さが約1.2メートル、幅が約60センチで、周囲を鉄で保護されていました。片手に盾、片手に剣(来週の研究)を持つことによって、兵士は防御と攻撃の両方に備えていました。変わることのない神に対する信仰は勇気をもってサタンに抵抗する確信を与えてくれます。神は「拠り頼む者の盾」です(箴30:5、新改訳)。

救いの兜(エフェ6:17、テサ5:8)

アルバートはハンサムで、頭のよい、有望な青年でした。彼は両親の誇りで、音楽とコンピューターと聖書を教えて、教会と近隣の祝福となっていました。子供たちには慕われ、大人たちには将来が期待されていました。しかし、18歳になったとき、悲劇がアルバートを襲いました。両親と教会は悲しみのどん底に突き落とされました。隣に住む老人のために、近くの店に買い物に出かけた直後、猛スピードで走ってきたトラックにバイクごとはね飛ばされ、頭を強打しました。検屍の外科医が言いました。「頭部にひどい傷を負っています。ヘルメットさえかぶっていたなら……」。

ヘルメットは頭を保護するためにかぶります。世界の多くの国々では、危険から身を守るためにヘルメットをかぶることを法律で義務づけています。パウロの時代には、青銅や鉄などの丈夫な金属でできた兜は兵士の標準的な装備でした。どんな剣もそれを切り裂くことができませんでした。

クリスチャンの戦いにおいても、同じことが言えます。彼らは意志の中枢を守るために兜をかぶらなければなりません。何に忠誠を尽くし、何に希望を抱くかといった重要な決定はここでなされるからです。パウロはこの兜を、キリストにおいて与えられている救いと同一視しています。

問7

テサロニケIの5:8で、パウロは、兜をどんな比喩として用いていますか。このことは救いを理解する上でどんな助けになりますか。

私たちクリスチャンは「救いの希望」(Ⅰテサ5:8)をもって生きなければなりません。私たちはこの希望を持つことができます。しかし、それは私たちの行いのうちにあるのではありません。感謝すべきことに、私たちに「救いの希望」をもたらすのはイエスの行い、イエスの業績、イエスの清めです。もしこの希望がほかの何かによって得られるのであれば、その希望は遅かれ早かれ消滅してしまいます。

このようなわけで、たとえサタンが私たちの救いを疑わせるようなことがあっても、恐れるには及びません。キリストのうちにとどまり、救いの兜をかぶっている限り、キリストは私たちの保証です(ヨハ6:37~39、ロマ8:31~39、Ⅰペト1:3~10)。

まとめ

神の武具「神の武具を身に着けているなら、敵の攻撃は私たちに対して力を持たない。神の天使たちが周りにいて、私たちを守ってくれる」(『SDA聖書注解』第6巻1119ページ)。

真理の帯「真理のほかに、悪に対する防衛手段は何もない。心に真理を宿していない者はだれも、正義のために固く立つことはできない」(エレン・G・ホワイト『天上で』179ページ)。

正義の胸当て「キリストの義の衣を着ている者たちはみな、選ばれた者、忠実な者、真実な者として神の前に立つ。サタンは彼らを救い主の手から奪う力を持たない。キリストは、悔い改めと信仰をもって御自分の守りを求める魂が敵の力に遭遇するのをお許しにならない」(エレン・G・ホワイト『神の驚くべき恵み』31ぺージ)。

信仰の盾「人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係にはいる一つの取引きである。真の信仰はいのちである。生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する」(『各時代の希望』中巻75ページ)。

今回取り上げられている「神の武具」は、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、です。

さて、真理だけを持っている人なんているのでしょうか。正義だけを持っている人は?そういう人はいないのではないか、と私は思います。すべてを持っているか、全部持っていないか、のどちらかではないでしょうか。サタンは、これらを一つも持っていません。どんなに力強く、どんなに豊かなタラントを持っていても、悪魔は、真理も、正義も、福音も、信仰も、救いも、どれも所有していないのです。本当に哀れです。反対に、どんなに弱々しい者でも、「主に依り頼」んでいるなら(6:10)、その人は、すべてを持っています。ですから、信仰についてのみ「なおその上に信仰を」(16節)と言われているのではないでしょうか。神に信頼している人は、「神の武具」を身に着けています。だから安全です。キリストとキリストの業に、信頼し続けましょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次