【ガラテヤの信徒への手紙】信仰への道【3章解説】#7

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伝書鳩は1日に数百キロも飛び、驚くほどの正確さで目的地に到着できる能力で昔から知られています。しかし、最も優れた伝書鳩でさえ、時折方向がわからなくなり、出発点へ戻って来ないことがあるのです。最悪の事件がイギリスで起こりました。その時、およそ2万羽の鳩(価値にして6000万円ほど)が鳩舎に二度と戻ってきませんでした。

私たちのほとんどがあれやこれやで体験したことがあるように、方向がわからなくなったり、道に迷ったりするというのは、楽しくないものです。それは私たちを恐れと不安で満たし、パニックの瞬間をもたらすこともあります。

同じことは霊的な領域でも言えます。私たちはキリストを受け入れたあとでさえ道に迷ったり、主のもとへ二度と戻って来られないほど方向がわからなくなったりすることがあるのです。しかし、ありがたいことに、神は私たちを独りにはなさいません。福音に明らかにされているように、神は信仰への道を正確に示してくださり、その道には律法が伴います。多くの人が律法を福音から分けようとします。両者を矛盾するものだと考える人たちさえいます。このような見方は間違っているばかりか、悲劇的な結果を招きかねません。律法なしに、私たちは福音を得られないでしょう。律法なしに福音を理解することは、実に困難です。

律法と約束

「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか」(ガラ3:21)。パウロは、彼の言葉によって敵が、「パウロは律法を過小評価している」とか、「神の約束の優位性に関するパウロの言葉は、モーセとモーセ五書を遠回しにこき下ろしているのだ」と結論を下すかもしれないことを察して、まさに彼らが考えている質問をします。「律法は神の約束に反するものだとあなたは言っているのか」と。これに対してパウロは、「決してそうではない」という言葉で答えます。神が御自分に反対なさることはありませんから、そのような結論は不可能です。神は約束と律法の両方をお与えになりました。律法は約束と対立しません。両者は、神の救済計画全体の中で異なる役割と機能を持っているにすぎないのです。

律法の役割について、パウロの敵は誤った考えを持っていました(ガラ3:21、レビ18:5、申6:24を比較)。この人たちは、律法が霊的な命を彼らに与えることができると信じていました。彼らの見解は、たぶんレビ記18:5や申命記6:24のような旧約聖書の聖句の誤解から生じたのでしょう。それらの聖句では、神の契約の内にいる者たちがいかに生きるべきかを、律法が命じています。律法は契約の範囲内で生活を規制しましたが、彼らは、律法が神と人の関係の源だと結論づけたのです。しかし、聖書は明快です。「生かす」能力は、神と神の霊によってのみ行使される力なのです(王下5:7、ネヘ9:6、ヨハ5:21、ロマ4:17)。律法はだれをも霊的に生かすことができません。しかしこのことは、律法が神の約束と対立するという意味ではありません。

律法が命を与えられないということを証明しようとして、パウロはガラテヤ3:22に、「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」と記しています。また、彼はローマ3:9〜19において、私たちがいかに悪いかを示すために、旧約聖書から抜き出した一連の聖句を引用しています。これらの聖句は、でたらめな順序でつなぎ合わされているのではありません。彼は罪という問題の核心(人間の心に巣食っている利己的な態度)から始め、罪の広がり、最後には罪の普遍性を説明する聖句へと移って行きます。

彼は何が言いたいのでしょうか。罪の深さと律法の限界のゆえに、永遠の命の約束は、私たちのためのキリストの忠実さによってしか与えられないということです。ここにもまた、宗教改革を推進した大いなる真理があります。

「律法の下で」

パウロはガラテヤ3:23で、「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され……ていました」と書いています。「わたしたち」とは、ガラテヤの諸教会のユダヤ人信者たちのことです。彼らは律法に詳しく、ガラテヤ2:15から、パウロはとりわけ彼らに向かって語りかけてきました。このことは、ガラテヤ3:23の「わたしたち」とガラテヤ3:26の「あなたがた」の対比の中に見て取れます。

ガラテヤ3:23には「信仰が現れる前に」と書かれていますが、原語のギリシア語を文字どおりに読めば、「その信仰が現れる前に」となります。パウロは、キリスト以前とキリスト以後の律法の立場を対比しているので(ガラ3:24)、「その信仰」という言葉は、一般的なキリスト教信仰のことではなく、キリスト御自身のことを指していると思われます。パウロは、キリストの初臨前にユダヤ人は「律法の下で」監視されていた、と言っています。(ガラ3:22、23とロマ6:14、15、Iコリ9:20、ガラ4:4、5、21、5:18を比較)。パウロは彼のさまざまな手紙の中で、「律法の下で」という言葉を12回用いています。文章の前後関係によって、この句にはいくつかの異なる意味合いがあります。

①救いの代替方法としての「律法の下で」(ガラ4:21)——ガラテヤの敵は、命を与える義を服従によって得ようとしていました。しかし、パウロがすでに明らかにしたように、それは不可能です(ガラ3:21、22)。パウロはのちに、ガラテヤの人たちは律法の下にいようと願うことによって、実のところキリストを拒んでいるとさえ指摘しています(同5:2〜4)。

②律法の有罪判決の下にあるという意味での「律法の下で」(ロマ6:14、15)——律法は罪を贖うことができないので、それを犯すことは最終的に有罪判決を招きます。すべての人が見いだす自分の状態とは、まさにこの状態です。律法は刑務所長の役割を果たします。律法を犯した者たちをすべて収監し、死刑判決を下すのです。明日の研究で触れるように、「監視」(ガラ3:23)という言葉が使われている事実は、この聖句においてパウロが「律法の下で」という言葉によって意味しているのはこれであることを示しています。

通常、「律法の下で」と訳されるギリシア語の類語「エンノモス」は、文字どおりには「律法の内側で」を意味し、キリストと一体になることで律法の要求の内側で生きることを指します(Iコリ9:21)。「律法の実行」によって、つまりキリストから離れて律法を守ろうとすることによって義と認められることは不可能です。なぜなら、信仰による義人のみが生きるからです(ガラ3:11)。この真理は律法を無効にしません。それは、律法が私たちに永遠の命を与えられないことを示しているにすぎません。

私たちの「監視」としての律法

パウロは律法に関して二つの基本的な結論を出します。①律法は、アブラハムに対してなされた神の約束を無効にしたり、廃棄したりしない(ガラ3:15〜20)。②律法は、その約束と対立するものではない(同3:21、22)。

では、実際に律法はどのような役割を果たすのでしょうか。パウロは、律法が付け加えられたのは「違犯を明らかにするため」(ガラ3:19)であると書き、律法に関連する三つの異なる言葉(23節の「監視され(る)」「閉じ込められ(る)」、24節の「養育係」)を用いて、この考えを詳しく説明しています。

祈りつつ、注意深く、ガラテヤ3:19〜24を読んでください。ほとんどの現代語訳の聖書は、ガラテヤ3:19の律法に関するパウロの言葉を、否定的な言葉で翻訳しています。しかし、原語のギリシア語はそれほど一面的ではありません。「監視され(る)」(ガラ3:23)と訳されているギリシア語の文字どおりの意味は、「保護する」です。この言葉は、「服従させる」とか「見張(る)」(IIコリ11:32)といった否定的な意味でも用いられますが、通常新約聖書の中では、「守る」(フィリ4:7、Iペト1:5)というもっと肯定的な意味を持っています。「閉じ込められ(る)」(ガラ3:23)と訳されている言葉にも、同じことが当てはまります。この言葉は、「閉ざ(す)」(創20:18)、「ふさ(ぐ)、閉じ(る)」(出14:3、エレ13:19)、「はい(る)」(ルカ5:6、口語訳)、「閉じ込め(る)」(ロマ11:32)とも訳すことができるのです。これらの例からもわかるように、文章の前後関係によって、この言葉は肯定的な意味を持つこともあれば、否定的な意味を持つこともあります。

律法(道徳律、礼典律)はイスラエルの子らに、利益をもたらしました(ロマ3:1、2、申7:12〜24、レビ18:20〜30)。律法について、パウロは否定的な言葉で語ることもできましたが(ロマ7:6、ガラ2:19)、その一方で、肯定的なことをたくさん語っています(ロマ7:12、14、8:3、4、13:8参照)。律法は、神がイスラエルにかけた呪いではありません。むしろ、律法は祝福となるように意図されていました。結局、律法の犠牲制度は罪を取り除くことはできませんでしたが、罪を取り除くことのできる約束のメシアを指し示していました。そして、人間の行動を導くその律法は、ほかの古代文明にはびこっていた多くの不道徳からイスラエルを守ったのでした。ほかの箇所でパウロが律法について肯定的に語っていることを踏まえるなら、ここでの彼の言葉を否定的に理解することは誤りでしょう。

私たちの養育係としての律法

パウロはガラテヤ3:23において、保護する力、守る力として律法を説明しています。24節で、彼は律法を「養育係」にたとえています。「養育係」と訳されている言葉は「パイダゴーゴス」というギリシア語に由来します。「教育係」「家庭教師」「保護者」などと訳している聖書もありますが、一つの言葉でその意味を十分に含めることはできません。「パイダゴーゴス」とはローマ社会における奴隷で、主人の息子が6、7歳になった頃から成人するまで、彼らに対する権限を持つ立場に置かれた者のことでした。風呂に水を汲み、食事や服を与え、危険から守ることなど、世話を託された人の肉体的必要を提供することに加え、「パイダゴーゴス」は、きちんと主人の息子を学校へ通わせ、宿題をさせる責任も負っていました。加えて彼は、道徳的美徳を教え、実践するだけでなく、確実に少年たち自身が美徳を学び、実践するようにさせることも期待されていたのです。

養育係の中には、親切で、被保護者(主人の息子)から愛された人もいたに違いありませんが、古代の文献の中での彼らに関する描写は、たいてい非常に厳格な人たちです。彼らは過酷な脅しや叱責によってばかりでなく、むちや杖でたたくことによって確実に服従させました。

養育係としての律法というパウロの説明は、律法の役割に対する彼の理解を一層明らかにしています。律法が加えられたのは、罪を指摘し、指導するためでした。この任務のまさに本質は、律法も否定的な側面を持つことを意味します。それゆえに、律法は私たちを罪人として非難し、罪に定めるのです。しかし、この「否定的な」側面でさえ、神は私たちの利益のためにお用いになります。なぜなら、律法がもたらす有罪宣告は、私たちをキリストへと駆り立てるものだからです。それゆえ、律法と福音は矛盾しません。神は私たちの救いのために、両者が協力して働くように意図されたのでした。

「この聖句〔ガラ3:24〕の中で、聖霊は特に道徳律について、使徒〔パウロ〕を通じて語っておられる。この律法は、私たちに罪を示し、キリストの必要を感じさせる。そして、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰を用いることで、赦しと平安を求めて私たちを彼のもとへ逃れさせるのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻234ページ、英文)。

律法と信者

ガラテヤ3:25におけるパウロの言葉を、多くの人が律法の完全な放棄だと解釈してきました。しかしそのような解釈は、(聖書のほかの箇所での)律法に関するパウロの肯定的な言葉を踏まえるなら、ほとんど意味を成しません。

では、彼はどういう意味で言っているのでしょうか。

第一に、私たちはもはや律法の有罪宣告の下にはいません(ロマ8:3)。信者として、私たちはキリストに結ばれており、恵みの下にいる特権を享受しています(ロマ6:14、15)。そのことによって、私たちはキリストにお仕えする過程で犯すかもしれない過ちを非難されることを恐れずに、心からお仕えする自由を得ています。これが福音における真の自由です。それは、ある人たちがキリストによる「自由」だと主張するところの、もはや律法には従う必要がないということとは根本的に異なります。しかしその代わりに、律法に従わないことは罪であり、罪は自由などでは決してありません(ヨハ8:34)。

ローマ8:1〜3を読んでください。キリストによって赦された結果として、私たちと律法との関係は今や異なります。私たちは今や、神に喜ばれる生き方をするように召されているからです(Iテサ4:1)。パウロはこのことを、霊によって導かれると呼んでいます(ガラ5:18)。これは、道徳律はもはや適用できないという意味ではありません。私たちは、律法が罪を明らかにするものであるとはっきり知ったのに、どうしてそんなことがありうるでしょうか。

そうではなく、律法は神の御品性の写しですから、私たちは律法を守ることによって神の御品性を反映するということです。しかしそれだけでなく、私たちは単に一連の規則を守るのではなく、律法がなしえなかったことを私たちのためにしてくださるイエスの模範に従うのです。イエスは私たちの心に律法を書きつけ(ヘブ8:10)、律法の義の要求が私たちの中で満たされるようにしてくださいます(ロマ8:4)。言い換えれば、イエスとの関係を通して、かつてなかったほど、私たちは律法に従う力を得るのです。

さらなる研究

「私はガラテヤ書における律法について質問される。どの律法が私たちをキリストのもとへ連れて行く養育係なのか、と。十戒という道徳律と礼典律の両方だと、私は答えている。

キリストはユダヤの制度全体の基礎であった。アベルの死は、服従の学校における神の御計画、つまりキリストを指し示すいけにえによって予表されたイエス・キリストの血によって救われることを、カインが拒んだ結果であった。カインは、この世のために流されるキリストの血を象徴する血を流すことを拒絶した。この儀式全体が神によってつくられたものであり、キリストはその制度全体の基礎になられた。罪深い人間にユダヤの制度全体の基礎であるキリストを考えさせることが、養育係としての律法の働きの第一歩なのである。

聖所に関連する奉仕をした者たちはみな、人間のためのキリストの介入に関して絶えず教育されていた。その奉仕は、神の律法に対する愛をすべての人の心に生み出すよう意図されていたのであり、愛が神の王国の律法なのである」(『セレクテッド・メッセージ』第1巻233ページ、英文)。

「十戒という律法は、禁止の側面からではなく、憐れみの側面から見られるべきである。律法の禁止は、服従による幸福の確かな保証である。律法はキリストにあって受け入れられるとき、私たちの中で、永遠にわたる喜びを私たちにもたらす品性の純化の働きをする。服従する者たちにとって、それは防御壁なのである」(同235ページ、英文)。

まとめ

律法は罪人たちに、キリストの必要性を指し示すために与えられました。養育係として、律法は神に関する教えと悪からの保護を与えます。しかし教育係として、それは私たちの罪深さを指摘し、有罪を宣告します。キリストは私たちを律法の有罪宣告から解放し、私たちの心に彼の律法を書きつけてくださるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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