【ガラテヤの信徒への手紙】奴隷から相続人へ【3ー4章解説】#8

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パウロはガラテヤの人たちに、奴隷として行動するのではなく、あらゆる権利と特権を持つ神の息子、娘として行動しなさい、と述べています。その真理は、若き日のマルティン・ルターが聞く必要のあるものでした。罪の確信が深まるにつれ、この青年は自分の行いによって赦しと平安を得ようとしました。彼は非常に厳格な生活を送り、自分の性質の悪を抑え込むために、断食、徹夜の祈り、むち打ちなどによって努力したのですが、そのような禁欲的生活からは解放を得ることができませんでした。彼は、神の前に適格者として立てるようになる心の清さを手に入れるため、いかなる犠牲をもいとわなかったのです。ルターがのちに言っているように、彼は自分の秩序の規則に厳密に従う信心深い修道士であったものの、心の中に平安を見いだせませんでした。「もし修道院の修行によって天国を得ることのできる修道士がいたとしたら、私は間違いなくその資格を有していただろう」。しかし、その修行は彼の役に立ちませんでした。

彼はのちに、ガラテヤ書で明らかにされているキリストによる救いについての真理を理解し始めたときに、ようやく自分の魂のための霊的な自由と希望を持つようになったのです。その結果として、私たちの世界もすっかり変わりました。

キリストにおける私たちの状態

ガラテヤ3:25を心に留めながら、次の節(26節)を読んでください。この聖句は、私たちがイエスによって贖われた今、私たちと律法との関係を理解するうえで助けとなります。詳訳聖書などでは、「なぜなら」という言葉で26節を始めていますが、それは、パウロがこの節と前の節の間に直接的つながりを見ている証拠です。主人の息子が未成年の間だけ養育係の下にあるように、キリストを信じるようになった者たちはもはや未成年ではないと、パウロは言っています。彼らと律法との関係は、彼らが今や神の成人した「息子」であるために変わったのです。

英訳聖書の‘sons’(息子たち)は男性だけに限定されません。パウロは明らかに女性もこの言葉に含めています(ガラ3:28)。「子どもたち」ではなく、「息子たち」という言葉をパウロが用いている理由は、「神の息子たち」という言葉が旧約聖書においてイスラエルの特別な呼称であったという事実とともに(英訳聖書の申14:1、ホセ11:1)、男性の子孫に譲渡された一族の相続財産のことを彼が考えているからです。キリストにおいて、かつてはイスラエルだけに限定されていた神との特別な関係を、今や異邦人も享受できるのです。

バプテスマは重要な出来事です(ガラ3:27、28、ロマ6:1〜11、Iペト3:21)。パウロが〔いくつかの英訳聖書の〕27節でも「なぜなら」という言葉を用いている事実は、彼の論証の論理展開が密接につながっていることを改めて示しています。パウロはバプテスマを、私たちの人生をキリストに結びつける根本的な決断とみなします。彼はローマ6章で、イエスの死と復活において私たちがイエスと一体になることとしてバプテスマを象徴的に説明しています。彼はガラテヤ書では別の比喩を用いており、バプテスマはキリストを着せられる行為だというのです。パウロの用語は、義や救いを着せられることに関して述べている旧約聖書のすばらしい聖句を連想させます(イザ61:10、ヨブ29:14参照)。「パウロはバプテスマを、服のようにキリストが信者を包む瞬間とみなしている。彼は『義』という言葉を使ってはいないが、信者に与えられる義を説明しているのである」(フランク・J・マテラ『ガラテヤ書』145ページ、英文)。

バプテスマで象徴される私たちがキリストと一体になるということは、キリストに当てはまることが私たちにも当てはまるという意味です。キリストがアブラハムの「子孫」であられるゆえに、信者もまた、「共同の相続人」(ロマ8:17)として、アブラハムとその子孫になされたあらゆる契約上の約束の相続人でもあるのです。

世を支配する諸霊に縛られて

私たちと神との関係を息子や相続人との関係にたとえた直後、パウロはガラテヤ4:1〜3で相続の主題を含めることによって、今やこの比喩を詳しく説明します。パウロが使っている言葉は、どこかの大地主が全財産を長男に残して亡くなった状況を連想させます。しかし、この息子は未成年なのです。今日でもよくある事例ですが、この父親(大地主)の遺言には、成人するまで彼の息子が後見人や管理人の監督の下に置かれなければならない、と明記されています。この息子は、肩書上では父親の財産の所有者なのですが、未成年者なので、実際上は僕と大差ありません。

パウロの比喩は、ガラテヤ3:24における養育係の比喩に似ていますが、ここでの場合は、後見人や管理人の力がはるかに大きく、ずっと重要です。彼らは主人の息子を養育する責任があるだけでなく、その息子が十分に成長して自ら財政的、行政的実務を担えるようになるまで、そういったあらゆる実務の責任も担うからです。

ガラテヤ4:1〜3を読んでください。私たちがキリストにある今、私たちの人生における律法の役割を明らかにするのに役立つことを、パウロはこの箇所で再び言っています。「世を支配する諸霊」(ガラ4:3、さらに4:8も参照)という言葉でパウロがまさに何を意味しているのかは、論争の的になっています。原語の「ストイケイア」というギリシア語の文字どおりの意味は「要素」です。それは宇宙を構成する基本的な要素をあらわしているとみなす人もいれば(IIペト3:10、12)、この悪の時代を支配する悪魔的な力(コロ2:15)、宗教生活の基本的原則、宗教の初歩(ヘブ5:12)などとみなす人もいます。パウロが、キリストの来臨前の人間の状態を「未成年」と強調していることは、彼がここで宗教生活の基本原則に言及していることを示唆します。もしそうであれば、律法といけにえを伴った旧約聖書の時代は、救済の基本を概説した福音の入門書にすぎなかったと、パウロは言っているのです。従って、礼典律はイスラエルにとって重要かつ教育的なものではありましたが、やがて来るべきものの影にすぎませんでした。それらは、キリストに取って代わることを意図したものではなかったのです。

キリストではなく、このような掟によって人の生活を規制することは、過去に戻りたいと思うようなことです。ガラテヤの人たちにとって、キリストがすでに来られたあとにそのような基本的な要素に戻ることは、パウロの比喩において、成人した息子が再び未成年になりたいと思うようなことでした。

「神は、その御子を……お遣わしになりました」

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラ4:4)。

パウロが「満ちる」という言葉を選んだことは、人類史の中で神が御自分の目的を果たすために積極的な役割を担っておられることを示しています。イエスは好きな時においでになったのではありません。彼は、神がお定めになったまさにその時に来られたのです。歴史的観点から見れば、それは「ローマの平和」(ローマ帝国の全域において比較的安定し、平和だった200年間)として知られる時代でした。ローマが地中海世界を征服したことで、平和、共通の言語、旅行に好都合な手段、共通の文化など、福音の急速な広がりを容易にしたものがもたらされました。聖書的観点から見れば、その征服は、約束されたメシアの到来のために神が定められた時代を画したのです(ダニ9:24〜27参照)。

キリストは私たちを贖うために、人性をお取りにならねばなりませんでした(ヨハ1:14、ガラ4:4、5、ロマ8:3、4、IIコリ5:21、フィリ2:5〜8、ヘブ2:14〜18、4:14、15)。ガラテヤ4:4、5には、聖書の中で最も簡潔な福音の説明の一つが含まれています。イエスが人類史の中に入って来られたのは、偶然ではありませんでした。「神(が)、その御子を……お遣わしになりました」。言い換えれば、神が率先して私たちを救われたということです。

これらの言葉の中には、キリストの永遠の神性というキリスト教の基本的な信仰が示唆されています(ヨハ1:1〜3、18、フィリ2:5〜9、コロ1:15〜17)。神は天の使者を遣わされたのではありません。神御自身が来られたのです。

イエスは先在する神の御子でしたが、「女から……生まれた者」でした。この言葉は処女降誕を示唆していますが、より具体的には、イエスの人性を断言しています。「律法の下に生まれた者」という言葉は、イエスのユダヤ的伝統を指摘するだけでなく、彼が私たちの有罪判決を担われたという事実を含んでいます。

キリストが私たちの人性を取らねばならなかったのは、私たちが自分自身を救えなかったからです。キリストは、彼の神性と私たちの人性を結合することによって、私たちの身代わり、救い主、大祭司になる法的資格を得られました。第二のアダムとして、第一のアダムが不服従によって失ったすべてのものを取り戻すために、彼は来られたのです(ロマ5:12〜21)。キリストはその従順によって、律法の要求を完全に満たし、アダムの悲劇的な失敗の埋め合わせをなさいました。そして、彼は十字架上の死によって、罪人の死を求める律法の正義を満たし、真の信仰と降伏によって彼のもとに来るすべての人を贖う権利を獲得されたのです。

養子の特権

パウロはガラテヤ4:5〜7において、彼の主題を広げ、キリストが今や「律法の支配下にある者を贖い出し」(ガラ4:5)てくださったことを強調しています。「贖う」という言葉は、「買い戻す」ことを意味します。それは、捕虜や奴隷の自由を買うために支払われる代価を指しました。このような状況が示すように、贖いは、否定的な背景があることを意味します。解放されるべき人がいるということです。

私たちは何から解放される必要があるのでしょうか。新約聖書は、とりわけ4つのことをあげています。①悪魔とその策略からの解放(ヘブ2:14、15)、②死からの解放(Iコリ15:56、57)、③生まれつき私たちを奴隷にしている罪の支配力からの解放(ロマ6:22)、④律法の有罪判決からの解放(ロマ3:19〜24、ガラ3:13、4:5)。

キリストによって私たちが手にしている贖いによって、有益な目的を達成されました(ガラ4:5〜7、エフェ1:5、ロマ8:15、16、23、9:4、5)。私たちはしばしば、キリストが私たちのために成し遂げてくださったことを「救済」と称して語ります。そのとおりですが、この言葉は、パウロが独特な用い方をした「養子(縁組)」(「ヒュイオセシア」)という言葉ほど生き生きとしていませんし、描写的でもありません。この言葉を使った新約聖書の記者はパウロだけですが、養子縁組はギリシア・ローマ世界においてよく知られた法的手続きでした。パウロが存命中の幾人かのローマ皇帝は、彼らに法的相続人がいなかったときに、後継者を選ぶ手段として養子縁組を用いました。養子縁組は多くの特権を保証しました。「①養子とされた息子は、里親の本当の息子になる。②里親はその子をきちんと育て、必要な食物や着物を与えることに同意する。③里親は養子にした息子を勘当できない。④その子は奴隷の身に落とされることはない。⑤その子の産みの親たちには、彼を取り戻す権利がない。⑥養子縁組は相続権を確立する」(デレク・R・ムーア・クリスピン『季刊誌伝道』第61巻3号216ページ、英文)。

もしこれらの権利が地上のレベルで保証されるのであれば、私たちが神の養子として持っている特権がどれほど大きなものであるか、想像してみてください。

なぜ奴隷に戻るのか

問1

ガラテヤ4:8〜20を読み、パウロがここで言っていることを下記の余白に要約してください。彼は、ガラテヤの人たちの間における偽りの教えを、いかに深刻に受け止めていますか。

パウロは、ガラテヤの人たちの宗教的習慣の性質をはっきりとは述べていませんが、霊的隷属をもたらした偽りの礼拝制度のことを明らかに考えています。彼は確かに、それが危険で破壊的だと判断したので、このような情熱のこもった手紙を書き、ガラテヤの人たちに、彼らが行っていることは息子から奴隷に戻るようなものだと警告したのです。

問2

パウロは、具体的に述べてはいないものの、彼が好ましくないと思ったどんなことをガラテヤの人たちがしている、と言っていますか(ガラ4:9〜11)。

「いろいろな日、月、時節、年」(ガラ4:10)というパウロの言葉は、礼典律に対する反対だけでなく、安息日に対する反対でもあると、多くの人が解釈してきました。しかし、そのような解釈は証明できません。第一に、もしパウロが安息日やユダヤ人のほかの習慣を具体的に指摘したいと心から思ったなら、コロサイ2:16から明らかなように、彼はそれを名前で特定することが簡単にできました。第二に、パウロは、ガラテヤの人たちが何をしているにしても、それはキリストによる自由から束縛へ彼らを導いた、と明言しています。「もし第七日安息日の順守が人を束縛するのであれば、創造主御自身が、世界で最初の安息日を守った際に、束縛の中へ足を踏み入れられたに違いない」(『SDA聖書注解』第6巻967ページ、英文)。それに、もし安息日をきちんと順守することが、多少なりとも人々からキリストにある自由を奪っていたのなら、なぜイエスは安息日を自ら守るだけなく、その守り方を教えられたのでしょうか(マコ2:27、28、ルカ13:10〜16参照)。

さらなる研究

「天の会議において、人間は違反者であるが彼らの不服従のゆえに滅びず、彼らの身代わりであり、保証であられるキリストへの信仰によって神の選民になりうる方策が設けられた。彼らはイエス・キリストによって、その御心のままに彼自身の子らとされるよう前もって定められていた。神は、すべての人間が救われるように望んでおられる。なぜなら、人間の身代金を払うために御自分の独り子を与えることで、十分な方策が設けられたからである。滅びる者は、キリスト・イエスを通して神の子として養子縁組されることを拒むがゆえに滅びるだろう。人間の誇りが救いの方策を受け入れる妨げとなる。しかし、人間の功績は魂が神のみ前に出ることを許さない。人間が神に受け入れられるのは、キリストの御名への信仰を通して与えられるキリストの恵みによってである。神に選ばれている証拠として、行いや感情の幸福な高揚は信頼できない。なぜなら、選民はキリストを通じて選ばれるからである」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1893年1月2日号)。

まとめ

私たちはキリストによって、神の息子、娘として神の家族に養子縁組されました。私たちは神の子らとして、その家族関係に伴うあらゆる権利と特権を用いることができます。規則や規定だけに基づいて神と関係するというのは、愚かでしょう。それは、奴隷になるために、自分の立場や財産を放棄したいと思っている息子のようです。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。

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