この記事のテーマ
旧約聖書の権威を否定するクリスチャンは、シナイでの律法の授与が福音と矛盾している、としばしば考えます。そして彼らは、シナイで与えられた契約は、救いが律法への服従に基づいていた人類史の一期間、一時代をあらわしているのだ、と結論づけます。しかし、人々が律法の要求に応えることができなかったので、神は新しい契約、すなわちイエス・キリストの功績による恵みの契約を導入されたと、彼らは言います。つまりこれが、彼らの二つの契約——律法に基づく古い契約と恵みに基づく新しい契約——という理解です。
このような考え方がいかに一般的であろうと、それは間違っています。救いは律法順守によるものでは、決してありません。聖書のユダヤ教は、当初から常に恵みの宗教でした。パウロが戦っていたガラテヤの律法主義は、キリスト教の曲解だけでなく、旧約聖書そのものからの逸脱だったのです。二つの契約は、時代に関する問題ではありません。そうではなく、人間の態度を反映していたのです。二つの契約は、神との二つの異なる関わり方、カインとアベルにまでさかのぼる仕方をあらわしています。古い契約は、カインのように、神を喜ばせる手段として自分の服従を頼りにする人たちをあらわし、それとは対照的に、新しい契約は、アベルのように、神が約束されたすべてのことを実行するために、神の恵みにすっかりより頼む人たちの経験をあらわしています。
契約の基本
ガラテヤ4:21〜31におけるイスラエルの歴史についてのパウロの解釈は、この手紙の中で最も難しい箇所だと、多くの人が考えています。というのも、ここは、旧約聖書の人物や出来事に関する幅広い知識を必要とする非常に複雑な議論だからです。この箇所を理解するうえでの第一歩は、パウロの主張の中核を成す旧約聖書の概念、つまり契約の概念の基本を理解することです。
「契約」と訳されているヘブライ語は、「ブリット」です。この言葉は、旧約聖書の中におよそ300回登場し、拘束力のある契約、取り決め、協定などを意味しています。何千年もの間、契約は、古代中近東の各地の人々や国々の関係を明確にするうえで重要な役割を果たしました。契約には、それを結ぶ(文字どおりには「切る」)過程の一部として、しばしば動物をほふることが付き物でした。動物を殺すことは、その契約上の約束や義務を果たさなかった側に起こるだろうことを象徴していたのです。
「アダムからイエスに至るまで、贖い主の到来を中心とし、かつダビデとの契約で完結した一連の契約上の約束を用いて、神は人類に対応された(創12:2、3、サム下7:12〜17、イザ11章)。神はバビロンで捕囚となっていたイエスラエルに、ダビデのメシアの到来との関連で(エゼ36:26〜28、37:22〜28)、より効果的な『新しい契約』(エレ31:31〜34)を約束された」(ハンス・K・ラロンデール『私たちの創造主にして贖い主』4ページ、英文)。
堕罪前のエデンの園において、神がアダムと最初に結ばれた契約の基礎であったものは何ですか(創1:28、2:2、3、15〜17)。結婚、安息日、肉体労働が、創造時の契約の一般規定の一部であったものの、そのおもな焦点は、禁断の木の実を食べてはならない、という神の御命令でした。この契約の基本的性質は、「服従して生きよ!」です。神と調和するように造られた性質を備えていたので、主は不可能なことを要求なさいませんでした。服従は人間の生まれつきの傾向でしたが、アダムとエバは自然でないことを選択しました。そしてその行為において、彼らは創造時の契約を破ったばかりか、罪によって堕落した人間が、その契約の条件を履行できないようにしたのです。アダムとエバが失った関係を、神御自身が修復なさいます。神はこれを、救い主の永遠の約束に基づく恵みの契約を成立させることによってなさいました(創3:15)。
アブラハムの契約
創世記12:1〜5において、アブラムに対する神の最初の約束は、旧約聖書の中でも特に力強い聖句の一つです。これらの聖句は、もっぱら神の恵みについて述べています。約束をしたのは神であって、アブラムではありません。アブラムは、神の好意を得るためのこと、あるいは神の好意に値することを何もしていませんでしたし、神とアブラムが何らかの協力をしてこの合意に至ったことを示すものもありません。あらゆる約束事は神がなさっています。それに対して、アブラムは神の約束の確かさを信じるように命じられています。いわゆる薄っぺらな「信仰」ではなく、(75歳にもなって)家族や親類を捨て、神が約束された地に向かうことで示される信仰を持ちなさい、と……。
「アブラハムと、彼を通して全人類に宣告された『祝福』によって、創造主は贖いの目的を再確認された。神は楽園においてアダムとエバを『祝福』(創1:28、5:2)し、次に大洪水のあと、『ノアと彼の息子たちを祝福』(同9:1)なさった。神はこのように、人間を贖い、悪を滅ぼし、楽園を回復するであろう贖い主に関する先の約束(同3:1)を明確にされた。神は、その普遍的な働きかけにおいて、『すべての民』を祝福するという約束を確証されたのである」(ハンス・K・ラロンデール『私たちの創造主にして贖い主』22、23ページ、英文)。
約束された息子が生まれるのを10年間待ったのち、アブラハムは神の約束に関して疑問を抱きました(創15:1〜6)。ややもすると私たちは、問うことも疑うこともなかった信仰の人としてアブラムを称賛しがちです。しかし、聖書は異なる描き方をしています。アブラムは信じましたが、途中で疑問を抱きました。彼の信仰は、成長しつつある信仰だったのです。マルコ9:24に出てくる父親のように、アブラムは創世記15:8において、要するに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったのでした。それに応じて、神はアブラムと正式に契約を結ぶことによって、寛大にも御約束の確かさを彼に保証なさいました(創15:7〜18)。この箇所で驚くべきことは、神がアブラハムと契約を結ばれたという事実ではなく、そうするために神が進んで身を低くされたという点です。拘束力のある約束を自分の僕たちとすることを渋った古代中近東のいかなる支配者とも異なり、神は約束をしたばかりか、切り裂かれた動物たちの間を象徴的に通り過ぎることによって、まさに御自分の命をその約束に懸けられました。言うまでもなく、イエスは御自分の約束を実現するために、カルバリーで最終的に命をささげられたのです。
アブラハム、サラ、ハガル
パウロは、ハガルの出来事についてさげすむような見解を持っています(ガラ4:21〜31、創16章)。創世記の物語におけるハガルの立場は、アブラムが神の約束を信じられなかったことと直接関係しています。ハガルはアブラム一家の中のエジプト人奴隷として、サライと引き換えにファラオが与えた多くの贈り物の一つとしてアブラムの所有になったようです。サライとの交換というのは、神の約束を疑ったアブラムの最初の行為と関係する出来事でした(創12:11〜16)。
約束された子どもが生まれるのを10年待ったあとも、アブラムとサライには子どもがないままでした。神は彼らの助けを必要としておられるという結論を下したサライは、内妻としてハガルをアブラムに与えました。今日の私たちにとっては奇妙ですが、サライの計画はとても巧妙なものでした。古代の慣習によれば、女奴隷は不妊の女主人の代理母の役目を合法的に果たすことができました。それゆえ、サライは自分の夫とハガルの間に生まれたどの子どもも自分のものとみなすことができたのです。その計画によって1人の子どもが生まれましたが、それは、神が約束された子どもではありませんでした。
この物語の中には、困難な状況に直面したときに、神の偉大な人でさえ信仰を失うという絶好の実例があります。アブラハムは創世記17:18、19で、イシュマエルを跡継ぎとして受け入れてください、と神に嘆願しています。言うまでもなく、主はこの申し入れを拒否なさいました。イシュマエルの誕生における「奇跡的な」要素は、サラが自分の夫をほかの女と進んで分け合おうとしたことだけでした!この女が子どもを産んだことも、「肉によって」生まれた子どもも、ごく日常的なこと(もの)でした。神が約束されたことを、もしアブラハムが信頼し、その信頼が状況によって失われなかったならば、このようなことは何一つ起こらず、多くの悲しみは避けることができたでしょう。
問1
イシュマエルの誕生と対比して、イサクの誕生を取り巻く状況について考えてください(創17:15〜19、18:10〜13、ヘブ11:11、12)。このような状況の中で、なぜアブラハムとサライには大きな信仰が求められたのですか。
ハガルとシナイ山
シナイにおいて、神は御自分の民と契約関係を築きたいと願われました(出6:2〜8、19:3〜6、申32:10〜12)。神はシナイにおいて、アブラハムと結んだのと同じ契約関係をイスラエルの子らと結びたいと願われました。実際のところ、創世記12:1〜3で神がアブラハムに語られた言葉と、出エジプト記19章でモーセに語られた言葉との間には類似点があります。いずれの場合にも、神は御自分の民のためになそうとしていることを強調しておられます。神の祝福を得るために何かをすることを約束しなさいと、神はイスラエルの人々に求めておられません。その代わりに彼らは、それらの祝福への応答として従わなければならないのです。出エジプト記19:5で「従う」と訳されているヘブライ語の文字どおりの意味は、「聞く」ということです。神の言葉は、行いによる義を意味していません。それどころか、神はイスラエルに、神の約束に対するアブラハムの応答を(少なくとも、たいていの場合に)特徴づけたのと同じ信仰を持ってほしいと望まれました。
もし神がシナイでイスラエルに提示された契約関係がアブラハムに提供されたものと同じであるなら、なぜパウロはハガルの不幸な経験とシナイ山を同一視しているのでしょう(出19:7〜25、ヘブ8:6、7)。シナイでの契約は、人間の罪深さと神の恵み豊かな救済手段を指摘することを目的としており、それは聖所の奉仕において象徴されていました。シナイの契約に関する問題は神の側にあったのではなく、むしろ人々の不完全な約束にありました(ヘブ8:6)。謙遜と信仰によって神の約束に応答する代わりに、イスラエルの人々は自負心で応えました。「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(出19:8)。奴隷としてエジプトで400年以上暮らしてきたために、彼らは神の威光も、彼らの罪深さも、まったくわからなくなっていました。アブラハムとサラは、神を助けて御約束を果たさせようとしましたが、それと同様に、イスラエルの人々は、神の恵みの契約を行いの契約に変えようとしました。ハガルはシナイを象徴しています。いずれも行いによる救いを求める人間の企てをあらわしているからです。
パウロは、シナイで与えられた律法が悪かったとか、廃止されたとか、主張しているのではありません。彼が心配しているのは、ガラテヤの人たちが律法を律法主義的に誤解していることでした。「律法は、その順守によって神を喜ばせることが絶対に不可能だと彼らに宣告する役割を果たす代わりに、神を喜ばせるために人間的資源に頼ろうという決意を彼らの内に深く植えつけた。それゆえに律法は、ユダヤ主義者〔ユダヤ人の慣習に従って生きる者たち〕をキリストへ導くことにおいて恵みの目的を果たせなかった。それどころか、彼らをキリストから隔ててしまったのである」(O・パルマー・ロバートソン『契約のキリスト』181ページ、英文)。
今日のイシュマエルとイサク
パウロがイスラエルの歴史を概観したのは、自分たちこそアブラハムの真の子孫であり、(ユダヤ人クリスチャンと律法の中心である)エルサレムが彼らの母であると主張した敵の意見に反論するためでした。異邦人は非嫡出子であり、もし彼らがキリストの真の弟子になりたいのであれば、彼らはまず割礼の律法に従うことでアブラハムの子にならねばならないと、パウロの敵は訴えました。
真実は逆であると、パウロは言います。このような律法主義者たちはアブラハムの子孫ではなく、イシュマエルと同様に非嫡出子であると、彼は言うのです。彼らは割礼に信頼を置くことで、サラがハガルにしたように、またイスラエルの人々がシナイで神の律法にしたように、「肉」に頼っていました。しかし異邦人の信者は、自然の家系によってではなく、イサクのように、超自然的家系によってアブラハムの子孫でした。「イサクと同様、彼らはアブラハムになされた約束の成就であった。……イサクのように、彼らが自由の身に生まれたのは、神の恵みの結果であった。イサクのように、彼らは約束の契約に連なっているのである」(ジェームズ・D・G・ダン『ガラテヤ書』256ページ、英文)。
アブラハムの真の子孫は、この世において迫害に直面します(ガラ4:28〜31、創21:8〜12)。約束の子であったために、イサクは祝福を得るとともに反対や迫害にも遭いました。パウロは迫害について述べる際に、イサクが称賛され、イシュマエルがそのイサクをからかっているように思える〔新共同訳、新改訳はそのように訳している〕創世記21:8〜10のお祝いの式のことを考えています。創世記21:9のヘブライ語の文字どおりの意味は「笑う」ですが、サラの反応は、イシュマエルがイサクをからかっていたか、あるいは馬鹿にしていたことをそれとなく示します。イシュマエルの行動は今日の私たちにとってあまり重要でないように思えるかもしれませんが、それは、家族の相続権が争われる状況に伴う深い敵意を明らかにしていました。古代の多くの支配者が、兄弟を含む潜在的な競争相手を排除することによって自分の立場を守ろうとしました(士師9:1〜6)。イサクは抵抗に遭ったものの、彼はまた、父親の相続人であることに伴う愛、保護、優遇という特権をも享受しました。私たちはイサクの霊的子孫として、苦難や反対に遭遇するとき、たとえそれが教会の家族の中からのものであったとしても、驚くべきではありません。
さらなる研究
「ところが、もし、アブラハムに与えられた契約が、贖罪の約束を含んだものであったならば、なぜ、シナイでもう1つの契約を結ぶ必要があったのであろうか。人々は、その奴隷時代に、神に関する知識と、アブラハムに与えられた契約の原則の大部分を忘れてしまっていた。……
神は、彼らをシナイに導き、御自分の栄光をあらわされた。神は、彼らに律法を与え、服従することを条件にして、大きな祝福をお約束になった。「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、・・・・あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト19:5、6)。人々は、自分たちの心の罪深さと、キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないことを自覚しなかった。そして、彼らは直ちに神と契約を結んでしまった……。
しかし、それにもかかわらず、その後わずか数週間しかたたないうちに、彼らは神との契約を破り、偶像にひざまずいて礼拝したのである。彼らは、契約を破ってしまったために、神の恵みを受けることは望めなくなった。そして、今、自分たちの罪深さと、ゆるしの必要を認めた彼らは、アブラハムの契約にあらわされ、犠牲のささげものによって示された救い主の必要を感じるようになった。彼らは今、信仰と愛によって、罪の奴隷からの救い主としての神に結びつけられた。こうしてこそ、彼らは新しい契約の祝福を感謝する用意ができたのである」(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻441、442ページ)。
まとめ
ハガル、イシュマエル、シナイでのイスラエルの子らの物語は、神が約束されたものを得るために私たちの努力に頼ろうとすることの愚かさを説明しています。この自己義認の方法は、古い契約と呼ばれます。新しい契約は、アダムとエバが罪を犯したあとに、初めて彼らとの間に結ばれ、アブラハムによって更新され、最終的にはイエスにおいて成就した契約、永遠に続く恵みの契約です。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。