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2年以上経って、パウロとバルナバはシリア州のアンティオキアに戻りました。アンティオキア教会全体が2人を宣教師として派遣することに関わったので、彼らが教会に報告をするのは、自然なことでした。しかし報告の強調点は、彼らが成し遂げたことではなく、神御自身が彼らを通して成し遂げられたことでした。
言うまでもなく、報告の目的は、多くのユダヤ人も信仰に入りましたが、異邦人の間における宣教の成功でした。しかし、コルネリウスの出来事があって以降、割礼を受けていない異邦人の回心が問題になっていました(使徒11:1〜18)。とはいうものの、今やそのような人たちが大勢教会員となることを認められつつあったので、事態は非常に複雑な様相を呈していました。エルサレムの多くの信者は不満でした。彼らにとって、異邦人が神の民の一員となり、彼らと交わりを持つためには、まず割礼を受けて、ユダヤ教の改宗者になる必要があったからです。
使徒言行録15章は、その全体が、臨界値に達した異邦人問題と、解決策を見いだすために教会が協力したことを扱っています。エルサレム会議は、世界宣教との関連において、使徒教会の歴史上、一つの転換点でした。
論争点
当初から、アンティオキア教会は、(ギリシア語を話す)ユダヤ人と割礼を受けていない異邦人から構成されており(使徒11:19〜21、ガラ2:11〜13)、どうやら彼らは穏やかな交わりの中で生きていたようです。ところが、エルサレムからやって来た信者の一団の到着によって、その交わりが壊されてしまいました。
使徒言行録15:1〜5を読んでください。ユダヤ出身で、伝統的に「ジューダイザー」と呼ばれていた人たちは、5節で「ファリサイ派から信者になった人」と身元が明かされている人たちと、たぶん同じ人たちでした。私たちは、教会にファリサイ人がいたことに驚くべきではありません。なぜなら、パウロ自身が回心する前はファリサイ人だったからです(フィリ3:5)。この一団は、彼らの意志でアンティオキアに行ったようですが(使徒15:24)、しばらくのちにアンティオキアで起こったもう一つの出来事は、使徒を含むほとんどのユダヤ人が、割礼を受けていない異邦人が教会にいることをあまり快く思っていなかったことを示しています(ガラ2:11〜13)。
ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロはジューダイザーについて肯定的に語っておらず、彼らを「惑わす者」(ガラ1:7、5:10)とか「偽の兄弟たち」(同2:4)というあだ名で呼んでいます。彼らの真の動機は、福音の霊的自由を損ない、異邦人改宗者を律法主義の隷属の中に引き入れることだというのです。
彼らの主張は割と単純で、もし異邦人が割礼を受けず、ユダヤ人のほかの礼典律をすべて守らないのなら、彼らは救われない、というものでした。救いは神の契約の共同体の中にのみ見いだされるべきものであり、旧約聖書に従えば、割礼による以外に神の選民の一員になる方法はないと(創17:9〜14、出12:48)、彼らは信じていました。要するに、異邦人は、まずユダヤ教の改宗者になる場合に限って救われる、ということです。
言うまでもなく、パウロとバルナバは、そのような要求に同意できませんでした。それは福音の本質に反していたからです。しかし、ユダヤからの訪問者たちの攻撃的な姿勢は、激しい論争を引き起こしました。使徒言行録15:2の「スタシス」というギリシア語には、「対立」とか「意見の衝突」といった意味があります。しかしこの問題は、地域レベルで扱うには重要すぎるものでした。教会の一致が危機にさらされていました。そこでアンティオキアの兄弟たちは、パウロとバルナバを含む代表団をエルサレムに送り、解決策を見いだすことにしました。
割礼
この対立における重要な問題の一つが割礼でした。これは人間が生み出した制度ではありません(マタ15:2、9と対比)。そうではなく、神御自身によって命じられたもの、神の選民としてのアブラハムの子孫との契約のしるしでした(創17:9〜14)。
出エジプト記12:43〜49を読んでください。この契約の祝福は、生まれつきのイスラエル人だけに限られておらず、割礼を受けさえすれば、それを体験したいと願ういずれの奴隷にも、寄留者にも開かれていました。その寄留民は割礼を受けたあと、神の前にあって、生まれつきのイスラエル人と同じ資格を持っていたのです—「その土地に生まれた者と同様になる」(出12:48)。
それゆえ、神の契約の共同体の一員となるために、割礼は(男性にとって)不可欠なものでした。また、イエスがイスラエルのメシアであられたがゆえに、異邦人はまずユダヤ人になることなくしてイエスの救いによる恩恵を得られない、とジューダイザーたちが主張することは、自然に思われました。
ローマ3:30、Iコリント7:18、ガラテヤ3:28、5:6を読んでください。異邦人はまずユダヤ教徒にならなければ救われない、と言うことによって、これらの人たちは、二つの別個の概念、つまり契約と救いを混同していました。神の契約の共同体の一員になることは、救いを保証しませんでした(エレ4:4、9:25)。加えて、アブラハムが救われた(義とされた)のは信仰によってであり、それは、彼が割礼を受ける前のことであり、割礼によったのではありませんでした(ロマ4:9〜13)。救いは常に信仰によりましたが、契約は恵み深い規定であり、それを通して神は、御自分と救済計画とを世界中に知らせようとなさったのです。イスラエルは、その目的のために選ばれたのでした(創12:1〜3)。
しかし問題は、契約と救いがあまりにも密接に関係しているために、この信者たちが割礼を価値あるものとみなすようになったことでした。しかし神の救いの恵みは、人間の業が作用する場所では作用しません。それゆえ、信者である異邦人に救いの手段として割礼を強制することは、福音の真理をゆがめ(ガラ1:7、2:3〜5)、神の恵みを無にし(同2:21)、イエスを役に立たなくしてしまうのです(同5:2)。さらに、それは救済の普遍的特徴の否定でした(コロ3:11、テト2:11)。パウロはこの種の考え方に決して同意できませんでした。
論争
使徒言行録15:7〜11を読んでください。言うまでもなく、ルカはこの会議の内容をすべて記しているわけではありません。例えば、ジューダイザーを支持する意見や(使徒15:5)、パウロとバルナバの反論を知ることができれば(同15:12)、興味深いでしょう。ペトロとヤコブの発言しかわからないという事実は、使徒たちの中におけるこの2人の重要性を示しています。
ペトロは彼の発言の中で、使徒や長老たちに語りかけ、数年前のコルネリウスとの経験を彼らに思い出させました。本質的に、彼の論拠はエルサレムの兄弟たちの前で用いた論拠と同じでした(使徒11:4〜17)。神御自身が、五旬祭で使徒たちにお与えになったのと同じ“霊”の賜物をコルネリウスと彼の一家に与えることで、(割礼を受けていない異邦人であったにもかかわらず)彼の回心を承認されたというものです。
聖なる摂理において、神は、救いに関してユダヤ人と異邦人の間に区別がないことをユダヤ出身の信者たちに納得させるため、ほかならぬペトロその人をお用いになっておられました。たとえ信者である異邦人たちが古い契約の規定の清めの恩恵を欠いているとしても、彼らはもはや汚れているとは考えられません。なぜなら、神御自身が彼らの心を清めてくださったからです。ペトロの最後の言葉は、パウロの言いそうな言葉とよく似ています。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(使徒15:11)。
問1
使徒言行録15:13〜21を読んでください。異邦人の問題に対して、ヤコブはどのような解決策を提案しましたか。
ヤコブの話しぶりは、彼が権威ある立場であったことを示唆しています(使徒12:17、21:18、ガラ2:9、12と比較)。ダビデの幕屋を立て直すとは、アモスの預言の中でダビデの王朝の回復を指しますが(アモ9:11、12)、その言葉をヤコブがどう理解していたかはともかく、彼のおもな目的は、異邦人が、ある意味で、建て直された「神の民」に加わり、イスラエルに組み込まれるよう、神が前もって準備しておられたということを証明することでした。
このようなわけで、彼の決定は、イスラエルの地に住むことを望む外国人に通常要求されていたこと以外、異邦人改宗者にさらなる規制を課すべきではない、というものでした。
使徒教令
使徒言行録15:28、29を読んでください。この会議が招集されたおもな問題は、満足のいく形で解決されました。救いは恵みによるのですから、信者である異邦人は、教会に加わる際に割礼を免除されました。しかし、以下の四つの物事は避けねばなりません。①異教の儀式で偶像にささげられ、その後、神殿の祝宴に出されたり、市場で売られたりしている肉。②血を飲み食いすること。③絞め殺した動物の肉、つまり血が抜かれていない肉。④さまざまな形での性的不道徳。
今日のほとんどのクリスチャンは、食べ物に関する禁止事項(①〜③の禁止事項)を一時的な勧告であるかのように捉えます。こういった物事はユダヤ人にとって特に不快だったので、それを禁じたのは、ユダヤ人と異邦人信者の隙間を埋めることだけを意図していたのだと、彼らは主張します。また、このリストに入っていない旧約聖書のほかの律法はすべて、レビ記の食物規定(レビ記11章)や安息日の戒め(出20:8〜11)も含めて、もはやクリスチャンに対する拘束力を持たない、という主張もしばしばなされます。
しかし、「使徒教令」は、一時的なものでもなければ、(旧約聖書に関連するほかの規範を排除した)キリスト教倫理の新しい規範でもありません。実際には、聖霊の導きの下(使徒15:28)、教会の使徒と長老たちが、イスラエルの外国人居留者にだけ関係するレビ記17章から18章の規定を再構成したものです。
レビ記の状況下では、これらの禁止事項は異教の放棄を意味しました。イスラエルに住みたいと望む外国人は、だれであれ、彼らが慣れ親しんできたそのような異教の風習を捨てなければなりませんでした(レビ18:30)。同様に、教会に加わりたいと望む信者の異邦人は、だれであれ、異教に対して毅然たる態度を取るように要求されたのです。
しかし、これは最初の一歩にすぎませんでした。ひとたび教会に入ったなら、その人は、普遍的で、モーセ以前から存在し、本質的に儀礼に関係しない戒め、例えば安息日(創2:1〜3)や、清い食べ物と汚れた食べ物の区別(同7:2)などの戒めを守ることで、神の御心を実行するように自ずと期待されました。
この教令が一時的なものでなかったことは、ヨハネの黙示録2:14、20などから明らかです。聖句では、①と④の禁止事項が繰り返されており、ほかの二つも暗に考慮されています。実際、歴史的証拠は、新約聖書時代からあとのクリスチャンたちが、依然、この教令を規範とみなしていたことを示しています。
エルサレムからの手紙
使徒言行録15:22〜29を読んでください。最初の措置は、何が決定されたのかを異邦人信者たちに知らせるために手紙を書くことでした。エルサレムの使徒と長老たちの名前で記されたこの手紙は、ほかのクリスチャン共同体に対するエルサレム教会の(確実に、使徒たちの指導的立場ゆえの)優位性を反映した公式文書でした。会議が開かれた年としては最も可能性の高い西暦49年に書かれたこの手紙は、私たちが知る最も初期のキリスト教文書です。
エルサレム教会はまた、バルサバと呼ばれるユダとシラスを代表に任命して、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することにしました。ユダとシラスの任務は、手紙を運び、その内容を追認することでした。
問2
使徒言行録15:30〜33を読んでください。アンティオキア教会は、この手紙にどのように反応しましたか。
手紙が読まれると、(異邦人改宗者は割礼を要求されないという)励みとなるメッセージのゆえに、教会は大きな喜びであふれました。彼らは手紙の要求(四つの禁止条項から成る使徒教令)に異議を唱えもしませんでした。こうして、初代教会における最初の最も深刻な分裂は、少なくとも理屈の上では和解しました。
会議の終了時に、パウロの福音はエルサレムの教会指導者たちによって完全に認められ、彼らはパウロとバルナバに、受容と信頼のしるしとして友情の右の手を差し出しました(ガラ2:9)。しかし、ユダヤの律法に従って生き続けたそのユダヤ人クリスチャンたちは、どう見ても儀礼的に汚れている異邦人と食卓をともにすることを依然として強く問題視していました。
この問題は、例えば、ペトロを巻き込んだガラテヤ2:11〜14の事件でもあらわれています。「弟子たちでさえ、全部が会議の決定をよろこんで受け入れる気持ちになったのではない」(『希望への光』1430ページ、『患難から栄光へ』上巻212ページ)。
さらなる研究
「ユダヤ人は、神から命じられた宗教儀式につねに誇りを持ってきた。キリストの信仰へと改心した人々の多くはなお、神がひとたびヘブライ的な礼拝の大要を明確にされたのであるから、その礼拝儀式のどんな細かい部分でも変えることを神が認可されるようなことは起こり得ない、と思った。彼らはユダヤの律法と儀式が、キリスト教の宗教儀式と結び合わされるべきだと主張した。すべてのいけにえのささげ物は神のみ子の死を予示したもので、予型はキリストの死において本体に合わされるのであり、キリストの死後は、モーセの律法の儀式や礼典はもはや義務づけられないということを、彼らはなかなか認めなかった」(『希望への光』1427ページ、『患難から栄光へ』上巻204ページ)。
「神殿の見えるところに住んでいるユダヤ人のクリスチャンたちの心が、ユダヤ国民としての特別な特権に逆戻りするのは自然なことであった。彼らはキリスト教会がユダヤ教の儀式や伝統から離れて行くのを見て、ユダヤ人の慣習にさずけられていた特別な聖さが、新しい信仰の光に照らされて、まもなく失われるであろうと気づき、多くの者は、この変化を引き起こしたのは大部分パウロのせいであるとして、憤慨するようになった。弟子たちでさえ、全部が会議の決定をよろこんで受け入れる気持ちになったのではない。中には礼典律に熱心な者もいて、彼らはユダヤ人の律法の義務についてパウロの原則が手ぬるいと考え、パウロに対しておもしろくない気持ちを持っていた」(『希望への光』1430ページ、『患難から栄光へ』上巻212ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2018年3期『使徒言行録』からの抜粋です。