第2次伝道旅行【使徒言行録―福音の勝利】#9

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アンティオキアに戻ると、パウロとバルナバは教会を育て、さらなる伝道の働きに携わりました。2人が一緒に働いのは、これが最後だったようです。激しい意見の対立のために、2人は別行動するようになったからです。パウロとバルナバの意見が対立した原因は、バルナバのいとこであるマルコでした(コロ4:10)。先の旅行で伝道した場所へもう一度行こうと、パウロがバルナバを誘ったとき、バルナバは彼のいとこを連れて行きたいと思いましたが、パウロはそれに反対しました。マルコの過去の失敗があったからです(使徒13:13)。

しかし、パウロとバルナバが別行動したことは、祝福に変わりました。なぜなら、彼らが分かれて努力したことによって、最初に計画した範囲よりも一層広い地域を回ることができたからです。バルナバはマルコを連れて、バルナバの故郷であるキプロスへ戻りました(同4:36)。一方、同行するようにシラスを誘ったパウロは、シリア州やキリキア州を回って諸教会を力づけました。アンティオキアに初めて戻る前に、パウロはタルソスで数年を過ごしていました(同9:30、11:25、26)。今や彼は、そこに設立した教会を訪問する機会を得たのです。それにもかかわらず、パウロに対する神の御計画は、彼が最初に考えた以上にずっと大きなものでした。

リストラに戻る

ルカは出来事を省いて、パウロがデルベとリストラにほとんど直行したかのように書いています。〔途中の〕シリア州とキリキア州については、パウロがその地域を回りながら諸教会を励ましたとしか書いていません(使徒15:41)。

使徒言行録16:1〜13を読んでください。テモテの父親は異邦人でしたが、母親はユダヤ人のクリスチャンで、名前をエウニケといいました。割礼を受けていなかったにもかかわらず、テモテは子どもの頃から聖書を知っており(IIテモ3:15)、信心深い人であったようです。クリスチャンとして、彼はすでに地元のすべての信者から尊敬と称賛を得ていました。

ユダヤ人は、父系ではなく、母系によってユダヤ人であると考えていたので、テモテはユダヤ人でした。彼が生後8日目に割礼を受けていなかったのは、恐らくギリシア人である彼の父親が割礼を野蛮だと思ったからでしょう。

パウロは、共労者としてテモテを連れて行きたいと望み、また、割礼を受けていないユダヤ人であるテモテが、背教を理由に、ユダヤ人の会堂に入るのを禁じられるだろうことを知っていたので、彼に割礼を受けさせました。それゆえ、パウロがそうさせた動機は、まったく現実的なものであり、彼が宣べ伝えていた福音と矛盾しているとみなされるべきではありません。

最初の旅行で訪問した場所を再訪したあと、パウロはアジア州の南西に(たぶんエフェソへ)行こうとしますが、聖霊によってそれを妨げられました。そこで彼は北へ移動し、ビティニア州へ行こうとしますが、何らかの明らかでない方法で、またもや聖霊によってそこへ行くのを妨げられてしまいました。パウロはすでにミシア地方を通過していたので、彼にとって唯一の選択肢は、西に向かってトロアスの港へ行くことであり、そこからはさまざまな方角へ船出することができました。

しかし夜の幻の中で、神は彼に、エーゲ海を渡ってマケドニアへ行くようにお示しになったのです。彼の同行者たちはこの幻について知ると、マケドニア人に福音を伝えるために、神が彼らを召しておられたのだ、と結論づけました。

フィリピ

かつてマケドニア州で、パウロと彼の同行者たちはフィリピへ行き、そこにヨーロッパで初めてのキリスト教会を設立しました。

使徒言行録16:11〜24を読んでください。パウロはある町に着くと、安息日に地元の会堂を訪問してユダヤ人にあかしをすることを慣例にしていました(使徒13:14、42、44、17:1、2、18:4)。フィリピでパウロと彼の一行が川岸に行き、(神を礼拝するユダヤ人と異邦人の女性たち数人と一緒に)祈ったというのは、恐らくその町には会堂がなかったということを意味するのでしょう。このことの重要性は、パウロが安息日にユダヤ人の会堂へ行ったのは伝道目的のためだけでなく、それが彼の礼拝日でもあったからだという点です。

問1

使徒言行録16:25〜34を読んでください。看守の回心の物語を復習してください。救われるために、彼は何をする必要がありましたか。

看守の質問に対するパウロとシラスの答えは、福音とまったく調和しています。救いはまったく、イエスへの信仰によるからです(ロマ3:28、ガラ2:16)。しかし、私たちはこの物語から、適切な教理的、実践的教えをなおざりにして、バプテスマに必要なのはイエスへの信仰だけである、と結論づけることはできません。

この看守について、私たちがわかることは何でしょうか。彼はユダヤ人だったのでしょうか、それともユダヤ教改宗者だったのでしょうか。いずれにしても、彼に必要だったのは、イエスを主として、救い主として、信じることでした。もし彼が、コルネリウスやリディア(使徒16:14)、また使徒言行録に出てくるほかの何人かのように、すでに神を知っており、神を拝んでいた異邦人であったなら、どうでしょうか。彼が、この町におけるパウロの伝道講演会にすでに出席していたとしたら、どうでしょうか。彼に関する事実がどうであれ、この記事の短さが、性急なバプテスマの言い訳に利用されるべきではありません。

テサロニケとベレア

パウロとシラスが牢から解放さると、宣教団はフィリピを出発しました(使徒16:35〜40)。パウロと彼の同行者たちは、フィリピからまっすぐにマケドニア州の州都テサロニケへ向かいました。

問2

使徒言行録17:1〜9を読んでください。テサロニケのユダヤ人たちは、異邦人の間でパウロの宣教が成功したことに、どのような反応を見せましたか。

ここでもまた、パウロは福音を伝えることのできる会堂を探しています。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが、パウロのメッセージを受け入れました。このような改宗者たちが「パウロとシラスに従った」(使徒17:4)ということは、彼らが別のグループを作り、会堂ではなく、たぶんヤソン家で集会を持ったことを意味しているようです。

妬みに駆られて、彼らの敵は暴動を起こしました。その動機は、パウロとシラス(テモテは言及されていません)を市議会の前に引き出し、非難することでした。しかし宣教師たちが見つからなかったので、彼らは、政治的煽動者をかくまったという容疑で、ヤソン自身と新しく信者になった数人の人を地元の当局者たちのところへ引き立てて行きました。

使徒言行録17:10〜15を読んでください。「素直」(使徒17:11)と訳されているギリシア語「ユーゲネース」の本来の意味は、「生まれの良い」とか「高貴な生まれの」ですが、この聖句での場合のように、もっと一般的に「公平な」態度を意味するようになりました。ベレアのユダヤ人が称賛されているのは、単に彼らがパウロとシラスに賛同したからではなく、宣教師たちの語っていることが正しいか否か、毎日、自ら進んで聖書を調べたからです。福音に対する(必要不可欠な知的確信の伴わない)感情だけの反応は、表面的で長続きしない傾向があります。

しかし間もなく、ベレアにおけるパウロの実りある伝道は迫害によって妨げられ、彼はさらに南のアテネへ行かざるをえなくなりました。

アテネのパウロ

古代ギリシアの知的中心地であったアテネは、文字どおり偶像にささげられた町でした。大理石でできた人間や神々の像が至る所に、特に都市生活の拠点であったアゴラ(公共広場)の入口に見られました。パウロは、偶像礼拝がはびこっていることに悩み、まず会堂へ行くといういつもの慣例を変更し、二面的な行動方針を取ることにしました。毎週、会堂でユダヤ人や信心深い異邦人と議論をし、毎日、公共の広場でギリシア人と議論をしたのです(使徒17:15〜22参照)。

アテネの人々はいつも新しいことを聞く用意ができていたので、哲学者の中には、パウロの教えに興味を持った人たちがおり、アレオパゴス(町の高等評議会)で演説をするように彼を招きました。パウロは演説の中で、ユダヤ人の聴衆に語ったときのように聖句を引用したり、神がイスラエルをどう扱われたかという歴史を要約したりしませんでした(使徒13:16〜41と比較)。このような方法は、アテネの聴衆にはあまり意味がなかったからです。その代わりに彼は、教養のある異教徒が理解できる方法で、聖書の重要な真理をいくつか伝えました。

使徒言行録17:22〜31を読んでください。パウロの言葉のほとんどは、教養ある多神教の聴衆にはこっけいに聞こえました。神と宗教に関する彼らの概念は、大きくゆがめられていたからです。私たちには、パウロがどのように彼のメッセージを締めくくるつもりだったのか、わかりません。パウロが、神によるこの世の裁きに言及した瞬間、彼の演説は遮られてしまったように見えるからです(使徒17:31)。神の裁きという信仰は、ギリシア人の二つの考えと真正面からぶつかりました。①神は完全に超越していて、この世とまったく関係もなければ、人間の事柄に関心もない。②人間が死ねば、復活は決してありえない。このことは、なぜ福音がギリシア人にとって愚かなものであり(Iコリ1:23)、アテネの改宗者が少なかったかを説明するのに役立ちます。

しかし、信じるようになった人たちの中には、アテネ社会で最も影響力のある人が何人か含まれていました。例えば、アレオパゴスの議員ディオニシオ、ダマリスという婦人などです。ダマリスの名前が挙げられていることは(使徒17:34)、彼女自身が議員でないとしても、かなりの地位であったことを示唆します。

コリントのパウロ

使徒言行録18:1〜11は、コリントでのパウロの経験を詳しく述べており、彼はそこに1年6か月の間とどまりました。アキラとプリスキラは、パウロの生涯にわたる友人になります(ロマ16:3、IIテモ4:19)。この記事は、2人がコリントへ来たときにはすでにクリスチャンであったことを示唆しています。たぶん皇帝クラウディウスよってユダヤ人がローマから追放されたために、彼らはコリントへ来たのでしょう。ローマの歴史家スエトニウスは、この追放が起きたのは、「クリストゥス」という名に関連するユダヤ人グループの騒動が原因であった、とほのめかしているようです(『クラウディウス』25.4)。その騒動とは、恐らく地元のユダヤ人信者が福音を宣べ伝えたことの結果でしょう。それゆえ、アキラとプリスキラもこのような活動に関わっていた可能性があります。いずれにしても、同じ信仰を伝え、同じユダヤ人という背景を持っていたことに加えて、パウロとその新しい友人たちは同じ職業でした。

使徒言行録18:4〜17を読んでください。シラスとテモテがマケドニア州から到着したとき、彼らはそこの諸教会からの経済的援助をいくらか持って来ました(IIコリ11:8、9)。それによってパウロは、宣教に専念することができるようになったのです。パウロは伝道旅行をしている間、自費で生活することにしていましたが、彼はまた、「福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るように」(Iコリ9:14)と教えていました。

パウロのメッセージに対するユダヤ人の強い反対にもかかわらず、神を拝む異邦人たちとともに、ユダヤ人の中にも信じる者が出ました。その改宗者の中には、会堂長のクリスポと彼の一家全員が含まれています。コリントの多くの人も信じて、バプテスマを受けました。しかし、ユダヤ人の間でのこの状況は、直後の出来事が示しているように(使徒18:12〜17)、かなり緊迫しており、パウロはすぐにコリントを離れようとしていたと思われます。しかし夜に見た幻で、彼は滞在し続けるように神の励ましを受けたのでした(同18:9〜11)。

アンティオキアに帰る途中、パウロはアキラとプリスキラを同行しますが、エフェソで2人を残します。彼は旅を再開するまで、その町で数日過ごしました。エフェソに滞在中、パウロは地元のユダヤ人の会堂で説教をする機会があり、そこでの反応が良かったため、「神の御心ならば、また戻って来ます」(使徒18:21)と約束しました。この再訪は、次の旅行で実現しました。

さらなる研究

「今日、人々に一般受けしない真理を教える者たちは、時々、パウロやその弟子たちが、働きかけた人々から受け入れられなかったように、クリスチャンだと主張する人々からさえ快く受け入れられないことがあっても失望するにはあたらない。十字架の使命者たちは、たえず目を覚まして祈りで身を固め、常にイエスのみ名によって働き、信仰と勇気をもって前進しなければならない」(『希望への光』1442ページ、『患難から栄光へ』上巻247、248ページ)。

「この地上の歴史が閉じられようとする状況にあって、特別の真理を聞かされる人々が、ベレヤの人々の模範に従い、日々聖書を調べて、神のみことばと彼らに伝えられた使命を比べようとするならば、神の律法の教えに忠実なものが、いま比較的少数しかいないところに、今日、もっと多くいるはずである。……

すべての者は、与えられた光に応じて裁かれる。主は、救いの使命を携えて行く使者をつかわされ、聞く者たちに、神のしもべたちの言葉をどのように扱うかについて責任を負わせられるのである。真理を心から探し求めている人々は、彼らに提示された教理を、神のみことばに照らして、注意深く研究するのである」(『希望への光』1443ページ、『患難から栄光へ』上巻250ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2018年3期『使徒言行録』からの抜粋です。

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