世の秩序【創世記―起源と帰属】#1

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この記事のテーマ

南アフリカの作家ローレンス・バンデルポストは居間のテーブルの上に一つの石を置いていました。この「不思議な黒い石」の由来について尋ねられると、「この石はアフリカの地下4500メートルのところから出たものだ」と答えたものです。それは友人から贈られたもので、書き添えた手紙には次のようにありました。「この石は私たちがその上に生涯を築き上げようとしてきたものの象徴です」。

私たちはみな何かの上に築きます。文字通りの意味では、私たちは足下の岩の上に人生を築きます。別の意味では、自分がそれに従って生きようとする原則の上に人生を築きます。無神論者、宗教的狂信者、懐疑論者、科学者といった人々はみな、認めると否とにかかわらず、基本的な原則によって自分の人生を管理しています。

私たちクリスチャンの原則はイエス・キリストのうちにあります。「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒17:28)。しかも、私たちは聖書を通してイエスのことを知っています。この意味で、聖書は私たちの人生と信仰の基礎であると言えます。ある意味で、創世記は聖書の「基礎」であり、深い地中にあってローレンスのすぐ足下の地を支えていた、あの「不思議な黒い石」に似ています。

今回は、聖書の「基盤」とも言うべき、この創世記について学びます。

創世記と新約聖書

「ペンタチューク」(聖書の最初の5書)という言葉は「5」を意味するギリシア語から来ています。これらの5書、つまり創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、私たちの聖書的信仰の基礎となるものです。それらがなければ、私たちの宗教はほとんど意味をなしません。

これら5書の最初、つまり聖書の最初にある創世記は、この世界の起源をもって始まります。もし私たちの起源が間違っていれば、ほかのものもすべて間違ってきます。家を建てる場合、もし床や天井を支える部材のつなぎ目が、初めからほんの数度でも狂っていると、やがて壁は傾き、役に立たなくなります。創世記は私たちの起源についての明快な言葉をもって始まります。当然、魂の敵であるサタンは人々をまことの神からそらそうとします。その方法の一つは聖書の信頼性に対する疑問を私たちの心に植えつけることです。こうして、創世記は激しい攻撃にさらされます。最も基本的な創世記に対する信仰を狂わせることができるなら、ほかのすべてに対する信仰を狂わせることは容易なことです。

問1

イエスと新約聖書の記者たちは創世記の真実性と信頼性について何と教えていますか。マタ19:3~8、ルカ17:26~30、使徒7:1~15、ロマ4:3、9~21、5:14、Ⅰコリ15:22、ガラ3:6、Ⅰテモ2:13、14、ヘブ11:3~22、Ⅰペト3:20

私たちは創世記の歴史的真実性を疑わせるようなあらゆる「証拠」を提示する批評家たちの言葉に耳を傾けるべきでしょうか。それともイエスやパウロ、ペトロのように創世記に対する不動の信仰を表明した人たちの教えに従うべきでしょうか。事実、創世記の真実性を疑うことは、繰り返し創世記に言及している新約聖書の真実性を疑うことを意味します。もし創世記が誤っているなら、新約聖書も全く信頼できないことになります。創世記の歴史的真実性を疑い始めるなら、信仰の全体系が崩れてしまいます。それこそ、サタンの思うつぼです。

創世記は神についての最初の啓示です。創世記において、創造主また贖い主である神についての最初の書かれた啓示が人間に与えられています。

問2

次の各聖句は神についてどんなことを教えていますか。創1:1、創7:11、創14:19、22、創18:23~33、創48:15

創世記は神の権威と力で満ちています。神は創造主、裁き主、模範、維持者、至高者、全能者、永遠の神として示されています。絶対者である神は万物に先立って存在し、万物を創造されました。

ここには、神についてまだまだ多くのことが啓示されています。裁きについての創世記の記述の中にすら、神の憐れみを見ることができます。神は人間の罪を悲しみ、大いに忍耐しておられます。洪水が襲う前、神はノアを立て、長年にわたる説教を通して、すべての人に救われる機会を与えられました。はなはだしい悪の中にあったソドムとゴモラでさえ、神はできることなら救おうとされました。創世記全体の中に、憐れみと愛に満ちた神の権威と力を見ることができます。神は罪と悪を憎まれますが、一方で堕落した被造物を愛し、彼らを贖おうとしておられます。

身近な出会い

昨日の研究でも学びましたが、創世記は神を全能のお方、言葉によって世界を創造されたお方、全地に洪水をもたらされたお方、反逆と暴虐に満ちた町々に火の雨を降らせられたお方として描いています。限りなく広がる被造物を眺めるとき、私たちは万物を創造された神の信じがたい力の前にただひれ伏すしかありません。

しかし、聖書はまた神を非常に身近で、個人的なお方として描いています。すなわち、神は、世界を創造したが、後はそれ自身に任せて放置されたとする理神論の神とは異なります。聖書に啓示された神は堕落した人間と親しく交わられるお方です。このことはイエスの生涯と死において最もよく表されています(フィリ2:5~8参照)。神が堕落した人間と親しく交わられることはすでに創世記の中に明らかにされています。神が愛と憐れみに満ちたお方である証拠です。

問3

次の各聖句は、神が人類と親しく交わられることについてどんなことを明らかにしていますか。それらは神の品性について何を教えていますか。創2:7、創3:8、創18:17 、創39:21

基礎となるもの

使徒言行録6章には、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」ユダヤ人信者ステファノ(使徒6:8)が、イエスについて教えたかどで指導者たちの前に召喚されている様子が描かれています。続く7章では、そのまま続けるなら石で打ち殺されかねない説教をするステファノの姿が描かれています。

問4

使徒言行録7:2~17にあるステファノの説教を読み、以下の質問に答えてください。

ステファノは自分の語っていることに少しでも疑いを抱いているように見えますか。このことはどんな教訓を与えてくれますか。

彼の話は何にもとづいていますか。

彼がイエスに対する信仰の弁明としてこれらの言葉を語った背景には、どんな目的がありましたか。

前後関係からすると、ステファノが尋問を受けたのはイエスをメシアとして説いたからです。彼は創世記、しかもアブラハムの召しにまでさかのぼって弁明を始めています。ついで、アブラハムの家系からエジプトにおけるヨセフ、イスラエル民族の始まりと神殿の建設について語っています。これらすべては「正しい方(」使徒7:52)、ナザレのイエスの到来をもって完成しました。

ここで注目したいのは、ステファノが「真理」(ヨハ14:6)なるイエスにおいて最高点に達する数々の大いなる真理の出発点として創世記を用いていることです。教会の中心にあったこれらのユダヤ人は、イエスに対する信仰の基礎となるものを持っていました。それが、創世記を出発点とする聖書でした。このことからも、創世記が私たち自身の信仰において果たす重要な役割がわかります。

正しい者は信仰によって生きる

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ1:17)。

問5

あなたは上記の聖句をどのように理解しますか。

信者は旧約時代には律法の行いによって救われたが、イエスの死後またキリスト教会以後はただ信仰によってのみ救われるようになった、と言う人たちがいます。しかし、そのようなことは旧約聖書にも新約聖書にも教えられていません。新約聖書によれば、神の民は初めから信仰によって生きてきました。

問6

創世記に出てくる人物の生涯について記したヘブライ11:1~22を読んでください。それらはローマ1:17とどのように調和しますか。彼らの立場に立って読み、彼らの信仰の基礎となっていたものが何であったか考えてください。私たちが信仰生活を送る上で、彼らの経験はどんな教訓を与えてくれますか。

問7

ヘブライ11:13~16を読んでください。これらの聖句は何について教えていますか。それは私たちの生き方とどんな関係がありますか。あなたの生き方を振り返り、あなたが自らの行いによってどんな故郷を求めているか考えてください。改めるべきことはありませんか。

まとめ

「分析し、推測し、組み立て直す『高等批評』の作業が、神の啓示としての聖書についての信仰を破壊している。高等批評は、神のみことばから、人の生活を支配し、高め、霊感を与える力を奪っている。心霊術によって多くの人々は、欲望が最高の律法であり、放縦が自由であり、人は自分にだけ責任があるのだと信じるよう教え込まれている。……もっと高く、もっと純潔で、もっと崇高な生活の力が、われわれに大いに必要である」(『患難から栄光へ』下巻167、168、171ページ)。

「暗くて不吉な夜がキリスト教世界を覆っている。神の戒めに背くことが、深く、暗く、不可解なこの夜のしるしである。神の真理を無効にする理論が重要視されている。人間は人間の戒めを教理として教えている。彼らの主張が真理として受け取られている。人々は人間の作り出した理論を受け入れている。福音が曲解され、聖書が誤用されている。キリストの時代と同様に、真理の光が隅に追いやられている。人間の理論と推測が万軍の主なる神の言葉よりも尊ばれている。真理は虚偽によって妨げられている。神の言葉が高等批評によって歪曲され、分割され、曲解されている。イエスは、ただ接吻によって裏切られる程度にしか、認められていない。背教があって、最後までこの世を覆うその忌まわしい特徴と陰気な影響力は、バビロンから出て、人を狂わせる企みのうちに見られる」(エレン・G・ホワイト『バイブル・エコー』1897年2月1日)。

詩人が生まれ故郷をしのんで歌い彷徨(ほうこう)するように、鳥が初めて目に見た巣穴を目指して大空を旅するように 魚が生まれ育った川を探し求めて大海原を巡るように、人は自分がこの世に存在し始めた根源を厳粛にも懐かしく思い巡らし捜し求めるのです。詩人も鳥たちも魚たちも、本当の故郷にたどり着くまで何度も道を曲がり歩む。ある時は嵐に打たれ地に落ち、ある時は激流に翻弄(ほんろう)され迷い、ある時は暗闇につまずきながら。

我々が自分の本当の起源と帰属を求めて止まないのは、そこにのみ真の魂の安らぎがあるからで、そうするようにと創造主が望み、我々の心にそれを植えられたからなのでしょう。ならば我々は、たとえどんなに暗黒の闇が深くとも、どんなに嵐の風が吹き荒れようとも、どんなに激流が押し寄せようとも、恐れず臆せず、希望を持って光に向かって進みたいものです。あなたの真の起源と帰属探しの旅に主の祝福を祈りつつ。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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