初めに【創世記―起源と帰属】#2

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ある有名な科学者が人類の起源について次のように言っています。「人類がここにいるのは、特異な構造のひれを持った魚の変種がいて、そのひれが陸上動物の脚に変化したからです」。

もちろん、聖書、特に創世記の最初の2章は人類の起源に関してこれとは全く異なった記述をしています。人類がここにいるのは、愛と憐れみに満ちた創造主なる神が文字通りの連続した24時間からなる6日間に意図的に地上の生物を創造されたからです。

現代の進化論は聖書の天地創造の記録と真っ向から対立するものです。一方が正しければ、もう一方は誤りです。それどころか、聖書は有神論的進化論、あるいは生命、特に人類を地上に創造された神の業を長期間の進化の過程と結びつけようとするいかなる理論とも全く相容れないものです。今回の研究で学ぶように、神が世界、特に人類の創造において何かを偶然にゆだねられたということはありません。

今回は、聖書が起源について何と教えているかを学びます。私たちがここにいるのは、たまたま魚のひれが脚に変化したからではなく、神が言葉によって世界を創造されたからであることを学びます。

聖書の中で最も重要な聖句は創世記1:1でしょう。私たちがクリスチャンとして信じているものはすべてこの聖句から出ています。ここに表された思想を離れては、私たちの基本的な教えは何ひとつ意味を持ちません。多くの人が天地創造を、自然界の力が偶然によって地上の生命に進化した結果であるとする誤った科学に惑わされている現代にあってはとりわけそうです。聖書は冒頭の聖句においてこの思想を完全に否定しています。

問1

次の聖句を読んでください。それらに共通する教えは何ですか。出20:11、ヨブ38:4、ヨハ1:1~3、コロ1:15~20、ヘブ1:2、黙14:6、7

創世記1章においては、天地創造の過程そのものよりも、自然界の創造主の方に焦点が当てられています。この章の1~31節の中で、神という言葉が32回用いられています[英文]。これは天地創造における神の役割を強調するものです。創世記1章は、偶然という概念が天地創造に入り込む余地を与えていません。さらに、天地創造を神々の戦いと結びつける古代の多神教とは異なり、創世記は神を唯一の、絶対的な創造者として描いています。

創世記1:1で「創造された」(“バーラー”)と訳されている動詞は、聖書の中で、神の活動を描写するときにのみ現れます。人間または神の「作る」「する」などについて用いられるその他の一般的な言葉は“アサー”です。天地創造のような創造の業は神にしかできないことです。人間はこの天地創造の範囲内で働き、何かする(“アサー”)ことができても、それらを創造する(“バーラー”)ことができるのは神だけです。

天地創造

創世記1:1に、神が天地を創造されたとありますが、この「天」が宇宙全体を含むと考える人たちがいます。しかし、この創世記1章で用いられている「天」の用法を調べてみると、そうではないことがわかります。

問2

創世記1章で「天」という言葉がどのように用いられているか調べてください(特に20節)。文脈からすると、創世記1章の「天」は何を意味しますか。

問3

創世記1:2は、天地創造の始めにおける地の状態について何と述べていますか。

「地は混沌であって」という表現は、形も、光も、植物も、動物もない状態を述べています。要するに、地は生命を維持するような状態ではなかったということです。神は言葉を発することによって(3、6、9、11、14、20、24節、詩編33:6~9比較)、あるいは地上に生命を創造する以前にすでに創造しておられた物質を用いて、創造されました。創世記のこれらの聖句を読んだだけでは、何もないところから創造されたかどうかは明らかではありませんが、神が地を創造するためにはすでに存在した物質に依存されることはありませんでした。神がどのような物質を用いて地を創造されたにせよ、神はすでに過去のある時点において何もないところから創造しておられました。なぜなら、聖書によれば、神は万物を創造されたからです。

問4

ヨハネ1:4を読んでください。この聖句はどんなことを教えていますか。それは上記の創世記の言葉を理解する上でどんな助けになりますか。

天地創造の日々

天地創造の物語の中で、アダムとエバにおいて最高点に達する地上の生命の創造にかかわる時間的背景以上に議論の的になっている問題はないでしょう。聖書が高く評価されていると思われるキリスト教世界においてさえ、創造が文字通りの24時間からなる6日間でなされたとする創世記の明らかで疑問の余地のない時間的背景をそのまま受け入れる人はほとんどいません。聖書が支持し、教えているすべてのものを根本から否定する進化論がキリスト教社会の中にさえ深く食い込んでいるのです。イエスは御自分の再臨に関して次のように言われました。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)。何か大きな変化がないかぎり、イエスは明らかに天地創造に関する聖書の記述に関して信仰を見いだされることはないでしょう。

問5

天地創造が描かれている時間的要素に注意して、創世記1章全体を読んでください。この章そのものから、ここに意図されているのは文字通りの時間であることについて何がわかりますか。ここに記されているのが象徴的な時間でなく、文字通りの時間であることに関して、聖書はほかのところで何と述べていますか。出20:8~11参照

創世記1:4、5を注意深く読んでください。これらの2節を読むだけでも、半分が光で、半分が闇の、「昼」と「夜」からなる、文字通りの1日について言われていることがわかります。聖句はこれらの2つの要素を「第1の日」としています。したがって、これらの聖句は1日の区切りである24時間という時間的単位の創造について述べています。この記述はヘブライ語では次のような形式で終わります。「そして、夕べがあり、朝があった、第1日」。はっきりした1日の区切りとしてここで初めて用いられ、24時間という時間的な単位の創造となっているこの同じ形式が、天地創造のほかの日々を描くために章全体において繰り返されています。「そして、夕べがあり、朝があった、第2日」。……「第3日」というように。このように、聖書がたとえば出エジプト記20章において、「6日の間に主は天と地……を造り」(11節)と言う場合、それが文字通りの6日間であって、それ以下でもそれ以上でもないことを意味することを、主は疑問の余地のないくらいはっきりと聖書の最初の数節のうちに明示されたのでした。

ニワトリか卵か

創世記における天地創造の記事が単純ではないとしても、驚くにはあたりません。結局のところ、地と地上の生命は単純ではないからです。天地創造を説明するために与えられている聖句は(第2章を含めても)わずか56節にすぎません。自転車の修理法についてのマニュアルでさえ、もっと長いものです。明らかに、多くのことが省略されているはずです。私たちは永遠にわたってそれらについて学ぶのです。とはいえ、創世記には熟考すべき多くの情報が与えられています。

問6

出来事の順番に注意しながら、もう一度、創世記1章を読んでください。そこにはどんな原則が見られますか。地上の生命について理解する場合、この原則はどんな意味を持ちますか。

創世記は、地が「混沌」であったという言葉をもって始まります(創1:2)。神は地に形を与え、「混沌」を除かれます。順序に従えば、まず闇があり、次に光があります。これは昼と夜を区分することです。次に、ある種の大気、「天」と呼ばれる「大空」があります。もちろん、(地上の生命のような)生命に必要な水は、地が創造されたときにはすでにあったようです。それから、神は乾いた所を出現させ、その乾いた所には「それぞれの種を持つ」(11、12節)植物、草、薬草、木々が生じます(これらが存在するためにはまず地が必要でした)。その後、太陽と月と星が出現します(これらがなぜここに、このような形で、この順序で出てくるのかは、天国で初めて明らかにされる疑問の一つです)。最後に、これらすべてが出揃ったところで、神は初めて生き物、つまり神の創造された世界に飛び、群れ、動き回る地と海の生き物を創造されます。それらは地の上に「増え」るのでした(22節)。このように、私たちの限られた理解力でも、主が非常に論理的な順序と形式に従って、地上の生命を創造されたことがわかります。

人類の創造

問7

動物の創造を人類の創造と比較してください。どんな類似点が見られますか。創1:24、2:7、19参照

問8

どんな相違点が見られますか。創1:26、27、2:7

問9

動物とアダムの創造とは対照的に、エバはどのようにして創造されましたか。創2:21~24

昨日の研究でも触れましたが、聖書は創造に関してすべてを啓示しているわけではありません。しかし、天地創造の記録の中では、人類に与えられた特別な立場に関して十分なことが啓示されています(たとえば、創世記1:27で、男と女の両方を含む総称的な「人」という言葉が用いられていることに注目してください。人間を定義するためには二つの異なった性が必要です)。ほかのすべてのものを完全に備えられた後で初めて、神はアダムを創造し(ヘブライ語では、アダムという名前は「土」という言葉と密接な関係があります)、アダムの後に初めてエバを創造されました。人間と動物の間にはいくぶん類似点がありますが、聖書は両者をはっきりと区別しています。さらに、ほかの被造物の場合もそうですが、聖書は人類の創造に関して偶然の介入をいっさい認めていません。創造の業が一定の時間的な枠組みの中で(「夕べがあり、朝があった」)、一定の様式に従ってなされ(「神はこれを見て」、「神は言われた」、「~せよ」)、男と女の創造において最高点に達していることを見ても、神が何ひとつ偶然に任せておられないことがわかります。

まとめ

「アダムが創造主のみ手によってつくられたとき、彼の肉体と知能と霊性は、神のみかたちをそなえていた。……神の御目的は、人が長く生きれば生きるほど、ますます、はっきりと神のみかたちをあらわすこと、すなわちなおいっそう明らかに創造主の栄光を反映することであった」(『教育』4ページ)。

世の初め、創造主の御言葉によって、その尊い御手から、この宇宙の全て、星、太陽、地球、空、山、海、野、木々、花、草、鳥、魚、虫、獣、そして人間が誕生した時、それはなんという美しさ、喜びであったことでしょうか。まさに、「かの時には明の星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」(ヨブ記38:7)のです。

現代の最先端の科学技術は、この宇宙の秩序、つまり天体の運行や佇まいから分子原子素粒子の運動相互作用に至るまですべてに微妙な釣り合いが取れていて、驚くほどの微調整が働いて成り立っていることの不思議さを我々に教えています。その微妙な美しさは、生けるもの、植物や動物の体のつくり、働き、生活の上に更に一層良く現れているのを見ることができるのです。そして、それら全てに優った微妙さ美しさ不思議さを持った存在が我々人間であることがわかってきました。実に人間は、神のかたちにかたどって、最高の生き物・存在としてこの世に生まれてきたのです。しかし聖書は、この人間の悲しい歴史をも記録しています。人は自分の帰属を変えたのです。善から悪へ、信から不信へ、愛から憎しみへ、聖から汚れへ、そして神から神でないもの、罪へと。この帰属の変更は、人間の存在の全てを、生物の全てを、地の全てを、そしておそらくは天のあるものをも変えてしまったのです。秩序が失われ、バランスが崩れ、混乱が満ち、呪いが全てを覆いました。神への帰属から離れた者たちは、苦しみ悩みと死と滅びの帰属となりました。帰属を変えたその報酬はあまりにも大きな悲惨でした。神の子イエスは、我々を心から愛し惜しまれて、ご自分の命をもって我々を贖い買い取ってくださり、ご自分の所有としてくださったのです。我々人間の帰属が変わって、主のものへと戻ったのです。これが人生という旅の確定時刻表です。あとは時間通りに来る列車に遅れずに乗るだけ、福音という名のその列車に。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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