楽園喪失【創世記―起源と帰属】#4

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イギリスの作家ジョン・ミルトンは1600年代に、エデンにおける人類の祖先の堕落について描いた有名な叙事詩『失楽園』を著しました。彼は崇高な想像力を用いて、この叙事詩の中で「人間に対する神の配慮の正しさを証明」しようとしたと述べています。ミルトンはその中で、エデンの園の至福について(「色とりどりの花や棘のないバラ」)、アダムとエバを滅ぼそうとするサタンの計略について、神に対するサタンの憎悪に満ちた戦い(「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たるほうがどれほどよいことか」)について入念に描いています。

結果はご存知の通りです。蛇の長く巧みな誘惑に負けて、「エバは呪われた時に無分別にも果実に手を伸べて、もぎ取り、食べて」しまいます。あとは歴史に記されている通りです。

幸いにも、私たちは過去だけでなく将来についても、また神の贖いの約束についても知っています。ミルトンの詩によれば、「神の御子は人間の贖いとして無償で御自身をささげられ」ます。聖書に記されている通りです(Ⅰテモ2:5、6)。この御子の犠牲のお陰で、それを受け入れるすべての人に永遠の命の約束が与えられるのです。

今回の研究の目的はミルトンの詩にではなく、それに霊感を与えた創世記の堕落の記事について学ぶことにあります。さらに、そこから堕落の悲劇について、また贖いの希望について学ぶことにあります。

創世記3:1には、新たな、先の記述からは想像できないようなもの、蛇が登場します。「土を這うもの」(創1:25)の名は具体的にあげられていませんが、明らかに蛇もその中にいたはずです。蛇がエデンの園の中にいたとしても不思議ではなかったでしょう。しかしながら、蛇がものを言うこと、蛇がエバを悪に誘い込むことは、創造されたすべてのものが「極めて良かった」(31節)先の2章では全く説明されていない新しい要素です。

問1

次の聖句を総合すると、蛇の正体とその出現の目的についてどんなことがわかりますか。ヨブ1:6~11、イザ14:12~14、エゼ28:14~17、マコ1:13、ルカ10:18、ヨハ8:44、Ⅱコリ2:11、11:3、Ⅰヨハ3:8、黙12:9、20:2

もし創世記の初めの数章しか知らなかったなら、この蛇が何もので、どのようにして神の完全な被造物の中に現れたのか理解できないでしょう。彼はどのようにして話すことができたのでしょうか。何のためにアダムとエバをだまそうとしたのでしょうか。どのようにしてエデンの園に入り込んだのでしょうか。

このことは、真理を理解するためには聖書全体について知る必要があることを教えています。狡猾な蛇の出現は創世記の最初の2章に(暗示されてはいても)啓示されていない完全な筋書きのあることを示唆します。出来事をより深く理解するためには、さらなる啓示が必要でした。神は時機を見てそれを啓示されました。

もう一つ、現代人の悲しむべき傾向の一つは、サタンの実在を軽視し、彼を単なる悪の象徴としか見ないことです。文字通りの、人格を持った、超自然的な悪の存在を信じることは愚かなことと考えられています。多くの人は現代文化の影響を受けて、サタンをバットマンやスパイダーマンやスーパーマンのような、ハリウッド映画の登場人物のように考えています。もちろん、自分自身を隠すことはサタンの策略です。彼はエデンの園で蛇の陰に隠れました。今日では、もっと洗練された方法を用います。どんな方法を用いても、その結果は同じです。人々はだまされ、永遠の命を危険にさらすことになります。

堕落(創3:1~6)

問2

アダムに対する神の命令はどれほどはっきりしたものでしたか。誘惑者サタンはその質問をもってどのように争点をあいまいにし、神の示された条件の正確な意味をぼかしましたか。創2:16、17、3:1

問3

エバによれば、清い夫婦アダムとエバは創世記2:17に記されていないどんな命令を与えられていましたか。創3:3

問4

まず神の示された条件に疑いをさしはさんだ後で、次に蛇は何と言いましたか。創3:4(ヨハ8:44比較)

サタンは真理と虚偽を混ぜ合わすことから始めました。相手がひとたび餌に食いついたとき、彼は神の明らかな命令に真っ向から矛盾するような完全な虚偽を提示しました。今日もしばしば同じようなことが見られます。だれかが真理と虚偽の両方を含む教理や教えについて議論を始めるのですが、後になって論理的な結論を引き出してみると、純粋な虚偽だったということがあります。つねに警戒を怠らないことが肝要です。

創世記3:6に、エバが果実を食べた理由が記されています。その果実はエバの肉体的(おいしそう)、審美的(目を引き付け)、知的(賢くなる)性質に訴えました。それは神から与えられた性質でした。言い換えるなら、サタンは神がエバに与えられた賜物を取り、それを彼女に対して用いたのでした。この方法がエデンの園の堕落していない人間に対して有効であったとすれば、堕落した人間に対してはなおさらです。

問5

次の聖句は人間の堕落した性質についてどんなことを教えていますか。ロマ13:14、フィリ3:18、19、Ⅰヨハ2:16

罪や誘惑、肉欲といった問題は絶えず人間につきまとう現実です。しかしながら、私たちはイエスを通してそれに勝利する力を約束されています。それは肉体的、心理的、知的欲求に屈することのない力です。

堕落した者たち

蛇が約束した通り、アダムとエバの目は開けましたが、啓発についての彼らの夢は悪夢に変わりました。これはサタンの数えきれない計略の最初のものです。彼は高価な黄金を与えると約束しますが、それは安ピカ物(つまらない飾り物)にすぎません。聖なる栄光を奪われ、罪悪感という重荷を負い、内面の裸を見せられた最初の夫婦は神から身を隠し、自分を覆う衣を作ります。

問6

ほかの「素晴らしい約束」が次々と悪夢に変わった経験はありませんか。次の聖句はどんな原則について教えていますか。士師17:6、箴14:12、マコ4:19、Ⅰテモ6:10

堕落の結果に注目してください。まず、アダムとエバの間に疎外が起こりました(創3:7)。次に、彼らと神の間に疎外が起こりました(8節)。自然界は突然、さらに敵対的になりました(16~18節)。アダムとエバの関係もさらに敵対的になりました(16節)。死が現実のものとなりました(19節)。人間と土との関係が変化しました(19節)。アダムとエバは園から追放されました(23、24節)。自分たちの行為の結果を予見していたなら、このようなことにはならなかったはずです。

注意を惹かれるのは、蛇がエバに、彼らが神のように善悪を知るものとなると言っていることです。蛇の言った通りでした(22節)。明らかに、人間が悪を知ることは神の御心ではありませんでした。神が人間に望まれたのは、彼らが幼子のように純真で、神に信頼することでした(申1:39参照)。神が人間に与えられたのは善だけでした。神が創造されたのは「良いもの(」トーブ)だけでした。「極めて良かった」と言われている創世記1章の天地創造と同3:22を総合すると、神が人間に望まれたのが悪ではなく善だけであったことが改めてわかります。

堕落した者たちの希望

主がエデンの園に下り、すべての当事者がそろったところで、主は彼らに御自分の判断を示されます。

問7

創世記3:14~19を読んでください。彼らにどんな宣告が下されていますか。それはどんな直接の、また長期に及ぶ結果をもたらしましたか。

アダムとエバが背信の結果としての労苦、苦痛、服従、茨とあざみ、裁きについて聞く前から、神は彼らに希望と約束の言葉を与えておられます。創世記3:15は福音への最初の言及ですが、同時に蛇の子孫と女の子孫とのあいだの戦いの歴史を要約しています。創世記はサタンの「子孫」になった者たちと神の「子孫」になった者たちの系図を載せています。創世記以降の聖書は神の民とその敵とのあいだの戦いについて描写しています。15節に宣言されている戦いは過去の、直接ドラマに登場する役者たち、その後、地上で演じられることになる善と悪の戦いの全体、すなわち現在、私たちが参加している戦いをさしています。

問8

創世記3:15と黙示録12:17を比較してください(黙12:9、20:2参照)。そこにはどんな共通の要素が見られますか。初めにエデンの園で現された戦いの原則は終わりの時にもどのように現されますか。

アダムとエバは大胆にも神に背き、自分たちの行為を正当化しようとしました。彼らと蛇との間に敵意が生じましたが、主は蛇の頭を砕く、つまり蛇を滅ぼすという約束を与えられます。ここに、福音についての最初の約束を見ることができます。イエスは堕落した人類のためにそれを成し遂げてくださるのでした。

堕落後(創4章)

創世記4章は冒頭からカインとアベルの物語について記しています。堕落以来多くの年月が経過していましたが、聖書はすぐに堕落の悲惨な結果について描いています。創世記3:15で予告され、カインの嫉妬のうちに暗示された敵意がアベルの殺害において完全に現されました。この殺人はカインがサタンの追従者であることを示していました(ヨハ8:44参照)。

問9

神はアベルの犠牲を受け入れながら、なぜカインの供え物は拒まれたのでしょう。創4:3~7(レビ17:11、ヘブ9:22比較、ヘブ11:4参照)

創世記4:6、7の言葉に注目してください。神はここでカインに、良いことを行い、従いなさい、そうすれば「受け入れられる」(英語欽定訳)と言っておられます。しかし、これは犠牲に関して言われたものです。私たちがいかに立派な行いをしようとも、私たちを救うには不十分であり、犠牲が必要です。ここに、律法と恵み、信仰と行いの間に調和が必要であることがわかります。カインの供え物、また彼の「悪い行い」を見れば(Ⅰヨハ3:12参照)、彼はそのどちらも理解していなかったことがわかります。

問10

ローマ5:17~6:6は、カインとアベルの物語にあるように、信仰と行いの間にあるべき調和に関して何と教えていますか。

カインは、神から隠れるものは何もないこと(創4:9、10)、また神がすべての悪を正されることを知ります。カインの恐ろしい罪に対する刑罰として、罪のない血を飲んだ大地は殺人者の前にその生産力を失います。

その一方で、創世記4:17~24は技術と文化の進歩と共に、急速な道徳的衰退について描写しています。一夫多妻と殺人はカインの家族の特徴です。しかし、聖書記者は彼の子孫の悪だけでなく、その業績をも認めています。カインの家族から種々の職人や牧畜民、農耕民が出ているからです。

創世記4章はアベルに代わるセトの誕生をもって結ばれています。セトはアダムとノアの間の、洪水以前の族長たちの祖先となりました。

まとめ

「サタンは、きよい夫婦に向かって、神の律法を犯すことによって、彼らは、勝利者になれると主張した。今日われわれは、それと同様の議論を聞かないであろうか。自分たちは、広い思想をもち、より大きな自由を享受していると主張する一方、神の律法に従う者は、考え方が狭いと言う者が多くいる。これは、『それを食べると』、すなわち、神の要求に逆らうと、『あなたがたは……神のように』なるでしょうというエデンで聞こえた声の反響にすぎないのである」(『人類のあけぼの』上巻41ページ)。

「[創世記3:15の]『子孫』は単数形になっている。このことは、複数の女の子孫が共同で蛇の頭を砕くのではなく、一人の個人がそうすることを示している。これらの観測にはっきりと示されているように、この宣言の中に、キリストとサタンの大争闘、すなわち天において始まり(黙12:7~9)、キリストが再びサタンを破られた地上において継続し(ヘブ2:14)、千年期の終わりにサタンの滅びをもって最終的に終了する(黙20:10)戦いの記録が圧縮されている。キリストは無傷でこの戦いから出て来られなかった。彼の両手・両足の釘跡、脇腹の傷跡は、蛇が女の子孫を砕いたときの激しい戦いを永遠に思い出させるものとなる(ヨハ20:25、ゼカ13:6、『初代文集』122ページ)」(『SDA聖書注解』第1巻233ページ)。

天上でルシファーが度々の神の諭しを拒み、御心に背いて反逆し、今地上でアダムとエバがその同じ悪の道に足を踏み入れ罪に走って、自分の起源と所属に自ら背を向けた時、御父、御子、御霊なる三位一体の神はどんなに御心を痛められたことでしょう。全宇宙の全ての存在にあまねく及ぶ創造主の愛の法則に対する悪の挑戦に、創造の御業の極みであった人間が加わったのです。

アダムとエバは自分達が犯した罪の恐ろしさを、目と耳と心で感じました。青空に黒雲が起こり、吹く風も肌寒く、花はしぼみ、葉は落ち、鳥は潜み、獣は遠巻きに尻込みしはじめました。自分達を包んでいた栄光の衣が消え去って、何もない裸の自分を見て、アダムとエバは自分達が失ったものがどんなに尊いものであったかを知ったのでした。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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