洪水後の地球【創世記―起源と帰属】#6

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イギリスの哲学者で、進化論の熱烈な信奉者であったバートランド・ラッセルは、進化の過程の最終的結論[人間]について次のような冗談を言いました。「もし私が全能で、無限の時間をかけて実験することができたなら、最終的には人間も自慢するほどのものではないと思う」(ダン・フォーク『Tシャツを着た宇宙』203ページに引用)。起源に関するラッセルの誤りは別にしても、人間に関する彼の皮肉は理解できます。洪水とそれ以後の状況についても、全く同じことが言えます。全地が洪水によって滅ぼされた後、人間は罪と反逆に対する神の態度から教訓を学んだと思いますか。そうではありませんでした。モーセが霊感によって記している記録は決して快いものではありません。明らかに、人間は多くのことを学びませんでした。状況は急速に悪化し始めています。

今回は、洪水後に起こった変化とその結果について学びます。これらすべての残虐行為と反逆の中にあっても、神はなお堕落した人類を愛し、救うために働いておられます。神が今日も働いておられるのと同じです。

ノアと新しい地

箱舟から外に出たノアとその家族が目にしたものは、それまでの世界とは全く異なった世界でした。彼の心のうちを想像することは困難です。ある意味で、彼らは荒廃した光景を目の当たりにして、恐怖に満たされたに違いありません。それから何千年も後に生きている私たちは、洪水の痕跡を見ることはあっても、荒廃した光景は見慣れています。これまで何度も見てきたことです。さらに、自然がどのように再生・回復するかも知っています。しかし、ノアとその家族にとっては、胸が張り裂けるような、恐ろしい経験だったに違いありません。

問1

創世記9:1~3を読んでください。ノアとその家族の状況を考えると、これらの言葉は彼らにどんな希望と励ましを与えたと思いますか。

問2

上記の聖句を、アダムとエバに与えられた創世記1:28~30の言葉と比較してください。両者の間にはどんな違いがありますか。その違いはどこから来ていたと思いますか。彼らと動物との関係はどのように変わりましたか。

言うまでもなく、最も大きな変化は肉食の始まりでした。これは以前には認められていなかったことです。それまでは仲間だった多くの動物が彼らの食料となるのでした。美しいもの、調和に満ちたものが罪のゆえに失われました。よくあることです。

聖書によれば、人間も動物も、もとは肉食ではありませんでした。最初の地上の楽園においては、人間と動物との間には、確かに決定的な違いはありましたが(創1:26、27)、多くの点で共通点もありました。つまり、すべては神によって造られ、生命を与えられ、同じような食物を食していました。神がそのように計画されたのは、動物よりも優位な立場に置かれた人間に対して、自分たちの「支配下」に置かれた生き物を大切にすることを教えるためだったと思われます。

血と命

「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創9:4~6)。

問3

上記の聖句は今日のクリスチャンに何を教えていると思いますか。

ここにもまた、罪の結果と、堕落した世界における人間の現実を見ることができます。血を食べることを禁じたこの命令が明らかにユダヤ人的な要素、清浄・不浄についてのレビ記の規定に先立つものであることは興味深いことです。それから幾世紀も後に、使徒言行録の中で、異邦人の回心者たちは血を避けるように勧められています(使徒15:20、29)。このことは明らかに創世記9:4~6の出来事にもとづいています(レビ17:11、Ⅰペト1:19参照)。

問4

神が人命を奪うことを厳しく禁じておられるのはどんな理由からですか。

これらの聖句の意味、とりわけその適用に関して、長年、さまざまな議論がなされてきました。だれかが人を殺した場合、状況に関係なく、その人は殺されなければならないのでしょうか。多くの旧約聖書の規定が特別な状況に対処するために設けられていました(民数記35:11参照)。また、多くの聖句が人を赦すこと、頬を向けること、裁いてはならないことについて教えています。さらに、旧約聖書には、イスラエルの民が神の命令に従って町全体を滅ぼしたことが記されています。これらの聖句が正義と刑罰について何を教えていようとも、次の点だけは論争の余地がありません。すなわち、人の命は尊いものなので、そのように扱わなければならないということです。人命の神聖さを軽視する者たちは必ず主の前にそれを清算しなければなりません(Ⅱコリ5:10)。

洪水後(創9:18―29)

主がいくら平和と安全、繁栄を約束しようとも、裁きと滅び、死について警告しようとも、民は素直にそれを受け入れそうにありません。聖書の記録を見るまでもありません。結局のところ、人間には自我があるからです。それ以上の証拠は必要ありません。

問5

創世記9章を通して読んでください。洪水後、主は美しい虹をしるしとして用いてまで、二度と洪水によって世界を滅ぼさないという契約をすべての生き物に対して結ばれます。その後すぐに、神はこの「永遠の契約」とは対照的などんな出来事について記しておられますか。その正しい人ノア(創7:1)の愚かな行為の記録は、どんなことを教えていますか。

自分の子供たちについてのノアの言葉は子孫の運命を永遠に保証するものではありません。むしろ、この出来事はすでに見られる品性の特徴について、また、よくあるように、これらの特徴がどのようにして後の世代に伝えられるかについて啓示しているように思われます。

「ハムの罪は何気なくやった罪ではなかった。彼はたまたま父の恥ずべき状態を見たのかもしれないが、父の愚行を悲しむ代わりに、自分の見たことを嬉しがり、進んでそれを公表した。……ハムの二人の兄は彼のようには曲がった感情を抱かなかった。アダムにも、アベルとセトという二人のよく訓練された息子と、カインという一人の罪の子がいた。全員が同じ親の愛と訓練を受けていたが、一人はほかの者たちよりも罪の現れ方が顕著であった。ノアの子らの一人も同じ堕落の精神を現したが、二人の兄たちはハムと同じ家庭で、同じ条件下で育てられたが、良識と自制という賞賛すべき精神を現した。殺人者カインの邪悪な傾向が長くその子孫に伝えられたように、ハムの堕落した性質もその子孫のうちにさらに現された」(『SDA聖書注解』第1巻266ページ)。

あざける者たち──昔と今

問6

使徒ペトロはペトロの手紙Ⅱの2章で、かつては主に従っていながら、後に背信した偽教師たちについて記しています。このことを念頭におき、ペトロの手紙Ⅱの3:1~11を読み、次の質問に答えてください。ペトロは偽教師やあざける者たちの心をどんな権威に向けていますか。その答えが重要なのはなぜですか。

あざける者たちの真の動機は何ですか。今日も同じ原則がどのようなかたちで見られますか。

ペトロは洪水に言及することによって何を強調していますか(Ⅱペト2:5参照)。

ペトロの言葉の中で注目したいのは、あざける者たちが言う次の言葉です。「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(Ⅱペト3:4)。上記の聖句[Ⅱペト3:1~11]は、特に過去1世紀半の間に現された劇的な預言の成就を指し示しています。この間、科学は、洪水のような突発的な災害ではなく、長い年月に有利な地質学的な解釈を用いて、地表の状態を説明してきました。言い換えるなら、世の中は昔と全く同じように続いているということです。多くの大渓谷や岩石の構成などは、何らかの突発的な災害によってできたものではなく、むしろ創造の始めから続いている現象の結果に過ぎないということです。それらは長い、一定不変の、漸進的な出来事によってできたに過ぎないということです。

この考え方も進化論の基礎となるものです。進化論は、世の中が聖書の教えるように文字通りの6日間における生命の創造によってではなく、時の始めからゆっくりと進化する漸進的な過程によってできたという考え方です。ペトロが遠い昔に、

[進化論と創造論という]二つの考え方を終末時代の争点としてあげているのは驚くべきことです。これが預言の通りに起こったということは、私たちがどちらか一方の考え方を選択しなければならない時代に生きていることの力強いあかしです。

バベルの塔

創世記10章は、漠然とですが、洪水後の人口増加について記しています。人間が生まれ、民族が形成され、集団が広がり、権力を持つようになり、その中のあるものは後に聖書に現れます。

問7

創世記11:1~9を読んでください。科学の進歩と科学知識の応用に関してどんなことが書かれていますか。

問8

過去の出来事を考慮して、人々が天に届くような塔を建てようとしたのはなぜかを考えてください。

問9

主が彼らの行為をやめさせようとされたのはどんな理由からでしたか。創3:22、6:5参照

「シナルの平原の住民は、この地上に再び洪水を起こさないという神の契約を信じなかった。彼らのなかには、神の存在を否定し、洪水は自然的原因によって起こったとするものが多かった。他の者は至高者を信じ、神が洪水前の世界を滅ぼしたことを信じていた。しかし、彼らの心は、カインと同様に神に反抗的であった。彼らが塔を建てた目的の一つは、もし、再び洪水が起こったならば、彼らの身の安全を確保するためであった。彼らは、その建造物を、水が達したところよりもはるかに高く築き上げて、どんな危険にも耐えられるようにしようと思った。そして、雲のある層にまで登れるから、洪水の原因をつきとめることもできるだろうと彼らは考えた。この企てのすべては、計画者たちの誇りをさらに高め、後世の人々の心を神から引き離し、偶像礼拝に陥れようとするものであった」(『人類のあけぼの』上巻114、116ページ)。

バベルの塔の記事の中で不思議なのは6節でしょう。住民は一緒に働くことによって知識と技術を身につけようとしていました。それはよいことではないでしょうか。技術は今日の私たちに多くの利益をもたらしてきました。でも、主はここで、このことを悪と見なし、言葉を乱して企てを中止し、彼らを全地に散らし、彼らが力を蓄えて、計画を遂行できないようにしておられます。なぜでしょうか。

まとめ

「ノアの預言は、決して独断的に憤りを宣告したり、特別の寵愛を表したものではなかった。それが、ノアのむすこたちの性格や運命を定めたのではない。それは、むしろ、彼らが各自で選んだ道と彼らが築いた品性の結果が何であるかを示したものであった。それは、彼らとその子孫の品性と行為とから見て、神の彼らに対するみこころが何であるかを表現したものであった。一般に、子供は、親の性質と傾向を受け継ぎ、親の行為を模倣する。だから、親の罪は、代々その子孫がくりかえして行うのである。こうして、ハムの罪と不敬の精神は、その子孫にも見られ、何代にもわたって彼らにのろいをもたらした。『ひとりの罪びとは多くの良きわざを滅ぼす』(伝道の書9:18)」(『人類のあけぼの』上巻113ページ)。

「地質学者は、地球がモーセの記録するところよりははるかに古代のものである証拠を地球自体から発見したと主張する。……

しかし、聖書の歴史を度外視して、地質学は、何も証明することはできない。発見したものについて、確信をもって論じている人々は、洪水前の人間、動物、樹木などの大きさや、洪水のときの大変化について、十分な認識を持ち合わせていない。地中から発掘される遺物類は、多くの点で現在とは非常に異なった状態にあったことを証明しているが、そうした状態がいったいいつ存在したかということは、聖書から学ぶほかないのである。洪水に関する物語のなかで、霊感は、地質学だけではさぐり得ないことがらを説明している」(『人類のあけぼの』上巻31ページ)。

「現在は過去の鍵である」という言葉に表されている斉一説の考えは地質学や進化論の基礎概念です。現在見られる一定不変の漸進的な出来事によって、長い時間をかけてこの世界は形造られ生物は進化したといいます。しかし、最近の科学の諸発見や成果は、この世界の成り立ちや生物の不思議な営みが、聖書の天地創造・ノアの洪水の考えなしでは納得できる説明が付かないことを明らかにしてきました。くもりなき素直な心で周囲の世界を観察するならば、そこに数々の創造主の導きの記念碑を見ることができます。それらは我々に、雲の間から日光が射し、忽然と虹が現れるように、本当の起源と帰属をはっきりと美しく示して迫ってくるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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