信仰と弱さ【創世記―起源と帰属】#8

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今回も、アブラムとサライ(後のアブラハムとサラ)がたどる地理的、霊的な旅について学びます。旅を続けるうちに、彼らの信仰と弱さが、神についての知識を失い、罪と霊的無知の中にある世界(ソドムとゴモラに対する裁きがその最もよい例)によって明るみに出されます。

ある有名なフランスの作家が次のように言っています。「人間の最大の病弊は高慢と肉欲である。前者は人間を神から引き離し、後者は人間を地に縛りつける」。今も全く変わりません。幸いなことに、神の恵みも変わりません。なぜなら、神は高慢な者、みだらな者さえ愛してくださるからです。このことは、アブラムの記事の中で、神の愛と赦しにもかかわらず、高慢と肉欲のゆえに引き返すことのできない状態に陥ってしまったソドムとゴモラの住民の悲しむべき物語によって、いっそう明らかになります。

聖書にあるように、神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられ」ます(Ⅱペト3:9)。十字架と十字架上のキリストの御業のゆえに、一人も滅びる必要がないというのに、滅びる人たちがいます。今回は、滅びることを選んだ人々の悲しい実例に目を向けます。

ハガイとイシュマエル(創16章)

もう一度、神がここまで国民と子孫に関してアブラムに与えられた約束について読んでください(創12:1~3、7、13:15、16、15:4~6、13)。アブラムについては、何度も、彼が大いなる国民の父となる、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創15:4)、と言われています。しかし、これらの約束に一度も言及されていないことがあります。妻のサライのことが何一つ言われていないのです。アブラムが国民の父になるという約束はあっても、その母については何も言われていません。サライはアブラムの妻であって、ふつうに考えれば、彼女が子孫を産むはずです。ところが、ここまで聖書に出てくるどの約束にも、大いなる国民の母のことが何一つ書かれていません。

問1

創世記16章を読んでください。アブラムに与えられた約束に照らして考えるとき、彼らがこのような[人間的な]手段に訴えた理由も理解できないわけではありません。しかし、そのような方法がやはり誤りであったのはなぜですか。

アブラムがカナンに入ってから10年が経過していました。しかし、約束の子が与えられるしるしはまだありませんでした。人間的な欲求不満に陥ったアブラムは「理性」の声に聞き従います。結局のところ、子をもうけるためにはほかにどんな方法があったというのでしょうか。高齢で不妊のサライにはその可能性がありませんでした。サライが母になると約束されていないことを考えると、彼らの取った行動も理解できないことはありません。一夫多妻は当時の習わしに従ったものでしたが、一般的に行われているからといって、それで正当化されるものではありませんでした。まことの神に従うアブラムとその妻サライはそれ以上のことを知っていたはずです。まことの神に従う私たちも、彼ら以上のことを知っているにもかかわらず、ほかの人がみな行っているという理由で、間違ったことを行っている場合がよくあります。

繰り返された契約(創17章)

イシュマエルの誕生から13年後、神はアブラムに現れ、先にお与えになった契約を、拡大したかたちで繰り返されます。

問2

神が先にアブラムに与えられた約束(創12:1~3、7、13:15、16、15:4~6、13)を、ここ創世記17:1~16で言っておられることと比較してください。先の約束にはないどんなことが付け加えられていますか。

神はアブラム(後のアブラハム──「多くの者の父」の意味)に対して、御前に「全き者」となるように言っておられます。このことは、神の憐れみと恵みが忠実に従うようにという召しを無効にするものでないことを思い起こさせます(ロマ5:20~6:2)。神はさらに、ほぼ25年前に与えられた先の約束の詳細について明示しておられます。これには、すべての男児に割礼を施すことが含まれていました。この特定の儀式が契約のしるしとされる理由については、長年多くの推測がなされてきました。しかしながら、「子孫」(創12:7、13:15、16、15:3、13、18、17:7~10)についての約束が繰り返しアブラムに与えられていることを考慮するなら、割礼は明らかに、主が御自分の特別な契約の民に望まれる民族的、世代的な関係を象徴するものでした。この関係は信仰によって保持されるのでした(ロマ4:11、12)。神についての真理が多くの世代にわたって世界に広められ、メシアが来るのはこの民族、この国民を通してでした。明らかに、それはまた心の割礼をも象徴していました(申30:6、ロマ2:29)。イエスの来臨と異邦人への宣教にともなって、割礼は不要になりました(ガラ5:6)。

さらに、以前には明らかでなかったことが、いま明らかになりました。高齢のサライ(サラ)は約束の子を産むのでした(創17:15~19)。アブラハムに信仰の必要な時があったとすれば、それはこの時でした。

地上に現れた主(創18章)

創世記18章で、再び子についての約束が与えられています。特にサラに与えられたこの約束(10節)は実現不可能なように思われました(11節)。しかし、次のように言われています。「主に不可能なことがあろうか」(14節)。この言葉は今日、主を礼拝すると公言する人々のうちに見られるあらゆる不信仰と疑いに対する厳しい叱責です。

問3

創世記18:16~21を注意深く読んでください。ここで、どんなことが対比されていますか。ここに、人類の基本的な分類についてどんなことが示されていますか。マタ25:32、33、ロマ11:26、Ⅱペト2:6、黙22:14、15参照

この有名な物語の中で最も関心を引く点の一つは、アブラハムに語りかけておられる方のことです。いくつかの聖句(創18:1、13、17、22、26)の中で「主」と訳されている語は、しばしば「エホバ」(YHVH)と訳される4文字です。これは父なる神の聖なる御名を表す語であって、たとえば創世記4:1、4、6:5、出エジプト記20:11、列王記上9:1、詩編32:2、そのほか多くの個所で用いられています。

このように、イエスが人となられる何世紀も前に、主は人の姿をとって地上にお現れになっています(創18:1~8参照)。この頃から、創造主なる神が地上の堕落した人間と親しく交わっておられるのを見ます。私たちの目に見える範囲の宇宙の大きさ、被造物の膨大さ・複雑さを考えただけでも、神御自身が人の姿をとって、罪深い人間のアブラハムとお語りになるということは、私たちに対する神の驚くべき愛の現れとしか言いようがありません。もちろん、このことは何世紀も後に人となって、堕落した世界の罪のために死なれたイエスの生涯と働きにおいて現されることの前兆にすぎません。つまり、私たちが考え及びもしないほどに、神は私たち人間のそば近くにおられるということです。

運命の夜に(創19:1~14)

問4

創世記19章の最初の7節を読んでください。この部分からソドムの霊的状態についてどんなことがわかりますか。若者も年寄りも「こぞって押しかけ」[口語訳では、「四方からきて」]とありますが、これは何を意味しますか。それは先のどんな状態を思い起こさせますか。創6:5 現代の道徳的状態も相当にひどいものですが、ソドムの場合はそれ以上でした。人間はなぜこれほどまでに堕落するのでしょうか。

問5

エゼキエル書16:49、50を読んでください。これらの聖句はソドムの状態を理解する上でどんな助けになりますか。これらの行為がソドムのような道徳的堕落をもたらすのはなぜですか。このことは私たちにどんな教訓を与えていますか。

ペトロⅡの2:7、8によれば、ロトは正しい人で、町の状態を見て心を痛めていましたが、それでも周囲の影響を免れることができなかったでしょう。免れることのできる人はだれもいません(バプテスマのヨハネは周囲の堕落を避けるために荒れ野に住まねばなりませんでした)。ロトが来客を守るために進んで群衆に自分の娘たちを差し出そうとしたのはそのためだったかもしれません(創19:8)。確かにロトの応答を理解することは困難ですが、それだけロトが群衆の目的を深刻に受け止めていたということです。彼は明らかに群衆のやろうとすることを知っていました。9~14節にもあるように、ロトを怒り狂う群衆の手から救うためには、二人の天使の超自然的な介入が必要でした。

滅ぼされたソドム(創19章)

問6

創世記19:12~29を読んでください。ここにも、罪深い人間を救おうとされる神の姿がどのように描かれていますか。

首尾一貫しないあかしがその訴えを鈍らせたのでしょうか。真夜中の突然の訪問も家族の目を覚まさせることはなく、ロトの子供たちは、「それを、迷信的恐怖だといってあざ笑った。彼の娘たちは、その夫たちに感化された。彼らは、そこで、結構よい暮らしをしていた。彼らは、危険が迫っている証拠を見ることができなかった。すべてのものは、それまで通りであった。彼らは資産を多く持っていた。そして、美しいソドムが滅ぼされるとはとうてい信じられなかった」(『人類のあけぼの』上巻169ページ)。

問7

15節を注意深く読んでください。ここに、罪の滅びに関してどんな原則が示されていますか。特に、「さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」というくだりに注意してください。これは私たちにどんなことを教えていますか。

イエスが来られたのは、罪人ではなく、罪を滅ぼすためでした(Ⅰヨハ3:5)。イエスが来られたのは、世を滅ぼすためではなく、世を救うためでした(ヨハ3:17)。イエスが来られたのは、人間ではなく、悪魔と悪魔の働きを滅ぼすためでした(ヘブ2:14、Ⅰヨハ3:8)。

救いの計画全体は、人間の根絶ではなく、罪の根絶に中心を置いていました。神はソドムの物語の中で、遅かれ早かれあらゆる悪の上に臨もうとしていた滅びからロトを救い出そうとしておられました。私たちがこの滅びを免れる唯一の方法は、悪から逃れることであり、信仰と服従をもって救い主イエスに頼ることであり、私たちのためのイエスの清らかさと完全を求めることであり、自分のうちにあるあらゆる罪を捨てることです(ロマ6:12、Ⅰペト4:1、2)。最終的には、罪は完全に根絶されます。福音の福音たるところは、私たちが罪と共に滅ぼされないということです。

まとめ

エレン・ホワイトはロトについて次のように記しています。「罪悪の町に住み、不信のただ中にいたために、彼の信仰は消えかけていた。天の君がそばにおられたのである。それなのに、彼のためにこれほどまでの保護と愛をあらわされた神が、もうお守りにならないかのように、彼は自分の命が助かることを願った。彼は、自分自身を全く天の使者にゆだね、疑うことも、問い返すこともせず、主のみ手に意志と生命とをささげるべきであった」(『人類のあけぼの』上巻170ページ)。

「救い主は弟子たちに、再臨の直前にも洪水前の状態と非常によく似た状態が出現すると警告された。食べたり、飲んだりすることが過度になされ、世は快楽に支配されるようになる。このような状態は現在も見られる。世は大部分、食欲をほしいままにしている。世の慣習に従う傾向が私たちをゆがんだ習慣の奴隷にする。このような習慣はますます私たちを滅びに定められたソドムの住民に似たものとする。地上の住民がよくもソドムとゴモラの住民のように滅ぼされなかったものだと思う。現在、世に見られる堕落と死には、十分な理由がある。多くの人々のうちで、向こう見ずな情欲が理性を支配し、あらゆる高尚な思考が欲望の犠牲になっている」(エレン・G・ホワイト&ジェームズ・ホワイト『クリスチャンの節制と聖書の衛生学』53ページ)。

エバが受けた罪の誘惑は、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」ことでした。本来これらは創造の折、創造主から人間に与えられた聖なる向上のため、神に御栄光を帰すための能力でした。人間がその能力を神以外に向けて用いるとき、それは誤用され、罪を生み出します。ノアの大洪水によって、天も地も、生物も人間も清められて、わずか400年も経ずして、ソドムとゴモラに見られるような道徳的堕落が蔓延しました。再び人の悪が地にはびこり、その心の思いは悪ばかりで、世は神の前に乱れ、暴虐が地に満ちたのです。しかしそれでもなお、神は人間を救おうとされました。どんなに罪の闇が深くても、カルバリーの十字架から輝く光は間違いなくわれわれを照らします。その光だけが、真の起源と帰属を求める旅人の確かな導きなのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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