信仰の勝利【創世記―起源と帰属】#9

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イギリスの作家C・S・ルイスは、キリスト教文学の傑作である『悪魔の手紙』の中で、悪魔の親玉スクルーティプが自分の手下で甥のウォームウッドに手紙を書いている様子を描写しています。それらの手紙はウォームウッドの担当である若者の魂を滅ぼす方法についての助言で満ちています。

ある段落で、スクルーティプはウォームウッドの任務に関して次のように助言しています。「『何事にも中庸がよい』と、その若者に教えることだ。もし彼に、『度を越さないかぎり、宗教も有益である』と信じ込ませることができれば、彼の魂はもうお前のもの同然だ。我々にとって、中庸な宗教は無宗教と同じくらい好都合で、心地がよいものだ」(C・S・ルイス『悪魔の手紙』46ページ)。

今回は、モリヤの山におけるアブラハムとイサクの経験について学びます。これはアブラハムの生涯の中で、また聖書の中で最も感動的で意義深い出来事の一つです。たとえ欠点があり、失敗を犯したにしても、アブラハムは信仰の人でした。彼にとって、宗教は全存在の基礎でした。彼にとって、宗教は「度を越さないかぎり有益なもの」どころか、神の命令に従って喜んで息子をささげるほどのものでした。何事にも中庸がよいのでしょうか。考えてみましょう。

沈黙によるうそ(創20章)

ソドムとゴモラの滅亡からしばらくして、アブラハムはヘブロンから南西に約130キロ離れたエジプトの辺境近くの地に移住し、その後、ガザの南東の肥沃な低地にあるゲラルに向かいます。当時のゲラルは都市国家であって、アビメレクという名のペリシテ人によって統治されていました。

問1

創世記20章を読んでください。再び、偉大な信仰の人アブラハムの人間性についてどんなことが書かれていますか。

ここにも、いくつか興味深いことが書かれていますが、特に神とこの異教の王の関係に注目してください。

問2

アビメレクに注目しながら、もういちど20章全体を読んでください。この王はまことの神を知っていましたか。最近のどんな出来事によって、王の関心がまことの神に引きつけられましたか。

アブラハムがどれほど簡単に自分の行為を正当化できる立場にあったかを考えてください。もし彼が殺されるようなことになれば、彼から出る大いなる国民についての約束は無になるのでした。たとえ、これまで何度か繰り返されたこの約束が時ならぬ死の恐怖から彼を守ってくれるはずだとしても、です(創20:11)。それに、彼は本当にうそをついていたのでしょうか。結局のところ、本章にもあるように、サラはアブラハムの腹違いの妹でした。したがって、ある意味で、「行くさきざきで」(13節、口語訳)彼女を自分の妹だと言ったとしても、うそをついていることにはならなかったでしょう。

ただ、ここで知っておきたいのは、口にしないことも容易にうそになる場合があるということです。律法の字面にこだわり、その背後にある原則を全く見落とすことなどは最もよい例です。

イサクの誕生

多くの年月、多くの失望、多くの勝利と失敗の後に、ついに約束の子が産まれました(創21:1~3)。彼らはその子をイサクと名づけました。「彼は笑う」という意味です。これは、アブラハムとサラに子が産まれると主から言われたとき、アブラハムが不信仰のあまり笑ったことを思い起こさせます。確かに、創世記17:17「そして彼は笑った」から「そして」を取り除くと彼の名前になります。この名前はまた、約束の子を与えられるときのアブラハムとサラの喜びをも表しています。

しかしながら、不幸にも、家庭は平和と喜びで満ちていたわけではありません。その後の経験は、たとえ赦された後であっても、罪の結果のもとで生きることが何を意味するかを実証するものとなります。

問3

創世記21:9~21を読んでください。イサクの誕生後、どんな悲しい出来事が続きましたか。主は息子を去らせねばならなくなったアブラハムをどのように慰められましたか。

イシュマエルは約17年間、父のアブラハムと一緒に住んでいました。どうして彼を去らせることができるでしょう。アブラハムにとって、それは大きな犠牲でした。年老いた族長は、善意から出た過ちとはいえ、大きな代償を払わねばなりませんでした。そもそもアブラハムにハガルのところに入るように言ったのはサラでしたが、その本人が二人を去らせるようにアブラハムに言わねばならないとは何と皮肉なことでしょう。

問4

アブラハムの「約束による」(霊的な)子孫と「約束によらない」(人間的に生まれた)子孫とが相容れないものであることについて、パウロは何と述べていますか。彼はそれをどのように適用していますか。ガラ4:28~31

[ハガルとイシュマエルを去らせるという]アブラハムの苦渋に満ちた決断は私たちには理解しがたいものですが、はっきりしていることは、主に背くことが決して益にはならないということです。不従順は、罪を犯した当事者だけでなく、しばしばその人の近親者にも累を及ぼします。最初、ハガルを側女として迎えたとき、アブラムはこのようなことになるとは想像もしませんでした。

モリヤ山上のアブラハムとイサク

問5

創世記22章を注意深く読んでください。この感動的な物語からどんなことを教えられますか。学んだことをあなた自身の信仰生活にどのように生かすことができますか。

旧約聖書に記された多くの物語の中でも、これは最も力強く、最も感動的で、最もメシア的(御子イエスの死が予表されているということ)なものの一つであり、同時に最も理解しがたいものの一つです。アブラハムが信仰を現す必要があったこと(これまで何度も失敗していた)、また彼が自己に死ぬ必要があったことは理解できますが、本当に神がそのように要求し、従うように求められたのでしょうか。この物語はいろいろなことを教えていますが、とりわけ自分自身の信仰の足りなさを、また私たちが善と悪の大争闘の中で罪人の理解をはるかに超えた問題に直面していることを教えられます。

この物語はアブラハムに中心を置いていますが、イサクの役割も忘れてはなりません。エレン・ホワイトは『人類のあけぼの』の中で、若者は逃れることもできたが、すすんで従い、苦悩に打ちひしがれた老人がしようとしていたことを助けようとさえしたと記しています(上巻157ページ)。イサクの自発的な服従は将来における神の御子の服従を予表していました。もう一度、モリヤの地、ゴルゴタの丘で、父(神)がその子(イエス)において御自身の命をささげようとしておられました。モーセは信仰によって将来を眺め、「主の山に、備えあり」(創22:14)と記しましたが、私たちは崇敬と感謝をもって、「主の山に、備えられた」と言うことができます。

信仰と行い

問6

ヘブライ11:17~19を読んでください。アブラハムが先に神の約束に信頼しなかったことを考えると、これらの聖句は彼の信仰を理解する上でどんな助けになりますか。

アブラハムとイサクの物語がいかに信じがたいほどのものであっても、またそれからどのような教訓を引き出すことができたとしても、信仰、人を救う信仰、新約聖書に教えられている信仰(ロマ3:28、5:1、ガラ3:24)は、それらの信条がいかに正しくても、単に信条に同意することではありません。神についての教理を知っていたとしても、また神の御名によって何かをしたとしても(マタ7:22、23)、それで救われるわけではありません。アブラハムの経験は、信仰とは神に従うことであり、行いにおいて現される信仰だけが人を救う信仰であることを教えています。

問7

ヤコブ2:17~26を読んでください。これらの聖句の中心的なメッセージは何ですか。ヤコブはどんな点を強調していますか。どんな点を強調していませんか。ロマ3:28、5:1、ガラ2:16、17参照

私たちは信仰によって救われます。しかし、それは行いにおいて現される信仰、神が私たちを通して働かれる信仰です。御使いがアブラハムを制止した後のことに注目してください。「主の御使い」は二度、アブラハムが祝福にあずかったのはその服従のゆえであると言っています(創22:16、18)。神がアブラハムを祝福されたのは、アブラハム自ら、自分が信頼していること、すなわちまさしくその点において信頼に値する者であることを実証したからでした。主が約束の祝福を私たちに与えられるのは、信仰から出た服従を通してです。このように、信仰と行いは信者の生活の中で不可分の関係にあります。

一時代の終焉(創23:1~25:10)

アブラハムはカナンの地に戻り、後にヘブロンと呼ばれるようになるキルヤト・アルバに住みました。サラはここで死にました。数々の失敗にもかかわらず、サラは信仰によって「更にまさった故郷」で永遠に住むことを待ち望んだ人々の列に加えられました(ヘブ11:11~16参照)。

問8

サラの名がヘブライ11章に加えられているのはなぜだと思いますか。

サラが死んでから3年後、アブラハムは息子の結婚のための準備をします。イサクは神の導きと父親の嫁探しに信頼しました。アブラハムにとって、息子の結婚は非常に重要な意味を持っていました。

問9

アブラハムがエリエゼルに、カナンの娘たちからでなく親戚のうちからイサクの妻を選ぶように助言したのはなぜですか。これは排他的精神、あるいは優越感から出たものでしたか。創24:3、4、申7:3、4、列王上11:4、Ⅱコリ6:14参照

イサクを正式な後継者に選び、ほかの息子たちには十分な贈り物を持たせて去らせた後、アブラハムは175歳で死にます(創25:1~8)。イシュマエルとイサクは父アブラハムをサラの埋葬されている墓に葬ります(9、10節)。

忠実な者たちの家系について記す前に、創世記は記録から消えてしまう者たちの世代を列挙しています(12~18節)。聖書は特にアブラハムの家系に焦点を当てています。それは、たとえ断続的であれ、まことの神についての信仰と知識を持ち続ける家系です。

まとめ

「結婚関係の神聖さについてアブラハムに与えられた教訓は、各時代の教訓となるものであった。それは、どんな犠牲を払っても、結婚関係の権利と幸福とは慎重に守るべきことを言明している。サラが、アブラハムのただひとりの真の妻であった。妻また母としての彼女の権利は、他の何人も共有する資格がなかった」

(『人類のあけぼの』上巻152、153ページ)。

「彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志にさからうことはできなかったことであろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んでいたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハムと同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった」(『人類のあけぼの』上巻157ページ)。

アブラハムにとってその旅は、何とも気の進まない、いや行きたくない旅だった。荷物は息子イサクと僕たちが持っているのに、体と心に重くのしかかってくるものが足取りを重くしている。示された行き先の山は紫の雲に輝いて刻一刻と近づいているのに、心は隣を行く息子イサクといつまでも離れずに歩き続けて、その山に到着しなければいいのにとばかり考えている。あなたの子孫によって全ての国民は祝福されるとの20数年前の約束が成就して与えられ、今は立派に成長して神の約束を受け継ぐはずの息子イサク。こともあろうに神はそのイサクを犠牲として捧げよと言われる。ああ主よ何故ですか、どうしてイサクをなのですか、と幾晩も夜を徹して祈り問うたのに。

アブラハムのこの荒野の旅の3日間、モリヤの山の最後の瞬間までの苦しみは、事成れりとなる極みまで御子イエスを十字架上に捧げた御父の苦しみを垣間見させる。アブラハム、イサク、そして我々の起源と帰属を回復するためのお苦しみを。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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