この記事のテーマ
フランス革命の哲学者ともいわれるジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)は「、人間の心には原罪というものはない」、人間はみな基本的に善である、と主張しました。人間を堕落させたのは社会であり、自分の意思、感情、良心に任せておけば、人間は自然に善を行うようになる、というのです。これはすべて、多くの子供をもうけた後で、全員を孤児院に入れた男の言葉です。
これ以上に、聖書と現実に矛盾する考えはないでしょう。聖書は次のように教えています。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレ17:9)。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:24、25)。
今回、家族の歴史についての研究を続けるに及んで、人間の心にひそむ罪悪と虚偽がさらに明らかになります。神の御心を行っていると言いながら、その心が高慢と欲望、利己心に支配されている場合があります。
では、明るい点は何でしょうか。どのようなときにも、主が弱い罪人に御自分の愛と忍耐、救いと赦しの恵みを与えてくださることです。
エサウとヤコブ(創25:19―34)
エサウは双子でしたが、先に出てきたので、長男とされました。そこで、エサウに対して最初にアブラハムになされた契約の特別な約束と特権が与えられました。「エサウとヤコブは、その約束をよく知っていた。彼らは、長子の特権を非常に重要なものと考えるように教えられていた。というのは、それが、ただ単にこの地上の富の相続だけでなくて、霊的に優位が与えられることをも含んでいたからである。それを受けるものは、家族の祭司となり、その子孫からこの世界の贖い主が出ることになっていた。一方、長子の特権を受けたものは責任も負わされた。祝福の継承者は、彼の生涯を神の奉仕にささげなければならなかった。彼は、アブラハムのように、神の要求に従順でなければならなかった。結婚、家庭関係、公の生活などで、彼は、神のみこころをうかがわなければならなかった」(『人類のあけぼの』上巻190ページ)。
問1
上記の引用文を念頭において、今日の聖句を読んでください。エレン・ホワイトの言葉はエサウの行動を理解する上でどんな助けになりますか。また、どんな教訓を与えてくれますか。ヘブ12:14~17参照
創世記25:27は二人の少年を対照的に描いています。面白いことに、ヤコブについて用いられているヘブライ語の“タム”いう言葉は「完全」、「完璧」、または「道徳的に無垢」という意味です。それはヨブ記1:8でヨブの品性を描写するのに用いられている「無垢な」という言葉と同じです。このように描写されているにもかかわらず、ヤコブはなおも兄の弱みにつけ込んで長子の権利を得ようとしています。ヤコブは自分と兄に関して母親に与えられた約束(23節)のことを考え、それが実現するためには長子の権利を持っている必要があると考えたのでしょう。どんな動機であれ、彼は長子の権利を是が非でも手に入れるべきものとみなしました。
同時に、エサウは自分が長子の特権にふさわしくない者であることを実証しました。軽々しくそれを交換し、その選択を誓い(33節)、何でもなかったかのように立ち去っています(34節)〔創26:34、35も参照〕。
イサクとアビメレク(創26章)
アブラハムが以前、経験したように、この地にも飢饉があり、イサクは新しい土地に移動せざるをえなくなります。それによってイサクが失望することのないように、主はこのとき、先に父アブラハムとのあいだで結んだ契約の約束をイサクとのあいだで更新されます(創26:1~5)。
問2
創世記26:7~11を読んでください。これと同じ光景をどこかで見ませんでしたか。この記事からどんな教訓を学ぶことができますか。
やがて、イサクの富はペリシテ人のねたみを買うまでに増大します。争いを避けるために、イサクはゲラルの谷に、それから再びベエル・シェバに移ります(12~23節)。この出来事は、罪によって堕落した世界に生きているクリスチャンが経験するさまざまな困難や緊張を例示しています。
問3
主が再びお現れになった後で、イサクはどんな族長の慣習に従いましたか。この行為はどんな重要性を持っていましたか。それは何を象徴していましたか。24、25節(エフェ5:2、黙13:8参照)
アブラハムがゲラルの王アビメレクと条約を結んでからほぼ1世紀後、もうひとりのアビメレクが参謀と軍隊の長をともなってイサクのもとに来て、平和の誓約を交わします。
不信仰な計略
創世記27:1~7を読むと、イサクの味覚が彼の心と良心を狂わせてしまっています。エサウとヤコブが生まれたときに「兄が弟に仕えるようになる」という主の言葉が与えられていたにもかかわらず(創25:23)、またエサウが長子の権利を故意に軽視したにもかかわらず(29~34節)、さらにはエサウがあえてヘテ人の女を妻に迎えたにもかかわらず(創26:34、35)、イサクは長男のエサウに長子の権利を与えようとしました。
「リベカは、彼[イサク]が何をしようとするかを読みとった。彼女は、それが神のみこころの啓示とは相反することを確信した。イサクは、神の怒りを招く危険にさらされていた。そして、神が召された地位に次男をつかせまいとしているのであった。彼女は、イサクを説き伏せようとしたがむだだったので、策略を用いる決意をした」(『人類のあけぼの』上巻194ページ、一部改訳)。
問4
創世記27:8~29を読んでください。特に20節にある、父イサクに対するヤコブの返答に注目してください。それはこの計略の悪質さについてどんなことを示していますか。
イサクはヤコブの着物の匂いをかぎ、現在から将来に思いをはせました。野の香りは彼に豊かな作物と穀物、ぶどう酒を思わせました(27~29、37節)。ヤコブは多くの国民を支配するようになると約束されました。その計画は、イスラエルの後の預言者や詩人によって繰り返され、詳述されていきました。イサクは霊感に導かれて、神の民の最終的な成功と繁栄を思い描きました。
問5
イサクがヤコブに与えている祝福を注意深く読んでください(28、29節)。祝福の中にどんなことが含まれていますか。ヤコブがこれほどまでに祝福を求めたのはなぜですか。
二心の代償(創27:30~46)
ここまで、ヤコブが他人の弱みにつけ込んで自分の望みを遂げようとする例を二度見てきました。それでも、彼が族長の一人になったということから、心から罪を悔い改める者への神の恵みについて多くのことを教えられます。しかし、罪の赦しは罪の結果を帳消しにするものではありません。
この偽りがさらに愚かなのは、計略が遅かれ早かれエサウとイサクにばれてしまうことがわかっていたことです。それにもかかわらず、母と子は代償を払ってでも自分たちの望みを遂げようとしました。ここに重要な教訓があります。あなたがしようとしていることについて熟慮せよ、ということです。
さらに、これらの出来事(25章も含む)に関して悲しむべきことは、無実の者がだれもいないということです。イサクも、リベカも、ヤコブも、エサウも、全員が自分が行った悪事の責めを負わねばなりませんでした。
問6
それぞれの名前の後に、彼らの行った悪事を書いてください。それらの行為の根底には何がありましたか。イサク、リベカ、ヤコブ、エサウ
ここに見られるのは、行為の善し悪しにかかわらず、望んだものを手に入れようとする全くの利己心です。驚かされるのは、ある場合には、神の御心と信じるところに従って実際に行動していることです。その結果はどうだったでしょうか。リベカはヤコブに、ラバンの所に逃げて行きなさい、後で呼び戻しますから、と言っていますが(創世記27:44、45)、リベカがその後、ヤコブと再会したという記録は聖書のどこにもありません。
ヤコブの階段(創世記28章)
問7
イサクはどんな父親らしい教えと祝福をもってヤコブをメソポタミアに送り出していますか(創28:1~5)。結婚に関するイサクの教えが重要な意味を持つのはなぜですか。
先の不誠実で偽りに満ちた行為の後に、ヤコブは家族のもとを離れます。しかし、神から見捨てられたわけではありませんでした。主は夢の中でヤコブに現れ、驚くべき保証と約束をお与えになります。
問8
創世記28:10~15を読んでください。主がヤコブのような者にこれほど素晴らしい約束をお与えになったのはなぜだと思いますか。このことは恵みについてどんなことを教えていますか。
エレン・ホワイトによれば、ヤコブはその夜、眠りにつく前に、「涙を流して深く恥じ入り」、罪を告白し、自分が「全く見捨てられていない」という証拠を主に求めました(『人類のあけぼの』上巻198ページ)。夢は悔い改めに対する応答でした。
御使いたちが上ったり下ったりしている階段の夢は、救いの計画についての部分的な啓示でした。罪は人間を天から切り離しましたが、イエスはその淵を埋めてくださいました。イエスは天と地を結ぶ階段です。イエスの完全な義は罪深い世を聖なる神に和解させ(Ⅱコリ5:18、19)、信仰によってキリストの御業を受け入れるすべての者を神の前に義とするに十分なものでした(ロマ3:28~30、4:5、ガラ3:24)。
このように、十字架のずっと以前から、天と地の間の密接なつながりが示されていました。私たちは見捨てられたのでも、独りぼっちでもありません。神は地上の出来事に深くかかわっておられます。もし啓示がなければ、私たちは絶望するしかありません。人間に全く無関心なように思われる冷たく広大な宇宙の中のちっぽけな一惑星上に生存する死すべき人間にどのような希望があるというのでしょう。しかし、啓示は異なった見方をさせてくれます。啓示はこの世界の出来事に新しい解釈を与えてくれます。
今回のメッセージ
「ヤコブとリベカは、目的を達したものの、彼らの詐欺行為によって得たものは、苦悩と悲哀だけであった。神は、ヤコブが長子の特権を得るであろうと言われたのであるから、神が彼らのためにそうしてくださるのを信仰をもって待っておれば、神の言葉は、神ご自身がよいと思われるときに達成されたことであろう。しかし、今日神の子であると公言する多くの人々のように、彼らはこのことを主の手にゆだねようとしなかった」(『人類のあけぼの』上巻194ページ)。
「この幻のなかで贖罪の計画が彼[ヤコブ]に示された。それは、十分なものではなかったが、当時の彼に必要な部分が与えられた。彼の夢のなかの神秘的なはしごは、キリストがナタナエルとの会話のなかで引用されたのと同じものであった。『天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう』と彼は言われた(ヨハネ1:51)。人間が神の政府に反逆するまでは、神と人との間に自由な交わりがあった。しかしアダムとエバの罪が、天と地とを隔ててしまったので、人間は創造主と交わることができなくなった。ところがこの世界は、孤立した絶望のうちに放任されたのではなかった。はしごは、交わりの仲介者として任命されたイエスを代表していた。もし、彼がご自分のいさおしによって、罪がもたらした深い淵に橋をかけてくださらなかったならば、奉仕の天使たちは、堕落した人類と交わることができなかったであろう。キリストは、弱く力ない人間を、無限の力の源泉につないでくださる」(『人類のあけぼの』上巻200ページ)。
天と地を結ぶはしごの幻はヤコブが人生で平安と義の実を結んだ年老いた至福の時に与えられたのではなく、彼がまだ若く、自分の犯した罪におびえ孤独を恐れ欠乏に苦しむ時に与えられました。神の励まし、導き、助けは、人が一番必要を感じて祈る時に与えられるのです。
この世で時々、心の清い人は天使を見ることがあります。究極の状況で真剣に祈り求めるとき、天使が現れ、助けと守りが与えられることがあります。罪が増し、悪に染まって、聖い天使が立ち寄り難くなっているこの地球に、天使たちが通ってくることができる唯一のはしごは、イエス・キリストそのおかたです。イエスは、人間の起源と帰属回復のための愛の架け橋なのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。