牢獄から宮殿へ【創世記―起源と帰属】#12

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曲折に満ちたヤコブの物語は、人間の罪深さと神の慈愛・憐れみを対照的に描きながら、なおも続きます。創世記34章では、土地の首長がヤコブの娘ディナを辱め、シメオンとレビが町の男子全員を虐殺します。報復を恐れたヤコブは逃れてベテルに戻ります。主は、再びヤコブに現れ、契約を再確認されます。「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう」(創35:11、12)。

35章はベニヤミンの誕生とラケルの死、「ルベンが父の側女ビルハのところへ入って寝た」ことに触れ(22節)、ヤコブがイサクと再会したこと、イサクが180歳で死に、葬られる記述をもって終わっています。

36章はエサウの家系に触れますが、それはやがて歴史の舞台から消えていきます。聖書は再びヤコブとその「選ばれた」子孫に戻ります(創37章)。

これらすべては何を教えているのでしょうか。もし、これらすべての罪の中にあっても、神がなお御自分の御心を実現されるとすれば、御名を告白する者たちが実際に神の要求に従うとき、いったいどれほどのことが実現するかを想像してみてください。

夢見る者

問1

創世記37章を読み、次の質問に答えてください。

1.ヨセフの兄弟たちがヨセフを憎んだのはなぜでしたか。

2.ヨセフはどのようにして状況をさらに悪化させましたか。

3. 21、22節を読んでください。ルベンだけが正しいことをしていますが、これはどんな意味で皮肉な出来事でしたか。

4.25~28節を読んでください。彼らがヨセフを殺さないことにしたのはなぜだと思いますか。

5. ヤコブの生涯を振り返ってください。どんな意味で、彼の過去の行為と過ちがこの悲劇を招いたと言えますか。

これはいかにも恐ろしい出来事ですが、その家族の背景を考えると、それほど驚くにはあたりません。初期の段階から、この家族には、ねたみや暴力、虚偽がつきまとっていました。まことの神を拝み、神から特別な啓示を与えられた父親によって育てられたとはいえ、子供たちは真の意味では神を知らず、真に神に仕える者に欠かせない心の改変を体験していませんでした。

カナン人との罪

問2

創世記38章を読んでください。この物語の主旨は何ですか。それはユダの品性についてどんなことを教えていますか。

創世記38章の物語は、何らかの理由で、ヨセフの物語を中断するかたちになっています。おそらく、主はヨセフを裏切ったユダの不道徳性を、裏切られたヨセフの道徳的品性と比較しようとされたのでしょう。

創世記38章が教えようとしている重要なことは、「ヤコブの息子たちが、民族の聖なる使命感を忘れて、カナンの罪の中で滅びる危険があったことである。もし神が憐れみのうちにヤコブの全家族をエジプトに移住させておられなかったなら、この選ばれた民はカナン人の慣習という堕落的な影響力に負けてしまっていたかもしれない。この意味で、創世記38章はイスラエルの初期の歴史に欠かせない部分である」(『SDA聖書注解』第1巻434ページ)。

問3

ユダの行為は確かに罪深いものでしたが、その中にあっても、彼はどのような道徳的特性を表していますか。創38:26(同37:26参照)

自分の行為が発覚した後で、ユダは自分の罪を認めざるを得ませんでした。ヨセフに対する陰謀のときもそうでしたが、彼はここでも、外聞の悪い、堕落的な行為の中にも、公正で、誠意ある精神を現しています。ユダの素直な罪の告白、その後のタマルの扱い、キリストの家系における特別な地位(創49:10)は、彼の心が変わったことを暗示します。ユダはほかの兄たちよりもすぐれた品性を持っていたので、家族の指導者に、また彼の子孫はイスラエルの指導者にふさわしい者とされたのでした(創49:3、4、8~10参照)。

エジプトにおけるヨセフ(創39章)

ヨセフを虜にした隊商はヤコブの天幕のある丘を通り過ぎます。ヨセフは、「しばし悲哀と恐怖の念にかられて気が狂いそうであった」(『人類のあけぼの』上巻234ページ)。しかし、ヨセフはアブラハムやイサク、ヤコブに示された神の愛と真実についてのヤコブの話を思い出し、主に信頼し、御国の市民として行動する決心をします。神は摂理によってヨセフをエジプトに下らせることによって、ヤコブの家族が救われる道を備えられました。また、カナンのアモリ人の罪が極みに達するまで、アブラハムの子孫が経験することになっていた異国による支配への道が備えられました(創15:13~16)。ヨセフの経験は、あらゆる不利な条件下でも主が御自分に忠実に従う者を通して何をなさることができるかを如実に示しています。

問4

ヨセフの家族の品性はさておき、ヨセフについてはあまり詳しく書かれているわけではありませんが、書かれた過去の経験から彼の信仰についてどんなことがわかりますか。このことはどんな教訓を与えてくれますか。

ほかの家族の欲望の問題(創35:22、38:16、18)、広く行われていた一夫多妻制度(低級な欲望をかき立てた)などについて考えるとき、ヨセフが主人の妻による執拗な誘惑にも動じなかったことは彼の信仰と品性をよく表しています。

問5

ヨセフは不当にも奴隷にされ、不当にも投獄されます。それでも、創世記39章には3回、「主が共におられた」と書かれています。これはどんな意味ですか。これほどの逆境の中にあって、神はどのようにしてヨセフと「共に」おられたのでしょうか。

はっきり言えることは、問題や試練は神が人を見捨てられたしるしではないということです。ヨセフは神の摂理を理解することができませんでした。現在の私たちにはっきりと見えることも、彼には見えませんでした。もちろん、ヨセフの目には、すべてが不合理に映りました。それでも彼は、忠実であろうと心に決めていました。

給仕役と料理役(創40章)

料理役も給仕役も王の宮廷の中で高い地位にある役人でした(ネヘ1:11比較)。二人は投獄され、ヨセフの管理のもとに置かれました(王に対して陰謀を企てたために告発されたのかもしれません)。

問6

創世記40:6~8はヨセフの品性と性格についてさらにどんなことを明らかにしていますか。

牢獄の中でも、ヨセフは人を助け、主をあかしし、夢を解き明かしてくださる神の栄光をたたえています(8節)。

問7

牢獄の中で「成功」し、神に忠実であったヨセフですが、自分に対する不正な扱いを認識し、監獄から出たいと強く望んでいたことはどこからわかりますか。

信仰を持ってはいましたが、ヨセフはなお自分が釈放されるように人間的な助けを求めました。彼は将来のことも、主の計画も知りませんでしたが、問題を解決するために自分にできることをしました。これは純粋に人間的で、理解できる行為です。残念ながら、聖書にあるように、事はうまく運びませんでした。給仕役の長が、釈放されたとたんに、ヨセフのことを忘れてしまいます。しかし、給仕役の長の名誉のために言いますが、彼はずっと忘れていたわけではありません。彼は次のように言うことができました。「王よ、夢の解き明かしができるヘブライ人が牢獄にいます。釈放されてはいかがですか」。事実、創世記41章を見ると、給仕役の長はふさわしいときにヨセフのことを話しています。それまで、あと2年、ヨセフは牢獄の中に座して、疑いと失望と闘わねばなりませんでした。

ヨセフの釈放(創41:1―40)

本章は典型的なエジプトを背景にして描かれています。川の中で涼んでいる雌牛が出てきます。葦辺のことが書かれています(創41:2)。牢獄を出るに際して、ヨセフはヒゲを剃っています(エジプトの絵画ではユダヤ人はヒゲを伸ばしています)。エジプト人はナイル川を命の源とみなしていたので、やせ細った雌牛が川から上がってくる光景はエジプト人を驚かせたことでしょう。

問8

給仕役の長はヨセフのためにどのように動きますか。

これらの失望に満ちた経験の後にも、ヨセフが先祖の神に対する信仰を表していることに注目してください。彼は創世記41:16で、自分に夢の解き明かしをさせてくださったのは神であると断言しています。王の前に自分をよく見せるためにすべてを自分の手柄にしたくなる状況を考えれば、これは驚くべきことです。ここにも、行為に表されたヨセフの信仰を見ることができます。

問9

夢の解き明かしの中で、ヨセフはさらに何と言って神をあかししていますか。創41:28、32

ヨセフの予告した出来事はすべて、神の御業の結果として起こることでした。言い換えるなら、彼は起ころうとするすべてのことのうちに主のみ手があることを見ていたのでした。ヨセフの言葉は、彼が神の主権と力に信頼していたことを示しています。彼が牢獄の中でも信仰を守り通した秘訣はここにあります。

もう一つ注目したいのは、ヨセフが夢の解き明かしをした後で、王になすべきことを助言していることです。これには、穀物を蓄える責任者を任命することが含まれていました。聖書に記されている王の夢の中で、そのように解釈できる部分があるのでしょうか。全くありません。ヨセフは出獄するための機会をうかがい、自らその地位につこうと考えたかもしれません。状況を考慮すると、ありえないことではありません。それは人間的なことです。神を愛し、神に忠実な人間であっても、です。

まとめ

「ヨセフは獄屋からエジプト全国のつかさにと高められた。それは、高い名誉ある地位ではあるが困難と危険とが伴うものであった。人間は、高い頂に立てば必ず危険に会うものである。嵐は谷間の低いところに咲く花をそこなうことはないとしても、山頂にある大木を根こぎにすることがある。同様に、平凡な生活のときには廉潔を保って来た人も、世的成功と名誉に伴って誘惑に敗れて深い穴に落ちこむことがある。しかし、ヨセフの品性は、繁栄のときと逆境のときの両方の試練に耐えた。牢獄の中においてあらわされた神への忠誠は、パロの王宮に立ったときにもあらわされた。彼はこのときでさえも異教の地の他国人であり、真の神を礼拝する親族から遠く離れていた。しかし、彼は神のみ手が自分の歩む道を指示したことを心から信じ、神に常に信頼しつつ忠実に与えられた義務を果たしたのである」(『人類のあけぼの』上巻244ページ)。

父の家から遠く離れて異国へ引き立てられる寂しさ、奴隷という身分の悲しさ、手足をつなぐ鎖の重さ、将来への大きな不安。このときヨセフを支えたのは幼いころに父と母から聞かされた神の約束の言葉でした。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が父祖達と結んだ約束、その希望が彼の心に最後まで主に従う信仰の決心をさせたのです。

エジプトでのヨセフは異教の地での奴隷としての身分であっても、自分の真の起源、帰属を忘れませんでした。偶像礼拝の異国でそれを堅く保つために彼はいつも御言葉(それは祖祖父アブラハムがこの地に残したものかもしれませんが)を学び、祈ったに違いありません。そして、創造主なる神が共におられたので、彼のなす務めは祝福され、栄え、人々に真の神がおられることを証ししました。その証しは更にその後のヤコブの一族の移住、そして何百年か後のモーセによって広く深く根づき、エジプトの地が昔から神の御言葉が我々に正しく伝えられるための大切な役割を果たしていることは、神の不思議な御摂理です。

ヨセフが神の定められたご計画に従ってこの地で更にもっと大きく用いられるためには、その後何度も試練があり、時を待たねばならなかったのです。どんな環境にあっても、他人を助け、明るく主を賛美し、自分の務めを果たし、主を証ししました。人は罪を犯しますが、真に悔い改め、赦しを求めるならば、全人類のために神は赦しを与え、その人を用いられるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2006年4期『起源と帰属』からの抜粋です。

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