【エゼキエル書】隠れた罪【8〜10章解説】#4

目次

徐々に背信する

個人としてであれ、集団としてであれ、神の民が突然にして背信するということはあまりありません。神を信じる者が神から離れる傾向を持つのはなぜでしょうか。

アウトライン

  • 神殿における背信(エゼ8:1~18)
  • 保護のしるし(エゼ9:1~11)
  • 終わりの時の神の印(エゼ9章、黙示7:1~3、14:1~5)
  • エルサレムを焼く火(エゼ10:1~7)
  • 見捨てられた神殿(エゼ10: 8~22)

隠れた罪の恐ろしさ 

19世紀の後半に生きたジョゼフ・コンリー博士は、12人兄弟の1人として敬けんなメソジストの家庭で育ちました。彼は父親から牧師になるように勧められ、アイオワ州にある家を離れて、7年間、州立大学と神学校で学びました。卒業後、カリフォルニア州サンタ・アナで牧師になりました。彼しか知らない一つの問題を除けば、この若い夫婦にとって将来は有望そのものに見えました。

コンリー博士は学生時代、トーマス・ペイン、ルナン、ハックスレーといった作家の無神論的な作品について研究し、彼らと同じ疑念を心に抱き始めていました。一時、合衆国西海岸地方で最も大きな教会のいくつかを牧していましたが、その心にある疑念は隠れたがんのように彼の霊性をむしばみ、ついにある日、自分の妻に対して「終わった。最後の説教が終わった」と言うまでになっていました。

それからの数年というものは、タバコ、アルコール、ギャンブルの毎日でした。彼は今までの信仰を攻撃することによって弱くなった良心を抑えようとしました。そのうちコンリーはカリフォルニア州自由思想家協会の会長になり、無神論の講義で知られるようになりました。アルコール中毒になった彼は急速に、肉体的、精神的に身をもちくずしていきました。12年間というもの、彼が酒場に行かない日はありませんでした。

その頃、何人かの有志が資金を集めて、金鉱さがしのために彼をユーコン地方の荒地に送りました。クロンダイクの長い冬のある日雪に埋もれた小さな小屋の中で、コンリーは、以前クリスチャンであったほかの二人とともに、娘がトランクの薬箱に入れておいた一冊の聖書を読み、ふたたびキリストとの出会いを経験しました。驚くべき福音の霊的恵みによって彼はウィスキーの力に勝利し、滅びたいのちから救われ、ふたたびキリストの証人として立ちあがりました。

このような経験がいつでも救いという結果に終わるというわけではありません。しかし、私たちは、クリスチャンが、しばしば心に抱いている隠れた罪や疑念によって背信することがあるということを覚える必要があります。

ユダの背信は一夜にして生じたものではありません。エゼキエルは特別な幻によって、エルサレムの神殿の中に何が起こっているかを示されました。因果の法則は不変であって、罪は必ず滅びにつながります。

神殿における背信(エゼ8:1~18)

預言者の職務に召されて14カ月目に、エゼキエルは一連の新しい幻を与えられます。その幻の中で、明らかに捕囚の民の指導者と思われる老齢の「ユダの長老たち」がエゼキエルのもとを訪ねてきていました。

質問1

エゼキエルはすぐに幻の中で何を見ましたか(エゼ8:2―同1:26~28比較)。その幻の中で、彼はどんな不思議な方法でエルサレムの神殿に移されましたか(エゼ8:3)。

神殿でヤーウェを礼拝するふりをしながら、人々は公然と盗み、人を殺し、不品行と偶像礼拝を行っていました。エレミヤは先に、エリの時代にシロの聖所が見捨てられ、滅ぼされたのとちょうど同じように、エルサレムの神殿も滅ぼされると預言していました(エレミヤ書7:8~15参照)。エゼキエルは国家の指導者たちと国民の完全な堕落を示されたのでした。主は彼に、まことの神の家である神殿が異教の神殿として用いられていることを示されました。

質問2

エゼキエルはほかにどんなことを示されましたか。「イスラエルの神の栄光」がそこにあったことには、どんな深い意味がありますか。エゼ8:4~6

偶像は至聖所にではなく、神殿の北側の外庭にありました。偶像を主の神殿に置くということは主に対するあからさまな侮辱でした。庭で偶像を拝むというこの行為に対して、はっきりと次のように言われています。「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである」(エゼ8:6、太文字付加)。

エゼキエルがそこに見たのは、自分たちの伝統を知らないままに異教の魅力に屈した若者たちではありませんでした。彼が見たのはむしろ、40年前にヨシヤ王の霊的改革に参加したことのある70人の「イスラエルの家の長老」たちでした。その中には、エゼキエル自身の知っている指導者もいました。彼らはその晩年になって、ひそかにまことの神に対する礼拝を捨て、感情を持たない獣の形の前で香炉を振り、汚れた生き物の像を拝んだのでした。彼らの心は罪によって曇り、愚かにも「主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた」(エゼ8:12)と叫びました。

質問3

ユダヤの女たちは何をしていましたか。エゼ8:13、14

神殿は「すべての民の祈の家」とならないで(イザ56:7)、 異教崇拝の中心となっていました。タンムズとは、「古代世界で広く崇拝されていたスメル人の神であった。彼は牧場と群れの神、天の牧羊者であった。彼は年ごとに死に、その妻であり妹である女神イシュタルが下界に下り、彼を連れ戻すときに新しい生命によみがえるのであった」( 「SDA聖書辞典」「タンムズ」の項)。この自然崇拝の儀式には、嘆き悲しむことと性的行為が含まれていました。エゼキエルはユダの女たちのひどい堕落状態と偶像崇拝を目撃しました(エレ7:17、18、44:15~19参照)。

質問4

最後にエゼキエルにどんな光景が示されましたか。神殿の「内庭」に入ることのできたこれらの人々はだれでしたか。エゼ8:15、16

太陽崇拝におちいる傾向を防ぐために、神殿の入口は東側に向いていました。こうすれば、礼拝者は必然的に西に向かって神を礼拝することになります。「内庭」つまり「廊と祭壇との間」にある区域は祭司しか入ることができませんでした(ヨエ2:17参照)。 したがって、これらの人たちは、たぶん祭司だったと思われます。主の祭司たちが神殿に背を向け、昇ってくる太陽を拝むことは、神に対する最もはなはだしい侮辱でした。

保護のしるし(エゼ9:1~11)

質問5

この時点において、神はどこに移られましたか。それにはどんな意味がありますか。エゼ9:3(黙示15:8、16:1比較)

質問6

神はだれに対して出て来るように命令されましたか(エゼ9:1、2)。 墨つぼを持った人に対してどんな命令が与えられましたか(エゼ9:3、4、11)。 

幻の前半(エゼ8章)から、多くの者たちがひそかに偶像崇拝を行っていたことが明らかです6表面的には、本物も偽物も同じように見えました。しかし、印がつけられることによって、両者の違いがはっきりとしてきました。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サム上16:7)。「神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」」(Ⅱテモ2:19)。主は印をつける幻を通して、残っているわずかな義人を守られるということをエゼキエルにお示しになりました。

質問7

印をつけ終わるとすぐに、武器を持った者たちはどうしましたか。エゼ9:6、7

これがエゼキエルによって書かれた幻であることを忘れないでください。それはあくまでも象徴であって、実際にあった出来事ではありません。滅ぼす武器を持った6人の者たちは、さし迫ったバビロニア軍の侵入とユダおよびエルサレムの滅亡を象徴していました。この幻は捕囚の民に対していくつかの重要なメッセージを伝えていました。(1)神は心から従う者たちを知っており、彼らの生命を守られる。彼らは保護のしるしを受ける。(2)神は「老人」たち(祭司および指導者)の責任を問われる。彼らはひそかに罪深い生活を送ることができると考えていたが、その本性がばくろされ、バビロンの軍勢によって最初に罰せられることになる。(3)ユダの恩恵期間は過ぎた。主は完全にご自分にそむいた民をもはや守ることがおできにならない。

終わりの時の神の印(エゼ9章、黙示7:1~3、14:1~5)

エゼキエルは、同時代の預言者たちと同じく、ユダのさし迫った滅亡を「主の日」と呼んでいます(エゼ7:19、ゼパ1:7、14~18参照)。「『主の日」とは、歴史的に、都市や国家の恩恵期間が終了するとき、そして最終的には、すべての人の運命が永遠に決定されるときのことである」( 「SDA聖書注解』第4巻164ページ)。キリストの再臨も同じ言葉によって表現されていることに注意してください(Iテサ5:1~8、Ⅱペテ3:3、 8~10参照)。

質問8

エゼキエルは幻の中で、何人かの人々が保護のしるしを受けるのを見ました(エゼ9:4~6)。ヨハネは「主の日」に、だれが保護のための「印」をおされるのを見ましたか。黙示7:1~8

質問9

エゼキエルの幻では、あるグループの人々が印を受けています(エゼ9:4~6)。ヨハネの幻では、どんな二種類の人々が最後の危機において印を受けていますか。黙示7:1~8、13:15~17(同14:1~5、 9、 10比較)

エゼキエルの幻では、一種類の人々が神の印を受け、ほかの人々は下った災いを免れています。しかし、ヨハネは最後の世代の人々が二つの種類に区分されるのを見ています。一方は生ける神の印を受ける人たちであり、他方は獣の刻印を受ける人たちです。その中間はありません(終末時代に対するこの幻の適用については、『教会へのあかし」<英文>第3巻266、267ページ、第5巻210~212ページを参照)。

質問10

エゼキエルがあげている特徴(エゼ9:4~6)に加えて終末時代の神の民にはどんな二つの特徴が認められますか。黙示14:12

14万4千人は象徴的に、人類の恩恵期間終了後の最後の諸事件を生きぬく神の義なる残りの民を表しています。これらの人たちは二つの特徴を備えています。(1)彼らは神の戒め、つまり安息日を含む十戒を守ります。 (2)彼らは「イエスの信仰」、つまり救いのみなもと・手段である「イエスに対する信仰」を持っています。彼らが戒めを守るのは、キリストに対する信仰(恵み)の関係があるからです。

質問11

エゼキエルの預言(エゼ9章)のもう一つの面は、それが終末時代の神の民にみられる同じような背信を予示しているということです。イエスは終末時代におけるご自分の民の状態をどのように描いておられますか(マタ24:12、ルカ18:8)。 終末時代の教会にどんな特別な勧告が与えられていますか。黙示3:14~22

質問12

使徒ペテロは新約聖書においてエゼキエル書9:6を繰り返しているかのように思われます。ペテロはだれの責任を最も強調していますか。Iペテ・4:17

「信心のパン種は全くその力を失ったのではない。教会が最大の危機と堕落に直面しているとき、光のうちに立つ少数の人々が、地になされている憎むべきことに対して嘆き悲しむことであろう。しかし、それ以上に、彼らは教会のために祈るであろう。なぜなら、その教会員が世の生き方に従っているからである。……

大いなる光を与えられている者たちの家庭において、宗教が軽んじられているのを見て、彼らは神のまえに嘆く。高慢、どん欲、利己心、そしてあらゆる偽りが教会にあるのを見て、彼らは嘆き、魂を悩ます。罪を指摘する神の御霊は足下に踏みつけられ、反対にサタンのしもべたちは勝ち誇る。神は汚され、真理は無にされる。

私たち自身の行為が、生ける神の印を受けるか滅ぼす武器によって倒されるかを決定するのである」(「教会へのあかし』第5巻209~212ページ)。(エゼ7:27、9:10比較)

エルサレムを焼く火(エゼ10:1―7)

エゼキエルが見たケルビムのあいだには「燃える炭の火」がありました(エゼ1 :13)。

質問13

主は亜麻布を着た人に炭火をどうするように命じられましたか(エゼ10: 1~7)。この行為は何を意味しますか(黙示8:5比較)。

大部分の注解者は、エルサレム中に火をまき散らすことはエルサレムと神殿が実際に燃えることを予示していると考えています。それはバビロニア軍による攻撃の最後の出来事でした(列王下25:9、歴代下36:19参照)。 黙示録8:5の同じような象徴に照らして考えるなら、この行為はユダの恩恵期間の終了を意味していたとも考えられます。実際に終わりが来ました(エゼ7:6)。

質問14

亜麻布を着た人(エゼ9:4、10:2)はどんな点でキリストと似ていますか。ヨハ10:27、28、 5:22

エゼキエルとエレミヤは、ユダの恩恵期間が終了しようとしていることに関して何回も警告を与えています。多くの証拠がありました。「終りの時」(ダニ12:4)に生きているクリスチャンもまた地上の恩恵期間が終了しようとしていることに関して多くのしるしが与えられています。賢明で信心深いクリスチャンは、どのようにしたら人類の恩恵期間の終了に備えることができるでしょうか。私たちが死ぬとき、あるいはそれよりも早く、恩恵期間は終了します。天における再臨前審判の終了はまじかに迫っています(黙示22:11、12参照)。

見捨てられた神殿(エゼ10: 8~22)

質問15

ユダに滅亡を宣告する前に、主はどこに移られましたか(エゼ9:3、 10:4)。 ケルビムはつぎに主をどこに連れていきますか(エゼ10:18、19)。 主は最後にどこに移られますか(エゼ11:22、23)。

「町の東にある」山は、新約聖書では「オリブ山」として知られています(マタ23:37~39、24:1~3比較)。

神は神殿と町から離れられますが、これは神がユダから離れることを望んでおられなかったことを表しています。神は自ら望んでご自分の民のもとを離れられません。

神の民が神を捨てるときにのみ神は不本意ながらそうされるのです。神は徐々に離れて行っておられますが、これは神の忍耐を表しています。主は神殿と町を捨てて、捕囚の民と共に住もうとされます。ここから真の残りの民が出てくるのでした。ユダの隠れた罪は、ついにはあからさまな背信と国家の滅びに発展していきました。

まとめ

ユダの恐るべき背信と堕落はふたたびモーセの言葉の真実性を証明しました。「その罪は必ず身に及ぶことを知らなければならない」(民数32:23)。 私たちは心に抱いている罪を捨て、「神に対しまた人に対して、良心に責められることのない」生き方ができるように神の恵みを祈り求める必要があります(使徒24:16)。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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