クリスチャンの霊的熱意はなぜ冷めやすいのか
私たちが神の約束やさばきの確実性を疑いがちなのはなぜでしょうか。
アウトライン
- 反抗的な失望(エゼ11:1~13)
- 象徴的動作による捕囚についての預言(エゼ12:1~20)
- むなしくなった幻(エゼ12:21~25)
- 将来の出来事についての現在の幻(エゼ12:26~28)
キリストに従うことを延ばしてはならない
第二次世界大戦は激しさを増し加えていました。ほかの多くの戦争花嫁と同じく、家を失ったイローナは、聖書を熱心に学ぶようになっていました。彼女はキリスト教の教えをすぐに理解しました。彼女の心はこれまで経験したことのない深い喜びと平和で満たされました。しかし、イローナは全的にキリストに従うことをためらっていました。
「この恐ろしい戦争はもうすぐ終わり、ジョーは帰ってくるわ。国連によって平和が回復すれば、私たちは家を建てて、ささやかな家庭を築くことができるわ」。イローナは友だちにこう言いました。
「でも、あなたに対するキリストの要求はどうするの? 彼の恵みを受け入れて、すぐにお従いするはずではなかったの?」。友だちがたずねました。
「それは、わかってるわ。でも……」。 彼女はぼんやりとした目つきをしたまま考えこんでしまいました。 それから4年後、2番目の子供を生んだあとで、イローナは亡くなりました。友だちの話によれば、彼女はまだ主に会う備えができていませんでした。救い主の再臨は遠い先のことのように、また主の招きはあまりにも拘束的に思えたのかもしれません。しかし、終わりはイローナの考えていたよりも早かったのでした(フランク・B・ホルブルック「先生、千年期について教えてください」「ジーズ・タイムズ』1977年2月号20~24ページより)。
イローナの優柔不断さは、人間の弱さを表しています。私たちはともすると、幸福は神のうちにないと考えがちです。神は私たちのためにながく忍耐されるために、私たちは神の約束やさばきを疑うことがあります。
ユダも紀元前6世紀に、同じような理由から預言者を通して与えられた主の最後の勧告を拒みました。
反抗的な失望(エゼ11:1~13)
エゼキエル書11章は同8:1で始まっている幻の続きになっています。エゼキエルはなお神殿の近くにいました。
質問1
神殿の東門の入口にだれがいるのを、エゼキエルは示されましたか。それらはだれでしたか。彼らは何を話し合っていましたか。エゼ11:1~3
そこにいる人たちのうちでヤザニヤとペラテヤは、エゼキエルも知っている人たちでした。これらの25人の人たちは祭司ではなく、「民のつかさ」でした。彼らはバビロニア人に降伏しないようにゼデキヤ王に働きかけた人たちのうちの中心的人物でした。
質問2
つかさたちの考えに反して、エレミヤは民にどんな勧告を与えましたか。エレ21:8~10
神殿の入口におけるつかさたちの話し合いは、たとえのかたちで表現されています。「家を建てる時は近くはない。この町はなべであり、われわれは肉である」(エゼ11:3)。このつかさたちはたぶん、町と国の将来について話し合っていたのでしょう。今は、家を建てるといった平和を求めるときではなく、むしろ戦争の備えをすべきときであると、彼らは主張しました。彼らにとって、エルサレムの防衛は完壁でした。丈夫ななべがその中身を火から守るように、エルサレムの城壁はその住民を戦火から守ってくれると、彼らは考えました。彼らは神の警告を無視して、愚かにもバビロニア軍の侵入に抵抗しました。その取るに足らない力をもって、預言の成就に対抗しようとしました。
質問3
これらの高慢なつかさたちに対して、神はどのように答えられましたか。町の中に残るのはどんな人たちでしたか。それらの指導者たちはどうなるはずでしたか(エゼ11:4~11)。 この預言はどのように成就しましたか(列王下25:18~21)
これらのつかさたちは神の明らかなみこころに反抗しました。神の言われたことを自分自身の方法で行おうとするとき、私たちも同じ反逆の精神をあらわします。つかさたちは神の勧告を受け入れる必要を認めませんでした。ありがたいことに、ラオデキヤ人に与えられた勧告はなお私たちにいやしを与えてくれます。しかし、エゼキエルの時代のように、神が反抗的な民を拒まれるときがきます。
「現代広く行きわたっているのは、不信と背信の精神である。それは真理を知り啓発された精神であると言われているのであるが、実は途方もない人間の思いあがりである。人間の理論が高められて、神と神の律法があるべきところにおかれている。サタンは不服従には人々を神のようにする自由と解放があると約束して、彼らを不服従な生活に誘惑する。神の明白な言葉に対する反対の精神があらわれ、神の啓示よりも人間の知恵が偶像のように賛美されている」 (「国と指導者」上巻146、147ページ、太文字付加)。
象徴的動作による捕囚についての預言(エゼ12:1~20)
質問4
エゼキエルは人々の前でどんな用意をしましたか(エゼ12:1~4)。 彼は夜、どんなことをしましたか。彼はなぜ自分の顔をおおいましたか(エゼ12:5~7)。
エゼキエル自身、神が翌朝、啓示してくださるまでは、自分の行為の意味を理解することができなかったでしょう(8節)。
質問5
この象徴的動作による預言の中で、エゼキエルはだれを代表していましたか(エゼ12:8~15)。5年後、これらの出来事が実際に起こったとき、エレミヤはそれをどのように記録していますか(エレ52:4~11)。
たとえユダの王がエゼキエルの象徴的動作による預言について知っていたとしても、王の心は変わらなかったでしょう。ゼデキヤはかたくななつかさたちの手にあるおもちゃのようなものでした(エレ38:5、14~27参照)。
質問6
ゼデキヤ王の失敗はどこにありましたか。列王上9:4~9、列王下24:18~20(歴代下36:11~13比較)
「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人、そういう人である。
しかし、こういう品性は偶然にでき上がるものではない。それはまた神の特別な恩恵や天分によるものでもない。高潔な品性は自己修練の結果である。それは肉欲を精神に従わせること、すなわち、 神と人とに対する愛の奉仕のために自我を克服することによって達せられるのである」(『教育』54ページ)。
質問7
王にふりかかる運命を演じたあとで、エゼキエルはふたたびエルサレム包囲の恐ろしさをどのように強調していますか。エゼ12:17~20 (4:9~17比較)
支配者も民もエルサレム包囲による苦難に会う必要はありませんでした。エレミヤは彼らに対して降伏するように勧告し、もしそうするなら彼らの生命と町は守られると約束しました(エレミヤ書38:2~4、17~20参照)。しかし、つかさたちはこのような勧告を反逆とみなしました。彼らは預言者を殺してでもこのような預言の成就をくい止めようとしました。
「神の摂理によって置かれた立場において、すでに与えられている能力を活用しないで、もし異なった状況に置かれていたならもっと立派で良い働きをすることができたかもしれないと言って、うぬぼれている人たちがいる。人は自分の状況を作り出すことはあっても、状況が人を作るということは決してない。人は状況をとらえてそれを働くための手段とすべきである。彼は状況を支配すべきであって、決して状況に支配されてはならない。個人の自主性と力はいま必要とされている特性である。個性を犠牲にする必要はないが、それを整え、洗練し、高めなければならない」(「教会へのあかし』第3巻496、497ページ)
むなしくなった幻(エゼ12:21~25)
質問8
ユダに下ろうとしている災いに対するどんな反対意見が、たとえのかたちで示されていますか(エゼ12:22)。このたとえに真理はありますか。
モファット訳聖書はこのたとえを次のように訳しています。「時は過ぎていくが、どんな幻も実現したためしがない」。 言い換えるなら、ユダに対する神の恐るべき警告は言葉だけにすぎない、状況は何ら変わっていないからである、ということです。このたとえにはいくぶん真理があるように思われたため、人々は神の警告を無視しました。実際には、神は150年も前にすでにアモスを通してエルサレムにこのような預言を与え始めておられました(アモ2:4、5参照)。エレミヤはにせ預言者ハナニヤについても同じことを述べています(エレ28:8参照)。
質問9
さばきが遅れると、人々はどうしますか。伝道8:11(アモ6:1、3比較)
神の忍耐につけこんではならない
「人類を扱う場合、神は頑迷な者たちにながく忍耐される。神はご自分の定めた者たちを用いて人々を忠誠にみちびき、悔い改めるなら完全なゆるしをお与えになる。しかし、神はながく忍耐されるゆえに、人間は神のあわれみにつけこむ。……魂を和らげ服従させるべき神の忍耐と寛容は、不注意で罪深い者たちに全く異なった影響を与える。それは彼らの自制心を捨てさせ、反抗心を強める。自分たちにながく忍耐された神は自分たちの頑迷さを気にとめられない、と彼らは考える。もし私たちが直ちに報いの下る時代に生きていたなら、神に対する反逆はこれほどしばしば起こらないであろう。しかし、たとえ遅れていようとも、刑罰は確かに下るのである」(「S DA聖書注解』第3巻1166ページ、エレン。 G・ホワイト注)。
質問10
時が過きても何も起こらないことから、神の警告は単なる脅迫にすぎないと考えていたユダヤ人に対して、主は何と言われましたか。エゼ12:23、25
神がエゼキエルを通してこれらの言葉を語られたのは、紀元前592年または591年のことでした(エゼ8:1参照)。 それから3年半もたたないうちに、バビロニア軍はユダに侵入し、エルサレムを包囲しました(エゼ24:1、2参照)。それからほぼ1年半後にエルサレムは滅亡しました。ユダに対する「主の日」(エゼ13:5)の幻は、むなしくなることがありませんでした。神のながい忍耐を言葉だけの脅迫と誤解する傾向が、現代においてもよく見られます。
質問11
ペテロは「終りの時」に何が起こると言っていますか。キリストの再臨が遅れていると不平を言う者たちは、エゼキエルの時代にたとえをもって同じことを言っていた者たちとよく似ています。ペテロはこの非難に対して何と答えていますか。
Ⅱペテ・3:3~10同じような非難がセブンスデー・アドベンチストに対してなされています。私たちが最初にキリスト再臨の近いことを宣べ伝え始めてからすでに100年以上もたっているので、もう自分たちの誤りを認めるべきである、というのです。
キリストの再臨は確実である
聖書を信仰と行為の基準として受け入れる以上、キリストの再臨をむなしい幻として片付けることは決してできません。この地球の住民は1844年以来、厳粛な神のさばきの期間に生きているのです(ダニ7、8、9章参照)。 天の法廷が開かれているあいだに、黙示14:6~14の三つの特別なメッセージが大いなる力をもって全世界に宣べ伝えられ、地上の住民に「神をおそれ」、 神の最終的な恵みの賜物を受け入れるように訴えかけています。このようにして、人々は創造主またあがない主と和解し、キリストの輝かしい再臨に備えることができます。
時は経過しました。しかし、私たちは預言の時の流れのどこにいるのかわかっています。エルサレムとユダの滅亡が確実にやってきたように、キリストの再臨も神の定めておられる計画の中で確実に起こります。エルサレムとユダの滅亡は150年以上も前から預言されていました。
再臨を早める
「世に福音を伝えることによって、主の再臨を早めることが、われわれの力でできる。われわれは神の日の到来を待っているだけでなく、これを早めるのである。キリストの教会が命じられた働きを主がお定めになった通りにしていたら、全世界に対する警告はすでに終わって、主イエスは力と大いなる栄光をもってこの地上においでになっていたのである」(『各時代の希望』下巻 101、102ページ)。
将来の出来事についての現在の幻(エゼ1:26―28)
「信仰は遠くのものを近くに見せる力を持っている。それは時間と空間の距離をなくする。しかし、不信仰は逆の効果を持つ。それは望遠鏡の反対側からながめ、現実をかすかな点にしてしまう」(H・M・スペンス編「プルピット・コメンタリー』第1巻223 ‘、gージ)。
質問12
いわば望遠鏡の反対側からながめることによって、ユダヤ人はエゼキエルの警告をどのようにみなしましたか。エゼ12:27
彼らは預言を拒んだのでなく、それを遠い先の出来事のように考えたのでした。不信仰は預言を遠い先のことのように考えさせます。それは公然と拒否することと同じくらい重大な罪です。
質問13
このような不信仰に対して、神は何と言われますか。エゼ12:28
「この部分〔エゼ12:21~28〕は、主の再臨についての現代の考え方をよく表している。キリスト再臨についての教えを聞く人たちの中には、1900年以上も何もなかったのだから、この教理は無視してもよいと考える人たちがいる。また、キリストの再臨は遠い将来の出来事であるから、自分たちの生きている世界には無関係であると考える人たちもいる。どちらの考えも危険である。なぜなら、どちらも預言の即時性を無視しているからである。預言の成就が遠い先のことであろうが、すぐ近いことであろうが、このような預言を受けた教会は預言の成就の光に従って生きる必要がある」(ジョン・B・テイラー「エゼキエル書』119ページ)。(エゼキエル書24:1~14には、主の預言の成就が描かれています)
質問14
キリスト再臨がずっと先のことだと考えるなら、クリスチャンの生き方はどのようなものになりますか。マタ24:48~51(ルカ12:45、46、21:34比較)
「世は放とうに満ち、邪悪な快楽に満ちて、現世的な安全の中に眠っている。人々は主の来臨をずっとのちのことにしている。彼らは警告をあざ笑う。「すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』。 「あすも、きょうのようであるだろう、すばらしい日だ』という高慢な誇りが表明される(ペテロ第Ⅱ3:4、イザヤ書56:12)」(「各時代の希望』下巻104ページ)。
まとめ
ユダの反逆者たちはエルサレムの城壁を強化することによって、預言された主のさばきに対抗しようとしました。ある者たちは、預言者たちが100年以上も前から終わりを宣告しているが何も起こらなかったと主張し、他の者たちは、滅びは来るかもしれないが、ずっと先のことであると考えました。しかし、それから5年後にエルサレムは滅ぼされ、その住民は捕囚として引かれていきました。
今日の教会はこのことから教訓を学ぶ必要があります。私たちはキリスト再臨の預言を真剣に受けとめなければなりません。
*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。