罪なき者はつねに罪ある者と共に苦しむのか
神に対する広い反逆のゆえに人々の集団(ユダの国民のように)の上にさばきがくだるときにも、その集団の中に救われる人がいるのでしょうか。個人の責任と集団の責任とのあいだには、どんな関係があるのでしょうか。
アウトライン
- 罪人のための保険証券(エゼ14: 12~23)
- 神に孫はいない(エゼ14:14、16、18、20)
- 農業から学ぶ(エゼ15章)
- 酢いぶどうのたとえ(エゼ18章)
私たちは個人的に責任を負う
「メリー、もう一つだけ言っておく。バプテスマを受け、あの変わり者たちの仲間に加わってこの家を出たが最後、二度とこの家に戻ってくるでないぞ。この家はもうお前の家ではない。二度とお前の顔を見たくない」。
メリーは伝道集会に出席していました。毎晩、彼女は新しい真理について学びました。彼女にとって、それは喜びでした。それらはどれも、しっかりと聖書にもとづいたものでした。しかし、夫から強い反対が起こりました。メリーがアドベンチストの教会に行くようになると、一家の社会的信用が失われ、取引先にも影響が出ると夫のジョンは考えたのです。それは、バプテスマを受けることを考えていた妻に対する夫の最終的な通告でした。
「私はどうしたらよいのでしょうか?」。メリーは牧師にたずねました。意外なことに、牧師は次のように答えました。「あなただけがその決定をくだすことができます。あなた自身で決定しなければなりません。こ主人の意向に反するようですが、ご主人と別れてあなたの家庭を破壊するようなことは勧められません」。
「何か助言をいただけませんか?」。メリーは重ねてたずねました。これに対して、牧師は答えました。「あなたの良心に従い、あなたが神のみこころと思うところに従って行動することです」。
「神は私にバプテスマを受けるように望んでおられると、私は信じますが、夫のことはどうしたらよいのでしょうか?」。メリーは答えました。
「あなたが自分の聞いた真理を信じていることを、ご主人はご存じなのですね」。牧師はたずねました。
「もちろん、知っています」。
「とするなら、もしあなたが自分の信じたことを実行しないならば、ご主人はあなたの宗教についてどう思われるでしょうか?」。
メリーは答えました。「今までそのように考えたことはありませんでした。主人のためにも、私は神から示された道に歩みます」(カーライル.B・ヘインズ「教会に加わることがあなたの家庭を破壊するようなとき」「レビュー.アンド・ヘラルド』1956年11月1日16ページ以下より)。
メリーは聖霊の導きによって、人間が創造主の前に個人的に責任を負うという根本的な真理について学びました。彼女はまた、一人の決心がほかの人にも強い影響を与えるということを学びました。メリーは神に従う決心をし、バプテスマを受けました。そして、驚いたことに、彼女が神に従ったことによって夫もバプテスマに導かれ、家庭が強められる結果になりました。今回は、エゼキエル書を通して個人の責任について学びます。
罪人のための保険証券(エゼ14:12~23)
信心深い人たちが数人いれば、ほかの多くの不従順な罪人に対する神のさばきは撤回されるのでしょうか。エルサレムの住民のある者たちは、人々の恐怖心を和らげるために、このように説いていたようです。ジョン・テイラーによれば、このような態度は「聖徒を罪人のための保険として利用すること」にほかなりませんでした(「エゼキエル書」128ページ)。
質問1
そのような教えをもっともらしく思わせるどんな実例が、ユダヤ人の歴史にありましたか。創世18:23~26、32
主はアブラハムに答えて、10人の正しい者のためにソドムを滅ぼさないと言われました。しかし、私たちはソドムの住民とエルサレムの住民の違いに留意する必要があります。その最大の違いは何だったでしょうか。
質問2
義人の存在は、共にいる悪人に対してある程度の守りを与えてくれるということについて、新約聖書はどんな示唆を与えていますか。使徒27:24、37(マタ5:13比較)
使徒パウロのおかげで、同じ船に乗っていた275名の乗客と乗組員は死を免れました。
塩は保存剤
「聖霊の感化に応ずる心は、神の祝福が流れるチャンネルである。もし神に仕える人々が地からとり去られ、神のみたまが人々の中からひきあげたら、この世は、サタンの支配の結果である荒廃と破壊にまかされるであろう。……しかしもしクリスチャンが、名前だけのクリスチャンなら、彼らはききめを失った塩のようなものである。彼らは世にあってよいことのために感化力を及ぼさない。彼らは神についてまちがった印象を与えるので、未信者よりも悪いのである」(「各時代の希望」中巻11ページ)。
質問3
たとえノア、ダニエル、ヨブがいても、ユダに宣告された滅びを撤回することができないと、神が言われるのはなぜですか。エゼ14:12~21
神のさばきが、神に「もとりそむいて」罪を犯した神の国にくだることになっていたことに注意してください(13節)。ここに、ききん(13節)、野の獣(15節)、つるぎ(17節)、疫病(19節)、という四つのさばきがあげられています。それぞれのさばきのあとでノア、ダニエル、ヨブという三人の聖者がいてもさばきを防ぐことはできないということが明言されています(14、 16、 18、 20節)。まして、これら四つのさばきが同時にくだるなら、なおさら彼らは町や国を滅びから守ることができません(21節—エレ15:1比較)
神に矛盾はない
義人が塩のように有効に働いているかぎり、神は罪人を守られます。しかし、ユダは回復の余地がないくらいに堕落していました。ノアでさえ洪水前の罪深い人々を救うことができませんでした(Ⅱペテ2:5)。ヨブも自分の息子・娘たちのいのちを救うことができませんでした(ヨブ1:4、5、18、19)。ダニエルはネブカデネザルの宮廷で尊ばれた賢明な人物でしたが、彼もバビロニア人による滅びからユダを救うことができませんでした(ダニ9:5~7)。 世の人々がかたくなに創造主にそむく最後の時代においても、神の民の存在は最後の七つの災いのくだるのを防ぐことができません。
質問4
バビロニアに捕囚として連れて来られた人たちの中には、包囲攻撃からのがれて助かった人たちもいたことでしょう。彼らはすでに捕囚となっていた人たちに対してどんな影響を与えたと思われますか。エゼ14:22、23
神に孫はいない(エゼ14:14、16、18、20)
ノア、ダニエル、ヨブがいて、とりなしても、ユダを神のさばきから救うことはできないというエゼキエルの言葉には、さらに深い意味があります。
質問5
これらの聖者たちが救いうるのは自分自身だけであって、自分の息子や娘を救うことはできないというこの言葉には、どんな意味が込められていますか。エゼ14:16、18、20
預言の声の創設者であり責任者であったH・M・S・リチャーズはよく、「神には孫はいない。いるのは子だけである」と言っていました。この言葉は、だれも他人に代わって救いを得ることができないというエゼキエルの教えを反映しています。私たちは神の前に個人的に責任を負っているのであって、自分でキリストを救い主として受け入れなければなりません。だれも親戚や友人にすがって天国に入ることはできません。神の民はみな自らの選択と新生によって神の子となった人たちです。
質問6
人はどのようにして神の子、神の家族の一員となりますか。ヨハ1:12、3:16(ロマ10 :9~13、 1ヨハ3:1比較)
「聖書から真理を学び、その光に歩み、そして他人にも自分の模範に従うように励ますことは、すべて理性のある者の第一にして最高の義務である。われわれは日々熱心に聖書を研究し、すべての思想を熟考し、聖句と聖句を対照すべきである。われわれは神の前で自分で答えるのであるから、神の助けによって自分で自分の考えを定めなければならない」(「各時代の大争闘」下巻365ページ)。
質問7
イエスはこの個人の責任についての原則をどのように例示されましたか。マタ25:8、9
「霊的のことにおいて、だれも他人の欠乏を補うことはできない。神の恵みは、すべての魂に豊かに与えられた。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」という福音の使命はすでに伝えられた(黙示録22:17)。品性は譲渡することができない。だれも他人に代わって信じることはできない。他の人に代わって、聖霊を受けることもできない。霊の働きの実である品性を人に分与することはできない」(「キリストの実物教訓』388ページ)。
質問8
ノア、ヨブ、ダニエルはどのようにして高潔な品性を身につけましたか。それは偶然、身についたものですか。創世6:9、ヘブ11:7、ヨブ23: 10~12、ダニ6:10比較
信仰深い両親は彼らに主の道を教えはしましたが、彼らに代わって道を選ぶことはできませんでした。神と共に歩み、神の戒めに忠実に従い、日ごとに祈り、神のみことばを学ぶ決定をしたのは彼ら自身でした。彼らは自分で天の神を信じる決定をしたのです。
神は信仰による義を尊ばれます(ピリ3:9~11参照)。私たちは信仰によって、肉的な衝動よりも神のみことばに従うことを選びます。信仰は偶然の出来事ではありません。私たちが聖霊によってキリストの義を受けるのは、信仰によってです(ロマ8章参照)。キリストの品性が私たちのものとなるのは、キリストが私たちのうちにあって生きてくださるからです(ガラ2:20参照)。 私たちは自分の意志によってキリストを選び、悪に抵抗しますが(ヤコ4:7、ヘブ12:4)、 私たちが神の子とされるのはただ信じるときに与えるキリストの恵みによってのみです。
農業から学ぶ(エゼ15章)
質問9
旧約聖書はよくどんなたとえを用いてイスラエルを描写していますか。詩篇80:8、9 (エレ2 :21、イザ5:1~7比較)
ある人々は明らかに、ユダが肥沃なぶどう園に植えられた立派なぶどうの木のように神にとくに愛される国であって、神がこの国をバビロニアのいのししから守ってくださると考えていました。
質問10
神はぶどうの木の価値のなさをどのようにユダヤの捕囚の民にお示しになりましたか(エゼ15:1~5)。ぶどうの木の真の価値はどこにありますか。この預言の中で、ぶどうの木はだれを表していますか(エゼ15:6)。
ぶどうの木についてのエゼキエルのたとえは、一つの集合体としてのユダをさしています。罪深いユダはほかの国々に何らまさるところがなく、実を結ばない木々は焼きつくされるのでした。
質問11
イエスは同じぶどうの木のたとえを用いて、個人の責任についてどのように教えられましたか(ヨハ15:1~8)。 ぶどうの木の幹と枝はそれぞれだれを表していますか。個々の枝に実をつけさせるものは何ですか。信者はぶどうの木にどんな方法によって、「つながる」ことができますか。
栄養分はキリストから来る
「枝はほかの枝から栄養分を借りるのではない。私たちの生命は親なるぶどうの木から来るのである。私たちが聖霊の実を結ぶのは、キリストとの個人的なつながり、毎日、毎時、彼と交わることによる。……恵みに成長すること、喜び、有用性など、すべてはキリストと結合すること、キリストに対してどの程度の信仰を働かせるかにかかっている」(『神の息子・娘たち」290ページ)。
酢いぶどうのたとえ(エゼ18章)
刑罰をのがれることができなくなったとき、ユダは神を不公平だと非難しました。ここでも、ユダの主張がたとえのかたちで要約されています。「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうぐ」(エゼ18:2) 簡単に言えば、こうです。私たちは無実な子らで、ただ父たちの罪のために苦しみ、罰を受けているのです。悔い改めても無益です。なぜなら、私たちに罪はないからです。私たちはマナセ王とその時代の人々の罪のためにゆえなく罰せられているのです(エレ15:4参照)。 子供たちの敏感な歯は無実の罪の結果、つまり彼らの受けていた苦しみと刑罰を象徴しています。酢いぶどうを食べた父たちが罪の責任を負うべきです。
質問12
この一般的なたとえはどんなことを意味していますか。出エジプト記20: 4~6(ガラ6:6、7比較)
酢いぶどうのたとえは遺伝の法則にあてはめて考えるとよくわかります。十戒の第2条を科学的に裏づけるものとして、たとえば米国製のタバコの箱に書かれた警告文をあげることができます。「公衆衛生局長官より警告一妊婦の喫煙は胎児傷害、早産、出産時の低体重を引き起こす恐れがある」。
「一つの世代がその父たちの悪行から守られるというような具合に、神は遺伝の法則に介入されることはない。それが神の品性と人間を扱う神の原則に矛盾するからである」( 「SDA聖書注解」第1巻603ページ)。
「子供たちが親の悪行の影響を受けることは避けられないが、その罪にあずからないかぎり、親の不義のために罰せられることはない」(『人類のあけぼの』上巻357ページ)。
質問13
ユダヤ人はこのたとえをどのように誤用していましたか。神がモーセを通して与えられた民法と比較してください(申命24:16)。神は民によるこのたとえの誤用をどのようにみなされましたか(エゼ18:1~4)
エゼキエルの時代の人々はこのたとえを用いて、国家の滅亡に対する彼ら自身の個人的責任をのがれようとしました。事実、彼らはその父たちよりもひどい罪を犯していて、その結果という「つむじ風」を刈り取ることになるのでした(歴代下36:14~17参照)。「ギレアデの乳香」という薬がありましたが(エレ8:22)、彼らはそれを使おうとしませんでした。彼らの状態は末期的でした。
質問14
主はどんな三つのたとえを用いて、個人の責任についての原則を例示しておられますか(エゼ18:5~18)。 主がエゼキエル書18:4、20において強調しておられる思想に注目してください。
ユダ王国の最後の時代を統治した三人の王たちはこの神の教えを例示しています。ヒゼキヤは立派な王でしたが、その子のマナセは、のちには悔い改めますが、ユダで最も悪い支配者の一人でした。一方、ヨシヤは父のアモンや祖父のマナセの模範に従いませんでした。
質問15
もし人が自分の父の罪を離れて受け入れられることができるとすれば、彼はまた自分自身の罪を悔い改めて、主のゆるしを受けることができますか(エゼ18:21~23、27、28)。神は正しい者にどんな警告を与えておられますか(同18:24~26)。イエスはこのことについてどんなたとえを語られましたか(マタ18:23~35)。
「彼〔人をゆるさないしもべ〕が以前にゆるしを受けたことは事実である。しかし彼の無慈悲な心は、彼が今、神が愛の中にゆるしをお与えになったことを拒んでいることを示している。彼は神から自分を引きはなし、ゆるしを受ける前となんら変わりがない。彼は自分の悔い改めを否定した。そして彼の罪はあたかも彼が悔い改めなかったかのように彼の上におかれているのである」(「キリストの実物教訓」226、227ページ)。
質問16
神はご自分の民に対してどんな熱心な訴えをしておられますか。人は自分の心を変えることができますか。エゼ18: 30~32(同1:19比較)
まとめ
神はときには人を集団として扱われますが、私たちが救われるのは個人としてです。序言のところに出てきたメリ一のように、私たちは自分で聖書を学び、個人的に選択することによってキリストを自分の救い主として受け入れなければなりません。
*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。