【エゼキエル書】羊飼い、羊、救い【34章解説】#10

目次

主が羊と羊飼いのたとえをお用いになる理由

羊と羊飼いのどんな特徴が、主がご自分の民に伝えようとされるメッセージにふさわしい象徴なのでしょうか。

アウトライン

  • 自分自身を養う牧者(エゼ34: 1~6)
  • 責任のある羊飼い(エゼ34:7~10)
  • 散らされた群れの回復(エゼ34:11~16)
  • メシヤなる羊飼いの約束(エゼ34:23~30)

羊飼いの心を持った親

悲しい離婚の結果、裁判所はクレイブ(10歳)とブレント(3歳)の二人を母親のローリーにゆだねる判決をくだしました。この裁判所の決定を予測していた夫は突然、仕事と家庭を捨て、二人の子供をつれて失跡しました。しかし、母親と子供たちとのきずなは容易に切れるものではありません。

母親は熱心に子供の居場所を捜しましたが、なかなかわかりませんでした。しかし、失跡してから9年目に、ある親戚の話から前夫の居場所がわかりました。ローリーはついに子供たちを見つけ出し、こうして彼らとの新しい関係が始まりました。今では、上の子は結婚し、12歳の下の子は母親と一緒に暮らしています。ローリーの長い捜索は終わったのです。

神の教会の牧師や指導者は、ローリーと|司じくらい熱心に、群れを離れた羊を捜し求めているでしょうか。そして、「迷い出た羊」を見つけたとき、彼らが救い主を喜んで受け入れた「初めの愛」に戻るように勧めているでしょうか。指導者も教会員もみな「羊飼いの心」をもって、迷い出た者たちをキリストに連れ返す必要があります。

エゼキエルの時代において

神は当時の牧者たちを叱責されました。彼らが自分の民を利用し、民が外国に散らされる原因となる罪を犯していたからです。今回は、捕らわれの身となっていたイスラエル民族を故国に帰すという神の約束について学びます。神は羊飼いのように今も、忠実な者たちを集め、ご自分の王国に導き入れてくださると約束しておられます。

自分自身を養う牧者(エゼ34: 1~6)

エゼキエルの預言の最後の15章は、イスラエルに捕囚からの回復についての望みを与えるために書かれています。

質問1

ユダの道徳的堕落とそれに続く捕囚の責任はだれにありましたか(エゼ34:2)。これにはだれが含まれていましたか(エゼ22:25~28—エレ13:17~20比較)。

エゼキエルは第34章において、ユダを美しい羊の群れとして象徴的に描いています。その牧者は当時の政治的、宗教的指導者、つまり王、つかさ’祭司たちでした。預言者(真の、また偽りの)たちもまた指導的な役割を果たしていました。キリスト教会においては、だれが群れの牧者でしょうか。

質問2

エゼキエルとエレミヤの時代に、ユダの牧者は民をどのように扱いましたか(エゼ34:2~4、エレ23:1、2)。イエスはこのような牧者について何と言っておられますか(ヨハ10:12、13)。

「雇われ人は羊に対するその態度によって本性を現わす。彼にとって羊を飼うことは単なる仕事である。しかし、真の牧者にとってそれは特権である。雇われ人は与える人ではなく奪う人である。彼にとって羊の群れは搾取の対象であり、迷った羊は迷惑なものである」(R・A・アンダーソン「牧者としての伝道者』563ページ)。

質問3

聖書は神の民に対する牧者の搾取についてどんな悲しい例を記していますか。アモス書8:4~7、マルコ12:38~40、マタイ23:13

「キリストは、悪用を容赦なく非難されたが、しかし義務を軽くしないように用心された。主はやもめのささげ物を強要したり、それをまちがったことに用いたりすることを責められた。同時に主は、神の庫にささげ物を持参したやもめをおほめになった。人がささげ物を悪用しても、それをささげた人から神の祝福を取り去ることはできなかった」(『各時代の希望」下巻67ページ)。

質問4

ユダの牧者たちは主の群れの「弱った者」や「病んでいる者」をどのように扱いましたか(エゼ34:4、5)。 今日の教会の「弱った者」、 「病んでいる者」、「迷い出た者」とはどういう人をさしますか。私たちはこのような人たちのために何をすべきですか(マタ9:36、25:33~44、ヤコ1:27)。

エゼキエルの言葉は、個人的目的のために群れを搾取し、困っている人々を無視し、彼らを「手荒く、残酷な手段で」治めている神の牧者たちを描写しています。彼らは国民をバビロニヤ帝国中に「散らし」、 異教の教えと影響力という誘惑と悪習にさらしました。献身した牧者なら、このようなことはしなかったことでしょう。

注意深い牧者の必要

「現代は多忙な時代である。すべては速さではかられる。だれかがつまずいて倒れるなら、助け手がくる前に押し寄せる群衆の足で踏みつけられるのである。……このような時代だからこそ、個人的、社会的問題を解く時間的余裕のある牧者が必要とされている。いたるところに離婚家庭や傷ついた心があり、人々は牧者の世話を求めている。世界は豊かさに事欠かないが、愛に欠けている。…・・・私たちの主に与えられている称号のうちで、「良い羊飼い』という称号ほど美しいものはない。彼はご自分のことを決して監督や祭司、行政者や説教者とは呼ばず、いつでも羊飼いとお呼びになった」(R・A・アンダーソン「牧者としての伝道者』550、551ページ)。

質問5

ユダの牧者の顕著な失敗は、「うせた者を尋ね」なかったことにありました(エゼ34:4)。 イエスは一人の失われた魂の価値をどのように例示されましたか(ルカ15:3~7)。

「ついに、彼〔牧者〕の努力は報いられ、いなくなった羊が見いだされる。さて、彼は、その羊に向かって、お前は、ずい分わたしにやっかいをかけたといってしかったりはしない。むちでかりたてようともしない。また、おりにひいていこうともしない。彼は、喜びのあまり、ふるえる羊を肩にのせる。もし、傷ついていたりすると、しっかり自分の胸にだきしめて、自分の心臓の温まりで、元気づけてやろうとする。羊飼いは捜索がむだにおわらなかったことを感謝して、羊をおりまでかかえて帰るのである」(「キリストの実物教訂||』166、167ページ)。

「読者よ。あなたは、さ迷い出たものを、何人さがしあてておりに連れもどしたことであろうか。見込みもなく、見ばえもないと思われる人びとに背を向けることは、キリストがさがしておられる魂をないがしろにすることであることを自覚しておられるだろうか。あなたが、彼らをかえりみないそのときこそ、おそらく彼らがあなたの同情を一番必要としているときである」(「キリストの実物教司||』171ページ)。 -92

責任のある羊飼い(エゼ34:7~10)

質問6

神の民を守るように定められていたのに、ユダの牧者たちはどんな重要な務めを果たすことを怠りましたか(エゼ34:8)。この失敗をペテロに対するキリストの命令と、またペテロがのちに教会指導者に与えた教えと比較してください(ヨハ21:15~17、 ペテ5:2)。

質問7

羊の群れを「牧する」ことによって羊を「おおかみ」からどのように守ることができますか。「おおかみ」はどんな方法で群れを荒しますか。使徒20:28~31(コロ2:6~8、エペ4:14比較)

聖書の教えを理解し、イエス・キリストにつながり、神の恵みを人々にあかししている教会員は、めったに偽りの教えという「おおかみ」のえじきになることはありません。反対に、自分の信仰がしっかりした土台の上に立っていない人、キリストに対する献身が弱い人は、偽りに対する誘惑を受けやすくなります(Ⅱペテ2:1~3参照)。

キリストを説く

「今日、ほとんどすべての教会において、特別な教理から離れていく驚くべき傾向が見られる。倫理的説教、社会的あるいは政治的説教、時事解説的な説教は多いが、根本的な福音の真理についての説教はめったに聞かれなくなった。古くなった信条や神学的論弁(きくん) についての思弁的、理論的説教を弁護するものではない。しかし、キリストを高め、悔い改めと信仰に導く真の教理的な説教がまさに必要とされている」(ルイス.H・クリスチャン「現代の宗教的傾向』146、147ページ)。

質問8

主の羊の群れを養う働きがなぜ重要ですか。エゼ34: 10(ヘブ13:17比較)

主が私たちにタラントを与えてくださっているとすれば、私たちは主の羊に仕える責任を免れることができません。私たちは自分の務めの厳粛さを自覚し、主のみこころに従って働く知恵を求めなければなりません。

質問9

イエスはご自分の働きに関連して、責任ある牧者の特徴について何と言っておられますか。ヨハ10:11、14

良い羊飼いは無我の精神を持っています。彼は使徒パウロのように、「大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつく」します(Ⅱコリ12:15)。 彼は自分の仕える者のためにいのちを捨てます。彼はキリストの「思い」を持っているので(ピリ2:5)、自分を犠牲にしてでも人々のために働きます。良い羊飼いのもう一つの特徴は、すすんで人々に近づく、つまり人々を個人的に知り、仕えるということです。

イエスは個人に関心を寄せられる

「イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいるひとりびとりの名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の一匹をさがしなさいと命じられた。

ひとりびとりは、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。ひとりびとりの悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。……

読者よ、イエスはあなたを愛される。天そのものは、イエスよりも偉大なもの、イエスよりもよいものを与えることができない。だから信頼しなさい」(「各時代の希望」中巻278、281ページ)。

すべての信者が自分の「群れ」を持つ

彼は自分の「群れ」に対して特別な責任を負います。両親は自分の子供に対して、教師は自分の生徒に対して、安息日学校の教師は自分のクラスに対して、教会長老は教会に対して、牧師は自分の地区に対して、信者は自分の隣人に対して、それぞれ責任を負っています。

「どの魂にも責任が負わされている。大牧者イエスは、ひとりびとりに、「あなたに賜わった群れ、あなたの麗しい群れはどこにいるのか』と要求される(エレミヤ書13:20)。『主があなたを罰されるときあなたは何と言うであろうか』(エレミヤ書13:21、英訳)」(「各時代の希望』下巻114ページ)。、

散らされた群れの回復(エゼ34:11~16)

質問10

神はなおも羊のたとえを用いて、ご自分の民に何を約束しておられますか(エゼ34:11~16)。 神についてのこの美しいたとえはどれほど親しまれていましたか(詩23:1~6、80:1)。

神の正義がしばしば|日約聖書にあらわされていることから、イスラエルの神を厳格で怒りに満ちた神、また新約聖書の神を愛の神と考える人たちがいます。しかし、これは表面的な見方であって、主の真の品性を誤解するものです。神の愛と正義は一つの硬貨の表裏のようなものです。旧約聖書は神を大いなる牧者として描いていますが、これはイエスのうちにあらわされたあわれみと愛の性質を強調しています。

質問11

神が「わが牧者」と呼び、その生まれる150年も前からイスラエル人をパレスチナに帰らせるために選ばれた人はだれですか。イザ44:28

エゼキエルの時代の150年も前に、神は新バビロニヤ帝国がメデヤ人とペルシャ人の手に落ちることを預言されました(イザ45:1~5)。「クロスの軍勢がバビロンの城壁の前に出現したことは、ユダヤ人にとっては捕囚から解放されることの近いしるしであった」(『国と指導者」下巻159ページ)。バビロンを攻め取ったあとで、クロスは布告を出してユダヤ人を祖国に帰らせました(エズ1:1~4参照)。

「王が自分の生まれる百年以上も前に預言された、バビロン占領の模様についての言葉を見たとき……彼は深く感動した(イザヤ書45:5、6、4、13)。 そして自分に命じられた任務を遂行しようと決心したのである。彼はユダヤの捕囚たちに、自由を与えようとした。そして主の神殿の再建を援助しようとしたのである」(「国と指導者」下巻165、166ページ)。

質問12

クロスとその軍勢はだれの予型でしたか。ユダヤ人の捕囚からの解放は神の民の最後のどんな出来事を予示していますか。黙示16:12、19:9

メシヤなる羊飼いの約束(エゼ34:23—30)

質問13

来るべきメシヤ、ダビデの子は、この預言の中でどのように描かれていますか。エゼ34:23、24(エレ23:5、6、イザ40:10、 11、ダニ9 :24、 25比較)

神が将来、ご自分の民に与えると約束された牧者は、復活したダビデではなく、 ダビデの子なるメシヤのことでした。メシヤをダビデと呼ぶことは単なるヘブル的な言い方にすぎません。彼はのちにダビデの座につかれるのでした(エゼ21:26、27、エレ23:5、ルカ1:32、33)。

質問14

イエスはどのようにして、ご自身がこの預言の成就であることを確証されましたか。ヨハ10:1~6、11~18、26~29

あらゆる階層・状況の人々に対するキリストの恵み深い奉仕は、彼の牧者のためのこの上ない模範です。「イエスは真実をなんの遠盧もなく語りたまいましたが、そういう時にはいつも愛をもってお語りになりました。また人と交際するにあたっては、いかにもじょうずに、深い思いやりとこまかい注意を払い、荒々しい言葉を用いたり、なんの理由もないのに言葉を鋭くしたり、感じやすい心をなんの必要もないのに傷つけたり、人の弱さを責めたりなさいませんでした。つねに愛をもってお語りになりました。また偽善、不信、不義をお責めになりましたが、そうした鋭い證責の言葉をお語りになった時にも、そのみ声は涙にふるえていました。……かれは一生の間、おのれを全く捨てて人のためにお尽しになりました」(「キリストへの道』6、7ページ)。

質問15

主の民は将来 メシヤの時代に、どんな祝福にあずかりますか。エゼ34:25~30

これらの祝福はイスラエルの神との契約関係にもとづいて与えられるものでした。彼らはメシヤの到来という、その国民としての存在の輝かしい結果を心に描きました(創世22:18、イザ49:9~11参照)。神はイスラエルをこの最もすばらしい時のために備えようとしておられました。しかし、彼らの指導者がキリストを拒んだために(ヨハ19:15)、 これらの預言は新しい地において霊的イスラエル(各時代のあがなわれた者たち)のうえに成就することになりました(黙示21:3、4参照)。

まとめ

神はご自分の民を美しくて有用な羊の群れとしてごらんになります。しかし、彼らは神に全的信頼していないなら、敵の攻撃を受けやすくなります。神の牧者は神の民を導くうえで何らかの役割が与えられています。彼らは群れを養い、失われた者を捜し出す使命が与えられています。「大牧者が現れる時には」、 忠実な牧者は「しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(Iペテ5:4)。 

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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