御子イエスの紹介【マルコ—マルコの見たイエス】#1

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この記事のテーマ

四つの記録、ひとりの主

四福音書の著者はそれぞれに聖霊の霊感を受けて、イエスの生涯と働きのある点を特に強調しています。彼らはみな、これから記述する内容を暗示するような言葉をもって福音書を書き始めています。マタイの最初の言葉は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)となっています。これは、イエスがユダヤ人の系統であり、同時に王の系統であることを意味します。マタイは特にユダヤ人の読者に対して、イエスがイスラエルの真の王であることを伝えようとしています。対照的に、ルカはその福音書を「敬愛するテオフィロ」に献呈しています(ルカ1:1~4)。彼は異邦人の読者を意識しており、彼らがよく用いる書き出しで書いています。ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハ1:1)と記しています。イエスが肉となった言、「恵みと真理とに満ち」たお方(14節)であることを読者に意識させるためでした。

今回は、マルコの霊感に満ちた序言とその強調点について考えます。

著者ヨハネ・マルコ

このシリーズ、私たちが学ぼうとしている福音書は著者の名前に言及していません。しかし、早くからマルコによるものとされてきました。マルコは初代教会において傑出した人物ではありませんでした。もしそうであるなら、彼が福音書の著者となる見込みはほとんどなかったはずです。これこそ、私たちの神がなさる偉大な業の一つです。神は最も卑しい人間を選んで、名誉と影響力のある立場に置かれます(創40、41章参照)。

実際に、伝道者としてのマルコの出発は決して華々しいものではありませんでした。彼は初め、自分がこの重要な働きに不適任であることを自ら証明しました。

問1

使徒言行録15:36~40を読んでください。パウロがマルコの同行を頑強に拒んだのはなぜでしたか。

「マルコはここで、不安と落胆にくじけてしまって、主の働きに全心全霊を打ちこんで献身するという彼の目的が、一時ぐらついた。彼は困難に慣れていなかったので、道中の危険と窮乏に気力を失ってしまったのである。彼はこれまで順調な境遇のもとに働いて成功してきたが、いま開拓伝道者たちにしばしばつきまとう反対と危険のさなかにあっては、十字架のよき兵士として困難に耐えることができなかった。彼は、勇敢な心で危険と迫害と逆境に立ち向かうことを、これから学ぶはずであった。しかし、使徒たちが前進するにつれて、更に大きな困難が危惧されたとき、マルコは恐れてすっかり勇気を失い、先へ進むことを拒み、エルサレムへ引き返したのである」(『患難から栄光へ』上巻181ページ)。

問2

後に、マルコに対するパウロの態度はどのように変わりましたか。IIテモ4:11、フィレ24

福音の初め(マルコ1:1)

マルコの始まりは唐突な感じがします。イエスの系図、奇跡による懐妊、劇的な誕生が書かれていません。占星術の学者たちの来訪、羊飼いへの啓示、ヘロデ王による幼児殺害計画のことも全く書かれていません。イエスのエジプトへの避難、ナザレで大工をしていた頃のことも何ひとつ書かれていません。これらの事実が重要でないということではありません。それらは重要な事実です。しかし、それらはマルコにとって、また私たちにとって最も重要なことではありません。マルコが初めから読者に理解してほしいと望んでいるのは、イエス・キリストが神の御子であるということです。

問3

ほかの聖句によって、神の子という言葉が何を意味するかを学んでください。特に、ルカ1:34、35、ヨハネ10:30、フィリピ2:5~11、コロサイ1:13~19、ヘブライ1:1~3に注意してください。これらの聖句はイエスの真の身分について何と教えていますか。イエスの身分を知ることが重要なのはなぜですか。

マリアの懐妊における聖霊の独特な役割を見れば、人間イエスがまた神の子であったことがわかります。しかし、神の子という言葉にはもっと広い意味があります。それは、イエスが神の性質を持っておられること、つまりイエスがつねにマルコとの神であられたし、これからもそうであるということを意味します。「セブンスデー・アドベンチスト信仰の大要」は第4項において次のように宣言しています。

「子なる神は人間の肉の姿をとってイエス・キリストとなられた。……永遠からマルコとの神であられたみ子は、救い主イエスとしてマルコとの人間になられた」(『アドベンチストの信仰』52ページ)。

使者(マルコ1:2~8)

歴史の重大事件に介入するときにはいつでも、神は人々をそれに備えさせるために使者を遣わされます。「マルコとに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」(アモ3:7)。この世界が目撃する最大の事件の前にも、神はバプテスマのヨハネを使者として立てられました。メシアの来臨が聖書の預言の中で予告されていたように、この使者の出現もまた予告されていました。ここではイザヤ書にしか言及していませんが、マルコがマラキ書3:1とイザヤ書40:3を引用していることに注意してください。

問4

マルコ1:2、3、4、7を読んでください。バプテスマのヨハネの役割と使命は何でしたか。

ヨハネの使命は自分自身を超えたものでした。彼は、自分よりはるかに優れたお方が来られることを知らせ、人々にそのお方に会う備えをさせるための先駆者、先触れでした。

引用されている聖句は、道を備えることを強調しています。道路を開拓するときの光景です。今日、土木技師が山を切り開き、低地を埋め、曲がった道をまっすぐにすることによって道路を建設するように、ヨハネは神の御子イエスのために道を開拓しました(イザヤ書40:4が道路建設の描写を用いていることに注意)。ヨハネは三つの方法によって使命を遂行しました。

(1)メシアが来られることを宣言することによって。

(2)罪を捨てて備えをするように人々に訴えることによって。

(3)来るべきメシアについてのメッセージを受け入れた証しとして、人々にバプテスマを授けることによって。

ヨハネは決して自分自身に関心を引こうとはしませんでした。自分を求める気持ちは全くなく、その心が群衆によって動かされることもありませんでした。この控えめな使者は心の底から次のように言うことができました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:30)。

任命

問5

バプテスマのヨハネについてのマルコの記録を、ほかの福音書のそれと比較してください(マタ3章、マルコ1:4~11、ルカ3:1~22、ヨハ1:6~8、19~35)。どんな共通点、相違点が見られますか。同じ出来事を異なった視点から描くことにはどんな利点がありますか。それらはすべての点で一致すると考えるべきですか。そうでないとすれば、なぜですか。

バプテスマのヨハネについてのマルコの描写は、四福音書の中で最も簡潔です。マルコが注目していたのは神の子イエスであり、イエスについて描写するためにバプテスマのヨハネの記録を省いたのです。この物語におけるヨハネの役割は二つあります。彼はメシアの先駆者であり、イエスにバプテスマを施しています。マルコはルカと異なり、ヨハネ誕生の次第について何も記していません。マタイやヨハネと異なり、バプテスマのヨハネの後の働きについても何も記していません。マルコ1:9~13にある短い記述の後でバプテスマのヨハネについて言及している個所といえば、ガリラヤにおけるイエスの働きについての記録に挿入されているヨハネの死の場面だけです(マルコ6:14~29)。

問6

マルコ1:10、11を読んでください。この出来事はイエスについてのマルコの冒頭の記述とどのように一致しますか。ここで、どんな重要な点が強調されていますか。

鳩の姿をした聖霊と天からの声によって、三位一体の神はナザレのイエスが単なる人間でないことを世に示されました。イエスはマルコとの人でしたが、それ以上に神の御子でした。マルコは霊感によって、この事実を強調しています。それがキリスト教信仰において重要な点だからです。

伝道の始まり(マルコ1:14~20)

問7

公の働きを始めるにあたり、イエスは時間的な要素をどれほど重要視されましたか。マタ3:2、4:17(マルコ1:14、15比較)

イエスの最初のメッセージはバプテスマのヨハネのそれと同じく「悔い改めよ。神の国は近づいた」でした(マルコ1:14、15─マタ3:2、4:17比較)。しかし、イエスは新しい次元を付け加えておられます。ヨハネが、長く待ち望んできたメシアが今にも来られると説いたのに対して、イエスは、時は満ちたと宣言しておられます。

セブンスデー・アドベンチストは神の計画における時の重要性を認めています。私たちは「時は満ちた」というイエスの劇的な宣言の中に、メシア来臨に関する旧約聖書の預言への一般的な言及と同時に、ダニエル書の時の預言への特定の言及を見ます。大いなる70週の預言の中で(ダニ9:24~27)、古の先見者はメシア出現の正確な時期を予告しています。したがって、イエスの初臨が計画どおりにあったように、再臨もまた神の定められた時期にあると私たちは信じています。使徒パウロは記しています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を……お遣わしになりました」(ガラ4:4)。キリストの受肉においてそうでした。同じことが輝かしい再臨についても言えます。

湖のほとりで漁をしていた最初の弟子たちは、イエスが「わたしについて来なさい」と召されたとき、ためらうことなく、直ちに網を捨てて、イエスに従います(マルコ1:16~20)。漁で生計を立てていくことができた漁師たちは、金銭の報酬を求めたわけではありません。ナザレのイエスは富も名誉も組織も持っていませんでした。イエスに従うことは、未経験の未知の世界に足を踏み込むことでした。彼らの行動を説明するものがあるとすれば、それはイエスのうちに彼らの魂を揺さぶる何かがあったということでした。イエスを見、イエスの声を聞いたときに、彼らは人生を変えるような決定へと導かれました。

ミニガイド

マルコはユダヤ人で名前をヨハネと言いました(使徒12:12)。マルコというのはラテン名で「男らしい」「勇ましい」という意味ですが、名は体を表しませんでした。パウロとバルナバに連れられて第一次伝道旅行に参加しましたが、途中、臆病風に吹かれてエルサレムに逃げ帰ってしまいます。マルコのお母さんは信仰篤い婦人で、自宅を開放して教会にしていました。彼の家には使徒たちが出入りし、ペトロからもかわいがられ、バルナバは親戚にあたりました(コロ4:10)。いわば名門のクリスチャン二世だったわけですが、精神的にも信仰的にもひ弱なところがあって、自立することができませんでした。キリストが捕らえられたとき、亜麻布を捨てて裸になって逃げ出した若者(マル14:51)はマルコであったという教会の伝説もあるくらいです。パウロからは伝道者として失格者の烙印を押され、その結果「パウロ・バルナバ伝道隊」は分裂してしまいます。

しかしそのマルコが後年パウロから神の国のために「共に働く者」

「わたしにとって慰めとなった」と再評価されるようになっています

(コロ4:11)。彼がその後著しい変身を遂げたことがうかがわれます。いったい彼に何が起こったのでしょう。それは彼がキリストとの出会いを経験したからにほかなりません。マルコも肉眼でナザレのイエスに会っていたかもしれません。しかしキリストが自分にとってどういうお方であるかということが本当によくわかったときから彼は変わったのです。水のバプテスマは目に見えるひとつの形式ですが、霊のバプテスマ、すなわちキリストとの出会いこそバプテスマの本質をなすものです。私たちは水のバプテスマのみならず霊のバプテスマを受けたいものです。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」つまり「私が出会った驚くべきお方にあなたも出会って欲しいという願いを込めてこの物語を書き起こそう」と巻頭で宣言しているのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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