この記事のテーマ
ガリラヤの人イエスは高地にある小さな町ナザレで育ちましたが、ナザレよりもカファルナウムを伝道の基地とされました(マルコ2:1)。カファルナウムはガリラヤ湖の北端にある町で、漁業の中心地でした。イエスが伝道旅行を終えて帰られるのはカファルナウムでした。
ガリラヤ湖は北イスラエルの風景の中心にあります。大きなハート型をしていて、長さは南北に約21キロ、幅は最も広いところで約13キロあります。水深は、深い所で40~45メートルあります。青緑色をしたこの淡水湖は魚の宝庫です。海抜下約213メートルにあるので、湖の周辺は亜熱帯気候です。
今回の研究は、このガリラヤ湖が背景になっています。イエスは毎日、湖のどこかにおられます。
種を蒔く人のたとえ(マルコ4:1~20)
ここは、イエスを行動の人として描くマルコの福音書がイエスの教えについて記す数少ない個所の一つです。
イエスのたとえは未信者の間でもよく知られています。それらは日常生活の出来事にもとづくもので、言葉遣いと思想は単純ですが、深い真理について教えています。すべての知恵の源であるイエスは決して御自分の知識を人々に押しつけたり、知的な早業で人々を幻惑させたりはせず、真理を人々の目の高さに置き、それを日常生活の卑近な経験にもとづいて教えられました。他の福音書記者はもっと多くのたとえを記していて、しばしば、先の者が後になり、後の者が先になるという意表をつく内容で終わっていますが、マルコにはそれはありません。
問1
種蒔く人のたとえを読んでください(マルコ4:3~20)。次のものはそれぞれどんな人を表していますか。
いずれの場合も、種を蒔く人は同じで、種も同じです。神は、救いを受け入れて天国の市民となるようにすべての人を招いておられます。しかし、神は決して強制されません。すべての人に、神と神の恵みを拒む機会を与えておられます。このたとえはまた、イエスに従うことが一度きりの決心でないことを明らかにしています。自分が「救われた」日を詳しく語るクリスチャンがいますが、クリスチャン人生は一日で完成するものではなく、この世にあっては戦いであり、前進です。神は私たちに神の恵みと知識において成長するように望んでおられます。イエスがこのたとえの中で説明しておられるように、幸先の良いスタートを切りながら、途中で落伍してしまう人たちがいます。芽を出しても、実を結ばない種と同じです。
あなたの知っている人の中に、それぞれのグループに当てはまる人がいませんか。そのようなグループ分けをした理由は何ですか。このことからどんな教訓を学ぶことができますか。
天国は種に似ている(マルコ4:21~34)
短いけれども、意味深長な二つのたとえの中で、イエスは神の国を種にたとえておられます。高慢で、野心に富んだ人間が建設しようとした帝国とは対照的です。強力な武器、強い軍隊、軍馬・戦車、現代風に言えば、タンク、ロケット、戦闘機はその象徴です。ある政治家は、「物を言うのは銃の力だけである」と言いました。しかし、神の御子はこの世に来て、神の国の到来を宣言し、それを種にたとえられました。これは何を意味するのでしょうか。
問2
次のたとえは種の持つどんな特徴について教えていますか。
成長する種のたとえ(マルコ4:26~29)からし種のたとえ(マルコ4:30~32)
種は小さいものです。その中に生命と成長のエネルギーを秘めています。天にそびえ、人間をちっぽけな者に感じさせるオークやセコイアの巨木も、一粒の種から生まれました。
神聖ローマ帝国皇帝シャルルマーニュ(カール大帝)はだれにも屈服しませんでした。絶大な権力者、恐れられた支配者も、老齢になりました。彼は臨終に際して、自分の遺体に王衣を着せ、頭に王冠を載せ、手に笏を持たせ、玉座に座らせるように、そして絶対に開けられないよう墓に封印をするよう命じました。死後も、永遠に支配するつもりでした。
家臣は言われたとおりに埋葬し、墓に封印しました。歳月が経ち、シャルルマーニュの墓は風雨にさらされました。ある日、一粒の種が風に運ばれてきて、墓の上に落ちました。雨が降り、種が発芽しました。やがて種は根を降ろし、どんどん生長し、ついには墓を暴き出しました。そこから現れたのは、朽ちた玉座の上に転がる頭蓋骨と、朽ち果てた王衣と、地に落ちた王冠と、塵にまみれた笏だけでした。シャルルマーニュの夢は一粒の種によって打ち砕かれたのでした。
嵐を静める(マルコ4:35―41)
クリスチャンの作家C・S・ルイスは、妻の死が神に対する信仰にもたらした深刻な緊張感について次のように記しています。「自分の信じていることの真偽のほどが生死にかかわる問題となるまでは、自分がそれをどの程度信じているかは決してわからないものだ。一本のロープも、荷物を縛るために用いる限りにおいては、十分に強くて安全かもしれない。しかし、そのロープを用いて断崖からぶら下がらねばならない状況になったと仮定しよう。そのとき初めて、自分がどの程度それを信頼していたかがわかるのではないだろうか」(『悲しみの観察』22、23ページ、1996年)。
問3
ルイスの言葉を念頭において、マルコ4:35~41を読んでください。ルイスの述べている原則が弟子たちの態度のうちにどのように表されていますか。イエスがこのように答えられたのはなぜだと思いますか。
問4
この光景のうちに、イエスの人性と神性がどのように現されていますか。
弟子たちが38節で発している質問は、多くのクリスチャンが危機に際して発してきた質問です。もちろん、私たちは信仰によってその答えを知っています。言うまでもなく、神は私たちを心にとめておられます。そもそも十字架の目的は私たちを滅びから救うことにありました(ヨハ3:16、10:10、IIペト3:9)。それにもかかわらず、私たちは自分の舟が水浸しになり、沈みそうになると、「神よ、私がどうなってもかまわないのですか」と叫びます。
二千匹の豚が死ぬ(マルコ5:1~20)
問5
これらの聖句に記された物語を注意深く読んでください。この物語から実際的な教訓を一つだけ引き出すとすれば、あなたはどんなことをあげますか。
(1)悪霊を追い出すイエスの力に注目するなら、悪習慣に勝利させてくれる神の力についてどんな教訓を学ぶことができますか。
(2)悪霊の存在とその力に注目するなら、大争闘とイエスに信頼する必要性についてどんな教訓を学ぶことができますか。
(3)豚飼いたちが取った行動に注目するなら、世俗的な思いが神の真の性質・品性を覆い隠すことについてどんな教訓を学ぶことができますか。
(4)悪霊に取りつかれていた人の取った行動に注目するなら、キリストの御業にいかに応答すべきかについてどんな教訓を学ぶことができますか。
(5)悪霊に取りつかれていた人が一緒に行きたいと願ったことに注目するなら、キリストの御業をあかしする動機についてどんな教訓を学ぶことができますか。
死んだ少女と病気の女(マルコ5:21―43)
湖の向こう岸のカファルナウムに戻られたイエスは、そこで再び劇的な方法で御自分の力を現されます。イエスは種に命を与えられます。命の力は静かに、しかし奇跡的に働きます。イエスは風と波に静まるように命令されます。狂人の魂を静められます。そして今、長年病気で苦しんでいた女をいやし、少女を生き返らせられます。
問6
マルコ5:21~43に記された二つの奇跡の間にはどんな関連がありますか。それらは、イエスがあらゆる階層の人々に関心を持っておられたことをどのように示していますか。
ここに、二人の女性が出てきます。一人は思春期の少女で、もう一人は中年の女性です。一人は12年間も出血の止まらない女で、もう一人は12歳になったばかりの少女です。二人とも、社会において軽んじられていたことでしょう。一人は、その出血のゆえに儀式的に汚れた存在であって、接触する人をみな汚していました(したがって、レビ人の律法によれば、彼女はイエスに触れることによってイエスを汚していたことになります)。もう一人は社会的に無名の少女でした。彼女はすでに死んでおり、死体に触れることは汚れをもたらしました。しかし、イエスは誤用されていた古来の律法を無視して、少女の手を取り、彼女を生き返らせられました。
イエスが、信仰を増進しないで阻害するような、誤用・誤解された律法や規定を無視されたのは、これが初めてではありません(マルコ7:13参照)。安息日におけるいやしはその最も良い例の一つです。自分たちの商品を売っていた両替人たちを神殿から追い出されたのもそうです。「コルバン」(マルコ7:11)の慣習を非難されたのもそうです。[儀式的な]手洗いや食事の慣習を叱責されたのもそうです。これらの多くは聖書に起源を持ってはいますが、人間の乱用によってゆがめられ、その真の意味が人間の考えや言い伝えによって覆い隠されていました。
ミニガイド
会堂司のヤイロはいらいらやきもきしていたことでしょう。娘が死にそうだというのに、イエス様は途中で長血の女を癒して立ち話をしたりして少しも急ごうとされなかったからです。そのうちに使いの者が来て、「あなたの娘は亡くなりました。この上先生を煩わすには及びますまい」。ああ、万事休す!どんな名医でも病人が死んでしまえばどうしようもありません。子供を亡くすという悲しみほど大きな悲しみがあるでしょうか。ヤイロは人生のもっとも大きな悲嘆を味わったのでした。しかしイエス様は「死」という決定的な報告を「聞き流して」彼に言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。この不幸のどん底で何を信じよ、誰を信じよというのでしょう。しかし主は言葉を継いで、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。
眠っているのだ」。それを聞いて「人々はイエスをあざ笑った」と聖書は記しています。人間の理性と常識からすれば死人を眠っているなどとは愚の骨頂です。しかしイエス様は人となりたもうた神でありました。「人にはそれはできないが、神には何でもできないことはない」お方です。無から有を造り、土の塵に息を吹きこんで「生きた者」にすることのできるお方です。みずから死を打ち破られた復活の主にとって死は眠りに過ぎないのです。そしてその復活の主を信ずる私たちも死は眠りとなったのです。それゆえ聖書は死んだ人々のことを「眠っている人々」と呼んでいるのです。俳人の高浜虚子は「人生は悲劇だな。人は死ぬのだから」と言ったと伝えられています。死という人間の最後の、そして人生最大の悲劇をキリストはみずからの十字架と復活により「眠り」に変えてくださったのです。
イエス様は少女の手を取って「タリタ・クミ」(少女よ、起きなさい)と言われました。ヤイロの悲嘆と絶望は歓喜と賛美に変わりました。愛する人を失った人々に主は再会させてくださるのです。その時「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩編30:6)というお約束が成就する日が来るのです。復活の主を信じている人々はなんと幸いなことでしょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。