裁判と十字架【マルコ—マルコの見たイエス】#12

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すべての道はカルバリーに通ず

ここまで、ナザレのイエスのガリラヤからエルサレムまでの足跡をたどってきました。それは拒絶と恥辱、苦難と死の象徴であるカルバリーに至る道ですが、私たちにとっては勝利と希望、永遠の命を象徴するものです。

カルバリーとそれに続く出来事は、ナザレのイエスをこの世のあらゆる宗教教師と区別するものです。この世の宗教教師は賢明な教えを説き、慈愛に満ちた行いをなし、多くの信奉者を集め、ある者は後に世界宗教となるほどの宗教の基礎を築きました。しかし、イエスだけが死後に復活し、生ける救い主として支配しておられます。この違いこそが世界を全く異なったものにしています。

最高法院の前で(マルコ14:53―65)

イエスの裁判は茶番劇でした。その意図は公平に証拠を調べることではなく、イエスの有罪と死を確かなものとするための告発をでっち上げることにありました。宗教指導者たちは裁判の前から決定を下していました。イエスを亡き者にするのが彼らの望みでした。彼らは外面的には合法性を装っていましたが、裁判の全過程を見れば(それは真夜中に急いで招集された)、正義とはほど遠いものであることがわかります。

四福音書にあるイエスの裁判の記事とエレン・ホワイトの注解を総合して、『SDA聖書注解』は次のように結論づけています。イエスは二度、つまり一度はアンナスひとりの前で、もう一度はアンナスとカイアファの前で、予備的な尋問を受けられました。イエスは最高法院に二度、つまり最初は夜に、次は日中に召喚されました。イエスはピラトのもとに二度、そしてその間にヘロデのもとに一度出廷されました(第5巻528ページ参照)。

問1

大祭司の立場に立って、マルコ14:53~65を読んでください。イエスの死を望んだ彼は、自分の目的をどのように正当化しようとしましたか。以下の聖句にもとづいて考えてください。ヨハ7:41、42、マタ12:2、マルコ14:62~64、ヨハ10:33、ヨハ11:48、ルカ4:22、ヨハ2:19、マタ12:24      

ピラトと宗教指導者(マルコ15:1~15)

ピラトから尋問されるイエスに注目してください(マルコ15:1~15、マタ27:11~26、ルカ22:66~23:25、ヨハ18:28~19:16)。信仰の擁護者を自認する宗教指導者たちがイエスを殺害しようとする一方で、異教の支配者がイエスを救おうとしているのは驚きです。長年、イエスを待ち望んできたといいながら、イエスを十字架につけよ、と叫ぶ神の民とは対照的に、異教の支配者とその兵隊たちがイエスを「ユダヤ人の王」と呼んでいることは驚きです。ピラトが命の与え主であるイエスの釈放を求め、群衆が殺人者のバラバの釈放を求めているのは驚きです。これは、主に完全に献身していない心を欺くサタンの力についての驚くべき証しです。

問2

ピラトと宗教指導者とでは、どちらが神の前に罪が重いと思いますか。その理由は何ですか。ヨハ19:11参照

宗教は善に対しても悪に対しても強力な道具となります。ここでは、宗教が恐るべき悪しき目的のために用いられています。これらの宗教指導者たちのように、神のためにしているという信念をもって行動するとき、何が彼らを止めることができるでしょうか。自分たちの行動が神の力によっていると思い込んでいる人たちは、そうでない場合にはしないようなどんなことでもしかねません。

問3

人間の罪の影響は自分だけにとどまるものではありません。今日の聖句をもう一度読んでください。宗教指導者たちの行動はほかの人々にどんな影響をもたらしていますか。

ゴルゴタ(マルコ15:16―41)

キリストの生涯における出来事の中で、[マルコ15:21~39に描かれた]十字架の場面ほど祈りと瞑想を必要とする主題はありません。神の独り子が、傷つき、頭をたれ、血だらけになって、十字架にかかっておられるのを見てください。その背中は切り裂かれ、その手と足は釘で貫かれています。彼は一睡もしておられません。前の晩以来、何も口にしておられません。みじめな姿で、重犯罪人の間に磔にされ、太陽と風にさらされています。その体には、ハエと蟻がたかっています

問4

マルコ15:27、28を注意深く読んでください(口語訳)。イエスが一般の犯罪人として磔にされ、しかも二人の犯罪人の間に置かれていることにはどんな深い意味がありましたか。マルコが引用している旧約聖書の聖句(イザ53:12)はこの疑問にどのように答えてくれますか。このことは十字架上のイエスに起こった出来事についてどんなことを示唆していますか。

十字架において、キリストは私たちの罪を負う者となられました。キリストがこうして密接に罪とひとつになられたために、パウロは次のように述べています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(IIコリ5:21)。イエスが罪人であったと言えば、もちろん誤りになります。そこで、パウロはぎりぎりのところまで譲歩して、神がイエスを罪人、違反者と見なし、そのように扱われた、と述べているのです。私たちがほとんど理解できない仕方で、決して罪を犯したことのないただ一人のお方、イエスが、すべての罪人の身代わりとなられたのです。

問5

ヨハネ1:29、ガラテヤ3:13、ヘブライ9:28、ペトロIの2:24を読んでください。これらの聖句は十字架におけるイエスと罪との関係についてどんなことを教えていますか。

カルバリーの意味(イザ53章)

問6

昨日の聖句の中で、マルコはイザヤ書53章から引用しています。この章を読み、キリストが私たちの身代わりに死なれたことを示す言葉をあげてください。

問7

イエスが私たちの代わりに死なれたという思想は救いの計画を理解する上でどれほど重要ですか。

クリスチャンたちは、神がキリストにおいて救いの道を備えられる方法を説明しようとしてきました。そのさまざまな贖いの理論には次のようなものがあります。

(1)父なる神は人類の救いに消極的でしたが、キリストの愛が救いを用意しました。

(2)キリストの死は人類をサタンの支配から解放するための身代金でした。

(3)神の名誉は罪によって傷つけられ、キリストはその名誉を回復するために死なねばなりませんでした。

(4)キリストは罪の結果を全宇宙に示す実例として死なねばなりませんでした。

(5)私たちが和らげられて神に回復されるように、キリストは神の愛を表すために死なれました。

(6)父なる神は十字架上で御子を罰しておられました。

どの理論もある程度の真理が含まれていますが、神がイエス・キリストにおいて救いの道を備えられた方法を説明するには不十分です。答えは贖いの道を備えられた神御自身にあります。聖書に提示された次の真理に注目してください。

(a)救いの計画において、父なる神、御子、聖霊は愛と行動において一つです。父なる神は残酷で無慈悲なお方、御子は憐れみ深いお方と考えてはなりません(ヨハ3:16参照)。

(b)神はキリストにあって世を御自分と和解させられました(IIコリ5:19)。

(c)死は必要なものでした(ロマ3:24~26、ヘブ9:22)。

(d)キリストは私たちの代わりに死なれました(IIコリ5:21、Iコリ15:3)。

(e)十字架は神の愛についての最高の証拠です(ロマ5:7、8)。

イエスの死(マルコ15:33―41)

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。

「サタンは激しい試みでイエスの心を苦しめた。救い主は墓の入口から奥を見通すことがおできにならなかった。キリストが征服者として墓から出てこられることや、犠牲が天父に受け入れられることについて望みは与えられなかった。キリストは、罪が神にとって不快なものであるため、ご自分と神との間が永久に隔離されるのではないかと心配された。キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代りとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった」(『各時代の希望』下巻275ページ)。

問8

上記の引用文は十字架の意味を理解する上でどんな助けになりますか。それは罪の性格について、神の品性について、また私たちの救いが神にどれほどの犠牲を強いたかについてどんなことを教えていますか。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)というイエスの悲痛の叫びは、彼が絶望のどん底にあったことを表しています。しかし、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)というイエスの最後の言葉は、彼の確信と希望、信頼を表しています。イエスがサタンとの最終的な決戦に勝利されたことの表明でした。悪との大争闘の結果が保証されたのでした。この争闘はまだ終わっていませんが、私たちはその結果を知っています。イエスがカルバリーにおいて勝利を収められたからです。こうして、イエスは父なる神に御自身をゆだね、頭を垂れて、息を引き取られました。

ミニガイド

「私たちの救いの君であるイエスは苦しみを通して完全な者とされた。イエスの魂は罪の供え物とされた。父なる神の愛と恵みが取り去られたために、恐るべき暗闇がイエスの魂を覆った。イエスは罪人の身代わりとして立っておられたからである。この闇はすべての罪人が経験しなければならないものである。義なるお方が有罪宣告と神の怒りを受けねばならない。しかし、それは復讐心から出たものではなかった。というのは、罪なき御子が罪の刑罰を受けておられたとき、神の心は大いなる悲しみで満たされていたからである。このような三位一体の神の分裂は永遠にわたって二度と起こることがない」(『SDA聖書注解』第7巻924ページ、エレン・G・ホワイト注)。

「また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまづいて拝んだりした。こうしてイエスを嘲弄した」キリストはどんなに侮辱されても苦しめられてもその心から(人の心の常である)憎しみ、恨み、怒り、復讐心というものが出てきませんでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と愛の心しか出てこなかったのです(ルカ23:34)。これは人間性を超越した性質で、キリストの神聖を示すものです。この方が裁き主となられても恨みや復讐心からではなく、宇宙をあわれまれるためになさることを信ずることができます。「彼は他人を救ったが自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、今十字架から降りてみるがよい。それを見たら信じよう」。キリストは十字架からいつでも降りることができました。ほんの少し神性をひらめかしさえしたら敵どもを這いつくばらせ、苦痛や侮辱から自分を救うことができました。しかし自分自身を救ったら、他人、つまり私たちを救うことはできなかったのです。私たちを救うために自分自身を救わないことをキリストは十字架の苦悶の中で選びつづけられたのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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