この記事のテーマ
聖霊による霊感を受けて、マタイは一つの系図——普通の系図ではなく、イエス・キリストの系図——によって彼の福音書を始めました。しかもその系図は、大抵の人が自分の祖先だと必ずしも認めたがらない人たちを何人も明らかにしているものでした。
おそらく、マタイ自身に落伍者のようなところが多少あったので、彼はそういう祖先について述べることができたのでしょう。
実際、彼は敵の側に寝返ったユダヤ人徴税人であり、その役職を得るために代価をローマに支払い、同胞のユダヤ人から税を取り立てていました。間違いなく、彼は同胞に愛されている男ではなかったでしょう。
しかし、人間は外見を見るかもしれませんが、神は心をご覧になります。
そして疑いなく、主はマタイの心をご覧になって、彼が徴税人であるにもかかわらず、弟子たちの1人になるように選ばれました。
そしてマタイは、召されたとき、イエスによる新しい人生のためにこれまでの生活を捨て、召しを受け入れました。
こうしてマタイは主に従い、記録を残し、ある日、同胞とこの世の人々たちに何かを返しました。それは税金の領収書ではなく、イエスの生涯に関する貴重な物語でした。
起源の書
「ダビデの子、イエス・キリストの家系の書」(マタ1:1、詳訳聖書)。
書き出し早々、マタイは彼の福音書を「書」(英語で‘book’——「聖なる書き物」を意味するギリシア語の「ビブロス」からの派生語)、しかもイエスの「家系の書」(‘the book of the genealogy’)と呼んでいます。
実のところ、「家系の書」(「系図」)とか「世代」とか訳されているギリシア語は、「起源」と訳せる言葉から派生したものです。それゆえ、マタイは彼の福音書を「起源の書」という言葉で始めていると言うことができます。
旧約聖書がこの世の創造に関する書で始まっているように、マタイによる福音書(つまり、新約聖書)は、創造主御自身と、創造主にしかおできにならない贖いの業に関する書で始まっています。
次の聖句は、イエスについてどのようなことを述べていますか(ヨハ1:1〜3、ヘブ1:1〜3、ミカ5:1〔口語訳5:2〕、マコ12:35〜37)。
永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた。キリストは、「神のみかたち」、神の偉大さと尊厳のみかたち、「神の栄光のかがやき」であられた。……イエスは、われわれのうちに住むためにおいでになることによって、人類にも天使にも神を示されるのであった。イエスは神のみことば——きこえるようにされた神の思想であった
しかし、ヨハネがイエスの人間的な側面(ヨハ1:14参照)に触れる前にキリストの神性(同1:1〜4参照)についてすぐ書き出したのとは対照的に、マタイが真っ先に考えたのは、キリストの神性ではありませんでした。
むしろ、マタイはキリストの人性、「アブラハムの子ダビデの子」としてのキリストに、意識を強く集中させました。そして彼は、アブラハムから始めて、イエスの人間の祖先の系譜をイエスの誕生までたどっていきます。
それは、ナザレのイエスが確かに旧約聖書の預言で予告されていたメシアであった、と読者に示したい一心からでした。
王家の血統
メシアの到来に関してユダヤ人がさまざまな見方をしていたとしても、一つだけ確かなことがありました。メシアはダビデの家から出る、ということです。
マタイがあのような形で彼の福音書を書き始めたのは、そういう理由からでした。彼は、メシアとしてのイエスの身元を明らかにしたかったのです。
メシアはユダヤ民族の父アブラハムの子孫であり(創22:18、ガラ3:16)、ダビデの家系に生まれることになっていました。
それゆえ、マタイは直ちにイエスの家系を記し、いかに彼が(ほとんどのユダヤ人が関係する)アブラハムだけでなく、ダビデ王に直接結びついているかを示そうとします。
多くの注釈者は、マタイがおもにユダヤ人の読者(聴衆)を想定しており、だからナザレのイエスにメシアの資格を与えることを重視しているのだ、と考えています。
問2
次の聖句を読んでください。これらの聖句は、マタイが強調しようとした点を理解するうえで、いかに助けとなりますか。サムエル記下7:16、17、イザヤ9:5、6(口語訳9:6、7)、イザヤ11:1、2、使徒言行録2:29、30
これらの聖句はどれも、マタイが「ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタ1:1)という言葉で彼の福音書を書き始めた理由を理解するうえで助けとなります。
真っ先に、イエス・キリストが「ダビデの子」と記されています。新約聖書はイエスに関するこのような記述で始まっており、同様に、新約聖書の終わりでイエス御自身が次のように述べておられます。
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。
ヨハネの黙示録22章16節
イエスがほかのどのようなものであれ、彼は「ダビデのひこばえ、その一族」であり続けます。
イエスの人性と彼の本質的な人間性に対する、なんと力強いあかしでしょうか。創造主が、人間の想像しがたい方法で、御自分を私たちに結びつけました。
イエスの初期の家系図
問3
イエスの家系図には、ダビデより前にどんな人がいますか(マタ1:2〜6)。
通常、女性たちは系図に記録さえされませんでした。では、なぜタマルという女性はここに記録されているのでしょうか。そもそも、彼女はどういう人だったのでしょうか。
タマルはカナン人の女性で、ユダの2人の息子と続けて結婚しました。
ところが、タマルに子どもが生まれないまま、いずれの息子も主の意に反して死んでしまいます。彼女の義父であるユダは、3番目の息子が成長したら彼女と結婚させよう、と約束しますが、その約束は果たされませんでした。
そこで、タマルはどうしたでしょうか。
彼女は娼婦のふりをして、ほかならぬユダと夜を共にしたのです。彼は、娼婦がタマルだとは思ってもいなかったからです。
数か月後、タマルの妊娠が明らかになると、ユダは不貞なタマルを殺すための行動を起こしました。が、それも、ユダが彼女の赤子の父親であるとタマルによって明かされるまでのことでした。
この出来事が安っぽいメロドラマにどれほど似ていたとしても、それはイエスの人間の祖先の一部です。
ラハブとは、あのカナン人の遊女でしょうか。明らかにそうです。カ
ナンの地でイスラエルの斥候を守る手助けをしたあと、彼女は神の民に加わり、イエスの祖先となる人に嫁いだようです。
ルツは貞淑な女性でしたが、(彼女の落ち度ではなく、)嫌われていたモアブ人の出身でした。モアブ人は、酒に酔ったロトと彼の娘たちとの近親相姦から生まれました。
ウリヤの妻バト・シェバは、言うまでもなく、ウリヤが戦場にいたときにダビデ王が勝手に召し出した女性です。
ダビデもまた、救い主を必要としている罪人でした。ダビデには多くの優れた資質がありましたが、彼は家庭人としての模範ではまったくありませんでした。
「わたしたちがまだ罪人であったとき」
問4
次の聖句は人間性について、どのようなことを述べていますか(ロマ3:9、10、5:8、ヨハ2:25、エレ17:9)。
これまでしばしば述べてきたように、ただし繰り返すに値することなのですが、聖書は人間や人間性について楽観的な見方をしていません。
エデンにおける堕落(創3章)から終末時代のバビロンの堕落(黙18章)に至るまで、人間性の情けない状態は一目瞭然です。
例えば、私たちは、大いなる「背教」(IIテサ2:3、口語訳)に至る前の初代教会を美化しがちですが、それは間違っています(Iコリ5:1参照)。私たちはみな罪深く、みだれており、イエスがそこからお生まれになった親族も例外ではありません。
神学者マイケル・ウィルキンスは、次のように書いています。
この系図は、マタイの読者を驚かせたに違いない。イエスの祖先は、平凡な人間のあらゆる弱さを持った人間たちだった。イエスの系譜には、義の模範となるような人はいない。そこに見いだされるのは、姦通者、売春婦、英雄、異邦人たちである。邪悪なレハブアムは、邪悪なアビヤの父親で、アビヤは善良な王アサの父親だった。アサは善良な王ヨシャファトの父親であり……ヨシャファトは邪悪な王ヨラムの父親であった。神は御自分の目的を果たすために、良くも悪くも、さまざまな世代を通じて働いておられた。マタイは、神が御自分の目的を果たすために、どれほど社会的に見捨てられていようと、どれほど軽蔑されていようと、どんな人をも用いることがおできになることを示している。このような人たちは、まさにイエスが救うために来られた典型的な人々である。
私たちが他者を見るときだけでなく、自分自身を見るときにも忘れてならないのは、まさにこの点です。
クリスチャンとしての歩みの中で、落胆しない人、自分の信仰に疑問を抱かない人、自分が本当に回心しているのかと疑わない人がいるでしょうか。
そして、あまりにもしばしば、このような落胆をもたらすものは、確かに、私たちの堕落した性質、罪、欠点です。
それゆえ、このような絶望のさなかにあって、私たちは、神がこれらのものをすべてご存じであり、キリストがこの世に来られたのは、私たちのような者のためであったという希望を受け入れる必要がありますし、そうすることができます。
ダビデの神聖なる子の誕生
マタイによる福音書の1章と2章の間のある夜に、イエスはお生まれになりました。それは12月25日ではなかったようです。
祭司ザカリアの神殿での務めの時期を根拠に、イエスがお生まれになったのは、羊たちがまだ野原で過ごしていた秋、たぶん9月の末か10月だろうと、学者たちは述べています。
ユダヤ人のメシアを最初に探し出し、礼拝した人たちの中に異邦人がいたというのは大きな皮肉です。
イエスの同胞の多く(とユダヤ人の血を半分引く被害妄想のヘロデ王)が、自分たちはどんなメシアを期待すべきか知っていると思い込んでいたのに対して、東方から来たこの旅人たちは、偏見のない考えと開かれた心を持っていました。
この博士たち、つまり占星術の学者たちは、真理を探し求めることに身をささげていた、ペルシア出身の尊敬すべき哲学者でした。そして彼らは、自分たちが確かに「真理」なるお方を礼拝していることに気づいたに違いありません。
背景は異なりますが、私たちはここに、何世紀も前に語られた言葉が真実であることの一例を見ることができます。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。
エレミヤ書29章13ー14節
マタイ2:1〜14を読んでください。この学者たちの態度とヘロデ王の態度との間には、違いが見られます。この異邦人たちは、イエスを殺そうとしたこの国の王とは対照的に、ひざまずいてイエスを礼拝しています!
この物語は、教会に所属することが神と正しい関係にあることの保証にならないことを強く思い出させるものとして役立てられる必要があります。また、この物語は、真理を正しく理解することが非常に重要であるということも思い出させる必要があります。
もしヘロデや祭司たちがメシアに関する預言をもっと正しく理解していたなら、ヘロデは、イエスが脅威となるような人物でないとわかっていたでしょう。
また、この「ユダヤ人の王」が、少なくとも自分の政治的権力を守るという観点から心配すべき者でないと理解していたことでしょう。
さらなる研究
エレン・G・ホワイトの次の引用文を読んでください。
このように罪人は、だれでもキリストのみもとにくることができる。
『わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神の憐れみによって、再生の洗いを受け』る(テトス 3:5)。
サタンが、あなたは罪人だから神の祝福を受けることを望むことはできないと言ったら、キリストは罪人を救うためにこの世においでになったのだと彼に言いなさい。
われわれは、自分自身を神に推薦するようなものを何も持っていない。われわれがいつでも訴えることのできる懇願は、われわれがまったく無力な状態にあるので、神の救いの力が必要なのだということである。
なんと説得力のある考え方でしょうか。キリストを私たちの贖い主として必要とさせるものは、私たちの「まったく無力な状態」です。
この真理は、私たちが初めてキリストのもとにやって来たとしても、あるいは、これまでの人生をずっとキリストとともに歩んできたとしても、まったく変わりありません。
イエスの人間の系図にある人々と同様、私たちは恵みを必要としている罪人です。
律法を守ること、罪や誘惑に打ち勝つこと、キリストにあって成長することは、クリスチャン生活の一部ですが、それらは救いの結果であって、救いの原因ではありません。
十字架上の強盗であれ、イエスの再臨の際に昇天させられる聖人であれ、私たちはみな「神の救いの力が必要な」「まったく無力な状態」にあります。この基本的な真理を忘れないことは、なんと重要でしょうか!
*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。