公生涯の始まり【マタイによる福音書—約束されたメシア】#2

目次

この記事のテーマ

人間が抱える大きな苦悩の一つは、人生の意味や目的、人生の生き方を知ることでした。何しろ、私たちは生き方に関する説明書を小脇に抱えて生まれてくるわけではないからです。そうではありませんか。

「ぼくは人生の意味がわからなかった」と、裕福な家庭の出身で処方薬の中毒者になってしまった17歳の少年が言いました。「ぼくは今でもわからないけれど、ほかの人はみんなわかっていると思っていた。だれもが知っているのに、ぼくは知らない。そんな大きな秘密があると思った。ぼくたちがここにいる理由をだれもがわかっていて、ぼくを除いて、だれもが密かにどこかで幸せにしていると思っていたんだ」

オーストリア人の著述家で科学哲学者のポール・ファイヤアーベントは、「日は次から次へと巡り、人が生きるべき理由はわからない」と自伝の中で告白しています。

しかし私たちは、生きることのはっきりした理由を、聖書、福音書、イエスの物語、イエスが私たちのために成し遂げられたことの中に見いだすことができます。イエスの先在性、誕生、生、死、天での働き、再臨といったことの中に、私たちは人生の最も差し迫った問題に対する答えを見いだせます。私たちは今週、この地上におけるキリストの人生と働き——私たちの人生と働きに唯一完全な意味を与えることのできるもの——の始まりに目を向けます。

バプテスマのヨハネと「いま持っている真理」

マタイ3章はバプテスマのヨハネで始まっています。聖書に記録されている彼の最初の言葉は、「悔い改めよ」(マタ3:2)という命令です。ある意味で、それは、堕罪以来ずっと神が人間に言ってこられたことの要約です。「悔い改め、わたしの赦しを受け入れ、あなたの罪を捨て去りなさい。そうすれば、救いと、魂の安らぎを見いだすことができるだろう」

しかし、そのメッセージがどんなに普遍的なものであろうと、ヨハネは明確な「いま持っている真理」(IIペト1:12、口語訳)、つまりその当時の人々に限定されたメッセージを付け加えています。

問1

マタイ3:2、3を読んでください。悔い改め、バプテスマ、告白とともに、ヨハネが宣べ伝えていた「いま持っている真理」は、どのようなものでしたか(マタ3:6も参照)。

ヨハネもまた、新約聖書の至る所でなされていることをここで行っています。旧約聖書からの引用です。旧約聖書の預言は、新約聖書の中で息を吹き返します。イエスであれ、パウロであれ、ペトロであれ、ヨハネであれ、だれもが新約聖書の中で起きていることの意味を確認し、説明し、証明するために、繰り返し旧約聖書から引用しています。ペトロが、自ら目撃した奇跡にもかかわらず、イエスの働きについて語る際に「確かな預言のみことば」(IIペト1:19、新改訳)を強調したことも不思議ではありません。

マタイ3:7〜12を読んでください。指導者たちに対して、ヨハネはメッセージを持っています。ヨハネの厳しい言葉にもかかわらず、ここでは希望も彼らに与えられています。ヨハネが説いていたすべてのことにおいて、いかにイエスが中心であるかという点に注目してください。このときも、すべてがイエスのこと、どのようなお方で、どのようなことをなさるのかということについてでした。ヨハネは福音を伝える一方で、最終的な報いがあること、麦と殻が最終的に分けられること、その区別をするのが預言されたお方であることも明確にしました。つまり、福音と裁きがいかに切り離せないかということのさらなる証拠です。また、ヨハネがキリストの初臨について語りながら再臨についても語っているように、聖書において、イエスの初臨と再臨がいかに一つの出来事と見なされているかということの一例もここにはあります。

荒れ野での著しい違い

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタ4:1)。

サタンの視点からこの場面を想像してみてください。神の御子だと知っている神聖で高貴なお方が、人類を救うために人間の肉体を取り、今や御自分を卑しくされたのです。それは、天でサタンと戦い、彼と彼の仲間の天使を追放なさったのと同じイエスでした(黙12:7〜9)。しかし、今やそのイエスが、なんという姿でしょうか。これといった助けもなく、やせ衰えた人間として、厳しい荒れ野にたった独りでいます。間違いなく、今のイエスはサタンの策略の格好の標的です。

「サタンと神のみ子が争闘において初めて顔を合わせた時、キリストは天使軍の司令官であった。そして天の反乱の指導者サタンは追い出された。いま2人の立場は反対になっているように見え、サタンは有利に見える自分の立場を利用しようとする」(『希望への光』722ページ、『各時代の希望』上巻128ページ)。

なんという違いでしょうか。かつてルシファーは「いと高き者のようになろう」(イザ14:14)とし、イエスは天の栄光をすでに捨てておられました。この一場面において、私たちは利己主義と利他主義との大きな違い、聖なるものと罪がなすこととの大きな違いを目にすることができます。

イザヤ14:12〜14とフィリピ2:6〜8を比較してください。イエスの品性とサタンの品性の違いについて、これらの聖句は教えています。

想像してみてください。天の栄光の中におられたイエスを知っていた天使たちは、2人の仇敵がこれまでに体験したことのない対決モードで今や対峙している状況を、どのように眺めたことでしょうか。私たちには、結果がどうなったかを知っているという明らかな優位性がありますが、天使たち——実際に全天——は結果を知りませんでした。ですから、彼らはこの戦いを熱心に、興味深く見守ったに違いありません。

誘惑

問2

マタイ4:1〜12を読んでください。イエスはなぜこれらの誘惑を体験しなければならなかったのですか。この物語は救いとどのような関係がありますか。イエスがこのような激しい誘惑に耐えられたことは、誘惑に耐えることについて、何を教えていますか。

マタイ4:1は奇妙に思われる言葉で始まっています。悪魔から誘惑を受けるためにイエスを荒れ野へ導かれたのは聖霊だ、と述べています。私たちは誘惑されないように祈ることを期待されています。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタ6:13)。では、なぜ聖霊はイエスをそうなるように導かれたのでしょうか。

鍵は前章の、イエスがバプテスマを受けるためにヨハネのところへおいでになった場面の中に見つかります。ヨハネが拒むのをご覧になったイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタ3:15)と言われました。正しいことをすべて行う、つまり人間の完全な模範、完全なお手本となるために、イエスは罪がないにもかかわらず、バプテスマをお受けになる必要がありました。

イエスは荒れ野の誘惑で、アダムが体験したのと同じ体験を経なければなりませんでした。誘惑に対する勝利という、アダム以降の人間がだれも手に入れられずにきたものを彼は必要となさいました。誘惑に勝つことによって、「キリストは……アダムの失敗をあがなわれるのであった」(『希望への光』720ページ、『各時代の希望』上巻124ページ)。ただし、イエスが誘惑に遭われたのは、アダムとはまったく異なる状況のもとでした。

イエスはこの勝利によって、私たちが罪に対して言い訳ができないこと、罪を正当化できないこと、誘惑を受けたときに負けるのではなく、信仰と服従によって勝利できることを示しておられます。「悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコ4:7、8)と言われてきたとおりです。

ゼブルンとナフタリの地方

マタイ4:12はヨハネの投獄と、それによる彼の働きの終了について記しています。この時点で、イエスの働きが「正式に」始まりました。ヨハネのことを耳にしたとき、なぜイエスがガリラヤに向かわれたのか、ただそうなさったというだけで、聖書は理由を記していません(マコ1:14〜16、ルカ4:14も参照)。もしかするとイエスは、ヨハネがまだ宣べ伝えていた間は、競争関係が生じないように低姿勢を保ちたいと願われたのかもしれません。マタイ4:12におけるギリシア語の動詞は、しばしば「去った」と訳されますが、危険を避けるという意味で「退いた」と理解することもできます。それゆえ、いつものように賢明に、イエスは面倒なことを避けようとしておられたのでしょう。

イエスがゼブルンとナフタリの地方に住みつかれたことに関して、マタイ4:13〜16を読んでください(イザ9:1、2も参照)。ゼブルンとナフタリは、ヤコブの息子たちの中の2人で(創35:23〜26参照)、彼らの子孫は、最終的に美しい北部の地域に住みついた二つの部族になりました。

残念ながら、これら二つの部族は神に対する信仰を捨て、この世の物に心を向けた10部族の中に含まれていました。これら北部の部族は、その罪深さ、世俗性、悪事を旧約聖書の多くの預言者によって厳しく指摘されたにもかかわらず、結局、アッシリア人によって占領され、当時の世界中に散らされました。その代わりに異邦人がイスラエルに住みつき、ガリラヤは混血の民が住む、混乱と暗黒の地になりました。ガリラヤの最も有名な預言者はヨナで、そのことは彼らの献身の度合いについて何かを物語っているでしょう。

ガリラヤにどのような問題があったにせよ、イザヤ書にはこんなにすばらしい預言が含まれていました。ゼブルンやナフタリのような暗黒の地においてさえ、「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタ4:16)という預言です。言い換えれば、イエスは、大きな必要があり、人々が下品で、遅れていて、粗暴だと見なされていたこの場所に来られ、住み、彼らの間で働かれたということです。私たちは、他者のために御自分を低くされるイエスの意志をここに見ます。また、旧約聖書がいかにイエスの働きにとって重要であるかという、さらなる一例もここに見ます。

漁師たちの召し

「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ4:17)。ヨハネと同じように、イエスは悔い改めへの呼びかけで御自分の働きを始められました。イエスはヨハネと同様、人間性の堕落した状態と、すべての人が悔い改めて、神を知る必要があることをご存じでした。それゆえ、少なくともマタイによる福音書に記録されているように、彼の最初の宣言が悔い改めへの呼びかけであったことは、驚くには当たりません。

マタイ4:17〜22を読んでください。忘れ去られたこのガリラヤの地に、4人の青年(二組の兄弟)が営む小さな漁業組合がありました。この青年たちは、どうやら神を愛する心を持っていたようです。というのも、彼らのうちの何人かが、しばらくの間、バプテスマのヨハネに従っていたからです。しかし驚いたことに、バプテスマのヨハネは彼らに、彼らと同郷の別の若者を指し示しました。

この男たちはナザレのイエスのもとに行き、みもとに留まりたいと願い出ていました(ヨハ1章参照)。それが当時のやり方でした。男たちはラビのところに行き、従うことを申し込みます。しかし、だれが弟子になるかの最終的判断を下すのはラビでした。そして、ラビが弟子になるようにとだれかに声をかけるとき、それは興奮の瞬間でした。

イエスが湖畔で弟子たちを召されたのは、彼らが初めて会ったときだと思い込みながら、多くの人が大人になってきました。しかし、ヨハネによる福音書の1章から5章を見れば、これらの人たちがイエスとすでに1年を(非定期のようですが)一緒に過ごしていたことがわかります。

「イエスは無学な漁師たちをお選びになったが、それは彼らが当時の言い伝えやまちがった慣習によって教育されていなかったからである。彼らは生れつき才能を持った人たちで、謙遜で教えやすく、キリストがご自分の働きのために教育なさることのできる人たちであった。世の一般の人たちの中には、もしその能力が呼びさまされて活動するならば、世の中の最も尊敬されている人々と同等の立場まで高められるのに、そうした能力を持っていることに気がつかないで、日々の骨折り仕事を根気よくくりかえしている人々がたくさんいる。このような眠っている才能を目覚めさせるにはじょうずな手がふれなければならない。イエスがご自分の共労者とするために召されたのはこういう人たちであった。こうしてイエスは、彼らにご自分とまじわる特権をお与えになった」(『希望への光』791ページ、『各時代の希望』上巻310ページ)。

さらなる研究

1人の伝道師がある町にやって来て、彼の集会を次のような言葉で宣伝しました。「来て、ご覧あれ!伝道師が聖書を破ります!」。案の定、この宣伝文句に引かれて大勢の人が集まりました。彼は群衆の前に立つと聖書を開き、人々が驚いたことに、1ページを破り取ったのです。「このページは本来ここにあるべきものじゃありません。これは、旧約聖書と新約聖書を分けているページです」と、彼は言いました。この伝道師の演出をどう思うにせよ、彼は良いところを突いています。実際、この二つの書は一つだからです。新約聖書の至る所で旧約聖書が引用されています。新約聖書の中の出来事は、イエス御自身や聖書記者たちによって、繰り返し旧約聖書に言及することで説明されています。イエスはさまざまな形で、「聖書の言葉は成就されねばならない」と何度言われたことでしょう。

旧約聖書に書かれていることを何度も振り返られたイエス御自身から(ヨハ5:39、13:18、ルカ24:27、マタ22:29)、いつも旧約聖書を引用していたパウロや(ロマ4:3、11:8、ガラ4:27)、旧約聖書に対するさりげない言及がおよそ550箇所もある黙示録に至るまで、新約聖書は自身を絶えず旧約聖書と結びつけています。旧約聖書と新約聖書は、人類に対して神が記された救済計画の啓示です。確かに、旧約聖書の一部分、例えば犠牲制度などは、もはやクリスチャンを拘束していませんが、私たちは旧約聖書を新約聖書よりも低く位置づけるような間違いを決して犯してはいけません。聖書は二つの契約の書から成っており、私たちは両方から神と救済計画に関する重要な真理を学びます。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次