この記事のテーマ
ある若い牧師が最近バプテスマを受けたばかりの女性と外で話していました。驚いたことに、彼女はこう言いました。「私はもう一度バプテスマを受ける必要があります」
その理由を尋ねると、彼女はこう答えました。「実は、自分の過去に関して主任牧師に話してないことがあるのです」
こうして、二人の間にキリストによる赦しについて長い会話が交わされ、彼女は心からそれを受け入れました。牧師が祈りを終えると同時に、大粒の雨が二人を濡らしました。彼女は目を輝かせ、言いました。「私はもう一度バプテスマを受けているのです」
恵み深い神はしばしば、この予期しない雨のような生きたしるしを与えることによって、自分が神と正しい関係にあることを確信させてくださいます。しかし、神に対する私たちの確信は御言葉の明白な教えに基礎を置くときに、いっそう堅固なものとなります。今回の研究では、預言の成就がテサロニケの新しい信者に確かな確信をもたらしたことについて学びます。
伝道者は代償を払う
問1
使徒言行録16:9~40を読んでください。これらの聖句によれば、フィリピの住民が福音に強く反対したのはなぜですか。彼らの行動から、私たちもつねに留意する必要のあるどんな重要な原則について学ぶことができますか。この原則は、クリスチャンの生活においても、どのような異なったかたちで現されることがありますか。
福音とは、キリストにおける神の力ある御業についての喜ばしい知らせで、それは赦しと受容、変革をもたらします(ロマ1:16、17)。罪によって、全世界は有罪宣告を受けていました。しかし、イエスの死と復活によって、全世界は、神が当初すべての人類に与えようとされた永遠の命を受ける新たな機会にあずかりました。神の力ある御業は私たちがまだ罪人であったときになされました(ロマ5:8)。この贖いの御業は私たちとは無関係に、つまりイエスによってなされたものであって、私たちはそれに何も─何ひとつ─付け加えることはできません。しかし、福音が私たちの罪を断罪すること、また神がイエスによってこれらの罪を赦してくださることを信じるときにのみ、福音は私たちの生活の中に実現します。
福音がこのように喜ばしい知らせであって、しかも無償であるというのに、人はなぜそれに逆らい、反抗するのでしょうか。その答えは簡単です。福音を受け入れることが自己に対する信頼、またお金や権力、性的魅力といった世俗的なものに対する信頼を捨てるように私たちに求めるからです。お金や性、権力は神の御心と方法に従っているうちは善なるものです。しかし、人々が福音の約束に取って代わるこのような些細なものに執着するとき、福音と福音を伝える人たちが脅威となります。
テサロニケIの2:1、2を読んでください。パウロとシラスは苦しみの中でテサロニケに入りました。彼らの身体はフィリピでのひどい鞭打ちと投獄によって受けた切り傷と擦り傷でいっぱいでした(使徒16:22~24)。しかし、神の強大な力についてのしるし(使徒16:26、30、36)が彼らの心を励ましました。彼らは大胆にも、苦しみに耐えながらテサロニケの会堂に入り、再びメシアについて語りました。このメシアが彼らの人生を変え、まだ伝えられていない地方に福音を伝える使命を彼らに与えられたのでした。
パウロの伝道戦略
問2
使徒言行録17:1~4はテサロニケにおけるパウロの伝道戦略の場所・時期・方法についてどんなことを教えていますか。
『テサロニケの信徒への手紙I』はパウロの初期の手紙の一つですが、その神学と伝道戦略はテサロニケに到着したときにすでに成立していました。
パウロの伝道戦略の第1段階は、安息日にその土地にある会堂に出席することでした。安息日が多くのユダヤ人に伝道するよい機会であることを考えれば、これは自然なことでした。しかし、それは単なる伝道戦略以上のものでした。たとえユダヤ人がいなくても、また近くに会堂がなくても、パウロは安息日に祈りと礼拝のための時間を持つのが通例でした(使徒16:13参照)。
当時のユダヤ人の間では、会堂の訪問者に話を依頼することは珍しくありませんでした。パウロやシラスのように、訪問者がエルサレムに住んでいた場合は特にそうでした。会衆はほかの地方のユダヤ人の生活について情報をほしがっていました。彼らもまた、訪問者たちが自らの聖書研究を通して発見した新しい思想に関心を抱いていたはずです。このようなわけで、パウロの戦略は会堂の事情と自然に合致していました。
パウロの戦略の第2段階は、直接、彼らの共通の聖書である旧約聖書から語ることでした。彼はまた、当時のユダヤ人にとって大きな関心の一つであったメシアをもって語り始めました(「キリスト」はヘブライ語の「メシア」に相当するギリシア語―使徒17:3参照)。パウロは旧約聖書からの聖句を用いて、メシアがユダヤ人のよく知っている栄光を受ける前にまず苦しまねばならないことを論証しました。言い換えるなら、メシアの使命に含まれる評判のよい、輝かしい側面は全体像の一部にすぎないということでした。メシアが最初に現れるときには、王なる征服者としてではなく、苦難の中にある僕として来られるのでした。第3段階として、彼らの思いの中にメシアについての新鮮なイメージを確立した後で、パウロはイエスについて語り始めました。イエスの生涯は、自分が今語った聖書の預言とまさに一致していることについて、パウロは説明しました。彼は以前に抱いていた疑いや反対について、また高く揚げられたキリストとの個人的な出会いと、その確信を与える力について語ったに相違ありません。ルカによる福音書によれば(ルカ24:25~27、44~47)、テサロニケにおけるパウロの伝道戦略は、イエスが復活後に弟子たちに対して用いられたのと同じ様式に従ったものでした。
メシアについての二つの見解
昔から、旧約聖書の読者はメシアを示す預言に種々の見方があることに気づいていました。大部分のユダヤ人と初期のクリスチャンは、メシアに関する預言に二つの重要な要素があることを認めています。一方には、王としてのメシアを示す聖句がありました。それは、人々に正義をもたらし、イスラエルの支配を地の果てにまで及ぼす征服者としての王です。他方には、メシアが恥辱と拒絶の中で苦しむ僕となることを暗示する聖句がありました。多くの人々が犯した過ちは、これらすべての聖句が同一人物―その人物の、異なった時期における異なった働きの側面―に関するものであることを理解しなかった点にありました。
問3
エレミヤ書23:1~6、イザヤ書8:23~9:6(口語訳9:1~7)、53:1~6、ゼカリヤ書9:9を読んでください。これらの聖句は将来の救い主に見られる特徴について何と述べていますか。ここに、どのような「相反する」姿が描かれていますか。
これらの聖句はメシアの到来に先立って人々を悩ませるものでした。一方で、王としてのメシアに関する聖句はふつう、苦しみや恥辱といった暗示を全く含んでいませんでした。他方、苦難の僕に関する聖句はふつう、メシアを、ほとんど権力や世的な権威を持たない方として描いていました。イエスの時代のユダヤ人がこの問題を解決した方法の一つは、苦難の僕を、民族全体の、また民族全体が追放と占領の過程で受けた数々の苦しみの象徴と見ることでした。これらの聖句をメシアの方程式から除くことによって、多くのユダヤ人は王としての、あるいは征服者としてのメシアを期待しました。この王はダビデと同様に、占領者を追放し、諸国民のうちにイスラエルの地位を回復するのでした。
言うまでもなく、メシアの方程式から苦難の僕に関する聖句を除くことには、大きな問題が一つありました。それは、メシアが持つ二つの重要な特徴を融合する重要な旧約聖書の聖句をどうするかということでした。それらは同一人物について描写するものです。一見、理解し難いことは、それらの特徴が同時に起こるものなのか、それとも順に起こるものなのかということです。
使徒言行録17:2、3にあるように、パウロはテサロニケのユダヤ人にこれらのメシアに関する旧約聖書の聖句について解説し、一緒にその意味について研究しました。
苦しみは栄光に先立つ
イエスもパウロと同様に、旧約聖書を研究して、メシアが「こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」という結論に達しました(ルカ24:26)。ルカ24:26で「~はずだった」と訳されている言葉は、パウロが使徒言行録17:3で言っている、メシアが「~ことになっていた」という言葉と同じです。イエスにとっても、パウロにとっても、苦しみが栄光に先立つということは、それらが実際に起こるずっと前に預言されていたことでした。とするなら、問題は、彼らが旧約聖書のどのような根拠にもとづいてこの結論に到達したかということです。
彼らはおそらく、旧約聖書の中の最も重要な人たちが長期間の苦しみの後に人生の栄光の期間に入ったことを知っていたはずです。ヨセフは約13年の獄中生活を経て、エジプトの首相の地位に就きました。モーセは荒れ野で40年間羊を追った後で、エジプト脱出の力強い指導者としての役割を担いました。ダビデは何年も逃亡者としての生活を送った後、外国にいたときに王位に就きました。ダニエルは捕囚であって、死刑を宣告されていたのに、バビロンの首相の地位にまで高められました。これら旧約聖書の神の僕たちの物語のうちに、メシアが予表されています。メシアもまた、完全な王としての地位に高められる前に、苦しみ、辱められることになっていました。
この新約聖書の確信の頂点は新約聖書において最も広く引用される旧約聖書の聖句―イザヤ書53章―のうちに見られます。イザヤ書にある苦難の僕は侮られ、拒絶され、悲しみに満ちた方でした(イザ53:2~4)。聖所の羊のように、彼は主の御心に従って(イザ53:8~10)、私たちの罪のために屠られました(同53:5~7)。しかし、「その魂の苦しみの後に」(イザ53:11、新国際訳)、彼は多くの人を義とし、力強い遺産を受けます(イザ53:12)。
新約聖書の記者たちにとって、イザヤ書53章はメシアの役割を理解する鍵となるものでした。パウロは明らかにテサロニケにおいてこの聖句について説いたはずです。イザヤ書53章によれば、メシアは初臨において、王として、あるいは力ある者として現れることになってはいませんでした。むしろ、彼は御自分の民の多くの者たちから拒絶されるのでした。しかし、この拒絶はユダヤ人の待望していた栄光のメシアへの序曲となるのでした。このことを知っていたので、パウロは自分の知っているイエスが旧約聖書に予表されたメシアであることを示すことができました。
教会の誕生
使徒言行録17:1~4、12を読んでください。パウロの伝道戦略の一つは「、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」ということでした(ロマ1:16)。パウロの伝道において、最初に福音を聞き、受け入れる機会を与えられたのはユダヤ人でした。事実、パウロの時代の多くのユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れました。後に、教会が背信し、律法、特に安息日を拒否するようになると、ユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れることがますます困難になりました。律法、特に安息日を無にするメシアなどいない、というのがその理由でした。
聖句にもあるように、テサロニケのユダヤ人の中には、パウロがメシアに関する聖句をイエスの物語に関連づけて説明したことによって、確信に導かれた者たちもいました。その中の一人、アリスタルコは後にパウロの同僚となり、さらには一時、共に捕らわれの身となっています(コロ4:10、11、使徒20:4参照)。もう一人のヤソンは裕福な人であったようで、一同が会堂に歓迎されなくなった後は、自分の家を教会として提供し、パウロの逮捕を免れるために保証金の一部を支払っています(使徒17:4~9参照)。
「神を畏れるギリシア人」(使徒17:4、新国際訳)とは、一般的に、ユダヤ教に夢中になり、会堂に出席しても、回心しなかった異邦人のことと考えられています。これはパウロの時代によくあったことです。これらの異邦人は、パウロがユダヤ教も旧約聖書も知らない異邦人に伝道する仲立ちとなりました。
初期のテサロニケの教会がユダヤ人中心で、しかも比較的裕福であったということが使徒言行録17章、特に12節で強調されています。そのような中で、「上流の」ギリシア人も信者になっていました。しかしながら、パウロが『テサロニケの信徒への手紙I』を書いた頃には、教会は大部分、労働者階級(Iテサ4:11)の異邦人(Iテサ1:9)からなっていたことは明らかです。
ここからわかることは、福音が普遍的な性格のものであるということです―それはすべての人、すべての階級、すべての人種のものであって、裕福であるか、貧しいか、ギリシア人であるか、ユダヤ人であるかは問題ではありません。キリストの死は全世界のためでした。セブンスデー・アドベンチストとしての私たちのメッセージが全世界に及ぶのはそのためです(黙14:6)。人種、国籍、階級、経済的状態にもとづく例外はありません。私たちは常に、この教えを心にとめる必要があります。偏狭で、自己中心的になることのないように、また無意識のうちに自分で定めた心地よい境界線を越えて伝道するよりも、自分の持っているものを保持することにのみ関心を持つことのないように心がける必要があります。
まとめ
「神は、パウロの時代から現代に至るまで、聖霊によって、異邦人と同様にユダヤ人にも呼びかけてこられた。パウロは、『神は人をかたよりみない』かたであると言った。パウロ自身、ユダヤ人に対すると同様に、『ギリシヤ人にも未開の人にも、……果たすべき責任がある』と考えていた。しかし彼は、ユダヤ人は、『まず第一に、神の言が彼らにゆだねられた』ゆえに、他の民族にまさって決定的優位に立っていることを、忘れなかった。『それ〔福音〕は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である』」(『希望への光』1500ページ、『患難から栄光へ』下巻64ページ)。
「パウロはテサロニケの人々に説くにあたって、メシヤに関する旧約聖書の預言に訴えた。……彼はモーセと預言者たちの霊感のあかしによって、ナザレのイエスがメシヤであることを明白に立証し、アダムの時代から父祖たちや預言者たちを通して語ってこられたのは、キリストのみ声であったことを教えた」(『希望への光』1439ページ、『患難から栄光へ』上巻237、238ページ)。
「福音の宣教が終結を迎え、これまでおろそかにされていた階級の人々に特別の働きが行われるときに、神は、神の使命者たちが、地球の至るところに散在しているユダヤ人に特別の関心を持つことを期待しておられる。……福音時代のキリストが旧約聖書のページに描かれ、新約が旧約を明快に説明しているのを悟るときに、彼らの無気力な感覚が目覚めて、キリストが世界の救い主であることを認めるのである。多くの者が、信仰によってキリストを彼らのあがない主として受けいれる」(『希望への光』1501ページ『、患難から栄光へ』下巻64、65ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。