【テサロニケの信徒への手紙1・2】関係を保つ【最大の希望】#2

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パウロはテサロニケで3週にわたり伝道集会を開きました。集会は盛況でしたが、町の宗教指導者やならず者たちによる反対を引き起こします。パウロはついに町の議会によって追放され、二度と戻れなくなります。

今回は、パウロのテサロニケ伝道がどのような結果をもたらしたかについて考えます。このような経験の後では、パウロが反対やそれにともなう障害について考えていたとしても不思議ではありません。しかし、パウロの思いはテサロニケにおける新しいキリスト教共同体の会員との間で培った関係に向けられていました。それ以上、信者と共に時間を過ごすことができないほど、パウロは悲嘆に暮れていました。信者と共に過ごした時間が短かったので、彼らが落胆と否定的な影響に対して無防備であることを、パウロは知っていました。彼は直接そこに行くことができなかったので、代わりに彼らに手紙を書くように聖霊によって導かれます。これらの手紙が新約聖書に収められている『テサロニケの信徒への手紙』です。

テサロニケにおける反対

問1

使徒言行録17:5~9を読んでください。これらの聖句によれば、パウロのメッセージに対する反対は主にどのような動機から出ていましたか。パウロに反対する者たちは何と言って、町の当局者たちの関心を引きつけましたか。当局者たちはどのように応答しましたか。

だれかが新しい教えを説き、人々の関心を引きつけると、ほかの宗教組織の指導者や教師たちはそのことを嫉むようになります。それまで自分たちに向けられていた関心がほかの人々に向けられるからです。その結果、彼らは不条理な方法を用いて、新しい教師たちの影響を押さえ込もうとします。

ローマの歴史家タキトゥスによれば、使徒言行録17章に記されている出来事の少し前に、タキトゥスが「クレスタス」と呼ぶ一人の男をめぐってローマのユダヤ人の間に争いが起こりました。この名前はメシア、またはギリシア語の「キリスト」に関するユダヤ人の思想に対するローマ人の誤解を反映しているように思われます。だれかが福音を説いたために、ローマのユダヤ人共同体に分裂が生じたことは明らかです。

ローマの当局者たちにとって、メシアをめぐる論争は、新しい王がローマの王位に就く準備であるかのように聞こえました(使徒17:7参照)。おそらく、そのために、皇帝は首都からユダヤ人を追放したのでした(使徒18:2)。追放された人たちの中に、テサロニケに定住し、あるいは通過した人たちがいて、ローマで起こった出来事に関する情報をもたらしました。福音がローマのユダヤ人社会を混乱に陥れたので、テサロニケの宗教指導者たちは同じことが起こるのを阻止しようとしました。

テサロニケは、たぶん5人または6人の「長」からなる会議によって統治され、彼らが集団で物事を決定していました。それによって、ローマからかなりの程度の自治権を与えられていたので、彼らはそれを失うことを恐れたのでしょう。したがって、この件をめぐる町の当局者たちの態度はきわめて印象的なものでした。最近、ローマで起こった同じような出来事からすれば、新しいクリスチャンに対して厳しい肉体的な刑罰が下される可能性もありました。しかし、町の指導者たちは公平に対応しました(使徒16:22~24比較)。彼らはパウロとシラスを町から追放しました(使徒17:10参照)。また、パウロがさらなる混乱を引き起こすことのないように、新しいクリスチャンから相当な額の保証金を取りました。その後で、指導者たちは全員を解放しました。

ベレアにおける出来事

迫害は両面通行の道のようなもので、二つの方向に作用します。それはしばしば、何も悪いことをしていない人たちに対する悪意に満ちた中傷によって引き起こされます。しかし、それはまた信者の側の不適切な行動によって引き起こされることもあります(Iペト3:13~16、4:12~16)。テサロニケの混乱はパウロに反対する者たちの嫉みだけでなく、新しい信者の不適切な行動もその原因となっていた可能性があります。テサロニケの信徒への2通の手紙の中で、パウロは一部の教会員の公の場における不適切な行動を深く憂慮しています。

パウロはテサロニケのクリスチャンに、落ち着いた生活をし、異邦人の隣人の間で礼儀正しく振る舞うように勧めています(Iテサ4:11、12)。彼は怠けている者たちを戒めています(Iテサ5:14)。共同体の中の、怠惰な生活をしている者たちを避けるように命じています(IIテサ3:6、7)。彼はまた、教会員の中に、怠惰で、怠けているだけでなく、「余計なことをしている」者たちがいると言っています(IIテサ3:11)。このように、ある者たちは教会だけでなく、周りの社会にも迷惑をかけていました。テサロニケの迫害は悪意に満ちたものでしたが、一部の新しいクリスチャンの中にも責められるべき行為がありました。

ベレアにおけるパウロの経験はテサロニケにおける経験とどのように異なっていたでしょうか(使徒17:10~15参照)。この違いからどんなことを学ぶことができるでしょうか。ベレアの人たちは神についてもっと深く知り、また聖書についてもっとよく理解しようとしていました。彼らは素直な心で聞くだけでなく、旧約聖書の研究を通して発見したことに照らして、使徒たちから聞いたことが真実であるかどうかを知ろうとしていました。

これは私たちの模範です。新しい思想に対して心を開くことは良いことですが、それらの思想が聖書の教えにもとづいたものであるかどうかを、つねに調べなければなりません。私たちには、学ぶべき多くのことがあり、捨て去るべき多くのことがあります。同時に、私たちは偽りを避けるように注意しなければなりません。それは私たちを真理から逸らすことになります。

テサロニケで問題を起こしていた者たちはすぐにベレアにも押しかけてきましたが、ベレアのユダヤ人は新しい教えに対して心を閉ざすようなことがありませんでした。事実、「そのうちの多くの人が信じ」ました(使徒17:12)。パウロがアテネに移ったのは得策でした。一方、シラスとテモテはベレアに残って、新しい信者を励まし、力づけました。

アテネにおける出来事

使徒言行録17:14~16によれば、シラスとテモテはベレアに残る一方で、パウロはアテネに送り届けられています。パウロは自分に付き添ってきた人々に、シラスとテモテをアテネで自分に合流させるように指示していますが、彼らがそうしたという言及はありません。一方、テサロニケIの3:1、2を見ると、パウロがテモテをアテネからテサロニケに遣わしていることがわかります。このことから、テモテが短期間、アテネでパウロに合流したと思われます。

問2

使徒言行録17:2、3でユダヤ人に語るとき、パウロは旧約聖書のメシアという主題をもって始めています。異教徒であるアテネの哲学者たちに語るときには(使徒17:16~34)、彼は何をもって始めていますか。これらの異なったアプローチの仕方から、何を学ぶことができますか。

パウロはただアテネに入り、真っすぐにアレオパゴス(別名、「アレスの丘」)に向かい、そこで哲学者たちと議論しているのではありません。彼はある程度時間をかけて、周辺を歩き回り、自分なりに観察をしています。彼はまた、アテネのユダヤ人や、アテネの会堂にいるギリシア人と議論をしています。自分の習慣に従って彼らに伝道する一方で(使徒17:2、3参照)、彼はアテネで優位を占めている文化について知ろうとしたことでしょう。伝道活動の第1歩は耳を傾けること、また伝道する相手の信仰と世界観について知ることです。

パウロはまた、(アレオパゴス、アレスの丘を望む場所にあった)アテネの市場で時間を過ごし、望む者ならだれとでも論じ合いました。そのうちに、彼はエピクロス学派やストア学派の哲学者たちの好奇心を引き、彼らから伝統的な場所でもっと話をしてくれるように招かれます。

パウロはアテネの町や宗教について観察したことをもってアテネの知識人たちに話し始めました。彼の神学の開始点は自分にとっても、また彼らにとっても興味のあった主題、つまり創造でした。会堂におけるやり方とは対照的に、彼は聖書ではなく、人々のよく知っていた著作にもとづいて議論をしています(使徒言行録17:27、28には、ギリシアの作家の言葉と思想が引用されています)。しかし、パウロの話題が人々の知的好奇心を超えた領域に及ぶと、哲学者たちは突然、議論を中止しているように思われます。しかしながら、少数の者たちがパウロと語り続け、信者となります。

コリント到着

使徒言行録18:1~18は一般の歴史と二つの接点を持っています。第1に、ユダヤ人のローマからの追放がクラウディウス帝の治世に起こったことです(使徒18:2)。聖書外の資料の情報によると、これは西暦49年の出来事ということになります。もう一つの大きな接点は地方総督ガリオンについての言及です(使徒18:12)。コリントの地方総督の任期は1年と定められていたので、碑文などの資料からすると、ガリオンの正確な任期は紀元50~51年となります。批判的な学者はしばしば使徒言行録の史実性を疑いますが、このように使徒言行録の歴史描写を裏づける、思いがけない記述がいくつも見受けられます。

テサロニケを追われた後、テモテはパウロやシラスと共にテサロニケからベレアに向かったと思われます(使徒17:10、14、15)。その後、テモテは短期間の間、アテネのパウロに合流し、そこからテサロニケに遣わされました(Iテサ3:1、2)。そこで、彼はシラスと合流し(使徒18:5)、その後、コリントのパウロのもとに向かいます。『テサロニケの信徒への手紙I』は、テモテが到着して間もなく、コリントから書かれたと思われます。パウロは、コリントのあるアカイア州の人々の思いを知っていたので(Iテサ1:7、8)、『テサロニケの信徒への手紙I』の中で、テモテを通して伝えられた情報に対応しています(Iテサ3:5、6)。

問3

コリントIの1:18~2:2を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。これらの聖句から、アテネとコリントにおけるパウロの伝道戦略についてどんなことがわかりますか。

パウロはアテネの哲学者たちに対する対応の結果に満足していなかったはずです。というのは、コリントでは、ギリシア人の考え方に対してもっと直接的な方法を用いることに心を決めているからです。そうすることによって、彼は「人々のいるところで人々に会う」という考えを変えたわけではありません。なぜなら、彼は同じ手紙の中で同様の方法を用いているからです(Iコリ9:19~23)。彼がアテネやコリントで用いている方法からもわかるように、人々のいるところで人々に会うというやり方は、精密科学のような[固定した]ものではありません。それは絶えざる研究と調整を必要とします。パウロはどの町でも同じ方法を用いているわけではありません。彼は変化する時代や文化、状況に対して非常に敏感でした。

パウロ、心のうちを明かす

テサロニケIの2:17~3:10を読んでください。これらの聖句から、テサロニケの信者に対するパウロの愛着と関係についてどんなことがわかるでしょうか。このことから、私たちの奉仕する人々に対して取るべき態度に関して学ぶことができるのではないでしょうか。

パウロの思いつめた対決的な口調は(ガラ1:6、7、3:1~4、4:9~11参照)、時として感情や人間関係を否定するような印象を与えます。しかし『、テサロニケの信徒への手紙I』にあるこの喜びに満ちた言葉を読むと、そうではないことがわかります。彼は弟子の育成を強調する大宣教命令(マタ28:19、20)に従うと同時に、人間関係を重視する伝道者でした。

上記の聖句の中で、パウロは内なる思いを吐露しています。彼は「切なる望み」をもってテサロニケの信者に会いたがっています。イエスが来られるとき、パウロはテサロニケの信者を自分の働きの実例としてイエスにささげようとしています。彼は終わりの時に救われるだけで満足していません。自分の生涯が神の国に永続的な効果をもたらしたという証拠を、彼は望んでいます。

テサロニケの信者に会いたいという強い願望を「抑え切れなくなった」とき、パウロは彼らの様子を知るために共通の友を遣わしました。サタンが誘惑を用いて彼らをもとの確信から引き離すことを、彼は恐れました。しかし、信者がしっかりと信仰に立っているという報告をテモテから受けたとき、パウロは大いに慰められました。

テサロニケIの3:6には、より強い力が働いていることを示す興味深い暗示があります。テサロニケの信者がパウロのことをよく思っていること、またパウロと同じくらい彼らがパウロに会いたがっているというテモテの報告を聞いて、パウロは喜んでいます。パウロがテサロニケを離れたのは突然のことだったので、彼らが自分と自分のいないことをどのように感じているか、いくぶん不安に思っていたようです。テサロニケの信者の忠誠はパウロに大きな影響をもたらしました。パウロの個人的な確信はある程度、伝道の成功と関係があったでしょう。結局のところ、彼も一人の人間でした。

テモテの報告はパウロの祈りの中に深い喜びの経験となって表されています。しかし、パウロの現在の喜びも、直接彼らに会って、クリスチャンとしての教育の仕上げをしたいという強い願望を抑えることができませんでした。しかしながら、パウロは個人的に彼らと会うことができなかったので、まずテモテを使者として遣わし、その後でテサロニケの信者に宛てて手紙を書きました。これらの手紙が新約聖書の本体の一部となります。

今回のメッセージ

「もし私たちが神の御前にへりくだり、親切で、礼儀正しく、心優しく、憐れみ深くあるなら、現在1人しかいないところに、真理に回心する人が100人いるであろう。しかし、回心したと告白していても、私たちはあまりにも高価で捨てることのできない多くの自己をかかえている。この重荷をキリストの足もとに置き、代わりにキリストの品性と似姿を受け入れることは私たちの特権である。救い主は私たちがそうすることを待っておられる」(『教会へのあかし』第9巻189、190ページ、英文、強調付加)。

「イエスは、公生涯のあいだ、この世を罪の奴隷の身から自由にさせるには、主の働きにおいて弟子たちが主と一つになることだと、絶えず彼らに教えておられた。……主はご自身のすべてのみわざの中で、個々の働きから彼らの仲間が増えるにしたがって働きをひろげ、最後には地上の隅々にまで達するように、弟子たちを訓練しておられたのである」(『希望への光』1367ページ、『患難から栄光へ』上巻26ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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