【列王記・歴代誌】多難な出発ー反逆と改革【1章解説】#1

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【家族の争い】 列王記と歴代誌は大部分、一家族の歴史です。同じことが聖書の大部分、特に旧約聖書の初めの部分についても言えます。それは一つの家族の記録です。しかし、それは普通の家族ではなく、信仰深い(しかし、欠点のある)アブラハムから出た家族です。「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と言われていました(創世18:18)。

残念なことに、ほかの多くの家族と同様、アブラハムとその子孫の家族も決して模範的な家族ではありませんでした。列王記と歴代誌は同じような悲しい記録で満ちてはいますが、そのような絶えざる人間的な暗闇の中にも、時おり神の光が輝いています。列王記においては、その初めの章から、光と闇が共存しています。両方から学んでいきましょう。当時の人々と同様、私たちがこの堕落した世界の闇の中にあっても光なる神に信頼する限り、それらは私たちにとって尊い教訓となります。

「わたしが王になる」

「ハギトの子アドニヤは思い上がって、「わたしが王になる」と言い、戦車と馬と50人の護衛兵をそろえた」(列王上1:5)。

列王記上は王の即位という、イスラエルとユダにおいて長年にわたって続く問題をもって始まります。もともとイスラエルに王はなく、神ご自身が彼らの支配者となられるのでした(士師8:23、サム上12:12)。しかし、ひとたび彼らが王を持つと、すぐに多くの政治的な問題に直面することになります。事実、サムエル記にはイスラエルの最初の王、サウルの怒りから逃れるダビデのことが記されています。ダビデはサウルから王位を脅か(おびや)す政敵と見られました。列王記も同じ問題をもって始まっており、ただ世代が代わっただけのことです。まさに多難な出発でした。

問1

アドニヤはどんな人物でしたか。彼が王になるべきだと考えたのはなぜでしたか(列王上2:22)。彼の反逆的な態度の裏にどんな要因がありましたか(列王上1:6)。

アドニヤの言葉に注意してください。「わたしが王になる」(5節)。おもしろいことに、この言葉は特権を持ったもう一人の聖書の人物、ルシファーの言葉とよく似ています。「わたしは天に上り(のぼ)/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し/雲の頂に(いただき)登って/いと高き者のようになろう」(イザ14:13、14)。アドニヤはルシファーを堕落と反逆に導いた同じ自己賞揚の態度、最高位願望の態度を表しています。列王記上1:7~10には、ルシファーが天で反逆したときのように、アドニヤが王位を手に入れるために行った画策が記されています(『各時代の大争闘』下巻231、232ページ参照)。

赦された罪

「ナタンはソロモンの母バト・シェバに言った。『お聞きになってはいませんか。我らの主君、ダビデの知らないうちに、ハギトの子アドニヤが王となったということを』」(列王上1:11)。

バト・シェバとその子に対する陰謀(いんぼう)をバト・シェバに明かしたのは預言者ナタンで、何年も前にダビデとバト・シェバの罪を責め、暴露(ばくろ)した同じ預言者でした(サム下11、12章)。そのナタンが今、ダビデとバト・シェバに味方しています。バト・シェバについては詳しい記述はありませんが、彼女も罪を犯したことには変わりありません。

問2

ヨセフ(創世39章)、ダニエル(ダニ6章)などの他に、政治的権力による脅しに屈しなかった人物を聖書から挙げてください。

ダビデとバト・シェバは罪を犯したにもかかわらず赦されました。赦されたのなら、私たちは完全に赦されているのです。赦されるための唯一の方法であるキリストの義を受け入れた人たちは、キリストの完全、つまりキリストが地上生涯において達成された完全によって覆わ(おお)れているのです。キリストを自分の義として受け入れた人たちのうちに、神はもはや罪も汚れも欠点もごらんになりません。神がごらんになるのはイエスの神聖さと清さだけです。部分的な赦しというものはありません。キリストの完全な神聖さの衣で覆われるか、自分自身の恥ずべき裸のままで立つかのどちらかです。赦されるとき、私たちの罪を神は忘れてくださるのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」(ヘブ8:12)。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」(同10:17)。

預言者ナタンがダビデとバト・シェバの恐るべき過去にもかかわらず、二人に味方することができたのはそのためです。

赦された罪の報い

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮ら(あなど)れることはありません。人は、自分の蒔(ま)いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラ6:7)。

その男は何年にもわたって自分の子どもを虐待してきました。ある晩、彼は奇跡的な回心を経験します。彼は魂の奥底から悔い改め、罪を告白し、涙ながらにイエスに赦しを求めました。

もしその悔い改めが本物なら、彼は赦されるでしょうか。もし「赦される」というなら、この児童虐待者、前の日に自分の子どもに暴力を加えたかもしれないこの父親が、キリストにあって完全であるということになるのです。この男の憎むべき罪がキリストの血によって赦されて、男は今イエスの完全な義の衣をまとって立っているということになります(ロマ3:22)。それでいいのでしょうか。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれ」るのでしょうか(ロマ5:20)。罪人のかしらに対する赦しでしょうか(Iテモ1:15)。「キリストは不信心な者のために死んでくださった」のでしょうか(ロマ5:6)。

罪にはもう一つの面があります。確かに、神はキリストを通して私たちの罪を赦してくださると約束してくださいました(エフェ1:7、コロ1:14)。ダビデとバト・シェバの生涯はこの約束の典型的な例です。罪が赦されたとしても、神はそれらの罪の直接的、間接的な結果まで免除するとは約束しておられません。

この父親は直ちにその非道な罪に対する法的な結果を免れることができましたが、それらの行為の結果を免れることはそれほど簡単ではありませんでした。それは一晩の懺悔(ざんげ)の涙ではぬぐい去ることのできないものでした。虐待を受けた少女は大人になってからも感情的な傷がいえず、何年にもわたってアルコール中毒、うつ病、麻薬中毒に苦しみました。そのため、結婚に2度失敗し、4人の子どもたちも母親の感情的な傷のために高価な代償を払うことになります。すべては過去においてすでに赦されたはずの父の罪の結果でした。

暴露された陰謀(列王上1:11~27)

預言者ナタンはバト・シェバのもとに行き、アドニヤの政治的陰謀と策略について警告します。

問3

もしアドニヤが王になるなら、バト・シェバとソロモンの身に何が起こるとナタンは言いましたか。それはなぜですか。

ナタンは、もしアドニヤが王位につけば、バト・シェバとソロモンの命が危うくなると確信しました。おそらく、ダビデに対するサウルの態度を思い出し、周辺諸国に及ぼす影響について考えたのでしょう。いずれにせよ、まだ2人の王しか持ったことのないイスラエルの歴史の初めの段階において、ナタンは権力争いに明け暮れる者たちを待ち受ける危険に気づいていました。このようなことが世界にまことの神を証しすべき神の民の中で起こっているのでした(申命4:5~8参照)。世の腐敗がこれほど早くヘブライ民族にまで浸透しようとは!地上の王を持つことを神が望まれなかったのも当然です。

問4

ダビデはバト・シェバに、息子ソロモンが王位を継ぐと約束していました。ダビデがそのように約束したのはなぜですか。

ダビデは「ソロモンに言った。『わたしの子よ、わたしはわたしの神、主の御名のために神殿を築く志を抱いていた。ところが主の言葉がわたしに臨んで、こう告げた。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える」』」(歴代上22:7~9)。ダビデはアドニヤを阻止することが神の命令であると感じました。彼はただ神の言葉に従っていたのです。

くじかれた陰謀(列王上1:28~53)

列王記上1:29、30を読みましょう。バト・シェバを呼んで、ダビデはソロモンを次の王にすることを伝えています。

急ぎ、またいくらかの不安をもって、ダビデはソロモンを自分の後継者に指名します。町は喜びで沸き立ちました(39、40節)。ダビデはこの出来事からある程度の個人的な恵みを受けることができました。「イスラエルの神、主はたたえられますように。主は今日わたしの王座につく者を与えてくださり、わたしはそれをこの目で見ている」(列王上1:48)。ダビデは、神がずっと前に与えてくださった約束が実現するのを自分の目で見ました。彼はそのことを主の恵みの新たなしるしと感じたことでしょう。

一方、アドニヤは「わたしが王になる」(列王上1:5)と宣言して、ソロモンから、またまだ生きていて王であったダビデから王位を奪おうとしました。それは、もはやライバル同士の権力争いではなく、明らかにクーデター、革命でした。王の家臣の中にも彼を支持する人たちがいました(9節参照)。

計画が失敗してソロモンが王位につくと、アドニヤは恐怖に満たされました。彼が「祭壇の角をつか」むことによって(列王上1:50、51)、聖域に逃げ込み、保護を求めました。ソロモンは自分を抹殺するのに何のためらいも感じなかった男を死刑にすることもできたのに、代わりに自分の罪を償う(つぐな)機会を与えたのでした。

「ソロモンは言った。『彼が潔く(いさぎよ)ふるまえば髪の毛一筋さえ地に落ちることはない。しかし、彼に悪が見つかれば死なねばならない。』ソロモン王は人を遣(つか)わしてアドニヤを祭壇から下ろさせた。アドニヤがソロモン王の前に出てひれ伏すと、ソロモン王は、『家に帰るがよい』と言った」(52、53節)。

まとめ

「列王記上・下は、ダビデの死とソロモンの統治からイスラエルとユダ王国の最終的な滅亡に至るまでのヘブライ民族の支配者の歴史を記している。しかし、その第一の目的は歴史のために歴史の事実を記述することにあるのではない。なるほど歴史が記されてはいるが、そこには一つの目的がある。それは、へブライ民族の経験が神の計画・目的とどのような関係にあるかを明らかにすることである。その目的は、ありのままの歴史的事実に関する詳細な年代記を記すことよりも、むしろ歴史の教訓について記すことにあった。これらの書の編纂(へんさん)者は深い宗教的動機と非常に実際的な目的を持っていた。イスラエルの子らは神の民であって、その務めは神の目的を遂行し、地上において天国の原則を実践することにあった。正義が国家の繁栄の基礎とならねばならなかった。罪の行き着く先はただ滅びである。もし神から与えられた使命に忠実であるなら、イスラエルの力と偉大さは増大するのであった。もし王と支配者が神の目的に従わなければ、イスラエル民族は滅びるのであった。彼らは正義と神なくしては存在することができなかった」(『SDA聖書注解』第2巻717ページ、「主題」の項)。

ミニガイド

【悲劇の始まり】

青年ダビデは美しく、勇敢な人生のスタートを切りましたが、中年になって大きな過ちを犯しました。利己心から愛する部下を殺害し、その妻を謀略に(ぼうりゃく)よって奪いました。これが生涯最大の汚点となりました。預言者に罪を指摘された彼は深く悔い改めましたが、「剣は(つるぎ)とこしえにあなたの家から去らないであろう」(サム下12:10)との恐ろしい宣告を受けました。ダビデの家庭はひどい分裂状態で、争いが絶えず、家庭内殺人が起こりました。娘タマルは兄アムノンに辱め(はずかし)られ、アムノンは異母兄弟アブシャロムに殺害され、このアブシャロムは父ダビデの王位を奪おうと反逆して悲劇的な死を遂げました。ダビデの光輝ある治世はその晩年に暗黒と思い煩い(わずら)が彼を襲いました。妻の名前が8人、腹違いの息子たち兄弟だけでも17人が聖書に記録されています。娘たちも入れればこうした家族関係が複雑な家庭にしてしまったことは間違いありません。

【骨肉の争い】

バト・シェバから生まれたソロモンは王位継承の系列になかったのですが、ダビデの第4子アドニヤは王位継承の候補者だったのでしょう(2:15、22)。アムノン、アブシャロムらは死んでいたと思われます。アドニヤの支持者はダビデの完全犯罪の裏話を知っている軍司令官ヨアブ、祭司のアビアタルです。これに対して預言者ナタン、祭司ツァドク、親衛隊長ベナヤはバト・シェバと謀(はか)って老王ダビデからソロモン即位の承諾を得る……という王位争いの内紛を起こしました。アドニヤについては列王記上1:6に「体格も堂々としていた」(新共同訳)、「姿のよい人」(口語訳)とあり、英文では“avery goodly man”と表現しています。セブンスデー・アドベンチスト・バイブルコメンタリーは、「彼はハンサムで魅力的、民衆の人気があったが、外見の美しさは指導者としての不可欠な資格ではない。優れた心こそ最重要」とコメントしています。他の注解書も彼を「単純で思慮浅く、人におだてられてすぐに乗り、信念を持たず、容易に動く人物」と述べています。

*本記事は、安息日学校ガイド2002年3期『列王記と歴代誌ー反逆と改革』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
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