この記事のテーマ
【分裂】
「ソロモンの死後、彼の王国は南のユダと北のイスラエルに分裂しました。強力で統一された帝国のように見えた国が二つに分裂したのです。原因はソロモン自身の統治にありました。彼の王国の外面的な華々しさ、すなわち豪華な王宮の儀式、強大な新しい要塞(ようさい)、強力な軍隊、外国との大規模な通商などのいずれも、ソロモンが死ぬ紀元前931年頃までに彼の王国にひどい亀裂が生じていた事実を隠すことはできませんでした」(ジークフリート・H・ホーン「分裂した王国―ユダとイスラエル」『古代イスラエル』第5章109ページ、1988年)。
王国の分裂
思想は結果をもたらします。罪もまた、特にソロモンのように大きな特権と責任を持つ人の場合には、結果をもたらします。彼が晩年に悔い改めたことはもちろん喜ばしいことです。それでも彼の王国の運命は変わりませんでした。災いが降りました。
問1
列王記上11:33を読んでください。そこにはイスラエルが拝んだ偽りの神々が記されています。イスラエルはそれらをだれから学んだのでしょうか。
聖句そのものに答えが示されています。彼らは周辺の国々からそれらを学んだのです。これこそ世間にはびこる文化がどのように影響を及ぼし、真の宗教そのものを滅ぼすのかを明確に教える否定しがたい証しです。
これらの神々をヘブライ人の礼拝に取り入れようとした人たちの理論的根拠はたぶん次のようなものだったでしょう。私たちは進歩的でなければならない。時代に遅れてはならない。進んだ信仰を持たなければならない。時代は変わりつつある。狭量であってはならない。自分たちだけが真理を持っていると考えるのはいかがなものか。人々を導くためには、できるだけ彼らに近づかなければならない。
問2
あなたは上記のような考えについてどう思いますか。特にこうした考え方にある程度の真理を含む場合にはどのように対応したらよいでしょうか。
旧守派と進歩派、またはリベラルな自由主義思想と保守的などという分け方に問題はないでしょうか。それぞれにどのような利点があり、問題点があるでしょうか。
レハブアムに対する反逆(列王上12:1~24、歴代下10章参照)
ソロモンの死後、息子のレハブアムが代わって統治します。レハブアムはアンモン人の妻によるソロモンの子でした。王になったとき、彼は40歳ほどで、王国の内政に精通していました。彼はソロモンの血を受け継いではいましたが、父の知恵は少しも受け継いでいなかったようです。
列王記上12:1によれば、レハブアムは王となるために北のシケムに行きます。明らかに北の諸部族を従わせるという政治的な目的があったと思われます。しかし、失敗します。
問3
列王記上12:2~14を読んでください。民の不満は何で、彼らは何を要求しましたか。レハブアムは何と答えましたか。
注目したいのは15節です。「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは主の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された」。神がアヒヤに言われたことは、王国が分裂するという預言でした(列王上11:30~36)。それは、レハブアムの尊大さと全くの政治的無神経さのゆえに起こった出来事でした。
問4
この出来事はどのように理解したらよいのでしょうか。主はご自分の目的を実現するために、意図的にレハブアムを頑迷で尊大にされたのでしょうか(出エ14:4、マタ26:24参照)。それとも、すべてをご存じの神はご自分の目的を実現するために、ただ私たちの行動を利用されるだけなのでしょうか。レハブアムは異なった選択をすることができたでしょうか。その場合、預言はどうなりますか。
列王記上12:16~24を読んでください。王国が北のイスラエル(ヤラブアム王)と南のユダ(レハブアム王)に分裂した後、ユダの王レハブアムは軍隊を組織して北に攻め込もうとしますが、主の警告を受け、従います。ここでもまた、「こうなるように計らったのはわたしだ」(24節)という言葉が出てきます。つまりソロモンの罪、民の罪のゆえに、神は王国の分裂を意図されたというのです。
北のヤロブアム(列王上12:25~33)
北の王になるや、ヤロブアムは直ちに自分の地位固めにかかります。彼が最初に取った行動は、自分の民を礼拝のためにエルサレムに行かせないようにすることでした。それを許せば北における自分への忠誠心が弱まることを知っていたからです。
問5
ヤロブアムはどんな方法によって、自分の新しい王国に対する民の忠誠心を強めようとしましたか。列王上12:26~33
ヤロブアムは金の子牛を造り、次のように言いました。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(28節)。この言葉を以前どこかで聞いたことがないでしょうか。そうです、イスラエルの民がエジプトから出た後で金の子牛を拝んだときです(出エ32章参照)。それはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つでした。同じ言葉が今、彼らの礼拝の焦点となります。主がアヒヤを通してヤロブアムに、「わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い」(列王上11:38)と言われたのに、どうしてこのようなことになったのでしょうか。
主が偶像を禁じられたのには理由がありました(出エ20:4、列王上21:26、エレ10:3~5、エゼ14:3~5)。人間の理性は宗教的な偶像と実物をはっきりと区別することが困難です。文字通りの偶像であれ、いわゆる聖人の像であれ、首にかけるお守りであれ、そうです。もしそれに宗教的な意味を付与するなら、それはやがて「神」となります。
ヤロブアムは偽りの礼拝制度を編み出しました。
礼拝の要素 | 神の制度 | ヤロブアムの制度 |
神殿 | 申命12:4、5 | 列王上12:28~30 |
偶像 | 出エ20:4 | 列王上12:28 |
祭司 | 民数3:9~12 | 列王上12:31 |
祭りの時期 | レビ16:29~31 | 列王上12:32 |
分裂国家(列王上14章)
「あなたはこれまでのだれよりも悪を行い、行って自分のために他の神々や、鋳物(いもの)の像を造り、わたしを怒らせ、わたしを後ろに捨て去った」(列王上14:9)。
「ユダの人々は、主の目に悪とされることを行い、その犯した罪により、先祖が行ったすべてのことにまさって主を怒らせた」(列王上14:22)。
列王記上14章の最初の20節を読んでください。わずか数章前で、主は預言者アヒヤを通してヤロブアムがイスラエルの王になると言われたのに(列王上11:29~33、14:2参照)、今、同じ預言者を用いて、主が王国をヤロブアムから引き抜くと言っておられます。
問6
ヤロブアムの家に対してこれほど厳しい刑罰が与えられたのはなぜでしたか(列王上14:7~11)。
悲しいことにヤロブアムの実の兄弟、南のレハブアムも悪を行いました。彼の後を継いだアビヤムもそうでした(列王上15:1~7)。聖書には、ユダがレハブアムの下ですべての先祖にまさって悪いことを行ったと書かれています(列王上14:22)。彼らは偶像礼拝のための多くの高台を築いたばかりでなく(列王上14:23)、周辺諸国のみだらな「忌(い)むべき慣習」(24節)に従いました。主が諸国の民をその地から追い払われたのはそのような慣習のゆえでした。それなのに今、(その地を与えられた)ヘブライ人が彼らと同じことをしていたのです!
問7
申命記18:9~13を読み、イスラエルとユダの周りの民が行っていた忌むべき習慣を列挙してください。
分裂王国
「イスラエルのすべての人々は、王が耳を貸さないのを見て、王に言葉を返した。『ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業は(しぎょう)ない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい。』こうして、イスラエルの人々は自分の天幕に帰って行った」(列王上12:16)。
イスラエルに与えられた約束と祝福を読む限り、この国が二つに分裂して互いに戦う理由など何もないように思われます。イスラエルが分裂することは神の計画ではありませんでした。分裂は民自身の罪の結果でした。その結果、イスラエルはほとんど一夜にして主権の大部分を失いました。ソロモンのもとで一致していたときには、それは強力な国家で、敵対する諸国を支配下に置くことができました。彼らは次のように約束されていました。「主は、あなたに立ち向かう敵を目の前で撃ち破られる。敵は一つの道から攻めて来るが、あなたの前に敗れて七つの道に逃げ去る」(申命28:7)。ところが、ひとたび分裂すると、彼らは一夜にして弱い、二流の小国になりました。異教の敵と戦っていないときには、兄弟、仲間同士で戦っていました(列王上12:24)。
神の明らかなみ言葉から逸れた時、イスラエルは二つの国に分裂し、互いに争い合うようになったのです。本来なら統一戦線によって異教信仰、偶像崇拝に満ちた世界に真理を宣べ伝えるべき大切なときに、神の選民は内部抗争によって弱体化し、簡単に外の敵のえじきとなりました。異教の慣習を取り入れた結果、イスラエル人は敵に対する防壁を失ったのでした。
まとめ
ヤロブアムに対する主の言葉と評価は、国家の興亡と歴史の流れに関して問題を提起します。エレン・ホワイトは次のように記しています。「そこには、国民の力というものは、個人の場合と同じように、不可抗力な機会や文明の利器にあるのではなく、また彼らが誇るその強大さにあるのでもないことが示されている。国民の力というものは、彼らが神の御目的を成就する誠実さによって測られるのである」(『教育』207ページ)。
ミニガイド
サウル40年(使徒13:21)、ダビデ40年(サム下5:4)、ソロモン(列王上11:42)と続いた統一王国は前931年に南北に分裂しました。
北王国イスラエルは(931~721)北方10部族をもって構成し、19人の王が立ちましたが、それらの王たちすべてがヤロブアムの取り入れた“金の子牛礼拝”をしました。オムリがサマリアを首都とするまで政治的中心はなく、クーデター、暗殺が頻発して、王朝は何度も倒れ、政情不安が続き、最後の25年間には6人もの王がめまぐるしく即位したものの、ついに凶暴なアッシリアの軍事力に倒れました。
北とは対照的に南王国ユダは(931~586)ユダとベニヤミンの2部族連合で、450年にわたってダビデ王朝での世襲が存続しました。たしかに偶像礼拝の傾向はありましたが、20人の王の中にアサ、ヨシャファト、ヒゼキヤ、ヨシヤなどの善王がときどき現れては宗教改革を断行し、偶像を排除してヤハウエ礼拝を復興するなどの動きもあり、命脈は伸びましたが、堕落への道は帰すべくもなく、605年、597年、586年と3度にわたりバビロンの攻撃に会い、ついに滅亡しました。
イエスはまさしく“ダビデの子”で、南王朝の血筋を受け継いでいる“王の身分保持者”でした。メシアが何度も王朝の代わった北王国の子孫でなかったのは注目すべきことです。
レハブアムは父ソロモンの行政に倣って強制労働によって民衆を圧迫し、かつてソロモンの強制労働監督者であったヤロブアムの反逆を招きました。彼が北部10民族を結集してレハブアムに反旗を翻し、結果として王国分裂を招きました。レハブアムの治世は失敗で、領土の3分の2は失われ、ソロモンが蓄えた財宝の大半もエジプト王シショクへの貢物となって消えていったと思われます。
分裂は力を弱めます。国が、教会が、自分たちの家庭が分裂したら対外的にも、内部的にも大きな打撃をこうむり、迫力を失い、結束が乱れて霊性は急速に落ち込むでしょう。SDA教会として、また自分の属する教会はどんな理由があるにせよ、分裂は回避しなければなりません。ヤン・ポールセン世界総会総理の年頭の祈りも“多様性の中の一致”でした。一致こそ祈るべき課題です。地球規模に広がったSDA教会は文化、国情、人種などの背景のゆえに考えや判断に差が感じられます。
*本記事は、安息日学校ガイド2002年3期『列王記と歴代誌ー反逆と改革』からの抜粋です。