【列王記・歴代誌】アサ家の台頭ー反逆と改革【解説】#5

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【善良な王アサ】

初めにレハブアムが、次にアビヤムが統治します。悪い指導者は今日に始まった問題ではありません。次にアサが登場します。やっとのことでユダ王国はまともな王を得たことになります。アサが即位した頃のユダ王国の宗教的状況は、イスラエルほどではありませんでしたが、それでも早急な改革を必要としていました。アサはそれを実行したのでした。

今回はよい面、悪い面を含めてアサの統治について学びます。アサが行った改革、たとえば偽りの礼拝や思想を改めたこと、真理を回復したことなどを中心に学びます。これは今日も守るべき大事な原則です。

今回の研究ではダビデと他の王たちを比較してみましょう。時に信仰の欠如を現しながらも神はアサ王をご用のためにお用いになりました。彼がしたいと意図したことを神は評価されたのでした。

「父祖ダビデの……ように」1(列王上15:1~8、歴代下13章)

レハブアムの死後、その子アビヤムが父に代わって統治します。アビヤムもまた父と同じく悪い王でした。「彼もまた父がさきに犯したすべての罪を犯し」たからです(列王上15:3)。さらに、王の心が「父祖ダビデの心のように」(列王上15:3)神に忠実でなかったと書かれています。

問1

これらの聖句は長年にわたって多くの聖書注解者を悩ませてきたものです。列王記上11:4には、ソロモンの心が「父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」と書かれています。しかし、歴代誌下34:2には、ヨシヤ王に関連して、「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道を歩み、右にも左にもそれなかった」とあります。(ウリヤに対する恐るべき罪のほかにも)数々の過ちを犯したダビデに関して、「主と一つ」〔英語欽定訳では「完全」〕(列王上15:3)、あるいは「主の目にかなう正しいことを行い……」(5節)と書かれているのはなぜでしょうか。次の聖句に基づいて考えてください。サム上16:7、列王上8:61、歴代上12:39(口語訳12:38)、歴代下16:9、詩101:2

アビヤムが悪を行ったのは彼の心が神と正しい関係になかったためです。神に対する私たちの心の状態は必ずその行いに反映されます。もちろん、ダビデのように心の正しい人でも罪を犯すことがあります。心が神と正しい関係にあるとは罪を清算した神との平和の状態です。それは悔い改める心、罪を告白し、神の憐れみと恵みを求め、従う心です。

「父祖ダビデの……ように」2(列王上15:3)

18世紀のヨーロッパは知的動乱の時代で、知識において大きな革命を経験しました。それまでは人々の知っていることといえば、過去の資料や権威によって与えられたものだけでした。ところが今、知識は科学と理性、経験、自然の事実から知りうる事柄に基づいたものとなりました。多くの人々にとって、論理的に考え出すことのできるもの、自然と科学から知りうる事柄だけが真理となりました。それ以外のものはすべて神話、あるいは“不可知”なものとされたのです。

このような傾向を憂慮したフランスのユグノー教徒ピエール・ベールは、理性の限界を明らかにすることによって、また信仰が理性を超えたものであることを強調することによって、この流れを阻止しようとしました。彼はダビデ王の物語を取り上げて、次のように言いました。「ダビデ王はうそつき、姦通者、殺人者、詐欺師だったが、主は彼について次のように言われた。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした』(使徒13:22)。なぜそのようなことが可能なのか」。ベールの答えは簡単でした。「それが人間の理性を超えたもの、つまり神の恵みによるからである」。

ところがそれから1世紀もしないうちに、啓蒙思想家ヴォルテールがダビデについてのベールの言葉をそのまま引用し、信仰に対する攻撃として用いました。ヴォルテールは言いました。「ダビデ王はうそつき、姦通者、殺人者、詐欺師だったが、主は彼について次のように言われた。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適うもの、ダビデを見いだした』(使13:22)。なぜそのようなことが可能なのか」。ヴォルテールの答えも簡単でした。「そのようなことはありえない。なぜなら、そのようなことは不合理かつ不条理であるからだ。人殺し、うそつき、詐欺師は神の御心に適うはずがない」。

十字架上のイエスの死は人間の理性をはるかに超越した事実です。パウロはこれを「福音の神秘」(エフェ6:19)と言いました。神がダビデや私たちのようなうそつき、姦通者、殺人者、詐欺師を受け入れてくださるとは不可解、神秘なことです。(イザ55:8、9、エフェソ1:6~9、フィリピ2:5~8を読んでください)

エルサレムにおけるアサ(歴代下14、15章)

「オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。彼はアサの前に進み出て言った。『アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる』」(歴代下15:1、2)。

ユダにおけるアビヤムの短い、不幸な統治(前913~911)の後で、子のアサが彼に代わって統治します。アサはエルサレムで41年間統治しました。それは大いなる復興と改革の時代でした(列王上15:10)。歴代誌下15:2には、従うときには祝福が、背くときには悩みが来るというテーマが述べられています。これは聖書に繰り返し出てくるテーマです。

問2

列王記上3:14、9:4~6、11:38を読み、歴代誌下15:1、2と比較してください。両者の思想にどんな共通点がありますか。神に従うことと神を求めることとの間にはどんな関係がありますか。

歴代誌下15:3~7を読んでください。イスラエルには「まことの神」もなく、「教える祭司」もなく、「律法」もありませんでした(3節)。民に「平安」はなく、この地のすべての住民は戦争を含む「甚だ(はなは)しい騒乱」に苦しんでいました(5節)。ユダ王国は苦悩の中で主を求めたので、主は「彼らに御自分を示して」くださいました(4節)。

これはよく繰り返される原則です。私たちは不従順のゆえに自分自身に苦しみを招き、その苦しみの中から主を求めます。もちろん、信仰と悔い改めをもって主に立ち帰るなら、主は決して私たちを拒まれません。しかし、もし私たちが教会として、また個人として、初めから忠実であり続けることができるなら、途中で経験したであろう苦しみを避けることができます。

アサの改革(列王上15:9~15、歴代下15:8~17)

アサの年表はよくわかっていませんが、彼は若くして王位に就いたようです。それは皇太后マアカの影響によると思われます。

アサはその統治の初めの15年間に、ユダにヤハウエ礼拝を回復する運動を始めました。彼は神殿男娼の慣習を廃し、すべての偶像を取り除き(列王上15:12)、自分の母(祖母)をその過ちのゆえに皇太后の位から退け(列王上15:13)、主の祭壇を新しくしました(歴代下15:8)。しかしながら、こうした外面的な行いはすべて、もし民の心が主と正しい関係になかったなら、あるいは主に対して「完全」でなかったなら何の意味も持たなかったでしょう。アサが行ったことの中でも、とりわけ歴代誌下15:9~15に記されたことが重要なのはそのためです。

問3

歴代誌下15:9~15を注意深く読んでください。アサは何をしようとしていたのでしょうか。その結果はどれほどの範囲に広がっていったのでしょうか。

イスラエルの霊的状態が急速に低下していったとき、アサは南王国の王位に就きました。彼は神に頼りつつも国の防衛に心を用い、町、城壁、砦を(とりで)固めて外敵の攻撃に備えました。果たしてエチオピヤからゼラが百万の大軍を率いてユダに迫りましたが、アサは「わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたはわたしたちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません」(歴代下14:10)と祈ります。王は自分の力を尽くして敵への準備をすると同時に、その力さえも神のみ前に頼りないものと理解して依存する信仰を表明しました。よき指導者アサのおかげでユダは外敵の圧迫から守られ、充分に指導者としての任務を果たしました。

国に、教会に、学校に、企業に責任を負わされている人たちがいます。彼らの役割は非常に重大で、企業、組織、国家だけでなく、多くの家庭、家族を守り、個人の幸福さえ左右する責任が指導者たちの上にかかっています。信仰的で、しかも賢明な判断、実行力を持つ指導者に出会うことはまことに幸せなことです。

アサの失敗(歴代下16章)

「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き……」(歴代下14:1、2)。

「アサの心はその生涯を通じて主と一つであった」(歴代下15:17)。

アサは主に忠実な者として描かれていますが、サタンによって吹き込まれた弱さを表します。先の戦いにおいて主に信頼していたアサですが(歴代下14:9~13参照)、イスラエルの王バシャがユダに攻め上って来たとき(歴代下16章)、主に頼らないで異教の王であるシリアのベン・ハダトと同盟を結んでしまいます。そのことを預言者ハナニから叱責されたとき(歴代下16:7、8)、アサは叱責を素直に受け入れる代わりに、先の邪悪な王たちと同じように振舞います。

問4

「その生涯を通じて」(歴代下15:17)忠実であったといわれるアサ王は、預言者の叱責に対してどんな態度を取りましたか。歴代誌下16:10を読んでください。アサの行為がもたらしたその他の結果を調べてみましょう。歴代下16:9

アサが晩年に重病になったとき、主を求めないで人に頼りました(歴代下16:12)。アサが信仰を捨てたように見えるときにも、主が彼を忠実な者と呼んでおられるのはなぜでしょうか。次の聖句がヒントを与えてくれます。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く」(歴代下16:9)。主は「この事について、あなたは愚かだった」と言っておられます。つまり、アサは基本的には生涯を通じて主に忠実であったが、この時だけは愚かであったと言われるのです。アサは愚行をもって不幸な結果を招きましたが、それでも主に忠実な者と見なされています。

まとめ

アサ(その1)

「エチオピヤびとゼラが……攻めて来たときに、アサの信仰ははげしく試みられた。アサは、こうした危機において、彼が建てた……ユダの『要害の町』や、訓練された彼の軍勢の『大勇士』たちにも頼らなかった(歴代下14:6~8)。……アサは、彼の軍隊を戦闘体勢にしておいて、神の助けを仰いだのである。……

しかし、アサは、平和の時に……どんな緊急事態にも対処できるように準備していたのである。彼は戦闘の準備のできた軍隊をもっていた。彼は国民に神との平和を結ばせるように努力したのであった。そして、今、……彼が信頼した神に対する信仰は少しも衰えなかった」(『国と指導者』上巻81、82ページ)。

アサ(その2)

「アサは先見者のこの言葉を聞いて怒り、彼を獄に投じた。この事で彼に対して激しく怒ったからである。またアサはそのとき、民の中のある者たちを虐待した。

アサはその治世第39年に足の病にかかり、その病は極めて重かった。その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った」(歴代下16:10、12)。

ミニガイド

アサ王(911~869)はユダ王国第3代の王で、その統治は41年に及び、イスラエルではこの間に7人の王が交代しています。

【宗教性】彼は宗教的善王で、民の間に浸透していた悪い習慣や礼拝を改め、宗教改革を広めました。また全国に広まっていたソドムの罪といわれる神殿男娼を廃止しました。アブシャロムの娘で女王的地位にあった母(実際は祖母)マアカさえもアシェラ像を造ったかどで追放しています。

統治の15年目、アサは預言者アザルヤの助けを得てリバイバルを起こしました。神殿の祭壇を築き、神との契約を新たにして信仰心を燃やすように働きかけました(15:1~15)。

【行政面】分裂から36年目、イスラエル王バシャがベニヤミンの地に侵入し、ラマに砦を(とりで)築いてエルサレムからの北方道路を閉ざすようにしました。彼はバシャに対抗できないと判断してダマスコのベン・ハダド1世に貢物を贈ってイスラエル攻撃を願いました。その結果、バシャはラマから軍隊を引き上げて撤退、事なきを得たのです。

アサが外国の力に頼ったことは神の不興をかい、主から送られた預言者ハナニの忠告を拒否、預言者を牢に閉じ込めます。治世の末期は足の病気にかかり、不幸な晩年を過ごしましたが、おそらく息子ヨシャファトと共同統治を行い、実権を渡したと思われます。

【人をどう見、どう判断するか】

聖書の記述は限られています。アサについては他王より多く書かれていますが、すべてが記録されているわけではなく、ハイポイントとなる出来事が記されているに過ぎません。先に“アサは善王”と書きましたが、充分な資料もないまま、私たちが陥りやすい「いいか、悪いか」を判定するのは無理というものです。聖書は私たちのための教訓として記録が残されています。アサのした改革部分から学ぶことがあり、アサの誤った判断と思われる出来事から私たちは学ぶ……、聖書の研究はこの点にあります。アサはたしかに宗教改革を行いました。しかし「聖なる高台は取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった」(列王上15:14)とあります。アサについての聖書の評価です。「歴史が裁く」という語がありますが、あとでわかることが多くあります。「今」を謙虚に、誠実に生きることの必要を私たちに教えています。

*本記事は、安息日学校ガイド2002年3期『列王記と歴代誌ー反逆と改革』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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