この記事のテーマ
今回の研究の主な目的は、歴史、文学、考古学がテサロニケについて何と教えているかを知ることにあります。
この資料が重要なのは二つの理由によります。第一に、それは当時の聴衆・読者がパウロをどのように理解していたかを知る助けになります。それによって、パウロが書いた事柄の意味について、またそれが当時の教会と社会に及ぼした影響を知ることができます。
第二に、テサロニケ人の考え方や信仰について知れば知るほど、パウロの応答の内容をよく理解することができます。福音を宣べ伝えるためには、パウロは誤った考えを正す必要があったはずです。したがって、今回の研究は直接、聖書に関連したものではありませんが、今期、『テサロニケの信徒への手紙I、II』の聖句を理解するための背景を与えてくれるものです。
ローマ人がテサロニケに入る
問1
ヨハネ11:48~50を読んでください。ローマ人が1世紀のパレスチナとエルサレムに入ったことによって、イエスの働きに関する政治的、宗教的決定はどのような影響を受けましたか。ここに述べられている論理について考えてください。どんな驚くべき意味で、それは一理あるものでしたか。
テサロニケ人は紀元前168年頃、ギリシアの都市国家間の内戦を背景として、ローマ人に自分たちの都市を接収して、周辺の敵から守ってくれるように要請しました。テサロニケが内戦において「正しい側」についた見返りとして、ローマ人はこの町に広範囲の自治権を与えました。テサロニケはローマ帝国内の自由都市となり、大部分の内部的な問題と方針を決定することができるようになりました。その結果、町の裕福で、権力のある階層はほぼこれまで通りの生活を続けることができました。したがって、彼らはパウロの時代にはローマびいき、皇帝びいきでした。しかし、一般の人々、特に労働者階級にとっては、生活は必ずしも楽ではありませんでした。
ローマ人によるテサロニケ支配には、三つの否定的な側面がありました。第一に、ローマ人が来たことによって、経済的な混乱が生じました。戦争と政治の変化によって、地方や地域における市場が崩壊しました。こうした崩壊は富裕層よりも、貧困層に、より深刻な打撃を与えました。その後、こうした否定的な側面はいくぶん緩和されます。
第二に、テサロニケは多方面において自治権を与えられていたとはいえ、なお政治的な無力感がありました。地方の指導者の中には、テサロニケよりもずっと遠くの都市(ローマ)に忠実なよそ者と交替させられた者もいました。どれほど恩恵があったとしても、外国による占領はいつまでも好意的に受け止められるものではありません。
第三に、占領につきものの植民地に対する搾取がありました。ローマ人は一定の貢ぎ物を要求しました。一定の割合の穀物や鉱物、地方の産物が吸い取られ、帝国のより大きな必要を支えるためにローマに送られました。
そのようなわけで、テサロニケは、たとえばエルサレムよりもずっと恵まれた状況にあったとはいえ、ローマによる占領は必然的に地方の共同体の中に少なからぬ不満を生み出していました。テサロニケでは、こうした不満は貧しい労働者階級にとって特に厳しいものがありました。年月の経過と共に、これらのテサロニケ人の不満はますます強まり、状況に変化を求めるようになりました。
ローマに対する異教徒の応答
多くのテサロニケ人が感じていたように、異教徒が自分たちの無力感に対してとった応答は、学者が「カビルス崇拝」と呼ぶ一種の霊的な運動でした。この宗派は、特権を奪われた人たちを擁護し、後に自分の二人の兄弟によって殺害されたカビルスという名の人物から出ていました。彼は忠誠の象徴と共に埋葬され、この宗派によって殉教した英雄として扱われるようになりました。
下層階級の人々は、カビルスが生きていたとき奇跡的な能力を発揮したと信じていました。彼らはまた、カビルスがしばしば人知れずよみがえって人々を助け、再び来て下層階級の人々に正義をもたらし、町を昔の独立と栄光に回復すると信じていました。カビルス崇拝は抑圧された人々に聖書の希望にも似た希望を与えたのでした。
カビルス礼拝が彼の殉教を記念する血の犠牲を含んでいたことを知るとき、このことはいっそう興味深いものとなります。パウロを思い出させるかのように、テサロニケ人は「彼の血にあずかる」と言っていました。こうした方法を通して、彼らは罪悪感から解放され、階級差別を捨て去りました。カビルス崇拝においては、社会のすべての階級が平等に扱われていました。
しかし、もう一つの力が働いていました。アウグストゥスの時代に皇帝崇拝が起こったとき、ローマ人はカビルスがすでにカエサルにおいて臨んだのであると宣言しました。言い換えるなら、既存の権威が抑圧された人々の希望を取り込んでしまったのでした。その結果、テサロニケの霊的生活はもはや労働者階級に安らぎを与えることがなくなりました。庶民から有意義な宗教が奪われました。皇帝崇拝の存在はまた、もし本物のカビルスに似た人物がこの町に来るなら、彼は直ちに体制を脅かす存在となることを意味しました。
カビルス崇拝に対するローマの応答は人々の心に霊的な空白をもたらしました。それは福音だけが満たすことのできる空白でした。テサロニケ人がカビルスに寄せていた希望と夢を実現することができるのはキリストでした。福音は現在における内なる平和を、そして再臨において、現在の経済的、政治的現実の最終的な逆転をもたらしました。
接点としての福音
昨日の研究に照らして考えるなら、福音がテサロニケに伝えられたとき、町の多くの非ユダヤ人が積極的に応答した理由を理解することはそれほど困難ではありません。パウロは町に入る前からカビルス崇拝について知っていたかどうかはわかりませんが、パウロが会堂でメシアについて説いたことは、地元の異教徒たちが抱いていた独特の霊的憧れに共鳴するものでした。
福音がテサロニケに伝えられたとき、町の労働者階級はそれを受け入れる用意ができていて、大勢が応答しました。彼らはまた、極端な福音の解釈を受け入れる用意ができていました。カビルス崇拝は人々の心に権威に反対する精神を植えつけていました。それは、パウロが彼らに宛てた2通の手紙の中で戒めている無秩序な振る舞いの遠因となっているかもしれません(Iテサ4:11、12、5:14、IIテサ3:6、7、11参照)。
問2
コリントIの9:19~27を読んでください。パウロはここで、どのような根本的な伝道戦略について述べていますか。この方法には、どのような危険が待ち受けていますか。どうしたら、これらの聖句に示されている二つの原則の調和を保つことができますか。
福音は聴衆の必要と希望、夢に訴えるときに最大の効果を持ちます。福音の橋渡しをするのは聖霊ですが、これはふつう、証しをする人たちが相手の話に耳を傾け、祈りを実践する結果として実現します。経験が教えているように、人々は変化を経験するときに最もアドベンチストのメッセージに対して心を開きます。変化は人々の心を新しい思想に対して開かせるものですが、その中には、経済的な混乱、政治的な争い、戦争、結婚、離婚、移転、健康問題、死などがあります。テサロニケ人は相当な変化と混乱を経験していたので、それが福音を受け入れる助けとなりました。
しかし、混乱期にバプテスマを受けた人々は、少なくとも初めのうちは不安定なところがあります。たいていの背信は回心後、数か月のうちに起きています。テサロニケへの手紙は、パウロの最初の訪問後、何か月かの間、教会にかなりの混乱があったことについて証言しています。
「路傍説教者」パウロ
1世紀のギリシア・ローマ世界では、人気のある哲学者たちが公の討論会において個人や集団を教化することが盛んに行われていました。
これらの哲学者たちは、人間には自分の生き方を変える内なる能力が備わっていると信じていました(一種の回心)。彼らは公の説教や個人的な会話によって、自分たちの生徒を変えようとしました。彼らは聴衆の心に現在の思想や慣例に対する疑いの念を抱かせようとしました。このような方法によって、聴衆は新しい思想や変化に心を開くようになるのでした。最終的な目標は彼らのうちに自立心と道徳的な成長をもたらすことにありました。そのような人気のある哲学者たちに期待されていたことは、まず自分自身の内なる生活に道徳的な自由を得ることによって語る権利を獲得することでした。「医者よ、自分自身を治せ」というのが、古代世界におけるよく知られた考え方でした[ルカ4:23参照]。これらの哲学者たちはまた、自分たちの教えを多様な人々の考えに合うように改める必要性について、さらには教師の品性と教えの健全さを保つことの重要性を認めていました。このように、これらの人気のある教師たちと、やはり各地を旅し、公の場で伝道したパウロの働きとの間には(使徒17:17、19:9、10)、多くの共通点がありました。
しかしながら、パウロの方法とこれらの人気のある哲学者たちの方法との間には、二つの重要な違いがありました。第一に、パウロは公の場で働くと同時に、永続的な共同体を組織しようとしました。これは、ある程度の「世」からの分離、感情的な絆、それに集団への深い献身を要求します。第二に、パウロによれば、回心は賢明な説教によってもたらされる内なる決断ではなく、むしろ人間の外から来る、神の超自然的な働きでした(ガラ4:19、ヨハ3:3~8、フィリ1:6参照)。パウロの教えは単なる哲学以上のもの、つまり真理の布告、人類の救いのためになされた神の力ある働きの啓示でした。
一方、人気のある哲学者たちは安易なやり方で生計を立てていました。多くの者は強引なセールスマン以外の何ものでもありませんでした。中には、自分の聴衆を性的に搾取している者たちもいました。正直な教師も中にはいましたが、巡回説教者に関する多くの皮肉な言葉が当時の世界に残されていました。
パウロは聴衆からの援助を断ることによってこうした皮肉を避け、その代わりに自活するために厳しい肉体労働に従事しました。彼の数々の苦しみに加えて、このことは、彼が自分の説くことを心から信じていること、また彼が個人的な利得のためにそうしているのではないことを証ししていました。多くの意味で、彼の生き方は、彼が説くことのできる最も力強い説教でした。
家の教会
問3
ローマ16:5、Iコリント16:19、コロサイ4:15、フィレモン1、2を読んでください。これらの聖句はどんな共通点を持っていますか。
ローマ世界においては、大きく分けて2種類の住まいがありました。一つは“ドマス”で、これは、大きな、一つの家族用の、中庭の周囲に建てられた家で、主として裕福な人のためのものでした。そのような家は30人~100人のための集会所を提供することができました。もう一つの種類の住まいは“インスラ”で、通りに面した1階は商店や職場、上の2階はアパートになっていました。これは労働者階級のための基本的な都市部の住まいでした。これらのアパートや職場はふつう、小規模の教会としてしか用いられませんでした。
“ドマス”および多くの“インスラ”は拡張家族、たとえば複数の世代、雇い人、来客、奴隷などを住まわせることもできました。もし家族の長が回心すると、そこに住んでいるすべての住人に大きな感化をもたらしました。
都市部の家の教会にとっての理想的な立地は、都市の中心に近いことでした。家に隣接した商店や職場は職人や商人、買い物客、職を捜す労働者とのつながりを強めたことでしょう。パウロが伝道したのはおおむね、このような背景においてでした。
世界のある地域においては、しばしばほかに場所がないという理由から、人々は今もなお家の教会で礼拝を行っています。また、ある場合には、ほかの方法が許されていないので、家の教会だけが唯一の選択肢となっています。
問4
使徒言行録18:1~3を読んでください。これらの聖句はパウロの働きの方法を理解する上でどんな助けになりますか。
ローマ市民として、またかつてのユダヤ人エリートの一人として、パウロは上流階級の出身であったに違いありません。もしそうだとすれば、肉体労働に従事することは自分自身を犠牲にすることだったでしょう。しかしながら、そうすることによって、彼は自分自身を労働者階級と同一視し、彼らに伝道したのでした(Iコリ9:19~23参照)。
まとめ
「摂理の神は、この世界に救い主来臨の機が熟するまで、国々の動きと、人間の衝動や影響力の流れとをみちびいておられた。……そのころ、異教の制度はだんだん人々の信頼を失っていた。人々はきらびやかな外観や作り話に飽いていた。彼らは心を満たすことのできる宗教を熱望した」(『希望への光』682ページ、『各時代の希望』上巻22ページ)。
「ユダヤ国民以外にも、天来の教師の出現を予告した人々がいた。この人たちは真理を求めていたので、彼らに霊感のみたまがさずけられた。暗くなった空の星のように、このような教師たちが次々と現れていた。彼らの預言のことばは異邦人の世界の幾千の人々の心に望みの火をともしていた」(『希望への光』683ページ、『各時代の希望』上巻23ページ)。
「初めてコリントを訪れたとき、パウロは周囲の人々がよそ者の動機に疑いを抱いていることを知った。海沿いのギリシア人は抜け目のない商人であった。彼らは厳しい商売の中で鍛えられていたので、利得が善であって、正しい手段によってであれ、不正な手段によってであれ、金を儲けることは賞賛に値することであると信じるようになっていた。パウロは彼らの特徴をよく知っていたので、自分が富のために福音を説いていると言わせる機会を彼らに与えなかった。……彼はあらゆる誤解の余地を取り除こうとした。彼の教えの効果が失われないようにするためであった」(エレン・G・ホワイト『福音宣伝者』234、235ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。