【ヘブライ人への手紙】『ヘブライ人への手紙』における聖所の言葉【聖所のテーマ】#6

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この記事のテーマ

【中心思想】

『ヘブライ人への手紙』は、聖所の言葉で満ちています。それらは、主が今、天で何をしておられるかを理解する助けを与えてくれます。1989年12月、『月刊ムーディー』誌は次のように報じています。「〔エルサレムの〕嘆きの壁に近い二つのタルムード学校では、神殿の儀式の詳細について生徒たちに教えている。ほかの学者たちは祭司の系統に属する人々を特定するために年代記の研究を行っている。来年には、祭司の子孫たちの集会が計画されている。ユダヤ人活動家の団体である『神殿の丘忠誠会』は神殿から2キロ離れたところにある3トンの『隅石』を献納した。しかし、嘆きの壁の広場で儀式を行うことは警察によって禁止された」(74ページ)。このように、神殿が破壊されてから久しいというのに、聖所とその儀式に対する関心はいまだ失われていません。今回は、人間の手によって造られたのではない、私たちの大祭司キリストが今おられる天の聖所の「垂れ幕の内側」をのぞいてみましょう。

今回の研究『ヘブライ人への手紙』において、地上の聖所とその働きはどんな役割を果たしているか、それらは天の聖所で起こっていることについてどんなことを教えているか、また、天の真の聖所におけるキリストの働きの目的について学びます。

地上の聖所(ヘブライ9章)

『ヘブライ人への手紙』は、イエスが私たちの大祭司として天におられることを明言しています。パウロは旧約聖書の聖所と、この聖所で行われていた祭司の務めにもとづいて、その議論を展開しています。

ヘブライ9:1~3を読んでください。著者は何と述べていますか。この話題がキリストの大祭司としての務めの中に組み入れられているのはなぜですか。出25:8参照

ヘブライ9:4、5と9:6、7を読んでください。パウロはそれぞれの箇所で何と述べていますか。

パウロは古代ヘブライ人の聖所の儀式について概観し、聖所の各部屋とそこで行われていた日ごと・年ごとの儀式について描写しています。つぎに8~14節で、キリストが天の聖所に入り、そこで大祭司としての務めを行っておられることについて述べています。

使徒の論点は、天の聖所におけるキリストの働きが地上の聖所における儀式に優るということです。しかしながら、地上の聖所における働きは天の聖所における働きと関係があることは明らかです。前者を理解することは後者を理解する助けになります。

『ヘブライ人への手紙』は聖所に対して二つの語を用いています。一つは“ハギオン”または“ハギア”で、もう一つは“スケーネー”です。初めの語は本来は形容詞で「聖なる」を意味しますが、名詞として用いられると「聖所」を意味します。「聖所」になるか「至聖所」になるかは文脈によります。あとの語は「天幕」または「幕屋」を意味し、旧約聖書に出てくる荒野の幕屋を連想させます。

天の聖所

「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(ヘブ8:1、2)。

使徒も読者も、旧約聖書とそこに記された儀式についてよく知っていたはずです。使徒がここで述べている聖所は、神によって導入され、モーセの監督のもとで建設された元の聖所です(出25~31、35~40章)。

ヘブライ9章には地上の聖所の儀式のどんな側面が描かれていますか。ヘブ9:9、ヘブ9:10、ヘブ9:21         

ここにはまた、聖所の基本的な器具のほかに、種々のいけにえや供え物をはじめ、そこで行われていた儀式のことが述べられています。著者は天の聖所の詳細にはふれていませんが、次の点を特に強調しているように思われます。それは、真の聖所が天にあって、イエスがその中で私たちのために仕えておられるということです。

ヘブライ8:1、2を読んでください。著者は天の聖所の実在性について何と言っていますか。

地上の聖所、「供え物といけにえ」(ヘブ9:9)、また「食べ物や飲み物や種々の洗い清め」(10節)に関するパウロの議論は、それ自体が目的ではなく、むしろ天の聖所に関する議論の序説となるものでした。『ヘブライ人への手紙』の目的は、神御自身の制定された地上の聖所に優る聖所が天にあり、イエスが大祭司としてそこで仕えておられるということを読者に示すことにありました。

犠牲

『ヘブライ人への手紙』は、イエスが私たちの大祭司として天の聖所で仕えておられる事実を明らかにしていますが、それだけではありません。著者はまた、犠牲についても語っています。

『ヘブライ人への手紙』の中では、どんな動物が犠牲として挙げられていますか。ヘブ9:12、13、19、10:4

それらはどの献げ物を指し示していましたか。レビ1:5、4:3、16:3、民7:17

ヘブライ9、10章には4種類の動物の名が挙げられています。雌牛を除けば、それらは「雄山羊と若い雄牛」「雄山羊と雄牛」のように二つ一組で挙げられています。中でも雄山羊が最もよく出てきます。興味深いことに、黙示録によく出てくる小羊(ヨハ1:29、36、Ⅰペト1:19も参照)は『ヘブライ人への手紙』には出てきません。

旧約聖書のギリシア語訳である70人訳聖書は、民数記7:17で「和解の献げ物」に関連して雄山羊を用いています。『ヘブライ人への手紙』の雄牛に相当する牛が、レビ記1:6では「焼き尽くす献げ物」として、また同4:3では「贖罪の献げ物」として用いられています。ヘブライ9:13に出てくる雌牛は、民数記19章では和解の献げ物に関連して出てきます。ここで、赤毛の雌牛を焼いた灰が清めに用いられています。雄牛と雄山羊はまた贖罪日にも用いられました(レビ16章)。

このように、犠牲として用いられたさまざまな動物は、贖罪日を含む旧約聖書の基本的な献げ物について思い起こさせます。

しかし、これらすべての動物の犠牲は予備的なもの、不十分なものであって、罪から救うには無力なものでした(ヘブ10:4)。たとえそうであっても、血を流すことはやはり重要な意味を持っていました。なぜなら、それはただひとり赦しと和解をもたらすイエスを指し示していたからです。

聖所の儀式(ヘブル8:1―3、9:5―7)

上記の聖句の中で、使徒はケルビム、祭司、大祭司、聖所で仕える人、仲介者に言及しています。「祭司」・「大祭司」という称号はアロンの子孫とイエスを指しています。イエスは最高の祭司また大祭司であって、イエスの働きだけが罪の問題を解決します。ここでも、キリストとその働きが先行するすべてのものに優るという『ヘブライ人への手紙』の主題が述べられます。“仕える”(レイトゥールゴス)という語はヘブライ1:7で天使に関して、また天の聖所で仕えておられるイエスに関して用いられています。イエスの務め(レイトゥールギア、ヘブ8:6)は本物の奉仕です。“仲介者”という語は『ヘブライ人への手紙』の中に3回出てきますが(8:6、9:15、12:24)、イエスにのみ当てはまります。神と人類との仲介者はただひとり、イエス・キリストだけです。

ヘブライ9:5のケルビムは地上の聖所の贖罪所に置かれた二つの黄金の像です。これらは何を象徴しますか。エゼ1:5~14、22~26、10:1、4、18~22、黙4:6~8参照

ケルビムは単なる架空の人物ではなく、神の御前に生きている現実の存在者です(創3:24)。彼らは天の聖所にあって宇宙の王に仕える守護者です。

「聖書のケルビムが天使の一階級を表していることには疑いの余地がない。彼らはあらゆる所で神に仕えている。ふつう、それは神のすぐ近くである。詩的、あるいは象徴的に、彼らは神を持ち運ぶもの、あるいは御座を守り、覆うものとして表されている」(『SDA聖書辞典』改訂版189,190ページ)。

『ヘブライ人への手紙』は天使礼拝に強く反対しています(ヘブ1:5~14参照)。地上の聖所の至聖所に置かれていたケルビムに対応する天の存在者のことが語られていないのはそのためかもしれません。

問題とその解決

次の各聖句を読み、それぞれが述べている共通のテーマについて考えてください。ヘブ1:3、ヘブ8:12、ヘブ9:26、28、ヘブ10:12、17      

アダムとエバの堕落は神に対する人間の関係を変えました。その結果として生じた病気、苦しみ、死が地上の生命体に劇的な変化をもたらしました。しかし、罪のもたらした最大の悲劇は天と地の間に、また創造主と被造物の間に不和と断絶が生じたことでした。罪が私たち自身のうちに、また人間相互の間にもたらす悲劇はすべて、ここから来ています。罪は神と人間との関係を断ち切り、創造主と被造物との間に疎外と断絶をもたらしました。こうして、被造物は自らの存在と生命と目的の唯一の源から離れてしまいました。この断絶によって生じた結果は、子宮の中でへその緒が断たれたときのそれよりも悲惨なものでした。なぜなら、被造物が罪のゆえに失ったものは肉体的なものにとどまらず、霊的なもの、さらには永遠のものにまで及んでいたからです。

イエス・キリストがこの世に来て、死に、いま私たちのために天で仕えておられるのは、この無限にして永遠の亀裂を修復するためでした。

『ヘブライ人への手紙』は天と地の間に生じたこの亀裂をいやしてくださる神について描写しています。それは、(犠牲によって象徴される)十字架上のキリストの死に始まり、天の聖所におけるキリストの奉仕に至るまでの救いの計画全体を概観しています。実際、聖書が強調しているのは罪の問題ではなく、むしろ罪の赦し、罪からの解放、罪に打ち勝つ力といった罪の解決法についてです。『ヘブライ人への手紙』の中心テーマは清めです。神は私たちを赦すだけでなく、同時に私たちを清め、聖なる者にしようと望んでおられます。これらはすべて、イエスの優れた犠牲、優れた血、優れた奉仕のゆえに可能です。

まとめ

『ヘブライ人への手紙』は、聖所に関連した言葉で満ちています。実際、聖所の概念が書全体を理解する基礎を形成しています。神は、聖所の教えを通して、ご自身が私たちに近くいたいと望まれ、また私たちの内に住みたいと望んでおられることを示しておられます。イエスを通して、私たちは、今この時にも、天の王に近づくことができ、救いの確証を得て喜ぶことができるのです。

「キリストは天地創造の時から屠られた小羊であった。旧約時代にはなぜこれほど多くの犠牲の供え物が必要であったのか、なぜこれほど多くの血を流すいけにえが祭壇に献げられたのかは、多くの人にとって神秘であった。しかし、人々が心に銘記すべき大いなる真理はこれであった。すなわち、『血を流すことなしには罪の赦しはありえない』ということである。すべての血を流すいけにえのうちに、『世の罪を取り除く神の小羊』が予表されていた。キリスト御自身がユダヤの礼拝制度の創始者であられた。その中に、霊的な天の事物が予型と象徴によって予表されていた。多くの人々はこれらの献げ物の真の意味を忘れている。キリストを通してのみ罪の赦しが与えられるという大いなる真理が忘れられている。いくら多くの犠牲を献げたとしても、雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことができなかった(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1893年1月2日)(『SDA聖書注解』第7巻932,933ページ、エレン・G・ホワイト注)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』と聖所(1)

すでに指摘しましたように、パウロの心の重荷は、ユダヤ人クリスチャンの目を、影であり型であった地上の聖所とその祭司職から、本体である天の聖所とそこにおける大祭司キリストの働きに向けることでした。ここで再度確認しておきたいことは、この書の読者(ユダヤ人クリスチャン)は、旧約聖書の歴史と儀式律法、また聖所について精通していたということです。

転じて、新約時代以降に住む私たちは、彼らがすでに持っていた聖所に関する真理をしっかり学ぶことによってはじめて、パウロの言わんとするところを理解することができます。その意味で、もう一度、出エジプト記25~27章、35~40章、レビ記1~9章、16章などを熟読されますようお勧めします。あわせて『各時代の大争闘』下巻23章(聖所とは何か)、24章(天の至聖所における大事件)、28章(天における調査審判)も助けになります。

聖所―「福音の縮図」

旧約聖書の中に啓示された聖所の儀式全体は、まさに福音の縮図です。それは、人間の救いのために、神がどんなにすばらしい備えをしておられるかという福音の中核を教えるとともに、罪が最終的にいかに処理されるかを詳細に示していました。それは十字架の影であったと同時に、救いの計画の最終局面までをも含む影でもありました。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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