【ヘブライ人への手紙】イエスと聖所【聖所のテーマ】#8

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この記事のテーマ

【中心思想】

『ヘブライ人への手紙』の中で、著者は、天の聖所におられるイエスを指し示します。

「聖所問題が、1844年の失望の秘密を解くかぎであった。それは、互いに関連し調和する真理の全体系を明らかにし、神のみ手が大再臨運動を導いてきたことを示し、そして、神の民の立場と働きとをはっきりさせて、今なすべきことを明らかにした」(『各時代の大争闘』下巻138ページ)。天の聖所はアドベンチストの自己認識においてきわめて重要な役割を果たします。『ヘブライ人への手紙』に関する私たちの解釈をめぐっては、様々な疑問が提示されています。今回は、天の聖所に関連して教会が直面しているいくつかの問題に注目します。

今回は、予型論について学びます。また地上の聖所と天の聖所のつながりについても考えます。『ヘブライ人への手紙』は、果たして、キリストが昇天において「天の至聖所」に入られたと教えているでしょうか。『ヘブライ人への手紙』で強調されているのは、イエスが天のどの部屋に入られたかでしょうか。それとも、天の聖所で主が私たちのためにしておられる働きでしょうか。

地上の聖所、天の聖所

聖書のほかの書巻と同様『ヘブライ人への手紙』は予型論を用いています。予型論においては、実際の人物、出来事、制度などの、いわゆる「予型」が、より大いなる実在、つまり「原型」を表すために用いられます。言い換えるなら、予型は象徴のようなもので、象徴そのものにまさるあるものを表します。旧約聖書は予型で満ちています。その多くはイエス御自身において実現しました。イエスは彼を予表していたすべてのものにまさるお方です。

ヘブライ8:5と9:24には、地上の聖所と天の聖所の関連を示すどんな語が用いられていますか。これらの聖所は互いにどんな関係にありますか。

これらの聖句の中で「型」「写し」と訳されている語は、それぞれギリシア語の“トゥポス”と“アンティトゥポス”から来ています。地上の聖所は天の聖所にたとえられています。それは天の聖所の写しです。『ヘブライ人への手紙』においては、元のものが“トゥポス”(原型、ここでは天の聖所)と呼ばれ、それに対応するものが“アンティトゥポス”(予型、ここでは地上の聖所)と呼ばれています。一方はそれにまさるものの象徴です。

ヘブライ8:5には、出エジプト記25:40が引用されています。地上の聖所を建てるとき、モーセはどんな型に従わなければなりませんでしたか。

ヘブライ8:5で、地上の聖所は天の聖所の「影」(ギリシア語で“スキア”)と言われています。9:9では、地上の聖所とその儀式が天の聖所の「比喩」あるいは「象徴」(また、「たとえ」)と呼ばれています。9:23では、地上の聖所の儀式が天の聖所の儀式の“ヒュポデイグマ”(型、写し)と呼ばれています。どちらの場合も、要点は同じです。要するに、地上の聖所はより大いなるもの、つまり天の聖所の象徴に過ぎないということです。

天と地上の「聖(所)」(その1)

『ヘブライ人への手紙』をざっと読んだだけでも、次の2点が明らかになります。一つは、天の聖所が実在すること、もう一つは、天の聖所とその務めが重要な意味を持つことです。パウロは、この点について、最初の7章を要約して簡潔明瞭に述べています(ヘブ8:1、2参照)。要するに、イエスは私たちの大祭司として天の聖所で仕えておられるということです。

『ヘブライ人への手紙』の中で天と地上の聖所に対して用いられている最も一般的な言葉は、ギリシア語の“タ・ハギア”から来ていて、「聖〔所〕」「聖なる所」「聖なる物」を意味します。もう一つの言葉は“ハギア・ハギオン”(「聖の中の聖」)で、これはもっぱら「至聖所」をさします(ヘブ9:3)。

次の聖句を読み、前後関係から判断して、それが「聖所」をさすものか、「至聖所」をさすものか、あるいは「聖所全体」をさすものか考えてください。ヘブライ8:2、9:1~3、8、12、24、25、10:19、13:11(いずれも“タ・ハギア”が用いられています)。

ある個所では、意味ははっきりしています。たとえば、ヘブライ8:2、9:1に出てくる「聖所」は聖所全体をさします。

ヘブライ9:2で、著者は第1の幕屋の中身にふれ、この幕屋を「聖所」と呼んでいます。前後関係から、これは地上の聖所の第1の部屋であることがわかります。

英語欽定訳で、「すべての中で最も聖なる〔所〕」(ハギア・ハギオン)と訳されているヘブライ9:3の言葉は、第2の部屋である「至聖所」だけをさします。興味深いことに、明らかに「至聖所」を意味するこの言葉は、天の聖所におられるキリストに関連して再び出てくることがありません。ここに一つの疑問が生じます。もし『ヘブライ人への手紙』が昇天において「至聖所」に入られたキリストについて教えているのなら、なぜ「至聖所」だけを意味するこの言葉が二度と用いられていないのか、ということです。

天と地上の「聖(所)」(その2)

きのうは、聖所に関連のある数節に注目しました(ヘブ8:2、9:1~3)。今日は、前後関係から考えて、聖句が述べているのは「聖所」のことか、「至聖所」のことか、あるいは聖所全体のことかに注目しながら、さらに数節学びます。

ヘブライ9:1~7において、著者は地上の聖所と、そこにおける日ごと・年ごとの儀式について描写しています。これらは天の聖所とその儀式の予型・影に過ぎませんでした。次に、著者は8節において、地上の聖所がなお存続しているかぎり、「至聖所(」英語欽定訳)への道はまだ開かれていない、と述べています。英語改訂標準訳では、地上の聖所がなお存続しているかぎり、「聖所」への道はまだ開かれていない、となっています。著者はここで、地上の聖所における儀式を、天の聖所における儀式と比較しています。それによって、地上の聖所が一定期間その機能を果たしたが、「至聖所」、つまり天の聖所への道がイエス・キリストの働きによって開かれたことを示しています。著者は聖所の部屋を比較しているのではなく、地上の聖所と天の聖所とを比較しているのです。

ヘブライ9:9、10を読んでください。地上の聖所の儀式の一部としてどんなものがあげられていますか。

地上の聖所の儀式について述べた後で、著者は11節で再び、天の聖所全体をさす「更に大きく、更に完全な幕屋」(“スケーネー”、ギリシア語で「天幕」)に目を向けています。それから、12節で、再度「聖所」に言及しています。11節の幕屋(“スケーネー”)と12節の「聖所」は同じもの、つまり聖所全体をさしています(ヘブライ8:1、2で、これらのギリシア語は並行的に用いられています)。ここでの問題は、イエスがどの部屋に入られたかではなく、イエスが天の聖所における私たちの大祭司であるということです。

ヘブライ9:24、10:19をそれぞれの文脈の中で読んでください。著者は天におられるイエスに関してどんな希望を与えていますか。

天と地上の「聖(所)」(結論)

ヘブライ9:24~28を読んでください。再度、この手紙の前後関係を念頭において、著者がここで何を言っているのか考えてください。その主眼点は何ですか。聖所そのものですか。それともキリストの犠牲の死ですか。

ヘブライ9:25が贖罪日を扱っていることは確かです。大祭司が贖罪日に「至聖所」に入ったことも確かです(レビ16:15参照)。それゆえに、ある人たちは、ここに“タ・ハギア”(英語欽定訳では「聖所」と訳されている)が用いられていることは、それが「至聖所」をさす証拠であると主張します。

しかしながら、ここでは「聖所」と訳したほうがよいのです。というのは、贖罪日には、大祭司は両方の部屋で務めを行ったからです。大祭司の務めは第2の部屋に限定されたものではありませんでした。「聖所全体がこれらの儀式とかかわっているので、ここでは『聖所』と訳したほうがよい」(アルウィン・P・セーラム『ヘブライ人への手紙の問題点』227ページ、1989年)。

出エジプト記30:10をレビ記16:30、16:16~19と比較して読んでください。贖罪日でさえ、大祭司が聖所全体において血を塗ったことが、どのように理解できますか。

ここまで見てきた聖句は非常に重要です。なぜなら、天におけるキリストの働きが二つの部屋、二段階に及ぶものであるという私たちの解釈に異議を唱える人たちがいるからです。批評家たちは、これらの聖句にもとづいて、キリストが昇天後、天の聖所の「至聖所」に入られたと独断的に主張することによって、私たちの聖所に関する教理、特にキリストが1844年に天の聖所の「至聖所」に入られたとする私たちの立場を無効にしようとします。しかし、『ヘブライ人への手紙』は部屋の問題について述べているのではありません。重要なのは、キリストが私たちのために天におられるということです。

地上と天の聖所の性質

すでに見てきたように、『ヘブライ人への手紙』における重要な論点は、キリストの天における務めが地上の聖所の務めに優るということです。次の各聖句は、間接的であれ、地上の聖所の性質について何と述べていますか。ヘブ8:2、9:24、ヘブ9:8~10、ヘブ9:11、12

地上の聖所が人の手によって造られたことが3回強調されています。それは神の命令によるものでしたが、造ったのは罪人である人間でした。天の聖所は主によって建てられたので、地上の聖所よりはるかに優ったものです。

地上の聖所の機能には、その永続性において、またその有効性において限界がありました。その儀式は罪の問題を解決することができませんでした。血を流すことには、永続的な効力がありませんでした。人間の良心は真に清められることがありませんでした。イエスの血と大祭司としての彼の働きだけが、真の、永続的な効力を持ちます。

旧約時代の地上の聖所はどんな基本的な目的を持っていましたか。出25:22、29:43~46

荒野の幕屋が建てられたのは、神が御自分の民のうちにお住みになるためでした。そのときでさえ、罪が神に近づくことを妨げていました。『ヘブライ人への手紙』の福音は、イエスが父なる神に立ち返る道を開いてくださったことです。イエスを通して、私たちは神の御前に出ることができます。イエスの完全な義によって覆われているからです。イエスが御自分の死と働きによって道を備えてくださったので、私たちは謙虚な心をもって、しかし大胆に父なる神に近づくことができます。

まとめ

『ヘブライ人への手紙』は多くの箇所で、地上の聖所の奉仕と、その原型であるキリストが仕えておられる天の聖所における奉仕を対照しています。『ヘブライ人への手紙』における論点は、イエスがどの部屋に入られたかではなくて、イエスが大祭司であって、彼をとおして私たちは、宇宙の主に直接近づくことができるということです。

“タ・ハギア”に関しては様々な議論がありますが、『ヘブライ人への手紙』においては、それは明らかに全体としての「聖所」を意味するように思われます。

ヘブライ8:2を読んでください。“タ・ハギア”が『ヘブライ人への手紙』の中で初めて出てくるところです。用法に注意してください。「人間ではなく主がお建てになった聖所〔タ・ハギア〕また真の幕屋〔スケーネー〕で仕えておられるということです」。この聖句は明らかに“タ・ハギア”を「幕屋」、つまり聖所全体を意味する“スケーネー”と同列に置いています。このように、初めから“タ・ハギア”の意味が定義されています。

繰り返しになりますが、『ヘブライ人への手紙』が問題にしているのは地上の聖所と天の聖所のことであって、キリストが天においてどの部屋に入られたかではありません。したがって、“タ・ハギア”を「聖所」と理解する方が自然です。

ヘブライ語聖書のギリシア語訳における“タ・ハギア”に関する最近の研究によれば、“タ・ハギア”が聖所に関連して用いられている場合には、それは一貫して聖所全体をさすことがわかっています。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』と聖所(2)

『ヘブライ人への手紙』の中で、パウロは、キリストが昇天後、天の聖所の第一の部屋(聖所)にお入りになったか、それとも第二の部屋(至聖所)に入られたのか、明確には述べてはいません。むしろキリストが行かれたのは『天の高い所におられる大いなる方の右の座』(1:3)、『(神の)玉座の右の座』(8:1)、『神の右の座』(10:12)であり、『天そのもの』(9:24)でした。

つまり、パウロが第1世紀のユダヤ人クリスチャン(ヘブライ人)に何よりも強調したかったことは、古い制度(旧約の犠牲制度)はキリストにおいて成就し、それらは、キリストという、さらにまさったいけにえ、より優れた大祭司、より優れた聖所に取って代わられたのだ、ということです。だからあきらめてはいけない、確信を放棄してはならない、希望をもって天を仰ぎなさい、と彼は訴えているのです。そこに『永遠の救いの源』であり、憐れみ深い忠実な大祭司キリストがおられる、だから喜びなさい、主を讃美しなさい、と勧めているのです。

パウロはさらに進んで、信徒たちに、『大胆に恵みの座』(古い契約における儀式では至聖所の贖罪所のおおいにあたります)に近づくように(4:16)、また『垂れ幕の内側に入って行く』(6:19)ように、チャレンジを与えています。

これは、混迷する今の時代に生きる私たちSDAのクリスチャンにとっても大きな励ましではないでしょうか。天の至聖所で最後の奉仕をしておられる主は、私たちの救いの完成のために、私たちに「有利になる」裁きをしてくださっておられます(ダニエル7:22、口語訳、新改訳、英語訳参照)。ハレルヤ!

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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