【ヘブライ人への手紙】イエスの働きと聖所【聖所のテーマ】#9

目次

この記事のテーマ

【中心思想】

『ヘブライ人への手紙』は、地上の聖所における日ごとの務めと年ごとの務めを通して、一つの真理を教えています。すなわち、それは、イエスを通して、わたしたちは父なる神にへだてなく近づくことができる、ということです。

『ヘブライ人への手紙』に出てくる聖所の言葉についてはすでに学びました。著者が古い制度についてよく知っていたことも学びました。地上の聖所は天にある本物の聖所の影です。本物の聖所に加えて、本物の犠牲があります。それはあらゆる動物の犠牲に優るもので、人類の罪を贖います。さらに、本物の祭司職があります。

『ヘブライ人への手紙』には、贖罪日を暗示する言葉(隠喩)がいくつか出てきます。それらは何を教えているのでしょうか。

今回は、セブンスデー・アドベンチストにとって特に重要な意味を持ついくつかの聖句と問題点について考えます。

今回の研究『ヘブライ人への手紙』が日ごとの奉仕と年ごとの奉仕について語っている理由について、また、「垂れ幕の内側」という表現が何を意味するかについて学びましょう。

日ごとの務め

「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(ヘブ9:6、7)。

著者は明らかに、旧約聖書の荒野の聖所とその犠牲制度を、雛形、予型として用いています。その目的は天の聖所におけるキリストの働きを明らかにするためでした。パウロは地上の事物を用いて天の事物を説明しようとしたのです。

こうして、パウロは旧約聖書の予型にしたがって、幕屋の第一の部屋、つまり聖所における働きと、第二の部屋、つまり至聖所における働きとを区別しているのです。聖所において、祭司と大祭司は日ごとに、民の罪を贖うために犠牲を献げました。至聖所において、大祭司は最終的な贖いをなし、聖所を罪から清めました(レビ16章)。日ごとの務めは個人的な罪の清めのため、また年ごとの務めは集団、つまり国民全体の罪の清めのためでした。

ヘブライ9:7は、無知や不注意によって犯した罪でさえ贖われる必要があったことを示しています。これは何を教えていますか。

ヘブライ7:26、27、10:11、12は、日ごとの犠牲をキリストの犠牲と比較することによって、どんな一つの点を明らかにしていますか(ヘブ9:28も参照)。

『ヘブライ人への手紙』における贖罪日

『ヘブライ人への手紙』に含まれている福音の中でも、これらの聖句に含まれている福音は最も素晴らしいものの一つです。それは、イエスの犠牲が十分にして完全なものであったと教えています。これ以上、血が流される必要はありません。これ以上、罪を贖うための死は必要ではありません。キリストの死だけで十分でした。

『ヘブライ人への手紙』は、日ごと(あるいは、第一の部屋)の務めからの比喩に加えて、年ごとの務め、つまり贖罪日からの比喩を用いています。贖罪日は1年の締めくくりとなる聖所の儀式でした。これは別に不思議なことではありません。というのは、地上の聖所から基本的な予型を引用している書巻が、最も厳粛な聖所の儀式の一つを無視することはありえないからです。

贖罪日はヘブライ9:7のほかに、9:25、26、10:1~4でも言及されています。日ごとの務めの場合と同様、これらの聖句はおもにどんなことを教えていますか。

贖罪日を暗示するもう一つの聖句はヘブライ9:23です。この聖句の前後関係から考えて、清められる必要のある「天にあるもの」とは何を意味すると思いますか(9章全体を読んでください)。

聖所の奉献について述べた後で、地上にあるもの(つまり、地上の聖所とその中にあるすべてのもの)が清めを必要とするように、「天にあるもの」(天の聖所)も清めを必要とすることが、ここで語られています。例外が一つあります。それは、天の清めが「まさったいけにえ」を必要とするということです。贖罪日における聖所の清めを描写するために、レビ記6章で「清められる」という語が用いられているのも偶然ではありません。著者はこの地上の儀式を、天にある、さらにまさったものの象徴として見ています。

「垂れ幕の内側」

ヘブライ6:13~20を読んでください。著者は読者にどんな希望を与えていますか。この部分は何について述べていますか。

「垂れ幕の内側」という言葉に関しては、多くの議論があります。この言葉がもっぱらヘブライ語聖書の至聖所に対して用いられていることから、ある人々はこの聖句を用いて、イエスが〔昇天後〕天の聖所の至聖所に入られたと主張します。これは1844年のメッセージを無効にするものです。

著者はヘブライ9:3において、地上の聖所と至聖所の間の垂れ幕に言及して「第二の垂れ幕」という言葉を用いています。ヘブライ6:19との違いについて、あなたはどう思いますか。

著者がこの聖句によって意図したのは明らかに第二の垂れ幕、つまり至聖所の前にかかっていた内側の垂れ幕でした。事実、ヘブライ6:19、20の文脈には贖罪日を示唆するものは何もありません。明らかに、この言葉は『ヘブライ人への手紙』の全体的文脈から考えると、私たちが天の聖所におられる神にいつでも近づくことができることを示唆するものです。

繰り返しますが、著者は旧約聖書の比喩を用いて、キリストの死と大祭司の務めの大いなる有効性に関する真理を教えているのです。それは、古い、不十分なレビの制度とは対照的に、「魂にとって頼りになる、安定した錨」のようなものです。

贖罪日の犠牲を含むすべての犠牲が十字架上のイエスにおいて実現したことには疑いの余地がありません。しかし、この言葉(垂れ幕の内側)だけをとらえ、それに集中するなら、『ヘブライ人への手紙』の主旨からそれることになります。この手紙の主旨は、イエスによって、神と人間との間のすべての障壁が取り除かれたこと、私たちが今やキリストの死と仲保によって父なる神にいつでも近づくことができるということにあります。

天の仲介者

「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。

上記の聖句の中に、『ヘブライ人への手紙』の中心テーマが述べられています。つまり、神は「御自分(イエス)を通して神に近づく」人たちを完全に救うことがおできになるということです。私たちはこの手紙の目的を心にとめる必要があります。パウロは読者に、古い生き方に逆戻りしてはならないと言っています。

新しい生き方は、はるかに優れたもの、古い生き方によっては達成できないものを与えてくれます。新しい生き方は神に近づく機会を与えてくれます。それは以前にはありえなかったことです。イエスを通して初めて可能になるからです。

イエスを「通して」神に近づくとはどんな意味ですか。

私たちが神に近づくのは、私たちの大祭司であるキリストを通してです。しかし、どのようにしてそれが可能になるのでしょうか。罪人である私たちはどのようにして聖なる神に近づくことができるのでしょうか。

もちろん、私たちは(今は)神の御前に立つことができません。しかし、その必要はないのです。私たちの代わりにイエスがそうしてくださるからです。イエスがその完全な生涯のゆえに、私たちに代わって、父なる神の御前に立ってくださるのです。それはイエスの功績によるものであって、私たちの功績によるものではありません。イエスだけが神の御前に立つにふさわしい完全な義を備えておられます。

古い契約の日ごと・年ごとの儀式において、祭司は聖所の中で神の御前に出ました。同じように、イエスは天の聖所において私たちに代わって神の御前に出られます。イエスは私たちの代表者として、私たちにできないことを私たちに代わってしてくださるのです。

わたしたちの天の仲介者

次の聖句を読み、それらが私たちにとってどんな意味を持つか考えてください。仲介者とは何ですか。私たちに仲介者が必要なのはなぜですか。Ⅰテモ2:5、ヘブ8:6、ヘブ9:15 、ヘブ12:24       

仲介者としてのイエスは、犠牲また、大祭司としてのイエスと切り離すことのできないお方です。イエスはその完全な生涯と犠牲のゆえに、いま天にあって私たちの大祭司また仲介者として神の御前に立っておられます。

古い契約においては、祭司はいけにえの血を取って、地上の聖所に携えて行きました。祭司は人々の代表者として、彼らの行くことのできない所にまで行きました。祭司は日ごとの務めにおいて毎日、年ごとの務めにおいて毎年、このようにしなければなりませんでした。

一方、新しい契約においては、地上の、罪深い祭司の代わりに、私たちには「更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約」の仲介者であるイエスがおられます。罪人は今日、犠牲の動物を手に入れる必要がありません。それを地上の聖所に連れてくる必要もありません。同じ罪人である祭司の手によって、その血を献げてもらう必要もありません。イエスが私たちに代わってすべてをしてくださるのです。私たちはイエスによって、どんな時でも、どんな所でも、神に近づくことができます。

私たちは罪を犯すとき、その罪を告白します。イエスは御自身の功績、御自身の完全な義のゆえに、「わたしたちのために神の御前に」立ち、私たちの義ではなく、御自身の義をもって私たちを擁護してくださいます。この義はイエス御自身が地上において私たちのために完成されたもので、信仰によって私たちのものとなります。要するに、イエスは御自身の完全な生涯と死の功績を私たちのために適用してくださるのです。罪人である私たちが神に受け入れられる方法はこれ以外にありません。

まとめ

『ヘブライ人への手紙』は、古い契約の聖所における奉仕をモデルとして用いながら、日ごとの奉仕と年ごとの奉仕について説明しています。それらすべては、天における私たちの仲介者であり、大祭司であられるイエスの内に与えられている、さらに大いなる、すぐれた望みを指し示しています。

「すべてが恐怖であり、混乱である。祭司はまさにいけにえを殺そうとしている。しかしそのナイフは感覚を失った手から落ち、小羊は逃げ去る。神のみ子の死によって、型が本体に合ったのである。大いなるいけにえがささげられたのである。至聖所への道が開かれている。新しい、生きた道がすべての人のために備えられる。罪を悲しむ人間は、もはや大祭司が出てくるのを待つ必要はない。これからは救い主がもろもろの天の天において祭司また助け主として務めを行われるのである」(『各時代の希望』下巻280ページ)。

「神は神殿の垂れ幕を裂くことによって、次のように言われた。

『わたしはもはや至聖所においてわが臨在を現すことをしない』。垂れ幕のかかっていない新しい、生きた道なるイエスが、すべての人に提供されている。罪深く、悲しんでいる人類は、もはや大祭司の来るのを待つ必要はない」(『SDA聖書注解』第5巻1109ページ、エレン・G・ホワイト注)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(6)――天にいます主

『各時代の希望』下巻の第82章(「なぜ泣いているのか」)の中に、次のような言葉があります。

「大きな石でとざされ、ローマの封印をされたヨセフの新しい墓を見るなと彼らに告げなさい。キリストはそこにおられない。からっぽの墓を見るな。望みなく、助けなき者のように嘆くな。イエスは生きておられ、彼が生きておられるがゆえにわれわれも生きるのである。感謝の心で、聖なる火にふれたくちびるで、キリストはよみがえられたとよろこばしい歌をひびかせなさい。主は生きてわれらのとりなしをしてくださる。この望みをとらえなさい。そうすれば、それはたしかな、あてになる錨のようにわれらの魂をつなぎとめるであろう」(329ページ)。

天の聖所にいますキリスト――永遠に変わらない大祭司、今も生きてとりなしておられ、彼によって神に近づく者を完全に救われるお方――を信仰によってとらえたときに、それは、ユダヤ人クリスチャンたちにとって、魂を不動にする錨となりました。

ここに「キリストの御名によって祈る」ことの深い意味があります。新しい契約の時代に生きる私たちも、いいえ、私たちはなおさらのこと、天の聖所で私たちのため、また人類の救いのために仲保のわざをしておられる生けるキリストに信仰の目を向けさせる必要があります。

私は、『各時代の大争闘』(初版第1刷)の214ページと215ページの間に挿入された絵(残念ながら後年のものにはありません)が好きです。ハリー・アンダーソンによって、調査審判(再臨前審判)において天の法廷に呼び出された「私」が描かれています。「私」は神の聖なる律法の前に立っています。そこには私の生涯の記録の書を携えた天使もいます。しかし、何がすばらしいと言って、そこにキリストがおられ、私のために、ご自身の義をもってとりなしをしておられます。自分の罪深さを意識するとき、この絵を見て励まされ、新たな希望が湧いてきます。「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分達の贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる」(前掲書215ページ)。何という恵みでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次