この記事のテーマ
私たちは出エジプト記の中に、イスラエルの子らをエジプトから導き出し、葦の海で彼らに「バプテスマ」を施し、40年間荒れ野で彼らを導き、しるしや不思議な業を行い、山の頂で彼らと直接会って御自分の律法を授けられた神を見ます。
私たちはマタイによる福音書の中に、エジプトから出て来て、ヨルダン川でバプテスマを受け、40日間荒れ野へ出て行き、しるしや不思議な業を行い、山の上でイスラエルの人々と直接会って同じ律法を詳しく述べられたイエスを見ます。イエスはイスラエルの歴史を歩み、イスラエルになられ、そしてあらゆる契約上の約束は、彼において成就しました。
山上の説教は、これまでになされた最も影響力の強い説教です。イエスの言葉は、目の前の聴衆だけでなく、現代に至るまで何世紀にもわたって、人生を変えるそのメッセージを聞いたすべての人に深い影響を与えてきました。
しかし、私たちはこの説教に耳を傾けるだけでなく、それを適用しなければなりません。私たちは今週、山上の説教の中でイエスが語られたことを学ぶとともに、彼の言葉を私たちの生活に適用することに関して、彼がマタイ13章で言われたことを研究します。
原則と標準
問1
マタイ5〜7章の山上の説教をざっと読み、あなたの心に最も残ったこと、あなたに語りかけてきたことをまとめてください。
「人類史上、山上の説教に向けられてきたほどの注意を引きつけた宗教的講話は、おそらくないだろう。非キリスト教的な観点から、イエスを礼拝することを拒んできた多くの哲学者や活動家たちでさえ、彼の倫理観を賞賛してきた。20世紀において、モハンダス・ガンジーはこの説教の最も有名なクリスチャンでない信奉者であった」(クレイグ・L・ブロムバーグ『新アメリカ聖書注釈——マタイによる福音書』第22巻93、94ページ、英文)。
この説教はさまざまな見方をされてきました。ある人たちはそれを、私たちをひざまずかせ、救いの唯一の希望としてイエスの義を求めるようにさせる非常に高い道徳的標準であると見なしてきました。私たちはだれもが、山上の説教で明らかにされているほど、神が命じておられる神の標準には程遠いからです。また、この説教は市民倫理に関する説話、平和主義への呼びかけだ、と見なす人たちもいれば、この説教の中に社会的福音を見て、人間の努力で神の国を地上にもたらす呼びかけだ、と見なす人たちもいました。
ある意味において、だれもがその説教に自分なりの解釈を加えるのかもしれません。なぜなら、それが私たちの人生の極めて重要な部分に強く触れるからです。そういうわけで私たちはみな、自分なりのかたちでそれに応答しています。
エレン・G・ホワイトは次のように記しています。「山上の垂訓の中で、キリストは、まちがった教育によってなされた働きをもと通りにし、キリストのみ国とご自身の品性について、正しい観念を聴衆に与えようとされた。……イエスのお教えになった真理は、イエスについてきた群衆に劣らずわれわれにとっても重要である。われわれも彼らと同じに神のみ国の根本的な原則を学ぶ必要がある」(『希望への光』821ページ、『各時代の希望』中巻3ページ)。
このように、私たちが山上の説教にどのような解釈を加えようと、それは私たちに神の国の根本的な原則を教えます。山上の説教は、神の国の支配者として、神がどのようなお方なのか、また神の国の臣民として、私たちがどうなるように神が命じておられるのかを告げています。それは、この世のはかない王国の原則と標準を捨てて、永遠に続く唯一の王国の原則と標準に従うようにという重要な招きです(ダニ7:27参照)。
山上の説教と律法
クリスチャンの中には、山上の説教を「神の律法」に置き換わった新しい「キリストの律法」だと見なす人たちがいます。彼らは、律法主義の制度が今や恵みの制度に置き換わったのだとか、イエスの律法は神御自身の律法とは異なるとか言います。こういった見解は、山上の説教について誤解しています。
問2
次の聖句は、律法について、また、律法(つまり十戒)は山上の説教に置き換えられたという考え方について遠回しに、どのようなことを教えていますか(マタ5:17〜19、21、22、27、28、ヤコ2:10、11、ロマ7:7も参照)。
新約聖書学者クレイグ・S・キーナーは、次のように書いています。「ほとんどのユダヤ人は、十戒を恵みとの関連で理解した。……イエスがユダヤ人にまさる恵みを実践するように要求しておられることを考慮するなら、……明らかに、イエスの意図された御国の要求は、恵みに基づくものであった(マタ6:12、ルカ11:4、マコ11:25、マタ6:14、15、マコ10:15と比較)。イエスは福音書の物語の中で、謙虚で神の支配権を認める者たちを受け入れておられる。たとえ、実際には彼らが道徳的完全というゴールに及ばないとしても……(マタ5:48)。しかし、イエスが宣言された御国の恵みは、大半の西欧キリスト教世界の行いなき恵みではなかった。福音書において、御国のメッセージは、それを素直に受け入れる者たちを変えている。ちょうどそのメッセージが、傲慢な者、宗教的・社会的に満足しきっている者たちを打ち砕いているように」(『マタイによる福音書——社会修辞的学注釈』161、162ページ、英文)。
創世記15:6を読んでください。救いは常に信仰によるということを理解するうえで、この聖句は役立ちます。イエス・キリストの信仰は、新しい信仰ではなく、人間が罪に堕ちて以後の信仰と同じものでした。山上の説教は、行いによる救いに置き換わる恵みの救いではありませんでした。救いは常に恵みによるものでした。イスラエルの子らは、シナイで従うように求められる前に、葦の海で恵みによって救われていました(出20:2参照)。
律法学者やファリサイ人の義
問3
マタイ5:20を読んでください。私たちの義が「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」、私たちは天の国に入ることができない、とイエスがおっしゃったとき、彼はどのようなことを意味しておられたのでしょうか。
救いは常に信仰によるのであり、ユダヤ教は、(本来そのように実践されるべきであったように)常に恵みの制度でしたが、律法主義がそこに忍び込みました。それは、例えばセブンスデー・アドベンチスト教会のように、服従を真剣に受け止めるいずれの宗教にも起こりえることです。キリストの在世当時、(すべてではないにしろ)多くの宗教主導者が「悔い改めもやさしさも愛もない、堅く厳格な……伝統的宗教」に陥り、「彼らは、世を腐敗から防ぐ力を持っていなかった」(『希望への光』1145ページ、『思いわずらってはいけません』69ページ)。
単なる外面的な形式、とりわけ人間が作り出した形式には、人生や品性を変える力がありません。真の信仰だけが愛によって働く信仰であり(ガラ5:6)、それだけが神の目に受け入れられる外面的な行動を生み出します。
問4
ミカ6:6〜8を読んでください。これらの聖句は、どのように山上の説教を要約していますか。
旧約聖書の時代においてさえ、いけにえはそれ自身が目的ではなく、目的への手段であり、その目的とは、神に従う者たちが神の愛と御品性を反映させた人生を送ることでした。それは、神に完全に服従し、神の救いの恵みにまったく依存していることを自覚することによってのみ可能になるものです。律法学者やファリサイ人たちのあらゆる信仰的で敬虔な外見にもかかわらず、彼らの多くは、主に従う者たちがまねるべき生き方のお手本ではまったくありませんでした。
御国の原則
イエスの最も過激な教えは、マタイ5:48の中に見いだされます。この聖句を読んでください。山上の説教の中のあらゆる教えの中で、これが最も驚くべき、最も「過激な」教えに違いありません。「あなたがたの天の父が完全であられるように」完全になれ、と言います。それはどういう意味でしょうか。
この聖句を理解するうえで重要な要素は、最初の言葉、「だから」の中にあります。つまり、この言葉は結論を、それ以前の内容の結果を、意味しています。どのようなことが、その前に書かれているでしょうか。
マタイ5:43〜47を読んでください。48節で締めくくられているこれらの聖句は、イエスが48節によって言おうとされたことをよりよく理解するうえで、助けとなります。このような考え方が聖書の中に見られるのは、これが最初ではありません。レビ記にさかのぼると、主は御自分の民に、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ19:2)とおっしゃっています。ルカによる福音書では、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)と、イエスは言っておられます。
マタイ5:43〜48における文脈は、規則や基準に外面的に従うこととは(たとえ、それがいかに重要であったとしても)まったく関係しません。そうではなく、この箇所における焦点は人を愛すること、しかもみんなが愛せる人たちだけでなく、世の中の基準から言って、通常愛したくない人たちをも愛することにあります。
ここで忘れてはならない大切なことは、神が私たちのうちに成し遂げることのおできにならないことを、私たちが神から要求されることはない、という点です。もし私たち自身に任され、私たちの罪深く、わがままな心が主役になれば、だれが自分の敵を愛するでしょうか。この世はそんなふうに動いていません。しかし、私たちは今や別の王国の市民ではありませんか。私たちに与えられている約束はこうです。もし私たちが神に服従するなら、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」(フィリ1:6)。そして、神が私たちのうちに成し遂げることがおできになる最も偉大な働きとは、神が私たちを愛しておられるように、(私たちの限られた範囲であれ、)私たちが愛する人になるようになさることです。
御国の言葉を受け入れる
イエスが説教をなさったのは、山の上だけではありません。イスラエルの至る場所で、彼は御国に関する同様のメッセージを宣べ伝えられました。マタイ13章は、「群衆〔が〕皆岸辺に立っていた」(マタ13:2)ときに舟から教えられたイエスを記録しています。そしてイエスは、彼の言葉をただ聞くだけでなく、適用することが重要であることを強調する目的で、たとえ話を人々に語られました。
問5
マタイ13:44〜52を読んでください。これらのたとえ話は、山上の説教で明らかにされた真理をいかに私たちの生活に適用するかを理解するうえで特に重要です。それらの中で、どのようなことが語られていますか。
最初の二つのたとえ話では、二つの点が際立っています。いずれの話の中にも、分離という考え、つまり(畑の中の宝にしろ、真珠にしろ)何か新しい物を手に入れるために持っている物を捨てるという考えが含まれています。もう一つの重要な点は、それぞれの男が、見いだした物に大きな価値を置いていることです。いずれの場合でも、男たちはそれを得るために、持ち物をすっかり売り払いました。私たちは救いを買うことができませんが(イザ55:1、2)、これらのたとえ話の要点は明らかです。私たちがこの世の王国で持っているものは何であれ、次の王国を逃してしまうほどの価値がないということです。
このように、神が私たちに求めておられることを人生に適用するために、私たちは自分自身をこの世のあらゆるもの、あらゆる肉のものから分離し、神の霊が自分を満たすことを選ぶ必要があります(ロマ8:5〜10参照)。これは簡単ではないかもしれません。自己に死に、自分の十字架を背負うことが求められるでしょう。しかし、私たちに約束されているものの価値が常に念頭にあるのなら、私たちはなすべき選択をするのに必要な最大限の意欲を持つ必要があります。
さらなる研究
マタイ13:44〜46のたとえ話において、男たちは非常に価値のある物を見つけました。前後関係からすると、彼らが見いだしたのは真理、それも(「火の炉」での永遠の滅びではなく、)永遠の命に導く真理でした。このことは、「真理」という考え自体が、よくても古風なもの、最悪の場合は危険なもの、と思われている時代に住む私たちにとって重要です。そして残念なことに、これは、あるクリスチャンたちが持ち込んだ誤った考えです。それにもかかわらず、これらのたとえ話のメッセージは、真理は存在するだけでなく、永遠にわたる違いをすべての人の人生にもたらすだろう、というものです。それは驚くべきことではありません。聖書は絶対的真理という考えに基礎を置いているからです。何しろイエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われました。それが絶対的真理のことを言っているのでないとしたら、一体何でしょうか。もちろん、パウロほど真理をよく知る者が「わたしたちの知識は一部分」(Iコリ13:9)と言ったように、私たちの知らないことがたくさんあることは明らかです。しかし、「わたしたちの知識は一部分」というパウロの言葉は、知るべきさらなる真理があること、永遠の命か永遠の死かを文字どおり左右する真理があることを示唆しています。永遠の命か、それとも永遠の死か。それ以上に明白な違いはありません。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。